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8月14日
彼女が見たい映画があると言うので、結局デートは映画を見に行くことになった。
彼女はなにやら用事を済ませてから来るそうなので、僕は駅構内にある本屋で時間を潰して待つことにした。
時計の表示は13時40分。
待ち合わせの時間までまだ20分ある。
「近くの本屋で待ってるから着いたら言ってね」とメールを送ると、「わかった! 急いでいく!」と返信が来た。
漫画の新刊コーナーを眺めてみると、高校2年の時に学校で流行っていた漫画の新刊が目に入った。
ちょっと見ていない間に5巻くらい出ている。「もう漫画は当分読めないな。本当に秋月なんて受かるのだろうか」と落ち込みかけてすぐに「だめだだめだ。こんな時まで受験のことで暗い気持ちになってはだめだ」と拭い去った。
雑誌の立ち読みをして待とうと本棚を眺めていると、一冊の本が目に入った。「月の本」という雑誌だ。直接的な題名で凄くわかりやすいなと考えながら、手にとってパラパラと中身を見てみた。何やら科学的な本ではなく、雑学や美術作品などが載っていて文学や芸術の観点から月を紹介している本らしい。綺麗な満月の写真には詩のようなものも付けられている。
小学校の頃の理科は好きだったな、百人一首の月の歌はこんなにあったのか、などと考えながら夢中になってふむふむと読んでいると、右ポケットに入っている携帯が震えた。
彼女からメールだ。
「着いた! どこにいるの?」と文面から心配そうな彼女の顔が見える。
時計の表示は14時06分。
待ち合わせの時間から6分経っていた。
僕の方が遅刻になってしまった。
「ごめんまだ本屋。世界樹で待ってて!」と送信しながら僕は歩調を早めた。
駅から繁華街側にでた広場には、一際大きくそびえ立つ巨大な木がある。生物は苦手なので木の名前までは分からない。その巨大さから誰が言い出したのかは知らないが、その木は「世界樹」と呼ばれ、待ち合わせの場所として多くの人々に利用されている。
走って世界樹の下まで来たのだが、彼女の姿はなかった。不思議に思いつつ、自分の身なりが整っているか確認した。
彼女にメールを送ろうと右ポケットの携帯を握った瞬間、突然左腕のあたりに少女が体当りしてきた。
「おまたせ」
あっけにとられている僕を可笑しそうに笑い、彼女は僕の左手を絡めとった。
「早く行かないと席なくなっちゃうよ」
と彼女は無邪気にニッコリ笑った。
彼女はとても手を繋ぐことが好きらしいことを最近知った。
いつもの帰り道では周りを気にしているのか、手を繋ごうとはしなかった。帰り道で手を繋ぐのは周りに人が少なくなってから、僕が手を寄せると自然に手が合わさった。
彼女の手のひらはとても温かくて柔らかい。きめ細やかでしっとり湿っていて、弱そうだ。少し力を入れるだけで簡単に壊れてしまいそうな繊細さは、守りたいといつも僕に思わせた。
彼女が見たがっている映画とはミュージカル映画だった。そういえば映画を見ることも久しぶりだ。
僕はミュージカル映画をあまり見たことなかったのだが、これは素直に面白いと思えた。華やかな衣装に美しい歌声、華麗なダンス。笑えるコメディシーンでは彼女と一緒に声を出して笑ってしまった。
観終わった後は近くにあったコーヒーチェーン店で甘い飲み物を飲みながら互いの感想を言い合った。
中学生の時のデートのように、つまらない映画だったらどうしようと思っていたのだが、彼女と見るのなら映画がつまらなくてもきっと楽しいだろう。余計な心配だったな、と思った。
帰路につく頃には日が暮れかけていて、反対側の山の上には作り物のような月が見える。待ち合わせ前に読んだ「月の本」によると、今日の月は十三夜月というらしい。
彼女は「肇君」と僕を呼んだ。
「どうしたの」
「前のテスト、どうだった?」
不安そうに彼女は尋ねてきた。
「前のテストはかなり良くて、先生にも褒められたんだ。このままの調子で行ったら、合格できるって言われたよ」
彼女の不安を吹き飛ばすように出来るだけ明るく言うと、彼女はガードの緩い笑顔になった。本当は「合格できる、かも」と言われたのだが。
「愛菜ちゃんは、テストどうだった?」
彼女のふわふわの頬を見ながら、僕は聞き返した。
「ねえ、聞いて」
「どうしたの?」
もしかして点数悪かったのか? 心配が頭をよぎった。
「この前のテスト……数学84点だったんだよ!」
「おお! 凄いじゃん!」
彼女は数学が苦手だった。最近はそれを克服したくて集中的に勉強していたのだが、振るわない成績が続いていたから彼女は悩んでいたのだ。よっぽど努力したのだろう。そして努力がようやく報われたのだ。そう思うとなんだか僕まで嬉しくなる。
突然、彼女はこくりと頷くように頭を傾けた。僕はまたか、と思いながらいつものように彼女の頭を撫でた。さらさらの髪の毛が揺れると、ふわりと彼女のにおいがした。僕がよしよしと何回か手を動かすと、彼女は顔を上げてえへへ、と屈託がない笑顔で幸せそうに笑った。
あ、と思った。
心臓がきゅっと締まって、血流が止まったような感覚がした。
種田が言っていた瞬間だ。ふと気付く時、とはこの瞬間のことだったのか。
生まれてきてはすぐに消えて行く瞬間の儚さと、目の前の少女がダブって感じられた。もっとずっと見ていたい。消えて行くからもっと欲しくなる。彼女が僕の前から消えるかもしれないと少しでも考えると、さっきとは全然違う感覚で胸が締められる。
僕にとってはこの瞬間が宝物なのだ。
そうだ、僕はどうしようもなく彼女を愛している。大事で大事で、愛おしくて堪らなくなるほど彼女が好きだ。
だからこそ、僕は軽々しくそれを言葉にはしない。
そう思った時、僕はじいっと見られる視線に気づいた。彼女は不思議そうな顔をしながら小首を傾げている。ワンピースの裾が揺れたのが見えた。
僕は何も言わずに左手の中にある白くて、ほんわりとした手を握り直した。すると彼女は何も聞かずにそれを静かに受け入れて、細い指で握り返してきた。目を合わせると、彼女は子供みたいににっこり笑ってから、ねだるように僕の腕に絡みついた。
僕の夢とは、合格することより、ずっとずっと、この瞬間を感じ続けることかもしれないなと思った。