私怨
絶望感漂う冒頭から、過去にさかのぼり、現在に戻る構成を取っております。
読者の方に「なぜ?」と疑問を抱きながら読んでもらえるような展開にしたのですが、そうなっていればいいなと思います。
貴弘が靴を履いて上がり框から尻を浮かせたとき、インターホンが無駄に大きく鳴った。瞬間的に額から汗が浮く。とっさにおかしい、と感じた。通常こんな時間に来客なんてない。平日の午前七時半。出勤しようとした矢先だ。
胸騒ぎがする。
――警察に通報してやる。
彼に言われた科白が脳裏に響く。
もしや本当に奴が。
目の前のドアの向こうに、テレビドラマで見たみたいに警察官がふたり立っているのかもしれない。
動悸が激しくなり、四肢からも汗が噴き出た。だが冷静さは貴弘のなかにまだあった。
――たかが淫行だ。逮捕歴はないし実刑を食らうことはない。
それにこっちだって言い分がある。むしろ奴の方が酷いことをしている。罪が重いことを。
業を煮やしたように、またインターホンが鳴った。次いでドアをノックされる。これ以上待たせては、心証が悪くなる。
貴弘は勢いよく立ち上がった。
気がかりは仕事関係だ。会社に自分の淫行がバレたらクビだろう。次の仕事を探すことになる。犯罪歴を履歴書に書かなくてはならない。
――あいつになんか会わなければ良かった。付き合いを再開させた俺がどうかしていた。
彼と会わなければ己の人生が狂うことはなかった。今ごろ婚約者と滞りなく結婚していた。慰謝料を払うこともなかった。そして、今ここに警察がやって来ることもなかったのだ。
休日の土曜日。暑さが残る九月の午後。駅前の本屋へ行く途中、立ち並ぶ店を眺めながら車道沿いの歩道を歩いていると、コンビニと携帯ショップの間にある派手な外装のパチンコパーラーが視界に入った。エントランスの壁が鏡張りになっていて、その前に一人の男が立っていた。小刻みに体を揺らす後ろ姿が気になり、暫し注目していたら、彼と鏡越しに目が合ってしまった。貴弘は咄嗟に目を逸らし、視線を白いガードパイプに向けた。
男は鏡張りの壁の前で歯磨きをしていた。口端には歯磨き粉の泡が垂れ、瞼は眠たそうに腫れていた。関わっちゃいけない人間だとひと目でわかる。
急ぎ足になって大きな交差点に向かう。が、タイミング悪く信号は赤になった。目の前を横切る車を見るともなく見ていると、突然後ろから声をかけられた。
「おい、おまえ」
肩を強く叩かれ、貴弘は危うく前につんのめりそうになった。
「なにするんだ。危ないだろ」
後ろを振り向き、声をかけてきた男を睨んだ。瞬時に彼の頭から爪先まで目を走らせる。体は太っていないが、頬肉が垂れていて締まりのない顔をしている。脂でテカった鼻。鼻腔からは鼻くそが覗いている。髪の毛はべっとり濡れていて、整髪料のせいかと思ったが、彼の右手に握られた歯ブラシを見て、何日も風呂に入っていないのだと予測した。
「渋谷だろう? 渋谷貴弘。違うか?」
名前を言い当てられ、後ずさりながらも男の顔を凝視した。が、やはり知らない顔だった。
「俺のこと覚えてない? アマナイだよ、アマナイカズキ」
名前を聞いてもピンとこない。
「思い出せない? 冷たい奴だなあ」
ニヤニヤ笑う口からは、煙草と歯磨き粉とコーヒーを混ぜたような悪臭が漂ってくる。 貴弘は鼻を擦った。
「大学で同じ学部だったろ? 地元もここだし」
そのヒントで、漸く貴弘も目の前の男が誰なのか、自分にとってどんな存在だったのか思い出した。
天内和樹。中学と大学が同じだったが、仲は良くなかった。中学時代、天内は成績はクラスでトップだったが容姿も話術もパッとしないガリ勉タイプで、存在感が薄かった。一方自分は、勉強は中の上程度だったがそこそこクラスの女子からモテていたし、同性の友人も多かった。
「思い出したよ。ずいぶん久しぶりだから分からなかった」
あの真面目だけが取り柄の男が、浮浪者一歩手間の様相で自分の目の前に現れるとは。話し方や表情もやさぐれていて、学生時代の面影が微塵もない。
「渋谷はこっちに戻って来たのか?」
「ああ、二か月ぐらい前にな」
大学を卒業し、就職するタイミングで都内のアパートを借り一人暮らしを始めた。それから十五年経った今、結婚が決まったのを機に実家に戻ったのだ。会社にもなんとか通勤できる範囲だ。披露宴や新婚旅行で金がかかるから少しでも出費を抑える為の策だった。
「何で俺がこっちにいなかったって知ってるんだ?」
ふと疑問が浮かんだ。自分が都内に引っ越したことを知っているのは、両親と大学で親しくしていた友人だけだ。
「風の噂で聞いたんだ。おまえ良いところに就職したんだってな」
無精髭を指で摘まみながら、天内が薄く笑った。
「大したことないよ」
謙遜だった。貴弘は大手食品会社の研究所に勤めている。就職を決めたとき両親は大喜びし、親戚や近所の人に報告して自慢していた。大学の就職課でも、学部卒で受かるなんて、と驚かれた。
「なあ、いま時間あるか。久しぶりに会ったんだ。ちょっと付き合えよ」
「悪いけど、本屋に行きたいんだ。欲しい本があって」
「なんて本だ?」
本のタイトルを教えると、天内が嬉しそうに口を開けて笑った。ヤニで黄色くなった乱杭歯がにゅっと覗いた。
「俺、その本持ってるよ。家にある。貸してやろうか」
「本当か?」
貴弘が買おうとしている本はネットでは流通しておらず、本屋で注文しないと手に入らない専門書だった。それに価格も高い。
「ああ、貸してやる。その代りコーヒー奢ってくれよ」
コーヒーで済むなら願ったり叶ったりだ。
窓が排気ガスか何かで曇っている、決して綺麗とは言えない店に入り、ふたりは奥のテーブル席に座った。
「俺さ、結婚したんだよ」
煙を吐き出したあと、前触れもなく天内が話し出した。こんな男と結婚する物好きがいるのか、としか思えなかったが、一応めでたい話なので口角を上げる。
「へえ。いつ結婚したんだ?」
「十六年前」
「ずいぶん早いな。まだ大学の頃じゃないか?」
「ああ、そうだよ。子供ができたから大学中退して結婚したのにさ、三年持たずに離婚した」
せっかくの愛想笑いが捻れた。そんな話を聞かされても楽しくない。
反応を楽しむように天内が貴弘の顔をじっと見る。
「子供は俺が引き取ったんだ。元嫁は母性本能ってのが欠如してたな。マミを置いて浮気相手と逃げた」
マミ、ということは娘なのだろう。
「いま高校生か?」
「そうだよ。公立だけど金かかるんだよな。バイトさせてる。大学も行きたいって言ってるよ。金がないのに」
天内が煙草を吸いながら、テーブルに来たばかりのコーヒーをストローで吸い上げる。長年の喫煙のせいだろう。彼の指先、爪が茶ばんでいる。貴弘は気分が悪くなってきた。煙草の煙は苦手だ。昔は吸っていたが、煙草が大幅に値上げしてからは禁煙している。早くここを出たくなり、急いでアイスコーヒーを飲んでいると、天内がまた口を開いた。
「おまえ、馬城教授の研究室に入ったんだよな?」
「は?」
「大学の話。人気あったもんな、馬城先生」
含みのある言い方をされ、貴弘は眉をひそめた。
突然話題を変えたり、意味深な目で見てくる天内は、貴弘が知っている大学時代の彼とは別人のようだった。
「俺は留年した挙句中退。ほんと親不孝者だよ」
「親と同居してるのか」
そうでなければ子供を育てながら生活していくのは無理だろう。
「親は全財産叩いて老人ホームに入ったよ。俺とマミはアパートで暮らしてる。医者から鬱の診断受けて生活保護もらってる」
「別れた奥さんに相談すれば?」
「はは。じゃあお前が連絡してくれよ。俺の元奥さん、サトミなんだ。オガタサトミ」
言われたことの意味がわからず、貴弘は天内に目で問うた。
「ひどいな。覚えてないのかよ。自分の元カノの名前」
オガタサトミ――そんな名前の女性と付き合った覚えはなかった。
「ああ――彼女ですらなかったか。セフレ? パチで知り合った女だもんな」
そんな女と俺は結婚したんだよ、と天内が自虐的に笑い鼻から息を吐いた。
「渋谷は今もパチスロやってる?」
「やってない」
大学のころ暇つぶしに通っていただけで、ハマるほど楽しいと思ったことはなかった。貴弘たちが通っていた大学は田舎の辺鄙な場所にあり、パチンコぐらいしか娯楽施設がなかったのだ。
「そっか。誘ったのはおまえなのにな」
「そうだったか?」
全く覚えがなかった。大学時代、天内とは顔を合わせたら挨拶する程度の間柄だった。彼のいう事が正しいのなら、自分が気まぐれで誘ったのだろう。たまたま近くに天内しかいなかったとか。
「ひどいな。覚えてないのかよ」
また天内が同じことを言った。
里美の部屋は汚かった。閉めっぱなしのカーテンは煙草で黄ばんでいて、床にはごちゃごちゃ物が置いてある。布団も敷きっぱなしだった。
「ごめん部屋汚れてて。最近だれもここに入れてなくて」
媚びの混じった声で言い、里美が玄関のドアを閉め貴弘の背中に抱きついてくる。
ふたりはすぐに布団に向かい、服を脱いだ。裸になった里美を押し倒そうとして、布団のシーツに煙草の吸殻が落ちているのを見つける。それを摘まみ上げ、近くのゴミ箱に投げ入れる。
「たっちゃんって神経質だね。A型でしょ?」
「だったらなんだよ。うるせえな」
やっぱりこの女は体と顔しか良い所がない。パチンコ狂いのフリーターだから知性がないとは思っていたが、血液型占いまで信じているとは。
――まあ、体の相性が良ければキープだな。
そう割り切って、貴弘は愛撫もそこそこに里美を抱いた。
ホテルの客室で目覚めた瞬間、里美のことを思い出した。
夢を見ていた。
大学時代、暇つぶしでパチ屋に通っていた頃だ。いつも友人とパチンコを打ちに行っていたが、よく見かける常連がいた。それが里美だった。何度も顔を合わせるうちに雑談するようになり、貴弘にだけ好意的な態度を示してくるようになった。缶コーヒーを差し入れてくれたり、玉が出ている彼女の台を譲ってくれたりした。里美の住むアパートが店の近くだと知って、遊びに行きたいと頼んだらすぐにOKを貰った。その日のうちに関係を持ち、それから三か月セフレを続けた。パチ屋に行かなくなって彼女との関係は自然消滅した。
貴弘はパチンコときっぱり縁を切り、勉強に専念した。希望の研究室に入るために成績の順位を上げなければならなかったからだ。そうして頑張った結果、今がある。学部卒で誰もが知っている会社に就職できた。研究職で役職にもついている。結婚を決めた相手とは仕事関係で知り合った。十歳年下でIT会社勤務の正社員。理系国立大卒の才媛だ。その上美人とくる。彼女の会社のホームページで、社員として紹介されるほどだ。
「そろそろ起きろよ。衣装合わせ、三時からだろ?」
隣で眠っている友理奈に声をかけた。二十代後半の割に肌は綺麗だ。この女と結婚できて自分は勝ち組だと思う。
完全に寝ていたわけじゃなさそうだ。彼女はすぐに体を起こし、眠そうに目を擦った。
「貴弘も見に来て」
彼女が指で床を指した。
「え、俺も?」
「当たり前でしょ。私と貴弘の結婚式なんだから」
面倒くさいと思ったが顔には出さずに頷いた。本当は彼女が衣装合わせをしている間、この客室でのんびりしようと思っていたのだが。
「先にシャワー浴びるね」
ぴょんとベッドから出て、友理奈がバスルームに向かった。素っ裸の後ろ姿をベッドで見送る。スタイルが良い方だとは思うが、尻が若干垂れている。ふくらはぎには肉割れの後があった。高校のとき太っていた、と彼女が言っていたことを思い出す。
――あの子は痩せていたな。
昨日、喫茶店で天内と話した後、本を借りるために彼のアパートに行った。そこに天内の娘、麻未がいた。クーラーが壊れているとかで、彼女は露出の多い服を着ていた。タンクトップにホットパンツ。ノーブラで乳首がどこにあるのか分かった。すらっとした白い脚が、貴弘の劣情を誘った――。
若い体を思い描いてしまい、下腹に熱が生まれそうになる。貴弘は慌てて頭を振り、少女の幻影を掻き消した。
麻未と初めて会った日から三日後、貴弘は地元の最寄り駅で彼女と再会した。貴弘は会社から帰ってきたところだった。麻未はセーラー服姿だった。つい目を引き寄せられ自分から声をかけると、麻未に「夕ご飯奢ってください」と可愛くおねだりされた。
近くのレストランに入り、ふたりは夕食を共にした。最初は学校生活や好きな歌手など、とりとめのない話をしていたが、麻未のデザートが運ばれてきてからは、彼女の顔から明るい笑顔がすっと消え、父親に対する愚痴が延々と続いた。
「渋谷さんもうちの父に言ってください。仕事しろって」
麻未がチョコレートパフェのウエハースを齧りながら、貴弘を上目遣いに見た。
「そうだな。このままじゃ麻未ちゃん、大学に行けないもんな。あいつに出来る仕事、俺も探してみるよ。君のお父さん、中学の頃から秀才だったんだ。やればできる奴なんだ」
正直な所、天内と関わりを持つのは避けたかった。だが、麻未に頼られると無下にできない。
「今、家にお父さんいるの?」
「います。父と話してくれますか?」
期待に満ちた目で言われ、貴弘は大きく頷いた。
それから二か月間、週一回の間隔で天内のアパートを訪ねた。仕事をしろ、と彼を説得する名目だったが、本当の目的は麻未に会う事だった。彼女の顔を見、少しでも話せるだけで、溜め込んだストレスを解消することができた。
貴弘は疲弊していた。職場では出世争いが勃発し、友理奈とは挙式や披露宴の話で意見が分かれ言い争いになることがあった。
平日の七時。アパートに行くと、彼らは夕飯を食べた後のようで、部屋でのんびりしている所だった。部屋にあがり込み、挨拶もそこそこに話の本題に入った。
「そろそろお前、ちゃんと定職に就けよ。これなんかどうだ?」
貴弘は天内に向かって、新聞の折り込み求人を広げて見せた。テーブルには飲み終わった缶ビールが置かれ、パチンコ雑誌が数冊積まれている。
「このままじゃ本当に、お前も麻未ちゃんも路頭に迷うぞ」
麻未の視線が自分たちに注がれていることがわかる。だからこそ、面倒な気分を抑え込み、真剣な声を出して天内を説得する。
「生活保護でなんとかなるから。麻未も、そんなに大学行きたいなら奨学金貰えばいいだろ」
人の親とは思えない言いぐさだった。
天内がつまらなそうに鼻くそをほじって口に入れる。その時、彼の前歯に白いガムが張り付いているのが見えた。
――こいつ、堕ちるところまで墜ちてる。
「なんでおまえ、そんなにパチンコにハマったんだ? 確率の勉強しただろ? ギャンブルで儲けるなんてあり得ないってわかるだろ?」
声が荒んだものになった。
天内は小指で耳くそをほじくりながら言う。
「パチンコやってる奴なんて沢山いるだろ。俺の親父もやってた。お前んとこの親父だってやってるだろ?」
確かに貴弘の父親もたまにパチンコをやっている。だが月に四回、小遣いを使って趣味の範囲で楽しんでいる。それが健全な遊び方なのだ。天内は自分の異常性に気が付いていない。
――俺が何を言ったって、こいつは聞きやしないんだ。
「おまえは鬱じゃなくてギャンブル依存症だ」
「お前が俺に説教か」
掌の耳くそをふっと息で飛ばし、天内が皮肉っぽく笑った。
「お前が言ってくれたんだぞ。パチプロになれるって」
自分が? いつどこでそんなことを言ったというのか。
「言った本人は覚えてないんだな。ほんといい加減な奴だよな、お前は」
天内が訥々と話し出す。大学二年の頃、貴弘に誘われて行ったパチンコで、いきなりフィーバーを連発し、一日で五十万以上儲けたこと。貴弘に持ち上げられその気になったこと。当てたときの興奮が忘れられなくなったことを。
「軍資金五千円だったんだぜ? それが百倍になった。サラリーマンの平均月給よりずっと高い金が一日で稼げるんだぞ」
その時のフィーバーを思い出したかのように、天内の顔が輝きだす。
「毎回稼げるわけじゃないだろ? たまたま当たる台に座っただけで。パチプロなんて無理だ」
同意を得ようと、さっきから黙って聞いている麻未に視線を向けた。彼女は簡易台所に背中を付けて立っている。固く口を結んで事の成り行きを見守っている。
「だったら証明してみせる。俺はパチプロだってな。今からやってくるから、ちょっと待ってろよ。必ず当ててくる。必ず」
唾を飛ばして叫んだあと、天内は貴弘の制止を無視して部屋を出て行った。あっという間の出来事だった。
呆気に取られて玄関のドアを眺めていたが、すぐに我に返って貴弘は立ち上がった。
「渋谷さん」
麻未が縋るような目をして、貴弘の傍に歩み寄ってくる。
「渋谷さん、見捨てないでよ」
彼女は泣きそうな顔をしていた。貴弘にまで匙を投げられたらおしまいだ、とでも言うように。
「俺に説得は無理だよ。あいつは依存症だ。病気だよ」
彼女を振り切るようにして、貴弘は玄関のドアに向かう。
渋谷さん、とまた呼ばれる。スーツの裾を強く引っ張られる。貴弘はスラックスのポケットから金色のジッポを取り出し、麻未の手に強引に握らせた。十五年以上前に買ったブランド物のライターだ。今は廃盤になっていてプレミア価格で取引されている。
「これ、麻未ちゃんにあげるよ。ネットのオークションで売れば一万円以上の値がつく」
本当は天内への餞別だった。今日、彼が改心してもしなくても、ここに来るのは終わりにしようと思っていた。麻未と会うのもやめようと決意していた。
「もうここには来ないってこと?」
「俺は君のお父さんにパチンコを辞めさせることはできない」
麻未が貴弘の脇までやってきて、ドアノブを掴んだ手に触れてきた。そして、ドアの鍵をかけた。
「私を見捨てないでよ」
涙声になって、麻未は貴弘に抱きついてきた。とたん、全身が熱くなり、喉が苦しくなる。
渋谷さん渋谷さん、と名前を何度も呼ばれ、貴弘の理性は崩壊しつつあった。彼女の背中に手を回す。若いしなやかな体だ。ごくりと唾を飲みこんだ。それでも確認せずにはいられない。
「誰にも言わない?」
「言わない」
「――ゴムは?」
「あるから、しよ。お父さん、一度パチンコに行ったら二時間は戻らないから」
ピンと張られていた理性の糸が、ぷつりと切れる音がした。
出すものを出し切ったとたん、冷静な自分が戻ってくる。過ちを犯したという自覚に襲われ、貴弘は頭を抱えたくなった。
仰向けに寝ている貴弘の上に、麻未が乗っかり、べったりと体をくっつけてくる。鬱陶しい。彼女に対し愛情はなかった。欲望だけだったと痛感する。本能にあっけなく負けた自分が情けない。彼女にちゃんと口止めをしなければ――とこれからの対応を考えていたときだった。鍵を回す音がした後、ドアが開いた。玄関近くでセックスしていたため、部屋に入って来た天内と貴弘の視線がぶつかった。
「っはは……! 本当にやったのか。バカだなあお前!」
彼は爆笑して汚いジーンズのポケットからカメラを取り出した。咄嗟に貴弘は麻未の体を離そうとしたが叶わなかった。彼女が渾身の力で抱きついてくる。足を絡めてくる。そして首を捩じって、顔をカメラの方に向けた。カシャカシャと連写する音が響いた。
「――お前ら、俺を嵌めたのか」
「そうだよ、おじさん。私どうしても大学に行きたいんだ」
漸く麻未が体を離した。散らばった服を身に付けて行く姿は、堂に入っている。セックス中、彼女が初めてではないと気が付いていたが、ここまで玄人だとは思わなかった。麻未は美人局が初めてではないのだ。
「写真代はとりあえず五百万だ」
天内が事務的に言う。貴弘はカッとなった。彼の言い分通りに金を出すなんて冗談じゃない。
「俺は買わない」
こちらが弱気に出たら付け込まれる。どうってことないという態度を見せなければ。貴弘にとって写真を見せられて困る人物を、天内は知らないはずだ。
「そんなに余裕こいてて大丈夫か? ちゃんとわかってるぞ。お前に婚約者がいること。それに、金を払わないなら警察に通報するよ? 立派な淫行だろ」
一瞬ギクリとしたが、貴弘は思い直した。天内がハッタリをかましているのだろうと。
「そうだな。婚約者はいる。でもな、お前に五百万払うぐらいなら、彼女に慰謝料払った方がマシなんだよ。淫行も通報したいならしろよ。でもお前も罪に問われる。実の子供に売春させてるし、俺を強請った。どうせ余罪がいっぱいあるんだろ? 実刑だな」
天内は不快そうに顔を歪めたが、すぐに余裕を取り戻した。
「残念ながら。実の子じゃないんだよなあ、こいつは」
天内が薄笑いを浮かべ、麻未を一瞥した。その瞬間、彼女が息を呑む音がした。麻未にとってもこれは予想外の展開なのだろう。
貴弘はさほど驚かなかった。里美は尻軽だった。天内と付き合っている間に、他の男とも関係を持っていたのだろう。
「本当の父親、誰だと思う? 麻未」
問われた麻未は、顔を強張らせぶるりと体を揺らした。
「まさか」
麻未が掠れた声を出す。視線を彷徨わせたあと、貴弘の顔を見た。天内が喉で笑った。
「そうだ。麻未の父親は、渋谷なんだよ!」
勝ち誇ったような天内の叫び声が、狭い部屋に響き渡った。貴弘はポカンとなって口を開けたままだったが、徐々に冷静さが戻り、笑いが込み上げてきた。
「なに笑ってんだよ。近親相姦やってんだぞ、お前ら」
「それはないって。麻未が俺の子なんて。どこからの情報だよ」
絶対にありえないことだった。
「たしかに里美と寝たことはある。だけどいつも避妊してた。事故ったこともない」
百パーセント天内の勘違と思い込みだ。
貴弘が自信を持って発言したからか、天内の態度が落ち着かなくなってきた。
「でもお前、A型だろ? 里美はA型で麻未はO型――。里美から聞いたんだ。本当の父親は渋谷かもしれないって。俺と付き合うちょっと前にお前ともしてたからって」
ブツブツと天内が言う。
「その情報間違ってる。俺はAじゃない。AB型だ。あ、念のため言っておくけど、シスABでもないからな」
「そんな――じゃあお前、里美に嘘を吐いたのか。A型だって」
それは心外だ。自分の血液型を偽った覚えはない――が、思い当たることはあった。彼女にA型でしょ? と聞かれて否定しなかったことがある。
「里美が勘違いしていただけだろ」
天内は肩を落とし項垂れた。もう貴弘に対抗するネタが切れたのだろう。
貴弘は麻未を真っすぐ見た。彼女は瞬きを繰り返している。混乱しているのかもしれない。
「麻未ちゃん。こいつは俺と君が親子だって思い込んでいて、その上で俺たちにセックスさせたんだ。近親相姦っていう重い罪を着せようとした」
天内と一緒にいる限り、麻未が幸せになることは一生ない気がした。
麻未の目が虚ろになる。今の状況を把握したのだろう。
貴弘は畳に散らばった服を集めて身に着け、沈黙が落ち静かになった部屋を何も言わずに出た。
貴弘が美人局に引っ掛かってから一か月が経った。その間、一度も天内親子から脅迫を受けることはなかった。
貴弘は友理奈との結婚の準備を進めていった。挙式が三か月後に迫り、招待客に披露宴の招待状を送った。
もう自分を脅かす存在はない。会社での出世競争でも貴弘が勝者となった。近いうちに昇進する。結婚に関する決め事も、お互い折れる所は折れてうまくいった。
すべてが自分の思い通りに進んでいる。そう思った矢先に、写真が露見した。
「貴弘、何なのこれ? どういうこと?」
ある平日の夜、婚約者が突然家にやってきて、麻未と裸で抱き合っている写真を貴弘の顔に叩きつけた。写真は勤務先に届いたという。差出人は不明。その日のうちに結婚は破談になった。両親にも写真を見られ、貴弘は何時間も叱責を浴び、最後には呆れられ、泣かれた。
翌日、貴弘は有給を使って会社を休み、天内のアパートに突進した。
彼は悪びれた様子もなく、部屋に貴弘を招き入れた。
「なんでだ? なんで今更、ばらしたんだ」
一か月何もせずに安心させておいて、この仕打ちは酷い。
お決まりの薄笑いを浮かべて、天内はゆっくりと話し始めた。
「ダメージを大きくしたかった。招待状出した後だったろ? 招待客に事情を説明するの惨めだよな? ホテルにもキャンセル料、沢山払うんだろ?」
彼の言う通りだった。一か月インターバルを置かれたせいで、大損害を受けた。そこまで思い至り、貴弘は違和感を覚えた。天内は知りすぎている。招待状を出すタイミング、披露宴を行う日、そして友理奈の名前、勤め先――。
「興信所で調べたのか? 俺のこと」
それ以外考えられなかった。それとも、自分の情報をリークする人物がいたんだろうか。
「そんなの使う必要なかったよ。全部お前の親父が教えてくれた。あの人、自慢大好きだな。 息子の婚約者はあのIT企業のエンジニアで会社のホームページにも顔が載ってるんだ美人なんだってさ。お前の勤め先も、年収も、披露宴をどこでやるかも教えてくれた」
途中から、天内の声が歪んで聞こえづらくなっていく。目の前が真っ赤に染まっていく。
父親は週に一回、パチンコを打ちに行っていた。そのときだろう。悪意を持って隣に座った天内に、貴弘の個人情報をべらべらと喋った。悪意なくただ息子のことを自慢したい一心で。
「なんでだ? 俺、何かしたか? お前に恨まれること」
恨まれるほど親密な関係じゃなかった。常に天内とは他人だった。中学の時も、大学の時も。
天内が呆れたように鼻で笑った。
「まだとぼけるのか? 恨まれて当然のことをお前はしたんだよ。真面目に勉強してた俺を、パチンコに誘った。そのせいで俺の人生は滅茶苦茶になった。狂った。お前、こうなる事を狙って俺を誘ったんだよな? 俺がパチ狂いになって留年すれば、お前は希望の研究室に入りやすくなる。お前はライバルを蹴落とすために非道なことができるんだ。里美に俺と付き合えって勧めたのもお前だよな? 真面目な奴だから大事にしてくれるって言ったんだろ?」
口端に泡を溜めて、天内が捲し立ててくる。彼の言い分一つひとつを精査していく。その結果、思い出す。
「そうだよ。お前の言う通りだ。どうしても馬城教授の研究室に入りたかった。お前は俺より成績が良かったから、邪魔だった。勉強さぼらねえかなって思ってたさ。パチに狂ってくれてラッキーだった。留年までするとは思わなかったけどな。里美もそうだな。何回か寝ただけで彼女面してきたから鬱陶しかった。次の男が見つかれば諦めてくれると思った」
――ああそうだよ。俺だって過去には卑劣なことをしてきた。だけどな。
「天内。お前は恨む相手を間違ってる。俺はあくまでキッカケを作っただけだろ? 本当に憎いのは俺じゃない。パチンコだろ? 搾取するだけ搾取して、見返りを与えないギャンブルだろ?」
貴弘は畳から立ち上がり、部屋全体を見渡した。前に来たときよりも、物が格段に減っている。ピンクや黄色といった若々しい色が消えている。
「麻未ちゃんは?」
「里美の実家に行ったよ。こっちには戻らないってさ」
そういって、天内は新しい煙草に火を点けた。臭いが充満する前に帰ろうと、貴弘は玄関のドアに歩を向ける。
天内が貴弘の背中に向かって呟いた。
「お前の言う通りだ。復讐の相手を間違っていた」
そうだそうだと繰り返して、天内は笑った。貴弘は無視して、アパートを後にした。
地元と父親に嫌気が差した貴弘は、また都内で一人暮らしを始めた。一か月が経ち、だいぶ気持ちが落ち着いてきたタイミングで、これだ。
玄関のドアを思い切って開けると、果たして目の前には、予想通りの人物がふたり並んでいる。刑事だ。彼らはスーツを着ていて、礼儀正しくお辞儀をし、「お忙しい時間にすみません」と一言詫びてきた。次いで、顔写真付きの警察手帳を提示される。
「I市で起きた事件のことでお話を伺いたいのですが」
予想外の事を言われ、貴弘は「えっ」と素っ頓狂な声を出した。すっかり自分の淫行を追求しに来たのだと思った。
でも、と考えなおす。I市は一か月前まで住んでいた貴弘の実家がある。嫌な予感を覚え、全身に鳥肌が立った。
「テレビのニュースでご存知かと思いますが。パチンコ店で放火事件が起こりまして、その容疑者とあなたに関わりがあるようなのでお話を――」
「関わりって。ありませんよ、何も」
貴弘は慌てて否定した。首が痛くなるほど横に振る。喉がカラカラに乾いていた。事件があったこと自体知らなかった。貴弘の部屋にテレビは置いていない。新聞も取っていないのだ。
「そうですか? あなたにそそのかされた、と言っているんですよ。天内容疑者が」
もう一人の刑事が、袋に入ったライターを手に持って話し出す。
「このライター、あなたが容疑者に渡したそうですね。これで復讐して来いと」
そこまで聞いて、貴弘はやっと悟った。
――天内。お前って奴は、どれだけ逆恨みをすれば気が済むんだ? 了
ハッピーエンドとは言い難い終わりですが、イヤミスというほど読後感は悪くないと思います。多少主人公には救いを用意したつもりです。
ご感想など頂けると嬉しく思います。