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9月30日
雨が止んでよかった。
僕は学校の自習室で勉強を終え、中庭へ向かった。今日は彼女と一緒に帰るために6時半に待ち合わせをしていたのだ。中庭に出る廊下からベンチに座っている彼女の姿が見えた。彼女は足の間に両手で携帯を握り、ぽけえと空を眺めていた。その姿は何となく寂しそうな人形のように見えた。
小走りで駆け寄る僕を見つけると、彼女はいつもどおりの愛嬌たっぷりの表情になったので安心した。
「涼しくなってきたね」と彼女は言った。
二人で学校の門をくぐる時にはすでに辺りは暗くなっており、もう夏のようなまとわりつく暑さは残っておらず、日が落ちれば風は涼しく吹いて心地良いくらいだった。ひぐらしの合唱の中、季節の移り変わりと共に時の流れの早さを実感した。
「今日、遠回りして帰らない? 赤瀬川の横を通って帰りたいんだ」
彼女は柔らかく微笑みながら少し間をあけて、「いいよ」と言ってコクンと頷いた。
受験まであと三ヶ月。明日から10月だ。予備校の講師いわく10月からは「受験勉強の最後の追い込み」らしい。
9月の頭にあった模試は、秋月に合格なんて程遠い点数をとってしまった。僕は模試で秋月の偏差値を上回らなかったら彼女と会わずに、メールや電話も極力減らそう、と約束していた。頭を受験の事でいっぱいにして、生活の中心を受験に置くのだ。
今日は彼女を隣に置いて歩く最後の日だった。クリスマスイヴを残して。
そして今日は、いや今日こそ、僕から彼女へ言いたいことがあった。
赤瀬川沿いの道は人気が少なかった。たまに自転車に乗ったサラリーマンらしき人にすれ違うくらいだ。街灯は少なくて暗い。この暗さのおかげか、それとも昨日の雨のせいか、遠くの景色まではっきり見える気がする。周りの家々には明かりが灯り、近くの家からは夕食のおいしそうな臭いが道路にまではみ出していた。
赤瀬川には川に沿って桜が等間隔に植えてある。春には綺麗な桜並木道になるのだろう。入学式の帰りにでも、彼女と花見がてら歩いて帰りたいなと思った。
「ねえ。肇君」
彼女は僕を呼んだ。
「うん? どうかした」
「なんで傘持ってるの?」
僕の左手の傘を指でさして彼女は尋ねた。
「昨日の雨、昼には止んじゃったからさ、持って帰るの忘れてたんだ」
「……ふーん」
僕は傘で地面をカツカツ叩いて歩いた。川の音と、虫の音と、足の調子に合わせてカツカツと鳴る傘の音が合わさって、小さな合奏になっているように思えて小気味良かった。
僕達はしばらく無言のまま歩いた。黙って並んでいても気苦しさは感じない。むしろ不思議と居心地がよくて、安心する。おそらく彼女も同じように思っているだろう。このまま黙っていても、彼女が気まずいだとか思うことなんてないとわかっている。
「傘もってあげようか?」
彼女が言った。
「え? うるさかった?」
「なにが?」
「何がって、今なんか良いリズムになってなかった?」
「え?」
彼女は僕を見上げるように、小動物的な愛くるしさでこちらを見つめた。彼女には僕達が奏でる合奏は全く耳に届いていなかったらしい。少しがっかりした。
「いや、なんでもない。……傘くらい自分で持つよ。愛菜ちゃんの荷物、教科書いっぱい入ってて重いでしょ」
彼女の肩にかかった鞄は教科書の形に四角くなっていて、見るだけでずっしりとした重量感が伝わってくる。
「遠慮しなくていいから」
「いや、いいってば。女の子に荷物持たせられないよ」
彼女に手荷物はなかったが、さすがに女の子に荷物を持ってもらうとは情けないではないか。恋愛経験乏しい僕でもそれくらいの良識はある。
「傘と鞄を両手に持ってるって変だよ!」
彼女はさっきより声を大きくして言った。
「なんで? 片方の手に両方共持つほうが変じゃない?」
そう言うと彼女は何も言わなくなってしまい、またしばらくの沈黙になった。一体何をそんなにムキになっているのだろう。数ヶ月一緒にいてもまだこういう理解しがたい彼女の部分が見える。
僕はまた傘のことを言われないために、傘の真ん中の方を掴んで地面と当たらないように持って歩いた。
また黙って歩いていると、川の音だけがやけに大きく聞こえた。しかし聞こえるのは川の音だけではない。家の中の話し声、鈴虫の合唱、遠くで鳴る踏切の音。静かになると普段は聞こえない色んな声が聞こえてくるのだなと思った。
もうそろそろ橋にさしかかりそうな、そんな時、彼女は唐突に僕の傘をひったくった。僕は驚いて 「何? どうしたの?」と聞いた。
すると彼女は無言で右手をそっと僕の左手に絡めた。なんだ、そういうことか。
「手、繋ぎたかったんだ」
「……うん」
彼女は下を向いてしまい、表情が見えなくなってしまった。彼女の小さな手はぎこちなく力を入れて僕の手を握った。
そう。僕はいつもこういう瞬間に気付くのだ。
僕は用意していた言葉を不自然にならないように慎重に頭の中でなぞった。そして照れて声が上ずったりしないように気をつけて言った。
今こそ、種田に言ったココぞという時なのだ。
「愛菜ちゃん」
「なに?」
彼女はまだ恥ずかしがって、目を合わせてくれない。
「今日は何の日か知ってる?」
「今日? えと、9月最後の日?」
彼女は地面を見ながらふふふと桃色の頬を緩ませた。
「そうだね。明日からもっと勉強頑張らないと」
「大丈夫。肇君ならぜーったい合格出来るよ」
彼女はこちらを見ていつもと変わらない笑顔でそう言った。
僕はそれを見て「ごめん」と暗く呟いた。
今日が最後の日なんだ。
僕は辛い。これから3ヶ月近く会えないなんて耐えられるだろうか。彼女も僕と会えなくなるのは辛い。それをお互い分かっているのだ。
それでも彼女はいつもと変わらずに僕を元気づけてくれる。それが情けなくて、意気地がなくて、不甲斐ない。
「もー絶対大丈夫だよ。暗くなっても仕方ないじゃん」
彼女は柔らかい手に力を入れて「で、今日は何の日なの?」と尋ねた。
暗くなっても仕方ないか、その通りだ。
「今日はね、中秋の名月なんだよ。ほら」
僕はそう言いながら、斜め45度くらいに人差し指を付き出した。
僕の指の先には大きな月があった。それは綺麗な真円を描き、真っ暗な夜空に浮かぶ秋の月だ。昨日の雨のおかげで空気が澄んでいるからか、クレーターがはっきり見える。今日の月は別世界の物のように幻想的で、夢のように絢爛と輝いている。
「ほんとだ……まんまるだね」
彼女は左手の人差し指で小さく丸を描いた。
「この中秋の名月を二人で見たかったんだ。」
「肇君って、ロマンチストだよね」
彼女はぷくぷく笑ってから、綺麗……と月を見ながら呟いた。
「二人で、秋月大学に絶対合格しよう」
「ええーダジャレ~?」と彼女はからかうように笑った。
そして僕はここぞとばかりに、用意していた台詞を紡ぐ。
「今夜は月が綺麗ですね」
彼女は楽しげに笑って僕を見た。
そして体を近づけて、僕の左腕辺りに頭を預けながら、彼女は言った。
「私は星も綺麗だよ」
そしていたずらに笑った。
夏目漱石の逸話を知っているのかどうかは定かではないが、彼女の多感で華奢な感性に触れられた気がして僕は嬉しくなった。
「ホントだね」と言って、僕達は空を見上げた。
暗さに目が慣れてきたのか、普段は見ない量の星が空に浮かんでいた。それを確かめるように僕達はしばらく二人揃って空を見上げて歩いた。
きっと二人共口が半開きのままで歩いていて、おかしな光景になっているだろう。
「ちょっとすかしたこと、言ってもいい?」と僕は言った。
「うん、聞かせて」
「星空を見るとどうしても考えてしまうんだ」
彼女が不思議そうな目でこちらを見ているのが肩越しに見えたので、そのまま言葉を続けた。
「夜空に浮かぶ近い点同士がさ、それぞれ線で繋がっていて、大きな星座を作ってる。おれはオリオン座だ、白鳥座だ、とか言って。でも、あんなにすぐ隣同士に見える点がさ、実際はすごく遠い距離にあったりするんだ。光の早さでも何百年もかかるほど遠くにあったりするんだ」
「うん、不思議だよね」
「そう思って星空を見ていると、人間同士もさ、似たようなところがあるよなーって」
彼女をちらりと見てみると、口に笑いを溜めるようにプクプクと笑っていた。
僕はやっぱりキザすぎたかな、と後悔して苦笑いした。「あ、ちなみに僕達の点は赤い線で繋がってるけどね」とは流石に恥ずかしくてもう言えない。
笑いが収まると、彼女はこう言った。
「じゃあ私達の距離は?」
「え」
「私達、隣同士を歩いてるけど、実際は遠い場所にあったりする?」
彼女は見定めるようにまっすぐと僕を見た。
これは墓穴を掘ってしまった。どうしようか。難しい質問だ。何と答えれば彼女は納得してくれるだろう。僕は答え方がわからずに詰まってしまい、すぐには答えられなかった。
「15cm」
そんな僕を見かねて、彼女が不満そうに口を曲げながら言った。
「……何が?」
「肇君と、私との目線の差」
「ああ」
彼女は僕の左手を子供みたいに揺らした。
「15cm、頂戴。今すぐ」
「何をまた無茶なことを……無理だよ」
困った。
「15cm!」
なだめようとしてもブーブー文句を垂れている彼女に耐えかねて、僕は彼女を歩道の縁石に立たせた。
「これでいい?」
僕は思っていたよりぶっきらぼうな口調で言ってしまった。
縁石に立たせると、僕と彼女の目線はほとんど同じになった。月の光に照らされた彼女の眼の奥に、中秋の名月が見えるような気がした。
彼女も僕を見ていた。僕は引き寄せられるように彼女の頬に手を添えて、輪郭を指で撫でてみた。
ロックされてしまった視線はもう外せない。
彼女は満足げに笑ってから
「これはいいね」と言った。
その彼女の息が触れた後、僕は彼女にキスをした。そして彼女はたわいのない笑顔のままこう言った。
「これなら背伸びしなくても、キスできるね」
そして僕達はバカみたいに二人で笑いあった。
これは誓いのキスだ。
これからはもうほとんど会えなくなる二人が、互いの夢を叶える誓いのキスなんだ。
彼女が顔をくしゃくしゃにして笑っているのを見て、クリスマスイヴまではこの笑顔はお預けか、と僕は思った。気が遠くなるほど長いが、全ては彼女のためだと思えば、何ヶ月でも待てるだろうと思えた。




