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旧企画

蜃気楼の家

作者: 秋月瑛

― 砂漠の町 ―


 かつては交易で栄えたと噂されるが、今では風と乾いた喉の音しか聞こえない。

 焼け焦げた壁の隙間で、名前も知らぬ隣人が死んでいる。誰も驚かない。誰も泣かない。


 町の東側には、灰色の壁が空を裂くように立っている。

 それは異界を遮る境界であり、永遠に開かぬ扉の象徴だった。

 壁の向こうには、魔術師の屋敷がある――そんな話を聞いたことがある。

 宴の音楽、果実の香り、甘やかな笑い声。乾いた町の片隅で、それらは蜃気楼のように聞こえてくる。

 水が湧き、食物が溢れ、苦悩などというものは存在しない世界。

 だがそれは、信じられてはいなかった。ただの幻。誰もがそう言った。


 町の者たちは、壁の向こうに夢を見なくなった。

 いや、夢を見られなくなったのだ。

 乾いた風のなかで、ひとつ息を吐くごとに、夢という名の水は蒸発していった。


 だが、ひとりだけ例外がいた。

 青年だった。名もない、ただの青年。

 顔に火傷の痕があり、家族は誰もおらず、町の隅にある崩れかけた小屋で、日干しの豆ばかりを食べて暮らしていた。

 誰とも話さず、ただじっと壁を見ていた。


 ある日、町をひとりの旅人が訪れた。

 髪には塩の結晶、背には継ぎ接ぎの外套。

 旅人は市場の影で静かに水を飲んでいた。誰も近づこうとはしなかった。

 だが、青年だけが足を止めた。


 「あなたは、壁の向こうから来たのか?」


 旅人は笑った。

 それが何を意味するかもわからずに、ただの笑いだったのかもしれない。だが、青年にはそれが“肯定”に聞こえた。


 旅人は語った。

 草原のある国の話。鳥が詩を歌う村の話。月を売り買いする市場の話。

 どれも青年には絵本のようだった。

 乾いた町しか知らぬ彼にとって、それは現実とは思えない夢だった。けれど、確かに――夢だった。


 その夜、青年は眠れなかった。

 星空の下、瓦礫の上に座り、旅人の言葉を反芻した。

 そして思った。

 自分も、壁の向こうを見てみたい。


 何の信念もなかった。政治も思想も関係なかった。

 ただ、夢を信じた。それだけだった。


― 侵入 ―


 夜明け前。

 町の空はまだ冷たく、砂に張りついた空気さえ眠っていた。

 青年は荷馬車を見つめていた。灰色の壁に沿って走る道。その先には、あの巨大な扉。

 扉は閉じられたまま決して開かないが、荷馬車だけは例外だった。屋敷の中に何かを運んでいるのだ。


 青年は幾度もその光景を目にしていた。

 荷台に布をかけられた木箱。声を発さぬ従者。

 それが何を運ぶのか、誰も知らなかった。興味を持つ者も、今はいない。


 だが、青年だけは違った。

 ――屋敷の中に入れるなら、あれしかない。


 数日かけて馬車の到着する時刻を調べ、深夜に隠れる場所を見つけた。

 そして、時が来た。


 月が雲に隠れた瞬間、青年は砂に身を沈め、馬車の脇へと忍び寄る。

 息を殺して、荷の隙間へ身体を滑り込ませた。誰にも気づかれなかった。

 心臓が鼓膜の裏で爆ぜそうに鳴っている。


 馬車が動いた。

 灰色の壁の扉が、音もなく開かれる。

 壁の向こうへ――青年は、初めて足を踏み入れた。


― 果物 ―


 闇のなか、青年は荷のひとつに手を伸ばした。

 ふと、甘い匂いが鼻をくすぐる。


 布をめくると、そこには見たこともない果物が山のように詰まっていた。

 丸く、艶やかで、今にも水が滴り落ちそうなほど瑞々しい。

 果汁の香りが鼻を突き、思わず指が動いた。


 それは、本能だった。

 ひとつ掴み、口に含む。

 果汁が舌を焼いた。酸味、甘味、冷たさ。知らぬ味が、体中に流れ込む。


 青年は夢中で食べた。

 皮をむくことも忘れ、汁が顎を伝うのも気にしなかった。

 飢えていたわけではない。

 これは“食べる”という行為ではなかった。生きるという行為だった。


 いつのまにか、彼は泣いていた。

 こんなにも水があることを、身体が信じられなかったのだ。


 ――こんなものが、あの壁の向こうにはあったのか。

 ――あの町には、どこにもなかったのに。


 青年は、立ち上がった。

 馬車の影から抜け出し、まっすぐと屋敷の中へと歩き始めた。


 扉は、開いていた。


― 屋敷 ―


 扉の奥には、静寂があった。

 耳を澄ませても、自分の足音しか聞こえない。

 青年は戸惑いながらも歩を進めた。光はない。だが壁そのものが仄かに輝いていた。


 壁も柱も、そして天井までもが黄金でできていた。

 けれど、青年の目はそれらを素通りした。

 鈍く冷たい金属の輝きに、空腹も乾きも癒されはしない。


 やがて、ひらけた空間に出た。

 そこには広大なプールがあった。屋敷の内部に、不自然なほど澄んだ水が湛えられていた。

 水面には光が揺れ、天井の金がそれを反射していた。


 青年は躊躇しなかった。

 靴を脱ぐことも、服を脱ぐこともなく、そのまま水に飛び込んだ。


 生まれて初めての感触だった。

 水が肌を包み、喉を通り、耳の奥まで満たしていく。

 水の中で目を開いた。何も見えなかった。だが、ただそれだけで良かった。


 ――この世に、こんなにも水があるのか。

 そんな当たり前のことに、彼は今さらながら打ち震えていた。


 溺れかけながら、やがて底に足をつけて立ち上がる。

 滴る水が音もなく石床に落ちる。


 身体の熱が引いていく。喉が潤う。

 初めて「渇き」が消えた。

 それだけで、夢が叶った気がした。


― 宴 ―


 濡れた衣服のまま、青年は屋敷の廊を歩いた。

 どこまでも続く回廊。光のない空間。だが闇ではなかった。


 やがて、どこからともなく音が聞こえてきた。

 笛の音、弦の響き、誰かの笑い声。

 生きた気配。祭りのようなざわめき。

 青年はその音に導かれるように、音のする部屋の前で足を止めた。


 扉を押し開ける。

 だが、部屋の中には誰もいなかった。


 赤い絨毯、揺れる燭台、食卓に並ぶ皿の数々――どれも手付かずのままだ。

 音だけが、確かにそこにあった。

 見えない人々が、見えない饗宴を繰り広げているかのようだった。


 青年は立ち尽くした。

 空虚な豪奢。姿なき祝祭。


 にわかに背筋が冷たくなる。

 なにかが、違っている。


 彼は音の中から逃げるように、足早に部屋をあとにした。


― 探索 ―


 青年は屋敷の奥へと進んだ。

 広さに終わりはなかった。曲がりくねる廊下、数知れぬ扉、重たい静けさ。

 天井の光は徐々に鈍く、足音すらも何かに吸われていくようだった。


 探していた。

 価値あるものを。

 それさえあれば、すべてが変わる。

 この町から出て、何かを手に入れ、戻ってくることだってできる。

 人々に知らしめたい。夢は幻ではなかったと。

 そんな想いが、青年を突き動かしていた。


 金貨の入った箱がいくつも並んでいた。

 宝石を詰めた棚もあった。

 だが、青年はそれらに触れなかった。

 ――なぜだ?

 それでは足りないと、どこかでわかっていたのだ。


 奥へ、さらに奥へ。


 重たい扉を押し開けると、そこは寝室だった。

 高い天蓋のついたベッド。

 深紅の絨毯、香りのついた空気、やわらかな毛布。

 青年はふらふらと近づき、まるで吸い寄せられるようにベッドに横たわった。


 気がつけば、眠っていた。


― 目覚め ―


 「……なんだおまえは!」


 怒声に跳ね起きた青年は、目の前の人物に視線を向けた。

 奇妙な服をまとい、髪を逆立てたような男が、呆然とこちらを見下ろしている。

 魔術師だ。

 この屋敷の主。

 夢の向こうにいたはずの存在。


 青年は咄嗟に逃げようとした。

 だが、その瞬間――


 右腕にヒビが入った。


 パリン。

 そんな音とともに、皮膚が裂け、肉が割れ、骨が露出した。


 「うわ――あああああっ!」


 悲鳴を上げる青年の腕は、まるで陶器のように砕けていく。

 肉が削ぎ落ち、骨の輪切りが連なっていく。

 痛みはない。それが、かえって恐ろしかった。

 腕だけでなく、足も、頬も、首も、細かくヒビが走っていく。


 自分が、自分でなくなっていく。


 混乱の中、青年は魔術師に飛びかかった。

 喉元に手をかけ、床に押し倒す。

 狂気の目を向け、叫ぶでもなくただ力を込めた。


 そのとき、魔術師が震えながら言った。


 「……殺さないでくれ。望むものを、なんでもやろう……」


 その声で、青年は我に返った。


 見下ろした自分の腕には――

 何の傷もなかった。


 肉も骨も、血も、すべてが元どおり。

 いや、そもそも何も起きていなかったのかもしれない。

 あの痛みも裂けた肉も、すべては……

 魔術師が見せた、悪夢。


― 価値 ―


 「この屋敷でいちばん価値のあるものをよこせ」


 青年は低く呟いた。

 怒りも、混乱も、既に過ぎ去っていた。

 残ったのはただ、答えを求める声だった。


 魔術師はしばらく黙っていた。

 虚ろな目で青年を見つめ、やがて立ち上がった。


 「ついてこい」


 二人は寝室の奥へと進んだ。

 隠された扉。重たい金属の鍵。

 奥にあったのは、大きな金庫だった。扉には異国の紋章。冷たい鉄の光。


 魔術師は静かに言った。


 「ここにあるものは、すべて私が集めた宝だ。好きなものを持って行くがいい」


 扉が開く。

 まばゆい光が溢れ出す。


 金貨が山をなし、宝石が波のように積まれていた。

 香木、香水、古文書。

 白い陶器、黒曜石の仮面、絹に包まれた小さな箱。

 あらゆる国の富が、ぎっしりと詰め込まれていた。


 青年は、ただそれを見つめた。


 そして、ゆっくりと首を振った。


 「……こんなものに価値があるはずがない」


 魔術師の表情が曇る。

 青年の言葉は、まるで呪詛のようだった。


 「これが“価値”だなんて、ウソだ。……俺は騙されない」


 彼は、ふたたび魔術師に飛びかかった。

 今度は、怒りではなかった。

 空虚を壊したかった。夢の形を砕きたかった。


 だが――


 次の瞬間、魔術師の手が動いた。

 隠していた短剣が、あまりにも自然に、あまりにも正確に青年の腹を突いた。


 鈍い痛みが、深く深く刺さった。


 青年は、倒れた。


― 血と祈り ―


 床が、濡れていた。

 真っ赤な色が広がっていた。

 あたたかく、ぬるく、失われていく感覚。


 目の奥が遠のいていく。

 視界の端で、魔術師の姿が揺れていた。

 もう、声も届かない。


 ただ、青年はひとつの言葉を、心の奥で強く願った。


 ――生きたい。


 その言葉だけが、まだ熱をもっていた。


― 帰還 ―


 光があった。

 まぶたの裏側に差し込む、乾いた光。

 焼けるような白さが、閉じた視界を無理やり引き剥がしていく。


 ゆっくりと、青年は目を開いた。


 そこは、砂だった。

 ひび割れた地面。崩れかけた石の壁。

 うだるような暑さのなか、風が吹いていた。

 すべてが、見慣れた町だった。


 「……なんだ、まだ生きとったのか」


 声の方を向くと、ボロをまとった老人がひとり、こちらを見下ろしていた。

 その顔には驚きも喜びもなく、ただいつもの暑さに辟易している様子が浮かんでいる。


 周囲には、痩せた人々が所在なく座っていた。

 食べ物を待つでもなく、怒るでもなく、ただ時間に溶けていた。

 いつもと同じ光景。


 青年はそっと、自分の腹をさすった。

 傷はなかった。

 皮膚はなめらかで、血も流れていなかった。

 だが空腹だけが、確かにそこにあった。


 ――あれは夢だったのか。


 そう思いかけて、青年は首を振った。

 夢ではない。

 夢に触れたのだ。


 彼はゆっくりと立ち上がった。

 足もとには、昨日までと変わらない砂漠が広がっていた。

 だが、町の向こうに見えていたはずの壁は、どこにもなかった。


 代わりに、見えたのは地平線だった。

 揺らめく空気の向こうに、どこまでも続く砂と空の境界。

 どこにも扉はない。境界もない。


 あのとき確かにそこにあった壁は、今はもう、存在していなかった。


 青年は立ち尽くしたまま、じっとその彼方を見つめていた。


 ――あの向こうには、何があるのだろうか?


 まだ誰も知らない風景。

 まだ誰も歩いていない道。

 夢のなかでは手に入らなかった、“価値”と呼ばれるもの。


 それがあるかどうかは、もう重要ではなかった。


 ただ、行く手を阻むものはなかった。


 青年は一歩、足を踏み出した。

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