12 淡い想い
少し関係が前進・・・ほんの少しだけね。
体が弱かったマリアンヌは幼いころから長い間、王都から離れた穏やかな地で療養生活を送っていた。
成長するにつれ状態も段々と安定したが、療養地から完全に戻ってこられたのは14歳の時だった。
運動や外出をだいぶ制限されていたマリアンヌの趣味は刺繍や読書、そしてお菓子作りだ。
貴族の子女は厨房に立つことはしないのだが、郊外に暮らしていてすることもできることもあまりない中で、家族のように過ごす料理人に簡単なクッキーを教わったのがきっかけで、マリアンヌの趣味に菓子作りが加わった。
王都に戻ってきてからも菓子作りは続け、結婚してからは偶数月に近くの孤児院へ材料を買って行き、院の子どもと一緒に作ることをしていた。
ユリアーヌが手伝える歳になってからは、二人で行く楽しみごとでもあった。
二人で次回は何を作るかを話し合って試作し、材料を揃え届けさせる。
マリアンヌもユリアーヌも、全身粉だらけになって懸命に作る子どもたちが大好きだ。
今回はユリアーヌが仕事を始めてから、初めての孤児院の訪問になる。
残念ながらマリアンヌは朝に熱を出してしまったので、ユリアーヌが一人で行くことになった。
仕事を始める前であったのなら孤児院への訪問を次週にでも変更してもらうだけでよいのだが、ユリアーヌの勤務と孤児院の予定を調整していたら随分と先になってしまうだろう。
「お母さま、行ってきますね。」
そろそろ出掛けようと馬車の準備を頼むと、主にユリアーヌの御者をしているヨハンはつい先ほど家族のケガの知らせを受けて一時帰宅したと執事が言う。
この日父アーノルドも急な用が入り馬車で出かけてしまい、オルスター家で今すぐに出発できる馬車はなかった。
ヨハンを待つよりは早く出かけられるとの判断で、どうにか馬車の手配をするという執事を押し切り、ユリアーヌは乗合馬車を利用して孤児院へ向かうことにした。
供をすると言う執事や侍女を「母に付いていて欲しい」と宥め、大通りまで数分歩いて出て馬車を待つが、時間を過ぎても馬車が来る気配がない。
「辻馬車にすればよかったかしら。」などとひとり小声で漏らしながら、今か今かと待っている間にも子どもたちの顔が浮かび、気持は焦る。
その時黒い馬がユリアーヌの前を通り過ぎた…と思ったら、少し先で止まって馬上の人が振りかえった。
視線を感じて馬上の人に目をやると、目が合った。
馬に跨っていたのはリカルドで、その顔は少し驚いてはいたが声を掛けてきた。
「ユリアーヌ殿ではありませんか。こんなところで何を?」
「まあ、隊長さん。それが乗合馬車を待っているのですが、いっこうに来なくて。」
ユリアーヌが困り顔で言えば
「少し前にこの手前で脱輪事故があったのです。今しがた私も見てきましたが、馬車が走行不可能なので代わりの馬車が来るまで足止めと言った感じです。」
ユリアーヌは今日に限ってついていない…と顔を曇らせていると
「どちらまで行く予定なのですか?」とリカルドが聞いてきたので「アシャンテ孤児院です。」と答えた。
少し驚いた様子を見せたリカルドだったが、
「私は仕事に向かうにはまだ時間がありますし、通り道でもあるのでお送りましょう。」
と馬上から手を差し伸べる。
普段のユリアーヌなら何としても断るのだが、いつも笑顔で迎えてくれる孤児院の子どもたちの顔が頭を過り、残念な顔は絶対にさせたくないと思った。
「お言葉に甘えて、お願いしてもよろしいですか?」
気が付いたらその言葉をリカルドに向けて言っていた。
荷物は小さな包みが一つだったので先に馬上のリカルドに手渡す。
それから鐙に左足を掛けるように言われたので掛け、両手を掴まれながら「いち、に、さん」の掛け声でリカルドに引っ張り上げられる。
するとふわりと体が浮かび持ち上げられて鞍の上、リカルドの前のスペースに横座りさせられた。
「荷物を抱えるようにしてから、馬の鬣か鞍の縁を掴むといい。安定する。」
大きな馬に乗って公道を行くのは初めてだったので「はい。」と言って、荷物を腕と体の間に挟むように抱え、それから両手で鞍の縁を掴んだ。
リカルドはユリアーヌの小さな体を、自身の大きな体で抱き込むようにしてから手綱を持った。
ユリアーヌの背中にリカルドの上半身が隙間なく付いていて、頭のすぐ上にはリカルドの顎がある。
おまけに丁寧な言葉遣いだった話し言葉も、いつの間にか親しげな言い方に変わっている。
そんなことを意識してしまうとユリアーヌの心臓はバクバク、顔も耳まで真っ赤になった。
「では出発するぞ。大丈夫そうか?」
「は…、はいっ。」
リカルドの合図を受けて馬はゆっくりと歩き始めた。
大きな馬に乗ったのも初めて、男性にこんなに近く身を寄せたことも初めてで、体は緊張でガチガチだ。
「そんなに体を強張らせないでも大丈夫だ。これは優しい馬だし、絶対に落馬はさせない。」
と言われるも、体が強張ってしまうのだから
「でっ、できませんっっ!」
と正直に答えた。
その言葉に頭上にあるリカルドの口から笑いが漏れた。
暫くすると安定したリズムで歩を進める馬に慣れて、緊張も解けてきた。
すると周りを見る余裕も生まれて、見える景色がいつもと違うことに気付いた。
爽やかな風が頬を撫で、ユリアーヌの艶やかな髪を揺らす。
「馬車とは全く違うのですね。」
「そうだな。乗馬は初めてか?」
頭上からリカルドの低い声がする。
「子どもの頃に小型の馬で練習を始めたことがあったのですが、一緒に習っていた子の上達があまりにも早くて…。そのうち乗馬はしなくなりました。」
「そうか。まあ女性は乗馬ができなくても特別困ることはないからな。むしろ乗馬ができなかったことで、今日は私の馬に乗せることができたのだから私にとっては良いことだった。」
落ち着いた雰囲気と女性を心地よくする言葉を使うリカルドに、大人の男性を意識させ少し落ち着かなくなる。
「急いでいたようだったが、孤児院に何か約束でも?」
「ええ、今日は子どもたちとお菓子を作る日なのです。母が行けなくなってしまったうえに、私までとなると今日のお菓子作りは中止になってしまいます。みんなのがっかりした顔を想像しただけで胸が痛くなりました。」
「では今日の私はとてもよいことをしたのだね。子どもたちの笑顔を守ることができたのだから、騎士としてこれ以上の褒美は無いよ。」
ユリアーヌはその言葉を聞いて、リカルドの優しく実直な人柄を感じた。
「あっ、あの…アーバンヒル隊長さんはお菓子はお好きですか?」
気がつけば、頭で考えるより先に言葉が出ていた。
「あまり甘過ぎるのは得意ではないが、嫌いではない。仕事柄よく腹も減るし、疲れているときの甘い物は疲れが取れる。」
リカルドのそんな言葉にユリアーヌは少し安心して、
「では今度、今日のお礼をさせてください。」
ユリアーヌが誰かのために作る菓子は、家族か孤児院に宛てたものだった。
特定の人や、まして異性になど今までしたことはなかった。
孤児院の近くに着いたので「この辺りで。」と降ろしてもらう。
リカルドが先に馬から降り、ユリアーヌに向かって両手を広げる。
「鞍から腰を滑らせて降りるといい。大丈夫、受け止めるから。」
馬上から見下ろした地面の遠さに少し戸惑ったが、リカルドに言われたようにえいっと降りてみる。
リカルドの手がユリアーヌの脇に差し入れられ、そのままリカルドの胸に引き寄せられた。
彼の制服の襟元に付けられた魔導師を表す青いバッチが鼻先をかすめた。
ユリアーヌは足のつかない不安定さに、思わず彼の首に両腕をまわしてしがみ付いてしまう。
背の高いリカルドが屈んでくれたので、やっとユリアーヌの足先が地面に着いた。
足に地面を感じ「ごめんなさい!」と顔を上げれば、お互いの顔が至近距離にあった。
真っ赤になったユリアーヌは彼の首に回していた腕を慌てて外して2歩ほど離れ、恥ずかしさに俯いたまま「ありがとうございました。」と言った。
「では、私も仕事に行くので失礼するよ。」
その言葉を聞いてユリアーヌがやっとのことで顔を上げると、彼は既に馬に跨って通りの方に馬首を向けていた。
ユリアーヌに背を向けたまま、リカルドは右手を挙げた簡単な挨拶をする。
常に冷静沈着で厳しいと部下に恐れられているリカルド隊長の顔が耳まで真っ赤だったことは、遠くなる背を見送るユリアーヌに気付かれることはなかった。




