1-5
7月5日
彼女と付き合ってから一週間が経っても、まだ彼女が僕の恋人だとは実感が湧かない。彼女を隣に歩いてみても、なんだか心を置く場所が分からずに自分自身を持て余している気がした。どうしても、幼児のおままごとのようにどこかのドラマでみたような恋人の真似事をしている感覚が拭えなかった。彼女は僕のようになっていないのだろうか。
恋人とはこういうものなのだろうか。いつかはこれが、普通になる日がくるのだろうか。
彼女は僕の隣にいて、楽しいと思っているのだろうか。
「そうだ」
大事な用を忘れていた。
彼女は「どうしたの?」と心配そうな目でこちらを見ている。
「今日さ、姉に雑誌買って帰ってって頼まれてるんだった」
僕は彼女のくりくりとした目をちらりと見て「あぶないところだ」と続けた。
彼女はぷくぷくと笑い、
「久保田くんてお姉さんいたんだ。というより、お姉さんのこと、姉って呼んでるんだね」と言った。
「あれ、なにかおかしい?」
「んーん、なんでもない」
彼女はへにゃっと笑った。
「あいつはお姉ちゃん、なんて呼び名が似合うような人ではないし、姉って呼んだほうがいいんだ。それに、姉も僕のことを弟って呼ぶよ」
僕がこう言うと、彼女は口の中で笑いが一杯になってこぼれるように笑った。僕はなんとなく居心地が悪くなって、話を変えることにした。
「桐村さんは兄弟とかいないの?」
「兄弟かあ……」
彼女はうーん、と溜めた後、「いないよ」と言った。
「兄弟の有無なんて考えずに分かることじゃない?」と聞きかけて、やめた。彼女は変わったお人であるが、本人がそれを自覚していないように見える。いわゆる彼女は「天然ちゃん」なのだ。ここで追求してしまえば妙な食い違いが生じて、押し問答になるだろうと思ったからだ。その場合は収拾が付けられなくなる可能性が高いので「変だな」と思っても、ウンウン言っておくのが正しい対処法といえる。
「兄弟、姉妹。どれが欲しかった?」
彼女はまたんーと溜めて、
「分かんない。久保田くんってお姉さんと仲良い?」と言った。
「どうだろ。小さい頃は喧嘩することもあったけど、今は姉がいてよかったと思ってるよ。テレビ一緒に見たりするし、結構仲いいほうかも」
「そうなんだ……いいなあ。友達みたいな、でも友達ではないんだよねお姉さんって。憧れるなあ」
彼女の視線は左上に向かい、何かを描くようにオレンジ色の空を見つめた。
「軽い言い合いは今でもあるけど、結構仲いいよ。でも姉って突然すごいことを言うんだ。昨日の晩もさ……って、僕の姉の話なんか興味ないかな」
僕がそう言うと彼女は目をパチパチさせて、
「ううん、きかせて?」
と言った。
彼女は僕の話を聞く時には、じいーっと僕の目を見てきた。ずっと目があっているのが恥ずかしくて、でも目をそらすのもそれはそれでおかしい気がして、僕は彼女の頬を見て喋るようにしていた。いちいち彼女の頬が僕の話に呼応してふにゃふにゃ動くのを見ているだけで、とても楽しいと思えた。
僕達は学校から駅までほとんど毎日いっしょに下校していた。
高校から正面の大通りをを道なりに進めば駅に着く。僕の家は駅を通り越して10分くらい歩いたところにあった。彼女は駅から電車に乗り、一つ隣駅の近くに住んでいた。
「久保田くんは大学どこに進学するの? 文系だったよね?」
彼女はまた僕の目を見つめて尋ねた。
「大学は……京極大か、ちょっと頑張って樋口大行くか悩んでるところ」
「どうしてその大学にしたの?」
「僕の学力じゃこんなもんだよ」
「ふーん、そっか」
そういえば彼女はどこの大学を志望しているのだろう。たしか成績はいい方だった記憶があるので、結構いい大学に進学する気なのだろうか。さすがに就職するということはないだろう。
「桐村さんはどこの大学志望なの?」
「私は秋月大学に行こうと思ってるの」
彼女はまるで僕から聞かれるのを待っていたように即答した。さっきまでうーんとか、ふにゅーんとか言ってから答えていたので、ちょっと気圧されてしまった。それに、
「秋月大学!? まじで?」
秋月大学とは、関西の有名私立大学である通称「春花秋灯」の一つなのだ。春は春山大学、花は花袋大学、秋は秋月大学、灯は灯希大学、その頭文字をもじって組み合わせたものが「春花秋灯」で、「春花秋灯」に通っている大学生は、秀才大学生の肩書きとして世間に定着しているのだ。
彼女は結構勉強が出来る方だとは聞いていたが、まさかうちの高校から「春花秋灯」を志望する人がいたとは。驚いて柄にもなく大声を出してしまった。
はっとなって見回したが、周りには人通りがなかったので助かった。
「秋月大学って、あの秋月大学?」
「そう。あの秋月大学に行きたいの」
まだ驚いている僕をおいて、彼女は言葉を続けた。
「私ね、英語の先生になりたいんだ。秋月大学は教員免許に力を入れてるらしいの。それにね、秋月大学卒業生の教師は秋月中学と高校の先生になりやすいらしいんだ」
坂道を走りだした自転車のように彼女の言葉は止まらない。
「今の日本の学生ってさ、大学を卒業する頃になっても英語が喋れないの。中学高校大学の10年間勉強しても、だよ? 絶対おかしいと思わない? なんでかな、と思ったけど、英語の楽しさがわからないからなのかなって思った。だから私が始めて英語に触れる中学生に教えて、英語ってこんなに面白んだ。楽しいんだって教えたいの。だってさ、やっぱり最初の印象で好きになるかどうかって別れると思わない?」
そして彼女は、「これが私の夢なの」と続けた。
僕は面食らってしまって、なんて言っていいのかわからず、しばらく何も言えなかった。彼女の視線はこちらの顔面を突き刺してくる。
僕はあまり自信のない脳みそをフル回転させて、急いで一言だけ絞り出した。
「さ、最近は小学生から英語教えてるんじゃなかったっけ……?」
彼女は目をぱちくりさせた。
「あれ、そうなの?」
「う、うん」
「ふうん……でも中学の先生でいいや」
彼女はそう言って、パアッと花が咲いたように笑顔になった。
いいのかよ! と突っ込みたい気持ちを抑えて、彼女の左手に目をやった。彼女の左手は、今日も僕のエナメルバッグのベルトの付け根を握っている。
彼女は僕と二人で歩くとき、なぜだかいつも僕のカバンに手をかけて歩いた。あえて口にはしなかったけれど、なんだか猫でも連れて散歩している気分で心地よかった。
手は男のそれよりずっと小さくて、白くて。きっと子猫の肉球のように繊細で柔らかいのだろう。触ると、ふわふわしていて気持ちいいのだろう。
……手を握っても、いいだろうか。
「久保田くんは将来の夢、ある?」
「え?」
子猫の肉球を想起してメルヘンな世界に飛び立とうとしていた僕を、彼女の鋭い質問が現実へと戻した。
将来の夢? 僕の夢?
「えと……僕は、」
言い淀んだ。
不況不況と言われている今の日本で将来の夢や目標など、芽が出ないと分かっている種に水をやり続けるように、虚しいじゃないか。だから考えなくてもいいことだと思っていた。みんなも彼女みたいに具体的な未来や夢を考えていない人が大半だろう。
でも、それは夢を持つ彼女にとっては違うかもしれない。「夢がない男だ」と幻滅されるかもしれない。「つまらない男だ」と見限られてもおかしくない。
憧れ、目標、期待、野望、志。夢……。
僕の夢……。
「僕は……いまのところ、特にやりたい職業はないよ」
言ってしまった……。しかも「夢はない」と言うことを逸らして言ってしまった。僕はなんてずるい男だろうか。やっぱり幻滅させてしまっただろう。
そう思いながら、少し及び腰で彼女の方を見てみると、彼女はなぜだか子供のように無垢なニコニコ顔でこちらを見ていた。なぜ彼女は笑っているのだろう。
「じゃあさ、久保田くんも秋月大学に行こ?」
「え? 秋月大学に? 僕が?」
「そう。久保田くんの当面の夢はそれにしようよ」
そして彼女は続けた。
「夢がないんなら、作っちゃえばいいんだよ」
彼女は、僕のカバンを握る手をダダをこねるように揺らした。
僕が秋月大学へ? そんな馬鹿な。行けるわけないじゃないか。いくらなんでも無茶だ。無茶苦茶だよ。
「でも、僕の学力じゃ……ちょっと厳しいかなあ」
あ、また男らしくない事を言ってしまったかな、と少し後悔した僕を、
「夢ってそーゆーもんだよ!」と彼女は一喝した。
そして、強い口調で続けた。
「行けるかわからないのは私も一緒だよ。同じ大学に行こうよ。違う大学になったらもう簡単に会えなくなるかもしれないんだよ? 大学になったらさよならなんて、やだ」
彼女は僕のエナメルバッグのベルトの付け根あたりを、より強く握った。
ぬるい風が、彼女の淡い色のくせ毛を揺らした。オレンジ色の景色の中で僕達は見つめ合った。
なるほど、それが言いたくてさっきはまくし立てたのか。
彼女は僕の恋人だったのだ。恋人とは一緒にいたいものなのだ。出来るだけの時間を二人でいる時間にあてて、たとえ一緒にいられない時間であってもメールや電話をして、体は別々の場所にあって離れていても、心は近くにあるよ、そばにいるよ、とお互いで確認しあうものなのだ。恋人とはそういうものなのだ。恋人の意味を言葉ではなく、心で理解出来た気がした。
僕は「うん、わかった」と言って頷いた。そして、
「僕の夢は今から、桐村さんと同じ秋月大学に行く事。絶対に合格する」
僕がそう言うと、彼女は頬をふにゃふにゃと緩ませて微笑んだ。僕も出来るだけ自然な笑顔を作ってみせた。それを見て彼女の頬はもっとふにゃふにゃになった。
僕達は駅に着き、「また明日ね」と手を振って別れた。
彼女が改札の向こうに消えて行くのを見届けてから「さて、帰るか」とひとり言をしてみた。
大事な用を忘れたままにやけた顔で家に帰って、姉に怒鳴られることを僕はまだ知らない。