蜃気楼の家
砂漠の町では、今日も誰かが死んでいた。
それは珍しいことではなかった。
通りの端に、名前も知らない老人が転がっている。顔には布がかけられているが、足だけが外へ出ていた。乾いたかかとに、砂が薄く積もっている。誰かが弔うでもなく、誰かが悲鳴をあげるでもなく、人々はその横を黙って通り過ぎた。
死は、この町では天気のようなものだった。
暑い日がある。
砂嵐の日がある。
そして、人が死ぬ日がある。
それだけだ。
町は砂の盆地に沈んでいた。
井戸はとうの昔に枯れ、家々の壁はひび割れ、路地には乾いた糞と灰と骨が落ちている。人々は朝になると日陰を探し、昼になると動くことをやめ、夜になると空腹をごまかすために眠った。
けれど、町の向こうには壁があった。
高い、高い壁だ。
砂色の町とは違い、壁だけは白くなめらかで、太陽の光を鈍く跳ね返している。壁の向こうには、魔術師の屋敷があると言われていた。
屋敷では、毎晩のように宴が開かれる。
楽器の音が聞こえる。
人々の笑い声が聞こえる。
風向きによっては、焼いた肉の匂いや、甘い果物の匂いさえ流れてくることがある。
噂によれば、その屋敷には、飲みきれないほどの水があるという。
泳ぐためだけの水。
花を咲かせるためだけの水。
床を冷やすためだけの水。
食べきれないほどの果物が、銀の皿に積み上げられているという。
捨てられるパンが、この町の子ども一人を一週間生かせるほどあるという。
誰も確かめたことはない。
けれど、みんな知っている。
壁の向こうには楽園がある。
そして、その楽園は決してこちら側へは来ない。
最初のうち、貧しい人々は壁を見上げていた。
いつか向こう側へ行けるのではないか。
いつか扉が開くのではないか。
いつか魔術師が慈悲を見せるのではないか。
そう考えていた者もいた。
だが、長い年月のうちに、みんな夢を見ることをやめた。
壁の向こうに何かがあるなど、考えるだけ無駄だ。
あれは蜃気楼だ。
音も匂いも、乾ききった頭が見せる幻だ。
そう思っていたほうが楽だった。
たった一人、そう思えない青年がいた。
名を、セラと言った。
赤銅色の髪を持つ、痩せた青年だった。
肩は骨ばり、頬はこけ、唇はいつも乾いて切れていた。だが、目だけは飢えた獣のようにぎらぎらしていた。
セラは町の誰よりもよく壁を見ていた。
水が欲しいからではない。
食べ物が欲しいからでもない。
もちろん、それらも欲しかった。
だが、それだけなら町の誰もが同じだ。
セラが欲しかったのは、壁の向こうにある「違う生き方」だった。
ある日、町に旅人が来た。
旅人は痩せたラクダを連れ、ぼろぼろの外套をまとい、片足を少し引きずっていた。けれど、彼の口から出る話は、町の誰も知らないものばかりだった。
海の話。
雪の降る国の話。
夜でも明かりの消えない都の話。
雨が何日も降り続ける森の話。
空に届くほど高い塔の話。
セラは、誰よりも熱心に聞いた。
「海というのは、そんなに大きいのか」
「ああ。どこまでも水だ」
「水が、どこまでも?」
「そうだ。飲むにはしょっぱいがな」
旅人は笑った。
セラは笑えなかった。
水が、どこまでもある。
その言葉が、頭の中に刺さったまま抜けなかった。
「じゃあ、町の外には本当に別の世界があるんだな」
「当たり前だ」
「ここが全部じゃないんだな」
旅人はセラを見た。
「おまえは、そう思っていたのか」
セラは壁を見上げた。
白く高い壁。
いつもそこにある、世界の終わり。
「この町で生まれた者にとっては、あの壁までが世界だ」
旅人はしばらく黙っていた。
それから、言った。
「壁というものはな、外から見ると案外低いことがある」
その夜、セラは眠れなかった。
旅人の話した世界。
壁の向こうの屋敷。
飲みきれない水。
食べきれない果物。
人はなぜ、同じ太陽の下で、これほど違う場所に生まれるのだろう。
なぜ、ある者は水を浴び、ある者は舌を湿らせる一滴も得られないのだろう。
セラは正義に目覚めたわけではなかった。
革命を考えたわけでもない。
町の人々を救おうと思ったわけでもない。
ただ、欲しくなった。
壁の向こう側へ行きたい。
あの場所の水を飲みたい。
あの場所の果物を食べたい。
あの場所にある一番価値のあるものを奪えば、自分はこの町から出ていけるかもしれない。
そう思った。
翌朝、セラは壁の扉を見張った。
白い壁には、一か所だけ巨大な門があった。
門は普段、固く閉ざされている。
だが、何日かに一度、荷馬車が屋敷へ入っていく。町の外から運ばれてきた食料や香辛料、酒や布や宝石が、そこを通って壁の向こうへ消えていくのだ。
セラは何日も待った。
そして、日が傾きかけたころ、荷馬車がやってきた。
乾いた町には不釣り合いな、立派な馬車だった。
黒い布で覆われた荷台。
白い服を着た従者。
首に金の輪をつけた馬。
セラは物陰に隠れ、息を殺した。
従者が門番と話している隙に、荷台の後ろへ滑り込む。
心臓が、喉まで上がってくる。
見つかったら殺される。
そう思った。
だが、誰も気づかない。
荷馬車はゆっくり動き出した。
門が開く音がする。
ごごご、と石が動く重い音。
セラは荷物の間に身を縮めた。
壁の向こうへ入る。
その瞬間、セラはもう町の人間ではなくなるような気がした。
荷台の中で、甘い匂いがした。
耐えきれず、セラは近くの箱のふたを少し開けた。
中には、果物が詰まっていた。
赤い果物。
黄色い果物。
青みがかった、見たこともない果物。
どれも艶やかで、皮の下に水を含んでいるのが見ただけでわかった。
セラはひとつ掴んだ。
かじる。
果汁が口いっぱいに弾けた。
甘い。
冷たい。
水だ。
果物の形をした水だった。
セラは夢中で食べた。
汁が顎を伝い、胸元へ落ちる。
普段なら一滴だって無駄にしない。
なのに、そのときのセラは、こぼれる汁に構っていられなかった。
ひとつ食べる。
もうひとつ食べる。
腹が痛くなるほど食べる。
そして思った。
この程度のものが、荷物として運び込まれている。
ならば、屋敷の中には、もっとすごいものがあるに違いない。
荷馬車は屋敷の中庭で止まった。
従者たちは荷を下ろし始めたが、セラは混乱に紛れて荷台の下へ潜り、庭の陰へ逃げ込んだ。
あまりにも簡単だった。
魔術師は油断している。
誰も自分に逆らえないと思っている。
セラのような者が壁を越えるなど、考えたこともないのだ。
屋敷は、白と金でできていた。
柱には宝石が埋め込まれ、壁には水の流れる模様が彫られている。床はひんやりとして、靴の裏に砂がつくのが申し訳なくなるほど滑らかだった。
セラはしばらく、金の壁を眺めていた。
だが、すぐに視線は別のものに吸い寄せられた。
水だ。
中庭の中央に、広い水場があった。
池ではない。
井戸でもない。
石で囲まれた大きな四角い水の部屋。
水面が青く光っている。
セラは吸い寄せられるように近づいた。
そして、飛び込んだ。
水しぶきが上がる。
口に水が入る。
鼻に水が入る。
セラは溺れかけた。
泳ぎ方など知らない。
だが、水場は思ったより浅かった。
足が底につく。
セラは咳き込みながら立ち上がった。
そして笑った。
体のまわりに水がある。
肌に水が触れている。
髪から水が落ちる。
腹が空いているのに、全身が満たされるようだった。
「こんなに……」
声が震えた。
「こんなに水があるのか」
セラは両手で水をすくい、飲んだ。
飲んだ。
飲んだ。
腹が重くなるまで飲んだ。
それでも、水はなくならない。
恐ろしくなった。
世界には、こんなにも水がある。
それなのに町では、子どもが一口の水をめぐって殴り合っている。
セラは水場から上がり、屋敷の奥へ進んだ。
どこかから音楽が聞こえる。
弦の音。
笛の音。
笑い声。
杯の触れ合う音。
宴だ。
セラは音のする部屋を覗いた。
だが、そこには誰もいなかった。
大きな食卓がある。
皿がある。
杯がある。
しかし人はいない。
それなのに、音楽だけが流れている。
笑い声だけが響いている。
見えない人々が、そこにいるようだった。
セラは背筋が寒くなった。
魔術師の屋敷だ。
ここでは、音さえも召し使いなのかもしれない。
セラは足早にその場を離れた。
彼が探しているのは、屋敷で一番価値のあるものだ。
金ではない。
金を持って町へ戻ったところで、町では水にならないかもしれない。
食べ物は食べればなくなる。
宝石は腹を満たさない。
では、一番価値のあるものとは何なのか。
セラにはわからなかった。
ただ、あるはずだと思った。
魔術師がすべてを手に入れた理由。
水も食べ物も音楽も、人の命さえも支配できる秘密。
それを奪えば、自分も壁の向こう側の人間になれる。
セラは屋敷をさまよった。
廊下はどこまでも続き、部屋はどれも似ていた。
香水の部屋。
本の部屋。
絨毯の部屋。
鳥かごだけが並ぶ部屋。
誰もいないのに、誰かが見ている気配がする。
やがて、セラは寝室にたどり着いた。
広い部屋だった。
天井には星を描いた銀の板がはめ込まれ、壁際には薄い布が垂れ、中央には大きな寝台がある。
セラは吸い寄せられるように寝台へ近づいた。
こんな柔らかそうなものを見たのは初めてだった。
試しに手を置く。
沈む。
体を横たえる。
さらに沈む。
雲の上に落ちたようだった。
一晩だけ。
少しだけ。
そう思った瞬間、セラは眠ってしまった。
目を覚ましたのは、叫び声のせいだった。
「なんだ、おまえは!」
セラは飛び起きた。
目の前に、男が立っていた。
長い衣をまとい、白い髭を編み込み、指にはいくつもの指輪をはめている。目は深く落ちくぼみ、唇は薄い。
魔術師だ。
セラは反射的に逃げようとした。
だが、足が動かない。
それどころか、腕に違和感が走った。
右腕を見る。
皮膚に、細い線が入っていた。
ひびのようだった。
ひびは輪になり、手首から肘へ、肘から肩へ、いくつも増えていく。
「な……」
次の瞬間、腕が分かれた。
肉が裂けたのではない。
血が出たのでもない。
腕そのものが、まるで人形の部品のように、いくつもの無機質なブロックへ変わっていく。
肌色の円筒。
なめらかな関節。
中に見える黒い軸。
自分の腕が、マネキンの腕のように分解され、少しずつ離れていく。
痛みはない。
だからこそ、恐ろしかった。
これは自分の体なのに、自分のものではなくなっていく。
「うわあああああっ!」
セラは叫んだ。
左腕にも線が走る。
肩が、指が、手首が、ばらばらの部品へ変わる。
魔術師は冷たい目で見ていた。
「盗人には、ふさわしい姿だ。おまえたち貧民は、しょせん部品でしかない。働く腕。運ぶ足。飢える腹。名前などいらぬ」
「やめろ!」
「なぜだ? おまえたちはそう扱われることに慣れているだろう」
セラの中で、恐怖が怒りに変わった。
部品。
道具。
名前のない隣人の死体。
干からびた井戸。
壁の向こうで鳴る宴。
ふざけるな。
セラは分解されかけた腕を無理やり動かした。
部品のようになった手が、ぎこちなく魔術師の衣を掴む。
魔術師の顔に、初めて怯えが走った。
「動けるのか」
「俺は……」
セラは寝台から飛び出し、魔術師を押し倒した。
「部品じゃない!」
魔術師の首に手をかける。
人形のように分かれた腕で。
それでも、力は入った。
魔術師は床の上であえぎ、指輪だらけの手でセラの腕を叩いた。
「やめろ……殺すな……」
「おまえは町で何人死んだか知っているのか!」
「知らぬ! 知らぬが、望むなら何でもやる! 金でも、水でも、女でも、屋敷でも!」
その言葉で、セラは我に返った。
腕を見る。
元に戻っていた。
肌にひびなどない。
指も、手首も、肘も、普通の腕だ。
だが、心臓はまだ暴れている。
あれは幻覚だった。
魔術師が見せた悪夢。
いや、本当に幻だったのだろうか。
セラにはわからなかった。
ただひとつ、わかったことがある。
魔術師も怯える。
魔術師も死を恐れる。
壁の向こうの者たちも、自分と同じように息をしている。
「この屋敷で一番価値のあるものを差し出せ」
セラは低く言った。
魔術師は何度もうなずいた。
「わかった。わかったから、手を離せ」
セラは魔術師を立たせた。
魔術師は震える足で寝室の奥へ向かい、壁の一部に手を当てた。
音もなく壁が開く。
その奥に、大きな金庫があった。
魔術師が呪文を唱えると、金庫の扉が開いた。
中には、ありとあらゆるものが詰まっていた。
金貨。
宝石。
香水。
古い書物。
小さな彫像。
絹の布。
銀の杯。
水晶の瓶。
象牙の箱。
魔術師は言った。
「好きなものを持っていけ。これだけあれば、おまえのような者でも一生困らず暮らせる」
セラは金庫の中を見た。
美しいものばかりだった。
おそらく、どれも途方もない価値があるのだろう。
だが、セラの胸は動かなかった。
金貨は食べられない。
宝石は喉を潤さない。
香水は砂漠の熱を消さない。
書物は読めない。
銀の杯は、空なら何も意味がない。
「違う」
「何がだ」
「こんなものに価値なんかない」
魔術師の顔がこわばった。
「何を言う。これらは国ひとつ買えるほどの――」
「俺が欲しいのは、こんなものじゃない!」
セラは叫んだ。
「ならば何が欲しい!」
魔術師も叫び返した。
セラは答えられなかった。
何が欲しいのか、自分でもわからなかった。
水か。
食べ物か。
金か。
自由か。
壁の向こう側の生活か。
それとも、誰からも部品扱いされない自分か。
黙り込んだセラを見て、魔術師の目が細くなった。
次の瞬間、魔術師の袖から短剣が滑り落ちた。
セラが気づいたときには、もう遅かった。
腹に冷たいものが入った。
痛みは、少し遅れてきた。
視界が傾く。
床が近づく。
セラは倒れた。
腹から血が流れている。
今度は幻ではない。
温かく、赤い。
命が流れ出ていく感覚があった。
魔術師が何か言っている。
声は遠い。
宴の音も遠い。
水の音も遠い。
セラは手を伸ばした。
何へ向けたのかは、自分でもわからない。
ただ、思った。
生きたい。
金などいらない。
宝石などいらない。
魔術師の屋敷もいらない。
水を腹いっぱい飲んだことも、果物を食べたことも、柔らかな寝台で眠ったことも、もうどうでもいい。
ただ、生きたい。
町の外を見たい。
旅人が話した海を見たい。
雪を見たい。
雨の降る森を見たい。
壁の向こうではなく、もっと遠くへ行きたい。
生きたい。
強い光が、まぶたの裏を焼いた。
セラは目を開けた。
そこは、砂漠の町だった。
ひび割れた壁。
乾いた路地。
ぼろ布をまとった人々。
見慣れた空。
目の前には、老人が立っていた。
「なんだ。まだ生きとったのか」
老人はつまらなそうに言った。
セラは腹を押さえた。
傷はなかった。
血もない。
だが、空腹だけがあった。
胃が縮み、喉が渇き、身体が砂でできているように重い。
横を見る。
名前も知らない隣人が死んでいた。
朝に見た老人かもしれない。
別の誰かかもしれない。
もう、わからなかった。
セラは起き上がった。
町の向こうを見る。
そこに、壁はなかった。
白く高い壁も。
巨大な門も。
魔術師の屋敷も。
何もない。
ただ、砂漠が広がっていた。
どこまでも。
どこまでも。
地平線の向こうで、空と砂が混ざっている。
セラはしばらく、そこを見つめた。
夢だったのか。
幻だったのか。
旅人の話に飢えた頭が作った蜃気楼だったのか。
それとも、本当に壁の向こうへ行ったのか。
わからない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
行く手を阻む壁は、そこにはなかった。
セラは立ち上がった。
足元はふらつく。
腹は空いている。
水もない。
それでも、歩ける。
老人が笑った。
「どこへ行く」
セラは地平線を見た。
「町の外だ」
「外には何もないぞ」
「見てくる」
「死ぬぞ」
「ここにいても死ぬ」
老人は黙った。
セラは一歩、砂の上へ踏み出した。
壁の向こうに楽園などなかったのかもしれない。
魔術師などいなかったのかもしれない。
金庫も、水の池も、果物も、分解される腕の悪夢も、すべて飢えが見せた幻だったのかもしれない。
けれど、セラはもう知っていた。
一番価値のあるものは、誰かの金庫には入っていない。
魔術師が与えてくれるものでもない。
壁の向こうに置かれているものでもない。
それは、自分がまだ生きているという事実だった。
そして、生きているなら、歩ける。
歩けるなら、まだ見たことのない場所へ行ける。
セラは振り返らなかった。
背後の町では、今日も誰かが死んでいる。
だが、前には砂漠がある。
どこまでも広く、どこまでも残酷で、どこまでも自由な砂漠が。
セラは歩き出した。
砂は熱かった。
喉は乾いていた。
空は容赦なく青かった。
それでも、彼の前にはもう壁がなかった。




