カラフル
シャワーから上がると彼女が床に座りながら丸まっていた。タオルから溢れる濡れた髪が艶かしいというのに、色気もなにもあったものではない。なんだろう、ヨガのポーズで似たようなのを見たことある気がする。
「何してんの?」
苦笑混じりに声をかけるが、返事は待たずに冷蔵庫に向かいガラスの容器に入った麦茶を注ぐ。もうお互い気安いものだ。何をしてるか想像はつかないけれど、しつこく構うと目に見えて不機嫌になるのはわかりきっている。
「ペディキュア」
コップが空になる頃にようやく、おそろしく低い声で彼女からの答えが来た。
「もうそろそろサンダル履きたいから」
男の僕からすればサンダルの為にペディキュアが必要なのかはいまいちわからないけれど、きっとそうなのだろう。この疑問は口に出さない方がいいと勘が告げている。
「そうなんだ」
だからどっちつかずの当たり障りのない返事しか出来ないのは仕方ない。確かに彼女の周りをよく見てみれば、広げた雑誌の近くに小さな瓶やら爪切りやらが散乱している。この部屋に彼女の物が多くある、という事実は多分喜んでいいのだろう。順調なお付き合い、というやつだ。
揃いのコップや歯ブラシとか。
バスルームにある高そうなシャンプーとコンディショナーとか。
諸々の化粧品にメイク落としにコットンに、数えだしたらきりがない。
さて素敵な彼氏としてはどう言葉を続ければ良いのだろう。付き合ってる僕が言うのもなんだけれど、彼女はとても気難しい。
「甘皮はなんとか処理したんだけど」
そうこう悩んでるうちに彼女から口を開いた。思ったよりも不機嫌そうではない。むしろどこか甘えるような響きさえある。
「体が固いし上手く塗る自信がない」
これはヒントを教えてくれる優しさなのか、素敵な彼氏への可愛い我が儘なのか。幸い明日は休みで時間もある。少なくとも平日の夜だったら敢えて気付かずにやり過ごしていただろうし。
「よろしければ塗って差し上げましょうか、お姫様」
おかしいな、百点満点の解答のつもりだったのにクッションが飛んで来た。
不機嫌そうに黙りこんだ彼女をなだめてソファーに座らせる。そして足を重ねたクッションに乗せて貰って、そこに跪くように僕が屈む。なんだか倒錯的な気分に陥りそうだったけれど、彼女の白くて細い足の指に挟まれたピンクのスポンジでどうにも雰囲気が締まらない。
「これ、なに?」
気を取り直して質問する。見た目というか結果からどういう物かは想像がつくけれど。
「このスポンジ? トゥセパレーター、だっけ?」
彼女も彼女でどこか自信なさげだ。ちらりと抱え込んだ雑誌のページに視線を落としたことについては口を噤んでおく。
「足の指広げて塗りやすくするの」
使い道はやはり見たままのようだ。確かにあるとないとではやり易さは段違いだろうけれど。この今まで名前を知ることもなかったピンクのスポンジも、いつか自然とこの部屋に馴染んでいくのだろうか。
「やり方はマニキュアと同じ?」
前に彼女に頼まれてマニキュアは塗ったことがある。ベースコート、ポリッシュ、少し乾かしたらトップコート。うん、よく覚えてるじゃないか。
「同じー。あ、でも足の爪厚いから全体塗る前に先っぽをあらかじめ塗っといて」
わかるようなわからないような説明を受けて、塗り始める。わからないなら聞くか、彼女がソファーに投げ出した雑誌をこっそりと見ればいい。
スポンジに押し広げられた彼女の可愛らしい指を僕の無骨な指で押さえるのは、傷つけてしまうんじゃないかとどこか不安になる。それほど彼女の足は華奢で、でも普段は血管が透けるほど白い肌が風呂上がりのせいかほんのりとピンクになっていてどこか艶かしい。
口付けできるほど顔を近づけて透明なベースを手早く、けれど丁寧に塗っていく。こっそりと雑誌を眺めて、まずは先端を、次に中心、そして両サイド。親指は大きいからさらにその隙間を埋めるように。右足の親指から始めて、人差し指へと。徐々に小さくなっていく爪はころんと丸くてまるで子供のそれのようだ。
お互いの息が聞こえるほどの距離、そして沈黙。なにかいやらしいことをしてるわけでもないのにどこか気恥ずかしい。いや、そういうことをしている時もそんなにもう恥ずかしさは感じないけれど。少なくとも僕は。
どこか居心地の悪い時間の中で左足の小指までベースコートを塗り終える。もう右足のは乾き始めてる頃だろうか。
「色は何色にする? グラデとかは無理だけど」
彼女が部屋に持ち込んだ色とりどりの小瓶を眺める。ピンク、オレンジ、ラメ入りのホワイト、淡いイエローなどなど、普段の服装もそうだけれどパステルカラーをやはり好んでいるようだ。改めて脳内メモに書き記しておく。
「それにしてー」
指をさされたものの密集していてわかるはずもない。まあ、彼女に今動かれると乾きかけのベースコートが大変なことになるから仕方ない。
「これ?」
本命のパステルピンクの小瓶を持ち上げる。
「違う」
にべもなく返された。
「じゃあこれ?」
少しくすんだ印象の水色の小瓶を。
「違う」
違ったらしい。
「それ、それだってば。紺のやつ」
最初から色の名前で言ってほしかったな。
けれど予想外の色が選ばれた。僕の知ってる限り、あまり好んで身につける印象はない。いや買っている時点で彼女の性格からして使うつもりなのだろうけど。
「はいはい、お姫様」
大袈裟なジェスチャーで恭しくかしこまる。けれど今回は彼女の化粧品に被害が出ると思ったのか、ペディキュアを塗らせている後ろめたさと感謝の念があるのか、クッションは飛んでこなかった。僕としては後者であってほしい。
先程と同じように宝物を触るように彼女の指を押さえて爪を色付けていく。ネイビーに染まっていく彼女の爪先はいつもと違った雰囲気で、まるで違う女性といたしているような罪悪感が芽生える。
丁寧に、ブラシは滑らせるように。無地のキャンバスを汚すような快感を味わいながら、一つ一つ無心に塗っていく。一周したら二度塗りのためにまた振り出しへ。
「ふぅ」
大きく息を吐いて、集中を解く。これはムラのない丁寧な塗りが出来たと自画自賛してもいいだろう。はみ出してしまった部分をそれ用の楊枝みたいな木の棒で落としながら全体を確認して再度息を吐いた。沈黙したままの彼女のクッションの上に投げ出された白い足と爪先の濃いネイビーの色はどこか胸を掻きむしられるようなセンチメンタルな印象だ。
「少し乾燥させないと。映画でも見る?」
立ち上がって体の節々を伸ばしながら、彼女にそう提案する。確か先週録画したロードショーがあるはずだ。何度も見たことのあるアニメ映画だけれど、時間を潰すにはもってこいだろう。
けれど彼女は歯切れの悪そうな顔をして、ソファに座ったまま僕を見つめてくる。これはなにかさらに面倒なことを頼んでくるつもりだ。急かしたりはしない、けれどこちらから促したりもしない。それが僕と彼女の上手くいく距離感だから。
「これもやってほしい」
おずおずといった感じで彼女は雑誌に挟んであった何かを僕に差し出してくる。
「ネイルシール?」
透明なセロハンの袋の上部に書いてある文字をそのまま読み上げる。中には小さな、それこそ爪先ほどの小さな色とりどりの花火。
「可愛いからつけたいな、って。それに合うネイルも買ったから」
彼女の声が徐々に小さくなっていく。その様子は抱き締めたいほど可愛いけれど、足を投げ出したままソファに沈んでいる彼女にそうするのは難しそうだ。せっかく塗ったペディキュアが剥がれてしまったら僕としても悲しいし。
「いいよ」
確かにこのシールを爪に貼るのは細かくて大変そうだ。でもどうせしばらくは手持ち無沙汰だし、彼女が珍しくしおらしい姿を見せてくれてるので僕としては十分にお釣りが来る程度のことでしかない。
「ありがと」
恥ずかしがってるのか、お礼をいっているようには思えない仏頂面の彼女に改めて僕は跪いた。
格好つけたのはいいものの、正直なところ想像以上の困難だった。彼女が予め用意していたピンセットを駆使して、細心の注意を払って一枚一枚貼っていく。深いネイビーの夜に咲くカラフルな花火たち。その行為は不思議な征服感を僕にもたらしたけれど、それ以上に時間を奪っていく。
つや出しのトップコートまで塗り終えた頃にはゆうに時計の針は天辺を過ぎていた。けれど自分の爪先を見ては嬉しそうににやにやしている彼女を見るとほんのりと暖かい気持ちが胸に満ちていく。
僕は彼女の事が好きなんだな、とそんな当たり前になっていたことを確認して、堪えきれずに欠伸が出た。
「そろそろ寝ようか」
改めて提案する。ああ、でも素敵な彼氏としては彼女にもう一つ提案しなければ。
「来週は花火を見に行こうか」




