夢
夢を見た、生まれたばかりの、まだ人の言葉を理解していなかった頃の記憶だろうか。
大きなガラス瓶の中で漂う自分の手足と、その外側で慌ただしく動き回る男達の姿を眺めていた。
赤い光が点滅し、大きな音が鳴り響く。
その音に負けない程大きな声で何かを叫ぶ男たちは髪束や機械の塊を抱えて走り回っている。
その中には見覚えのある顔があった。
ドクター、ドクターカリギュラ。
この世の畏怖を凝縮したような、混沌の権化のような男。
他の研究員同様慌ただしそうにしているが、その口元には隠し切れないほどの笑みが浮かべられている。
気のせいだろうか、彼の姿形は僕が見知っている物とどこか違う。
何と言っただろうか。
彼は確か、それを表現する言葉を教えてくれたはずだ。
オモイカネ……違う、大影……いやそうではない、そうだ、面影だったか。
あぁそうか、このドクターは僕が見知っている物よりも若い。
面影のある顔立ちをしている。
だが……なぜだろう。
初めて彼と会った時はもっと年老いていたはずだ。
ならば僕が夢として見ている彼はいったい何者なのだろうか。
いや、むしろガラス瓶の中にいる僕はいったい何者なのだろうか。
そんな疑問を抱いた瞬間、視界が大きく揺れた。
数拍の後に砕け散ったガラスを見つける。
ガラス瓶が割れている、それを僕は下から見上げており、今はシャワーや雨のように降り注ぐ破片を見ている。
避けたほうがいいのだろうか。
そんなことも考えたが無駄な抵抗だった。
動けない。
手足はおろか指先、あまつさえ眼球さえも動かすことができない。
そうしている間にも自由落下を始めた透明な凶器達を待ち構える事しか僕にはできなかった。
あぁ、刺さる。
そう覚悟を決めた瞬間だったか。
ガラスは何かを映し出した。
赤い光の奥でうごめく、人を飲み込んでいく巨大な何かを。
しかしそれは一瞬だけで、次の瞬間には僕の身体に吸い込まれていき、鈍い痛みを残してすべてが暗転した。
夢というのは現実と区別がつかないと聞いていたが、なるほど。
痛みも伴うならばそれも致し方ない事だろう。
そんなことを考えながら瞼を持ち上げると、薄ぼんやりとした光に閉ざされていた。
まだ夢を見ているのだろうか、などと寝ぼけているとぼんやりとした視界から何かが奪い去られて眼前にメアリーの顔が見えた。
眼球だけを動かして周囲を見渡して、そこは開けた場所であることが分かった。
そしてメアリーの手には布が握られていることも理解した。
恐らくあれが目を覆い隠していたのだろう。
……よく見るとメアリーの衣類が先ほどまでとは違っている。
不機嫌そうな表情や、口に残る酸味、周囲に漂う香りなどからそれほど時間は経っていないのだろうと予想したところで額に衝撃を感じた。
触れて確認してみるとそれも布の様だった。
湿っている、火照っていた頭が冷えていく。
あぁ、気持ちいい……。
「まったく、疲れているならそう言いなさいよ」
「……? 」
「傭兵にとって体は資本、替えの利かない最高の道具、だからこそ無理をしないというのが鉄則なの。わかったら以後疲れて倒れるようなことのないように。わかった? 」
「わかった、気を付ける」
メアリーの言葉に頷くと彼女は小さくため息をついて、僕の額に手をのせてくれた。
布越しに感じる彼女の体温が心地いい……。
「もうひと眠りしなさい」
既にまどろみに沈みかけていた意識の奥底で、そんな声が響いた気がした。
〈メアリーside〉
この子は想像以上に体力があると思っていた。
それが私最大の誤算だった。
ローリーは体力があるのではなく、自分の限界を知らなかっただけだ。
そしてそれ以上に、何かを楽しんでいる様子だった。
私に対する警戒と、周囲への警戒を並列で行いながら、教えたことを一つ一つ考えることのできる頭脳、そんな相手が、自分への配慮を忘れるとは思いもしなかった。
子供という外見に惑わされてはいけない、ローリーを前にして思った抱いた感想だったがそれも改めなければいけない。
知恵が回るということ以外は、彼女は年相応だ。
体力が少ない、あらゆることに疑問を抱く、命がけのこの環境でさえも時折楽し気にしている、どれも子供らしい。
強いて言うならば、常識という観点では子供以下という事だろう。
聞いた話ではそれも致し方ない環境にいたようだが……だからといってあまりにも、あまりにも常識から外れている。
ハンターとの戦いにおいてもそうだ。
彼女は自分の身体を顧みない。
怪我を負って当然、命を懸けて当たり前、そんな戦い方だった。
まるで自分をエサにして敵を釣るような戦い方。
知人に1人そういう戦い方を好む者がいたが、奴の場合は安全圏でという前置きがある。
しかしローリーは捨て身でそれを行い、成功させた。
相手が経験不足の個体だったというのは大きい、最初に私たちを着け狙っていた相手であれば、安くはない代償を支払うことになっていただろう。
だというのにだ、彼女は決して油断なぞしていなかった。
全身全霊、一片の油断もなく相手を分析して、自分を分析して、そして正面から正々堂々戦って打ち勝った。
はっきり言ってしまえば魔法使いの戦い方とはかけ離れている。
だから彼女を見誤った。
しかしどれだけ言葉を重ねても、それはいいわけだ。
事実こうしてローリーの不調に気付かず、吐瀉物を浴びてしまったがゆえに森の中で裸にならなければいけないのだから、私が甘かったとしか言えない。
まったく、相手が子供でよかったのか悪かったのかわからない。
私が抱えて運べる大きさだったからこそ、今この惨状なのだが、もし違っていたら、獣道の途中で休息をとらなければいけなかった。
しかし、息抜きで煙草を吸う気にはなれない。
もとより虫よけとしての意味合いが強いが、それでも気分転換にはなるのだから一本位とは思うが……それ以上に意識のない子供と森の中、周りは猛獣が腹を空かせて徘徊している状況、煙草の香りは特徴的で動物を引き寄せかねない。
更に私の鼻も利かなくなると考えると尚更だ。
獣道を抜けて多少は安全な場所にいる今、できる限り彼女の回復を早める様に何かしてやれたらよいのだが、見える範囲にも荷物にも薬草になるようなものはない。
やれることと言ったら布きれを湿らせて彼女の額に乗せてやる程度の事だ。
それでさえも、貴重な飲み水を無駄遣いはできないから気休めにしかならないのだから……。
しかしなぜ私はこの子を見捨てないのだろう。
倒れた時点で置いていけば、こんなに頭を悩ませる必要はなかった。
いや、釣り上げた時点で見なかった事にしてキャッチ&リリースでもよかったというのに……。
彼女の境遇を聞いて同情してしまったのか、それとも打算なのか。
打算だとしてもあの魔導書、グリムと彼女が呼ぶそれだけを持ち逃げしていたらそれなりの金銭にはなっただろうに。
仕事仲間からお人よしなんて揶揄されることもあるが、ここまでくれば否定のしようもない。
我ながらあきれたものだと苦笑を漏らしているとローリーの身体がかすかに揺れた。
起きたのか、夜通しの看病にならなかったと安堵しておくことにしよう。




