3-7
7月1日
「飲みにいこうぜ」と言い出したのは予想外にも中野だった。
僕達は定食屋や食堂で食べることは多いのだが、3人で居酒屋に行くのは初めてのことだった。「飲みに行く」という、いかにも大学生らしいキーワードを暗黙的に避けていたのかもしれない。
講義後、駅前の居酒屋にいった。酒が入ると普段と違う会話になったりするのだろうか、などと非日常を望む期待感もあった。
天気は曇っていたが、夜空には月が見えた。雲の切れ目から、丸い月が覗いている。ボコボコとしたクレータもはっきりと見えた。
店に着いて、また空を見上げた時には月が隠れていた。雲が流れてしまったようだ。
店内はかなり賑わっていた。やはり客は大学生が多かった。10人近くの大所帯もいる。サークルだろうか。アルコールによって赤らんだ顔でみな同じような顔に見える。華々しくみえる。しかし、不思議と羨ましくは感じなかった。彼らもサークルならではの苦労をしていることを知っている。人が集まると人間関係になんらかの問題が起きるものなのだ。
僕たちは奥の方の4人用テーブルに案内された。周りにやかましい集団がいなくて安心した。
飲み物は当然のように全員生ビールを注文した。料理も一緒に頼んだ。
「音頭は種田、よろしく」と中野が言うと、
種田が「では、とくに何でもない飲み会にかんぱーい」と気楽に言った。
僕たちはゴチゴチと掴みあげたジョッキを合わせた。
そして、3人共、掴みあげたジョッキをそのまま口元に運ぶ。キンと冷えきった小麦色の液体が口の中へ流し込まれ、ゴクッゴクッと流し込んだ勢いそのままに胃へ注がれる。ジョッキを口から離した瞬間、アルコールの風味と痛くなるような炭酸の切れ味が喉から鼻先に通り抜ける。それらを中和するために乾杯から肺にためていた空気を吐き出すときにでる、至福の「あ゛―」。3人で声を揃えてしまうあたり、確実にオヤジへの道を歩んでいることを実感する。
机にたこわさびが運ばれてきて、その1つを箸で摘んで口の中へ。コリコリとした食感とわさびの優しい辛み、ほんのりと漂う塩味がビールの通り抜けた口内をやさしく包む。軽いのどごしを経てそれを飲み込んでから、もう一度ジョッキを口に運ぶ。さっきの痛快なうまさを確かめるためだ。すると、たこわさびの塩味がさっきは意識していなかったホップの苦味とまざりあって、またひと味ちがう至福が脳へ伝えられる。
あー、うまい。うまいな。うまいうまい。と3人でさえずり合う。
僕はビールがけっこういけるほうだ。
小さい頃にすこしだけ口にした時は「飲み物ではない」という感想だったのに。人間の味覚なんて信用ならないものだなと思った。
「みんなビール飲めるのはいいな」
種田が言った。
「今どき珍しいかも」と僕が言った。若者のビール離れをよく耳にする。
「久保田も飲めるんだな。酒、強いのか?」種田は尋ねてきた。
「強くはないと思う。でも酔っ払って潰れたことはないから、実際はわからないな」
僕が言うと、種田はふうんとあまり話を聞いてなさそうにジョッキを口に運んだ。
「種田は酒強いのか?サークルの飲み会とかすごいんだろ?」
「まあな。飲み会はすごいね。でも自分で言うのもなんだが、おれは酒強い方」
さすがだなと思った。
「正直酒の強い弱いなんて大した問題ではないと思うけどね」
中野が会話に入ってきた。
「酒を覚えたての大学生たちは酒の強い弱いをステータスにしようとするからな。あいつらは何も本質をわかっちゃいない。酒なんてものは飲みたい奴が飲んで、酔いたいだけ酔って楽しむものだ。嗜好品だ。人に強要させることはもちろん、強いか弱いかを競うなんてなんて本筋から大きくずれている。酒が強くてえばったり、いきったりするやつも多いが、ただの馬鹿にしか見えないね。たまたまそういう体質で生まれたというだけだろう。お前はなんの努力もしていないし、威張るほど価値があるものではない。まあ小学校低学年児童の徒競走みたいなものだと温かい目でみてやるのが正しい対処法だ。所詮酔っぱらいどもだしな」
いかにも中野らしい意見と皮肉だと思った。
「中野はお酒強いのか?」と僕は聞いた。
「いや、……強くはない」
と中野ははにかむように笑った。仲の良い者にしか見せない中野の愛嬌である。最近はよく見られるようになった。顔も悪くないし、背格好もしっかりしているから結構中野ってモテるんじゃないか? 問題はひねくれた性格だが、辛抱強く付き合い、その奥にある芯と情に気づけばきっと人気になるだろう。しかし中野自体、人の好き嫌いが激しそうなので、かなり難しそうだなあと思った。
飲み会における僕達は普段通りのテンションで始まった。普段はどちらかというと落ち着いている3人だが、時間が経ち、アルコールが増すほど、会話は盛り上がっていった。
1時間以上経っただろうか。いい具合にアルコールが回ってきた気がする。顔の周りが火照り、体温は上昇しているように感じる。頭がふわふわとして、脳が膨張しているようだ。
見ると、中野はほのかに顔を赤らめている。種田の顔の色はほとんど変わっていないようだが、普段よりは笑顔2割増しくらいで楽しそうにしている。
「彼女とはどう? うまくいってるのか?」僕は種田に聞いた。
「いやー、あんまり」
「まだ滅茶苦茶言ってくるのか? 突然わがまま言い出したり呼び出したり。よく付き合ってられるよなあ。そんな女と」
中野は砕けた言い方でそういった。かなりきついことを言ってる気がするが、嫌味を感じないのは、中野が悪気なしの本心で喋っているからだろう。中野をよく知る者にしかわからないニュアンスだ。
「まあね、大変だよいつも。お前はそういう浮いた話ないのか」
「おれか? だからそういうのは卒業したって前も言ったじゃないか」
大声で言った。酔いで聴覚が麻痺しているのだろうか。卒業した、ということは、以前は浮いた話もあったが今はもう次の次元にいる、という意味で言っているのだろう。ただ強がっているだけにも聞こえるが、あえて追及することにあまり意味が無いように思えて、僕は何も言わなかった。
話の流れと順番を考えると、次は僕に話題が振られるところだったが、2人が少し躊躇したのがわかった。スムーズだった会話に少しだけ間が空いた。
「久保田は、どうなんだ」と中野が言った。
どうなんだ、という曖昧な聞き方に中野の優しさと思いやりを感じた。普通は突っ込みにくいところなのだが、あえて聞いてくれているのだ。しかし、直接踏み込みはせず、どうなんだという聞き方によって、立ち直ったのか? であったり、次の人を見つけたか? など、色んな意味を含ませているのだ。
「いいよ、そんな変な気を使わないでくれ。僕は、そうだねえ。正直なところ……」
胸が詰まる気がするけど、僕はゆっくり話しだした。
「まだ引きづっている、と思う。というか、中野に話した日から、蓋を外したから余計にあふれてくるっていうか、上手く言えないけど、そんな感じ」
こんな恥ずかしいことを言っているのもアルコールのせいだろうか、と思った。
「でも、僕はいいことだと思う。蓋をして、見えないようにしていたら、実際、自分はどうなのかってことが、自分の現在地点がわからないままだったと思うし、中野に話してよかったよ」
さっきまでの盛り上がりから一転、みんな口数が少なくなった。
「ごめんごめん、湿っぽい話しちゃって。いつも僕こんな感じだよな」僕は笑って言った。さっきまでの明るい雰囲気のままで話していたかった。
「こんな機会だ。吐きだせるものは吐き出してしまえばいい」と種田が落ち着いて言った。
「優しい言葉はかける気ないけどな」と、中野が言う。
「つまり、まだ桐村が好きなのか?」
種田が核心をつく。
僕は「そうだな」と言ってから、
「いや、でも違う」と訂正するように言った。
沢山、吐き出したいことが浮かんだ。言い繕うように僕は話しだした。
「好きって言っても、もう一度付き合いたいとか、そんなんじゃなくって。諦めてはいるんだ。100%。これは本当。本当に、本当。それをわかった上で聞いて欲しいんだけど……正直、今でも頭から離れないんだ、桐村さんのことが。中野に話してから、余計に考えてしまって」
「久保田、それは」とまで言った種田の言葉に、僕は上書きするように言う。
「わかってる、わかってるんだ。むしろ忘れたいし、いわゆる青春の甘酸っぱい思い出みたいな感じで、そんなことあったなあってヘラヘラ笑い飛ばせるようになるのが正しいんだ。僕も分かってる。でも、まだそういう感じじゃなくて、なんというか、まだくすぶってるんだ。蓋を外して中を見てみれば、僕はあの当時のまま、恋をしていた頃のままで、……何をみても、全く違うことを考えていたって、手品みたいに結局桐村さんのことにいきついてしまう」
2人は何も言わない。そのまま続けていいというサインだろうか。
「でも彼女は、ここにはいない。お互い、何をしているのかも、知らない。結局なぜフラれたのか、何もわからないままに時間が過ぎた。僕は一体彼女のなんだったのだろう。今更になってそんなことばかり考えちゃっている。そんな自分も馬鹿みたいで嫌だし。でも、彼女はきっと、今でも変わらずに前だけをみて、毎日一生懸命楽しんで生きているのだろう。彼女は僕のことを、きっと思い出すことなんてほとんどないんだろう。そう思うと、なんだか……。すっごく……虚しい気分になるんだ」僕の口調が次第に弱々しくなっていくのがわかった。
「終わり方があんなのだったから、僕自身、納得していないんだと思う。次の一歩を踏み出したくても、何をしたいのか、何をすればいいのかが、わからないんだ」
『やりたいこと、好きなこともわからないまま、生きている人』
川端さんの言葉が脳裏によぎった。
「僕は、夢を持つことなんてまだまだみたいだ。当事者には到底なれそうにない」
「当事者?」種田が聞いた。
「中野から聞いた話で」
「ああ、幸せになるには当事者がどうこうってやつね」
種田は合点がいったようだ。
中野は何も言わずにすこし気恥ずかしそうに黙ってジョッキを口につけた。
「もう桐村のことは忘れろって」
種田が落ち着いた口調で諭すように言った。
「誰だってそんなもんだろ。みんなそういうものを引きづったまま、無理矢理次の一歩を踏み出しているんだ。それで世間には何もなかったように涼しい顔を見せているもんだよ」
「そうなのかなあ」
でも僕はそれはちょっと嫌だなと思った。納得せずに次のことに移ることは僕にはできないだろう。したくない、と純粋に思った。
「でも僕は、世間がそうだとしても……」
言い返そうとしてやめた。種田に言ってもきっと意味のない言い合いになって答えがでないだろうと思ったからだ。
「惜しいところまで来ている」
突然中野が言った。
「だが、久保田は少し勘違いをしている。確かに夢ってのは、とても大事なものだ。当事者になるための必要条件だといえる。だが夢の本質とは、今の自分が未来を切り開くためのものなんだ。俺の言う当事者足りうる夢とは、ドリームではなくビジョンのことだ。そこを勘違いしてはいけない。なりたい職業や将来の目標のことだけではないんだよ。すごく小さいことでもいいんだ。繰り返し言うが、今次の一歩を踏み出すために久保田に必要なのは、具体的に道筋がはっきりとしたビジョンだ」
そうか。ビジョンか。川端さんの山の例えに当てはめると、大切なのはどの山頂を目指すのかではなく、どうやって山頂まで登るのかの具体的なビジョンが大事なんだということか。
自分が如何に今まで何も考えずに生きてきたのかを指摘されているようで、情けない気持ちがどんどん大きくなってくる。
「そうだよな、ありがとう。ごめん、せっかくのお酒の席なのに。くよくよばっかりしてさ、こんなの男らしくないよなあ」
男らしくない。自分で言った言葉が跳ね返って胸に刺さる感じがした。
「でも、好きになった一人の女を。そんなにすぱっと忘れられるものかなあ」
言葉が止まらない。これもアルコールのせいだろう。
「未練が残ってるってこういうことなのかなあ。固執しているわけでもない。執念深くってのも、それはそれで違う。もちろんストーカーなんてしないけど、でもなあ!」
僕は一体、今の僕は一体なんなんだよ。
「あああ! もうわっかんねえ!!」
僕は数センチばかり残っていたビールをぐいっと喉に押し込み、勢いよくジョッキを置いた。響かないくせに、威勢のいい音が鳴った。ジョッキにはリング状に泡が残っていた。
悔しかった。自分自身が。何も知らない。何も出来ない。どうしたらいいのかもわからない。そんなもやもやを机にぶつけるしかなかった。
「男らしさって、なんだろうな」
中野がぽつりとつぶやくのが聞こえた。




