誕生日プレゼント
朝が苦手という人がいる。朝は起きられない、と。
低血圧でもないのに、朝は起きられないから苦手という人がいる。低血圧が朝起きれない理由にならないという話は僕なんかでも聞いたことはあるけれど、そんなことはどっちでもいい。要は何かしら健康上の理由もないのに朝が苦手という人がいるということだ。
正直、僕にはあまりその人の気持ちは分からない。
そもそも分かろうとも思わないけど。
そんなことを言うとまた親から、先生から、クラスメートから、「相変わらずお前はひねくれているな」と言われるだろう。いや、もしかするともうそんなことを言ってくれる人さえもいないのかもしれない。まぁ仮に、言ってくれる人がいるとして、別に彼らは悪意があってそう言うわけではない。『悪』というならば、僕が本当にひねくれているのが悪いのだから……。
こんなことを考えている時点でもうひねくれている。大人になってこんなことを言っていたらすぐに社会不適合者の烙印を押されるだろう。いや、まだ成人していないとはいえ、僕の年齢的に考えればもう遅いのかもしれないが。
えーっと……何の話をしていたんだっけ?
そうだ、朝の話だ。人間は本来、日が落ちると眠くなって、日が昇ると目が覚めるらしい。そう、人間は決して夜行性ではないのだ。フクロウとは違い、猫とも違い、吸血鬼とも違う。日が昇る時間帯に活動して日が沈むと眠る生き物なのである。
ならば、何か特別に理由のある人は別にして、健康な人なら朝日が昇り、太陽の光を浴びれば自然と目が覚めるのではないだろうか。もし朝日を浴びても目が覚めないというのなら、それは日が沈んだのに眠らなかったのだと――人間という生物らしからぬ行動をしたのだと――そんな風に考えても仕方がないだろう。
だから僕は、毎晩ちゃんと日が沈んだら寝て、昇りはじめたばかりの、新鮮な日の光を浴びて起きることを目指している。それが本来の人間のあるべき姿で、動物としての本能だと思うから。
でも世界はそんなに優しくない。実際に今の世の中、日が沈んですぐにとは言わずとも、夕食をとるくらいのことだけをして眠ることは中々難しいだろう。朝日が昇るのと同時に起きるのは褒められることであるのに、日が沈んですぐに眠ることは、僕くらいの年齢になってくると、何かをさぼったり、とにかく努力していないように思われがちだ。事実、やるべきことというのをやっていたらそんな時間には眠れない。この世界に日が沈んですぐに寝られる人間がどれほどいるというのだろうか。
僕にはそれがまるで、世界が、僕が人間であろうとすることを邪魔しているようにしか思えないのだった。
そんなよくわからない、ひねくれた被害妄想のようなことを考えて眠っていた翌日、僕はいつも通り全開のカーテンから差し込む朝の陽ざしを浴びて目を覚ました。夜はダメでも、朝くらいは少しでも人間でいようと思う。そのためにも僕は毎晩寝る前に必ず部屋のカーテンを全開にして寝る。そうすれば必ずそこから差し込む日の光が僕を眠りから覚ましてくれるからだ。
そうしていつも通り気持ちの良い朝日を浴びて目覚めた朝。昨日が六月十二日だから、今日は六月十三日ということになるだろう。実を言うと僕の誕生日であるわけだが、もう誕生日でそこまではしゃぐような年齢ではない。ましてや、僕はそんな人間ではない。それに、僕の誕生日を祝ってくれる友達なんていないだろう。いや、友達と呼べる存在が僕にはちゃんといるにはいるのだが、確か教えたことなど一度もない気がする。だから今僕のスマートフォンには深夜の十二時きっかりに誕生日を祝うようなメールが届いてもいないだろうし、これから学校に行ったところで特に何も言われないだろう。
別に悲しくはない。だってこんな悲しみなんて世界中にあふれている悲しみと比べたら無きに等しいものなのだから。そう、世界は悲しみ溢れている。ネットやニュースを見ればいたるところで殺人事件だの強盗だの放火だの……よくもまぁこんなに人間の醜い部分を見せつけてくれるものだ。そして比較的平和なこの日本だけでもそんな有様である。一体海外ではどれほどの悲劇が日夜繰り広げられているというのか。
それを知るためというか、知っておかなければいけないような気がして僕はたびたびネットでそんな出来事を探したりする。見たところで平凡な高校生である僕にできることなんてないのだけれど、なんとなく目を背けてはいけない気がするのだった。いや、もしかしたらそれを見ることによって自分の幸せをかみしめているのかもしれない。
自分よりも不幸な人を見て幸せを感じるとは全く持って人間らしく醜い行いだ。
しかしそうすると、これといって趣味のないつまらない人間の僕なのだがこればかりは趣味と呼んでいいのかもしれない。いやはや全く持って趣味の悪い。
さてと、せっかく毎朝新鮮で気持ちの良い光を浴びせているのに、朝っぱらからそんな暗いことを考えられては太陽としてはあまり気持ちの良い話ではないだろう。そろそろこんな思考もストップだ。そのうち僕のせいで太陽がボイコットしたらどうしようか?
恐らく太陽から無駄な心配だと言われることだろう。
まぁとにかくそんな朝、僕がめでたく十八歳の誕生日を迎えて生意気にも人間なんて醜いものだとか考えていた朝。体を起こし、朝日のまぶしい窓から外を覗いてみると――世界が崩壊していた。
世界が崩壊したとは一体どういうことかと思うかもしれないが、実際のところは僕にもよくわからない。ただ、漠然と、僕の知っている世界はもう壊れてしまったのだということが、自然と不自然に頭で、いや、心で理解できた。世界中がこんな風になっているのかなんて分からないはずなのに、なぜか僕の心は世界が崩壊したことを確信していた。
まるで本当は知っていて今思い出したみたいな感じだ。いや、昨日まで世界は汚く醜く残酷に平常運転だったのだからそれはおかしいか……そうだな、やはり知らないはずなのに知っているといったところか。
簡潔に言うと、実際に世界は崩壊していて、僕はその事実をどうしてだか知っている、と言うのが一番正しい。まるで誰かに知識を無理やり植えつけられたような気分だ。
いや、もしかするとただそうなっていて欲しいと思っていただけかもしれないけれど。
世界が崩壊していて欲しいと願っていただけかもしれないけれど。
あんな世界、一回壊れてしまったほうがいい、と。
僕の部屋は学生寮の二階で、それゆえに見晴らしもそんなによいというわけでもないのだが、周りに背の高い建物が少ないせいか町の様子はそこそこ見渡せる。
窓からのぞく景色は町中が緑に覆われていた。建物はほとんど蔓状の植物に覆われており、しかしその植物は不自然にも、窓やドアといった、覆われてしまっては困る部分を避けて壁だけを覆っていた。いや、壁も覆われては困るには困るのだが……。
コンクリートやアスファルトで覆われていたはずの地面も、あたり一面植物に覆われている。植物の背丈はそれほど長くはなく、長くてもせいぜい足首くらいまでといったところか。
僕はどうしてかいたって冷静だった。まだ現状がうまく呑み込めないでうまく頭が働いていないのかもしれない。それともそもそも、前の世界がそんなに好きではなかったから世界が崩壊しようがどうしようがどうでもいいと思っているのかもしれない。別に理由なんてどちらでもいいが、後者のほうの確率が高そうだ。
それにしたって、外に全く人がいないのが気になる。朝の早い人はこんな時間でも起きていていいはずだ。これでは世界が崩壊したことと相まって僕以外の人間は全員いなくなってしまったのではないかと心配になってしまう。いくら人付き合いが苦手といっても僕も人間である以上は一人で生きていける自信などない。人間なんてそんなものだ。どれだけ周囲から浮こうが、どれだけ一人で過ごそうが、人間として生きている以上は必ずどこかで誰かとつながっている。逆に世界で一人になればきっといともたやすく死んでしまうことだろう。特に僕みたいに何事にも執着心の薄い人間は、自分の命にすら執着せずに自ら命を絶ってしまうかもしれない。そうなる前に、さぁ誰か家から出てくるんだ。と適当に祈ってみた。
そう祈っていると、僕の祈りが通じたのか近くの一軒家から男の人が出てきた。あたり一面草だらけという今の光景には全く合わないスーツ姿だったが、きっと会社に行く準備でもしていたのだろう。会社に行く準備をしていたら異変に気付いて、そのまま会社用のスーツを着て出てきた。そういった風に見える。
男は挙動不審に周りを確認しながら、本来ならばアスファルトの車道があったはずの雑草の上を不思議そうに歩いている。時折地面の何かを確かめるように足踏みしているのがなんとなく滑稽だった。そしてそんな男を皮切りに、ほかの家からもちらほらと人が出てきた。そのほとんどが男性で、私服を着た者、最初に出てきた男同様にスーツ姿のもの、中にはジャージで出てきている者もいた。
そこで僕は気付く。最初の一人に対して後から出てくる人間の数が多すぎる。きっと後から出てきた人々は何が起こったのかよくわからない状態で外に出るのが怖かったのだろう。それで一人が出てきた瞬間に彼らも出てきたのだ。そういう意味では、初めに出てきた男は勇気ある者と呼べるかもしれない。しかし同時に愚かともいえるだろう。なぜなら一番に外に出てきたところでいいことなんて何一つないのだし、むしろ自分に危ないことが起こる確率が増すだけだからだ。
そんな勇気があるのか、それともただ単に何も考えず家から出てきた愚か者なのかよく分からない男の周りに、あとから出てきた人たちが集まって何やら話している。奥様方の井戸端会議男版といったところか。
早朝だというのに、この異変のせいか人は意外と多かった。
それにしても、これだけの人が起きていながら家の中でじっとしていたのか。その人たちは、誰かが外に出て安全を確認してくれるまで自分は比較的安全であろう家の中で様子をうかがっていたのだ。
そういえば、国語の授業で、ファーストペンギンの話を聞いたことがある。南極だか北極だか忘れたが、ペンギンの群れが海の前で押し合いっこのような、海に飛び込もうとして途中でやめたりといったような、そんな動きが観察されるらしい。これが一見愛らしく見えるのだそうだが、実はペンギンたちはお互いに牽制しあっているだけであるらしい。一体何を牽制しあっているのかというと、海の中には当然シャチなどペンギンを捕食するものがいて、それらの捕食者が海の中に潜んでいないかどうか確かめないうちにはどのペンギンも海に入りたがらないらしいのだ。それは生き物として当然のことであるが、それを知ってしまったらもうその光景を見て愛らしいとは思えないだろう。
少なくとも僕はもうその光景を見ても愛らしいとは思わない。だったらせめて、その光景を見て愛らしいと思ってからこの事実を知りたかったものだ。
そして一番初めに飛び込んだペンギンをファーストペンギンと呼ぶのだそうだ。そしてアメリカかどこかでは、危険があるかもしれないことに初めてチャレンジした人を称えてファーストペンギンと呼ぶことがあるとかないとか。
だが残念なことに今回、あのスーツを着たファーストペンギンを称賛するものはいないだろう。こんな状況で、「何があるか分からない状況で、外に出て安全を確かめて下さってありがとうございます」なんて言う人は万に一つもいるまい。
全く持って都合のいいやつらだ、と思ってしまう。しかしそんなことは口が裂けても言えない。思いはするけど。なぜならそういう僕だって、家の中からその様子を眺めている一人なのだから。
誰かが危険を冒して安全を確認してくれるのを待つという、卑怯ともいえる行いを、さも当たり前のように、もしかしたら無自覚でやってのける人間に、僕は醜さを感じる。そしてそんな人間と同じ自分が、たまらなく嫌いになりそうだ。だからといって、ファーストペンギンになろうなんて全くこれっぽっちも思わないのだけれど。
何よりも己の生存と繁殖を考える動物たち。その姿は人間の目に決して愛らしくは映らないがそれ以上に何か、シンプルで明快な、ある種の崇高さすら感じさせる。そんな中で初めに海に飛び込んだファーストペンギンは、一体何を考えて海へとその身を投げ出したのだろう? 案外、今現在外で行われている会話の中心にいる、あのスーツの男と同じような考えかもしれない。
大人たちは多分、今後のことについて話し合っているのだろう。いや、きっと今後ではなく、今の話をしているに違いない。『今』の『後』ではなく、『今』の話を。すなわちこれがどういう現象で、一体何が起きたのかという話をしているに違いない。きっと今の彼らには、今後のことについてなんて話し合えないと思った。なぜなら、彼らは今がどういう状況なのかも理解できていないからだ。
いや、理解できていないというのは正しくない。きっと彼らもまた僕と同じように心の中では分かっているはずだ――この世界は崩壊したのだと。いくらなんでもこの不思議な確信が僕のものだけとは限らないだろう。きっと世界中の全員が感じているはずだ。僕なんかが世界の崩壊に気付けたただ一人の選ばれし人間だなんて思っちゃいない。そんな思い上がりは甚だしい。
さてと、世界の崩壊を確信している心をあの大人たちが共有したとき、そんな状況に対して一体どのような行動に出るのか、そのことに関しては何事にも興味の薄い僕でも興味を持ってしまうところだ。
いつまでこうして僕が外の様子を眺めながらうだうだ思考を巡らせているのかというと、はっきり言って僕は未だに外に出る気はない。あの話し合いに参加できるとは思えないし、参加する意味もない。というより今外に出たところで、子供は大人しく家の中に居ろとでも言われるのが関の山だ。
ということで、普段は絶対にしない二度寝というやつに挑戦してみようかと僕が謎のチャレンジ精神を発揮したところ、家のチャイムが鳴った。ピンポーンと、ありきたりで聞きなれた音を聞いて玄関まで行き玄関の前に立っている人物を確認する。うちのインターホンにはカメラはおろか電話すらついていないので、のぞき窓から確認する。のぞき窓という名称が正しいのかは僕の知るところではないが、ドアについている丸くて小さなガラス製のあれである。
とにかくその、あんなに小さいのに玄関の前が確認でき、かつ向こうから中のほうは見えないという、実に便利だがよく仕組みの分からないのぞき窓から玄関の外を覗くと、見知った姿が目に入った。どうせ大人たちの話が終わるまではすることなんてないのだから寝かせてくれと、世界が崩壊したとか思っておきながら我ながら緊張感に欠けすぎることを考えていると、ドアがドンドンと叩かれた。
「ちか! どうせ起きてるんでしょ!」
元気な女の子の声だ。
近所迷惑だからやめてくれ、と気にすることはもっと他にあるだろと言いたくなるようなことを考えながらドアを開ける。
ちなみに「ちか」とは僕の名前である。別に「地下」でも「地価」でも「治下」でもない。しいて言うなら――「愛」である。僕の名前は逆神愛という。「愛」だなんて、なんて僕に似合わない名前なのか……だから僕は下の名前で呼ばれるとき、漢字ではなくひらがなをイメージしている。そんなことに一体何の意味があるのかは、僕自身にも分からないのだけれど。
早朝に僕の部屋へと押しかけてきたのは、同級生の女の子である。髪は黒く長さはショート。全体的に引き締まっていてすらりとした体型からどこかボーイッシュな感じを漂わせているが、顔は案外かわいい女の子で、さらにその明るく元気な性格からかなりモテるらしい。告白されたという噂もよく耳にする。そう言った話に全くと言っていいほど興味も縁もない僕が知っているのだから本当に相当モテるのだろう。ちなみに今のところ全員ふられてるとかなんとか。全員「ごめんなさい」の一言で切り捨てられるのだそうで、理由を聞いても教えてはくれないらしい。申し訳ないとは絶対に思っていなさそうな顔でただただ興味なさそうに「ごめんなさい」というのだそうだ。告白した男たちはそれによって自分が全く持って彼女の眼中にないことを知る。一体彼女の目にはどの男が映っているのか? まぁぶっちゃけた話はっきりとは言わないだけでみんながみんな気付いてはいるらしいんだけど。あらかじめ言っておくと当然のことながら僕ではない。
まぁまぁ、それが誰かは今ここで僕が言わずとも彼女を見ていればすぐに分かることだ。それに彼女の恋愛事情などここでは語るべきことではない。今はもっと、見た目的な部分から説明するべきだろう。
ということでまずは身長の説明から。女子にしては少々高い背丈だが、僕は別段身長が低いというわけでもないので大体僕と同じくらいの身長だ。その女子にしては高めの身長を生かしてかどうかは知らないがバレー部に所属している。名前はむかいあかり。漢字で書くと向明となり、たまに韓国人だと思われることがあるとか。だから呼ぶときは、心の中でひらがなの〝あかり〟をイメージしながら呼んでくれ、とクラスの自己紹介の時に言っていた。ついでに言うと、初めてのクラスの自己紹介で、こんなことが言えるくらい明るいやつだということでもある。
それにしても、いくら緊急事態とはいえわざわざここに直接来るとは思わなかった。なんせここは学校の男子寮である。一応女子は立ち入り禁止になっていたような気がする。高校生で寮に住んでいるのは珍しいと思うかもしれないが、珍しいとはいえあるところにはある。そして僕は愛知県のとある学校、とある男子寮に住んでいるというわけだ。
そしてその男子寮の僕の部屋に突然押しかけてきたあかりに、僕は言葉を投げかける。
「はいはい、起きてるよ。こんな朝早くに一体どうしたんだ、あかり」
「どうしたもこうしたもないよ! 外がすごいことになってるじゃん! 建物も植物がすごいことになってるし」
「うん、だから今は外で話し合っている大人たちに任せよう。それじゃあ、お休み」
僕はそう言って扉を閉めようとする。
会話終了。
「あ、そうだね、子供の私たちは、今は自分の部屋で待機しておくべきか。学校からそのうち連絡が来るよね……ってあれ? その通りなんだけどなんか違う気がする!」
閉めようとしたドアのふちが掴まれて、無理やり開け放たれた。思わずそのまま引っ張られそうになったので慌ててドアノブを離す。
会話終了はできなかったようだ。
「どうしたんだよあかり、落ち着けって。一回自分の部屋に戻って落ち着いて学校側からの連絡を待てよ」
「至極もっともな意見なんだけど、なんかおかしくない? ……そうだ! なんでそんなにちかは落ち着いてるの! いっつもおかしいとは思ってたけど、ここまでとは……」
失礼だなこいつ。
確かに普通ならもっと慌てなきゃいけないところかもしてないけど、どうやら僕は普通じゃないらしく、どうしてかそんなに慌ててなかった。
ていうか正直めちゃくちゃ眠かった。なんせ昨日は夜遅くまで課題をしていたのだ。近々小テストがあるとかでそっちの勉強をしていたら、どうやらその小テスト用に課題が出ていたらしく、そんなことを知らない僕はこれで小テストは完璧だと思えるまで勉強し終わった後にその課題に気付いてしまったのだ。小テストの日と課題の期限は明日で、小テストのために勉強した直後にその小テストの課題をするという、どんだけ小テストに懸けてんだよ的な苦行をしていたのだ。
そういえば、テストで百点を取るには百二十点分の勉強をしなければいけないという話があるが、いや百点取らせろよと僕なんかは思ってしまう。そして今回僕は、百二十点どころか二百点分くらいの勉強をしたように思う。取れるかな? 二百点。いや、百点満点だからありえないんだけどね。
まぁそんな小テストも、世界が崩壊してしまった今はどうでもよいのだけれど……
「いつも僕をおかしいと思っていたことには後で色々言わせてもらうとして、悪いけど今日はめちゃくちゃ眠いんだ。寝させてくれ」
「え? いや……、ちょっと待ってよ。だから何でそんなに落ち着いて――」
と、あかりが言いかけたところで、隣の部屋の扉がものすごい勢いで開いた。
びっくりしたあかりがそっちの方を見ると、開いた扉からスポーツ刈りの、筋肉質な男が出てきた。筋肉質と言ってもゴリゴリなマッチョではなくどちらかというと細マッチョな、僕より何センチか背が高いくらいの健康そうな男である。部屋が隣ということで仲良くしている。名前は隣田寮苗字からリンダという愛称で親しまれている。
そんな、ひねくれ者の僕と友達でいてくれるような優しいやつが、大慌てで部屋から出てきて僕とあかりに気付く。
「おお! なんであかりがこんなところにいるんだ? ……じゃなくて! 外が大変なことになってんぞ!」
「そうだよ、これだよ! これが正しい反応だよ!」
あかりがリンダのほうを指で指さしながら僕の方を見て大声でそう言った。
リンダは一瞬、あかりが何を言っているのか分からないといった風で不思議そうな顔をしたが、再び思い出したように焦った顔になる。
「朝練はどうなるんだよ!」
「あんたもか!」
あかりは外が大変なことになっているというのに全く気にしていない様子の僕と、そんな状況で部活のことを心配しているリンダにあきれかえっている。
リンダは野球部の部長で、青春のすべてを野球にささげているようないわゆる野球バカだ。うちの高校は私立で、スポーツの得意な人や勉強のできる人などが集められている。遠くの方から来た人は僕やあかり、リンダのように寮に住むことになるのだ。ちなみに僕は勉強、あかりはバレーボール、リンダは野球の特待生だ。
「あたり一面草だらけじゃねぇか! グラウンドのほうは大丈夫なのかよ! やべぇ、とりあえずグラウンドのほう確認してから、部員に連絡回すべきか? いや、それより後輩にグラウンドのほう見に行かせて俺は監督のとこに連絡するべきか? だめだ、冷静になれねぇ! ちか! どうすりゃいいと思う?」
「うるさいわねぇ! もうあんたはいいからグラウンドの草むしりでもしときなさいよ!」
「何!? ってことはもしかしてグラウンドのほうも草生えてたのか!」
「しらないわよ! ていうかもっと他に心配することあるでしょ!」
「ほかに? いや、だってあかりもちかも心配なさそうじゃん」
「ちょっ、何言ってんのよ……もう、いきなりそういうこと言うのやめてって言ってるじゃん……」
リンダはこういう、普通の人ならちょっと照れるようなことを平然と、まっすぐに言ってくる。僕はそうでもないが、そのたびにあかりは照れてしまう。
「ていうかあんたは私たちのほかに友達いないのか……」
「う、うるせぇよ」
リンダは痛いところを突かれたというようにたじろいだ。
どういうわけかリンダも僕と同じように友達と呼べる人間は少ないらしい。リンダは野球バカすぎて僕とは違った意味で友達が少ないのだ。友達と遊ぶよりも野球の練習。会話をしようにも野球の話にしか興味はない。そして馬鹿正直な性格。そんなこんなで彼には友達が少ない。別に嫌われているわけではないしむしろみんなから親しまれているくらいなのだが、友達と呼べるような間柄の人間は、もとから友達がおらず隣の部屋だった僕と、地元が一緒で幼馴染みらしいあかりくらいだろう。
「二人とも落ち着こうよ。リンダ、こんな状況じゃ野球どころじゃないし、ここは部屋でおとなしくしておいて学校とかほかの大人たちからの連絡を待つべきだと思う。あかり、だからここはいったん女子寮に戻った方がいいんじゃない? 女子が男子寮にいるって色々まずいと思うし」
完全に落ち着きを失っている二人を冷静にさせようとする。
「お、おう。そうだな……。サンキュー、ちか。やっぱお前はいつも冷静で助かるぜ」
「そう、だね。何でそんなに落ち着いているのかは納得いかないけど、ちかの言う通りだし、私はいったん女子寮に戻るよ」
二人はそう言って、それぞれ自分たちの部屋に戻って行った。
「ふぅ」
数少ない友人を送り返して一息つく。
なんだろう、あの二人と会話した後に一人になると、頭の中が急に暗くなる。
玄関に立ったまま、たまに考えることが頭に浮かぶ。どうしてリンダには友達が少ないのか。こんなひねくれ者の僕と友達でいてくれて、こんな状況で真っ先に心配してくれるようなやつだというのに。もしかして僕と友達だから? だから一緒に周りから変な目で見られているのだろうか? あるのかもしれない。でも、こんなことを言ったらリンダは怒るだろう。きっと、怒ってくれる。あいつは頭が悪いからうまくは言えないだろうけど。そんなこと言うな、と怒ってくれるに違いない。
ついでに言うと、あかりには僕たちと違って友達がたくさんいる。そんな中でも僕たちと仲良くしてくれているのだ。幼馴染みのリンダは分かるが、こんな僕とも仲良くしてくれているのはありがたい。そういえば、僕と仲良くしているのに友達がたくさんいるあかりのことを考えると、僕のせいでリンダに友達がいないということはなさそうだと思った。
まぁリンダに友達が少ないことに僕が関係しているかどうかなんてことは、どうでもいいしどちらでもいいことだ。だって結局は、僕のせいだとしても、そんな僕と仲良くしているリンダの責任ともいえるのだから。物事の責任とは大抵自分にあるものだ。
「全く……数少ない友達に対してこんなこと考えるなんて、ひねくれている……」
「そうだね」
後ろから、少女の声が聞こえた。僕以外には誰もいるはずのない、ほかの誰でもない僕の部屋から。聞きなれた声が。高くも低くもない、いつどのタイミングで聞いても不思議でないような、いつどんな状況で聞いても僕を不快にさせないような、そんな、自然で優しい、聞きなれた声が聞こえた。
「今回は長かったな。もう来ないかと思ったよ、あい」
そう言って僕は、少女の声のする方へと、つまりは玄関から部屋の奥へと進んでいった。声の主の名前は愛。苗字は知らない。そもそもないのかもしれない。それに彼女の名前だって僕がつけた。
初めて会ったとき、何となく自分と同じ感じがした。
名前を聞いたらこう言った、『まだないから、付けていいよ』と。
だから僕は、自分と同じ感じのする少女に、自分と同じ漢字の名前を付けた。
「うん、最近は忙しかったからね。来る暇なかった。それとも、来ない方がよかった?」
そんな自虐的なことを言いながらも、彼女の顔は笑っていた。
僕がそんなことを思っていないと分かっているかのように。
彼女は僕のベッドに腰掛けていた。服装は初めて会った時と同じ、白いワンピース。それ以外は何も身に着けていない。いや、下着はどうか知らないが……。髪は相変わらず黒のロングヘアー。腰まで届きそうなくらい長い。窓から差し込む太陽の光を反射して、全く髪の毛を傷めずに生活してきたのではないかというくらい綺麗だった。年は多分、僕と同じかそれより下。教えてくれたことはないけれど、というより聞いたことすらもないけれど、僕より年上ということはないと思う。あかりとは違って小柄な、かわいらしい女の子だ。
「そんなことないよ。あいと一緒にいるのは、心地いいからね。なんだか、ありのままの自分でいられる」
「うれしいこといってくれるね。ほら、ここ座って。久しぶりにお話しよ」
あいはそう言って、僕が持ち主であるはずのベッドをぽんぽんと叩く。触れれば折れてしまいそうな気さえする、その白い滑らかな細腕で。
僕は言われるがままに彼女の隣に腰かけた。
僕が座ると彼女は足を浮かせ、そのままお尻を中心に回転して、僕の太ももの上に足をのせて横になった。ひざまくらの足と頭の位置が逆になった形だ。
「ひざまくら」
「違う、これはひざまくらじゃない。ただの足置場だ」
「ふふふ、そうだね。でもこれはこれでグッとこないの? 私のきれいな脚眺め放題だよ。何なら撫でてもいいよ」
「自分できれいな脚とかいうなよ」
「でも実際、綺麗でしょ、私の脚」
確かに実際綺麗だった。紫外線なんて全部反射しているんじゃないかと思うくらい白くて、外に出たことなんてないんじゃないかと思うくらい傷一つなくて、人間国宝の職人が作った陶磁器のように滑らかな脚だった。
そんなきれいな脚を見て撫でていいと言われれば、当然男の子であり思春期真っ盛りの僕は撫でたくなるのだが、僕がふれるとそのきれいな脚が穢れそうな気がして、触れることはしなかった。
結局僕は、触れることができなければただ目に毒なその美しい足から目をそらすためにそのまま後ろに倒れこんだ。残念ながら僕のベッドは平均的な身長の男子高校生の膝から上が入るほど横幅が広くないので、体を少し曲げるような体勢になってしまったが。
いびつなL字のまま、僕と彼女は語り合う。
「なぁ、あい、これってお前がやったのか?」
「これって?」
「外だよ、なんかさ、変なことになってるじゃん」
「変なことって何? ちかは、何が起こったって思ってるの?」
あいの表情は見えないが、何となく口調は楽しそうだ。まぁ、僕と話すときはいつも楽しそうなんだけど……
「そうだな……、何となくだけど、世界が崩壊した……って、思うよ」
「ふふふ、そうだね、その通りだ。でもその割には、ずいぶんと落ち着いてるね」
「まぁな、お前も知ってるだろ、僕はこの世界……いや、前の世界か……。あんまり好きじゃなかったって」
僕とあいは、お互いに言っていた。この世界はあまり、好きになれないと。
「うん、知ってる。だから、もう少し嬉しかったり、わくわくしたりしてないのかなって思ったの」
「そういえば、そうだな。でも何だろう、まだ実感がないのかな、あんまり変わったって言う気がしないんだ」
世界が変わったという気は、どうしてだかあんまりしなかった。よくよく考えれば、まだ僕は自分の見知っている部屋から出てないのであって、外の様子は窓から眺めただけなので、実感が湧かないのは無理もないのかもしれない。
「確かに、まだ変わったとは言えないかもね。でもきっと、これから変わるよ。世界は崩壊したんだもん。これまでの世界の法則なんて壊れたんだよ。だからきっと、変わる。その第一歩がこの世界の崩壊。そして、二歩目が、もう一時すれば起こる。世界に新たなルールが生まれる。どう? 楽しみじゃない?」
ここまで言うのなら、この世界の崩壊に、この少女は関係しているのだろう。一瞬、いろいろ聞こうかとも思ったが、やめにした。聞いてどうこうなる問題でもあるまい。だってもう世界は崩壊してしまったのだし、僕にはそれをもとに戻そうとする気なんて全くないのだから。それに、知ってしまって誰かにそれを教えてしまえば、僕は当然その人にあいの存在も言うことになるだろう。それは何故か、いやだった。
「さぁな、それが何かは知らないけど、でももし、これまでの世界のルールがほんとに変わるっていうなら、楽しみ……かもな」
僕の言葉を聞いて、あいは笑う。僕よりもあいのほうが楽しみにしているといった風だった。
「ふふっ、聞かないんだね。私のことについては、何も」
「ああ、聞いた方がよかったか?」
「いや、どうせ言わないつもりだったしね。それにかくいう私も詳しいことは分からないし。ここから先のことなんて何もわからない。私はきっかけを作っただけだもん。だから、願わくば、変わってほしいよね。きれいな世界に」
「そう、だな。せっかく崩壊したんだ。どうせならもっと美しい世界に変わってほしいよな」
「そうだよ、せっかく崩壊させたんだもん」
そう、少女は言った。
何気なく。
それはつまり、この少女が今の状況を作り出したということだ。思えば、初めて会った時から不思議な少女だった。そして出会って以来、時折今回のように僕の前に現れる。まさに神出鬼没。いつどこでどんな時にでも現れる。ただ一つ、そこに共通点があるとすれば、僕が一人の時にしか現れないという点か。だから僕はたまに、この少女に会いたくなったとき、一人きりになる。そういう時は必ず現れるというわけではないけれど、結構な確率で現れてくれる。
「ねぇ、ちか。こっちきて、抱っこしてよ。最近ね、柄にもなくちょっと頑張ったから疲れちゃった。ちかも寝ようとしてたんでしょ? だったらさ、このまま一緒に寝ちゃお。あ、えっちなことはしちゃだめだよ」
そう、いつものように釘を刺す。
「分かってるよ。それに、そんな気はないよ」
僕はそう言って、体勢を変え、あいと向かい合うようにベッドに寝転がる。すると彼女は、僕の胸に顔をうずめるようにして抱き付いてきた。
そう、手を出すつもりなんてない。こんなにも穢れのない少女を、僕なんかの手で汚すなんてありえない。そんな欲望の塊みたいなけだものに、僕は絶対になりたくなかった。
「うん、やっぱりこれが一番安心する」
あいとはたまにこうやって一緒に寝たりする。最初は当然ドキドキして眠れなかったりしたものだけど、今はもう慣れた。ただ抱き合って一緒に寝るだけ。それだけで、ずいぶんと安心して眠れる。きっと彼女もそうなのだろう。
「そうか、それはよかった」
「ほら、ちかも、私のこと抱きしめていいよ」
僕はそう言われないと、彼女を抱きしめることはおろか、自ら触れることすらできない。あまりにきれいすぎて、触れるだけで汚して壊してしまいそうな感覚があるからだ。
僕は彼女の背中に腕を回す。好きなように抱きしめるのではなく、あくまで安心させるように、彼女の体を包み込む。そこから僕の欲望を満足させようという意思を排斥する。あくまでも彼女のために、優しく抱きしめる。
しばらくすると、すうすうと寝息が聞こえてきた。僕はそれを聞いて安心して、すぐに眠りに落ちた。
ピンポーンという音で僕は二度目の眠りから覚めた。
誰かがやってきたようだ。
時計を見るともう十時を過ぎていた。学校がある日なら考えられない時間だ。
ベッドの上にあいはもういない。彼女はいつも僕の知らないうちに姿を消す。正直な話、僕の妄想か何かじゃないかと疑ったこともあったが、すぐにそんなことはどうでもいいと思うようになった。その存在を僕が認識していて、他人に干渉されることがない以上は現実だろうが妄想だろうが同じことだと考えたのだ。
それに世界の崩壊という出来事が起こっている今、彼女のような不思議な存在がいてもおかしくはないと思う。
僕は無理やり起こされていまだ開ききっていない目をこすりながら、玄関のチャイムを押した人物を確認する。リンダだった。
特に何も迷わず、起きたばかりの腕でゆっくりとドアを開ける。
「ん? なんだお前、寝てたのか? 珍しいな」
「うん、ちょっと昨日は遅くまで起きててね」
「そうか、まぁ、それはいいとして、学校側から連絡があってな、寮の前の広場にいったん集合だそうだ」
「ん……、ああ、分かったよ。着替えたら行くから、先に行っといてくれ」
僕は未だにパジャマのままだった。
「ああ、あと、隣の部屋のやつにも伝えておいてくれ。伝言ゲームみたいに隣の部屋に伝えていってるみたいだからよ」
「分かった。じゃあ、また広場で」
「おう、じゃあな」
リンダが広場のほうへ向かうのを見送ってから僕は一度部屋に戻り、制服を着るか私服を着るか迷った後に、リンダが制服を着ていたのを思い出して制服に着替えた。
部屋にきちんと鍵をかけ、隣の部屋に広場に集合だと伝えに行く。
隣のやつは顔と名前くらいなら知っているが、ほとんど話したことはない。
ぼんやりと隣のやつの顔と名前を思い浮かべながらチャイムを押す。
ピンポーンと、僕の部屋と同じ音が鳴る。しばらくして中から人が出てきた。
僕が思い浮かべていた人物とは全くの別人だった。
一瞬言葉に詰まったが、何とか寮の前の広場に集合という旨を伝える。
別に隣の部屋から別人が出てきたというわけではない。ただ単に僕の記憶違いだ。今更隣人の顔を間違えるとはどういうことかと思うかもしれないが、僕とはそういうやつだ。
もとから人間に興味がないのか、とにかく人の顔と名前を覚えるのが苦手で、覚えたとしても顔と名前が一致しなかったりする。
今回隣人と間違えて思い浮かべたのは誰だったのか、おそらく教室で隣の席のやつだったかもしれないし、後ろのやつだったかもしれない。それほどまでに僕の、赤の他人に対する興味は希薄だった。
クラスメートや隣人を赤の他人と言い切るのも中々どうかしているかもしれないが……
顔も覚えていなかった隣人のもとを去り、学生寮前の広場へと向かう。
その広場の反対側には女子寮があり、広場は男子寮と女子寮に挟まれるように位置している。
広場に集まっているのは男子寮の住人だけでなく、女子もいた。ほかにも学生の集団の前の方には寮の管理人や僕たちの通う学校の教師と思しき人間も立っている。よく見ると青い制服を着た警官も立っていた。
僕は学生寮の階段を下りながらリンダを見つけると、学生それぞれが思い思いに広がる広場へと入って行った。
近くによると、リンダの隣には既にあかりもいる。
「おっ、きたきた」
「遅かったね、ちか」
「うん、人生初の二度寝に挑戦しててね」
「いや、だから何でこんな時に限ってそんなことしてるのよ……」
あかりがあきれ顔で何か言っているようだが、僕は気にしないでリンダたちに質問をする。
「何か学校側から連絡とかあった?」
「いーや、まだ特に何も言われてねーぜ。さっきからずっと先生たちと警察が何やら話してるみたいだ。ったく、一体何だってんだこりゃ。何が起こったか全くわかんねー……って言いたいところだが、何でかなー、何故か、世界が崩壊したって思っちまうんだよな」
こういうことを言うと真っ先につっこんできそうなあかりが、珍しく何も言わずに驚いたような顔をしている。
「あ、あのね、馬鹿みたいと思うかもしれないけど、どうしてか私もそう思うんだよね……世界が崩壊したって……」
「おい待て、それは遠まわしに俺が馬鹿だと言いたいのか?」
「あんたは間違いなく馬鹿でしょ。うん、野球バカとか関係なしに馬鹿よ」
あかりは横目で軽くリンダをにらみながらビシッと言った。
「ぐっ……まぁ、否定はできないが……」
一応本人も自覚していたのか、うめきながらたじろぐ。
そんな二人を見ながら僕も会話に口をはさんだ。
「いや、馬鹿じゃないと思うよ」
「やめてくれ、ちか。やさしさは時に人を傷つけるんだ」
「いや、あかりのほうだよ。リンダは……間違いなく馬鹿だね」
勘違いしているリンダを一刀両断する僕。
「うっ……しかし特進組のちかに頭で勝てる気はしねぇ……」
特進組とは、学力で僕たちの高校に推薦入学してきた人たちのことである。学力で推薦を勝ち取った人たちというと、かなり頭がよさそうに聞こえるかもしれないが、実際は中学の成績や内申が良かっただけであって、そこまで特出しているわけではない。
僕個人としては、実際に試験問題を解いて、一般入試をクリアしてきた生徒のほうが実力のあるように思える。
まぁこれは、中学時代に大した努力もしてこなかった僕だからこそ言えることである。実際には、推薦を手に入れた人たちは中学校で三年間真面目に頑張ってきたわけで、一回だけ入試でいい点数を取って入学するよりかはよっぽどすごい事なのだろう。
だとしたら僕も、中学生のころは頑張っていたのだろうか? 真面目と言われれば真面目だったが、特に努力したような記憶はなかった。
僕の馬鹿じゃないという言葉に対して驚いているあかりに、その理由を告げる。
「僕も、世界が崩壊したって思う。なぜだかわからないけど、世界が崩壊したっていう確信めいたものが、心の中にあるって感じかな……、二人もそうでしょ?」
二人とも僕の言葉を肯定するように頷く。
より正確に言うならば、あいがそう言ったから僕は世界が崩壊したと思っているということもあるのだが、その前から僕の心に世界が崩壊したという確信めいた何かがあるのも事実だ。脳みそに無理やりその情報を入れたような、そんな奇妙な感覚がある。知らないはずなのに、世界が崩壊したと知っている自分がいるのだ。
恐らくこの二人もそうなのだろう。いや、この場にいる全員がそうなのかもしれない。
僕のように簡単には受け入れられないのかもしれないが、心の中では分かっているはずだ。
僕たちの知っている世界は、もう崩壊したのだと。
分かっていても、そう簡単には信じられないのだろう。
それがきっと普通の感性だ。僕やリンダは少し人とずれているところがあるせいか信じてしまっているが、あかりは未だに信じられないでいる様子だ。いや、リンダは信じているというより気にしていないという方が近いのかもしれない。
会話が途切れている中、そんなことを考えていると、メガホン特有のキーンという音が広場に響き渡った。前のほうを見てみると、おそらく体育教師であろう、体格のいいジャージ姿の男がメガホンを構えていた。
「えー、皆さん、静かにしてください。これから、警察の方から今の状況やこれからのことについてお話があります」
いつもは雑談ばかりしているような生徒も今回ばかりは静かに耳を傾けていた。
やはり人間、こういう本当に重要だと思っている話には自然と意識が集中するものらしい。普段の集会ではありえない静けさだ。逆に言えばそれだけ、集会中の教員の話を重要だと思っている生徒は少ないのだろう。実際に教員の話が生徒にとって重要かはさておいてだが。
警察はメガホン特有のあのノイズをところどころで発しながら、口早に話し始めた。
「えー、皆さんも気付いていると思いますが、植物の異常発生に加え電子機器のトラブルなど、様々な問題が発生しております。只今愛知県警で調査を進めておりますので学生の皆さんはなるべく外に出ずに、自宅にて待機のほうをよろしくお願いします。このような状態のため交通機関や店舗など町の様々な機関が機能を停止しております。それにはもちろん飲食店や食料品を扱う店舗も含まれておりますが、食料等、生活必需品については必ずこちらで何とかしますのでご安心ださい。えー、決してパニックなどを起こさぬよう、落ち着いて行動してください。そのほかもし何かありましたら最寄りの警察関係各所にお問い合わせください」
こんな状況で警察は大変なのだろう、警察官は自己紹介もせずにそれだけ言うと、メガホンを体育教師に渡して一礼した後にその場を駆け足で去って行った。
警察からメガホンを受け取った体育教師が、周りの教員と何やら確認を取り合ってから、その口をメガホンに近づけた。
「えー、皆さん、そういうわけですので、落ち着いて部屋へ戻ってください。なるべく外出は控えて、自室で待機しておくように。それでは、解散」
体育教師の解散という声と共に、生徒は各々の部屋へと戻っていく。中には教師のほうへと駆けよって何やら話し込んでいるものもいれば、おびえたような顔で友達に励まされているものもいる。しかし大半はというと、学校が休みになってうれしいだの、あとでこっそりそこらを散策しようだの、緊張感に欠けるものばかりだった。
緊張感に欠けるという点では僕も同じかもしれないが、少なくとも彼らよりは現状を正確に把握している自信があった。
といっても、僕には彼らの知らない情報を知っているという理由もあるのだが。
それに僕の場合は、緊張感に欠けるというより、あかりやリンダの言う通り冷静であるといったほうがいいだろう。世界が崩壊したと、ここにいる他の誰よりも確信しているのにもかかわらず、だ。
それにしても、ここが日本で本当によかったと思う。もしほかの国だったなら、こうはいかなかっただろう。きっと、もっと人々はパニックに陥っているはずだ。警察の言う通りに悠長に自宅で待機せずに、もっと積極的に食料などの確保に走るだろう。そしてその手段は合法的なものとは限らない。強盗、略奪、そんな火事場泥棒みたいな輩がほとんど出てこないのが日本だ。
それが国家機関に対する信頼なのか、人任せなのかは分からないが、僕個人としてはただ単に平和ボケしているだけだと思う。日本の治安の良さは世界中の国と比べても高いと言える。それに島国であることも関係しているのか、海外の治安の悪さを身をもって体験したことがある人は少ないだろう。自分の身は自分で守るという考えが最もないのが日本人だと僕は思う。
かくいう僕も、日本の外に出たことなどないのだが。
……ここで、日本人は和の心を持っていて、どんな状況でも周りと協調性を持って行動できると考えないのは、やはり僕がひねくれているからなのだろうか。
そんな風に若干、自己嫌悪に陥ろうとしていた僕にリンダが話しかけてきた。
今はリンダと二人で男子寮に戻っているところである。
「なぁ、ちか。これから、どうなっちまうんだろうな……」
何も考えていないような顔をしていたリンダだったが、今更ながら不安を覚えているんだろうということに気付かされる。
それもそうだ、リンダには、崩壊してしまった世界に大切なものがあったはずなのだから。
前の世界に、未練のなかった僕とは違うのだ。
「少なくとも、しばらく野球はできないだろうね」
僕は率直に、彼が一番心配しているであろうことを言う。
こんな状況だ、おそらくリンダ一人が野球をしたいと言い出しても、許可する者も賛成する者もいないだろう。
「そう、だよなぁ」
リンダは、特に取り乱す様子もなく、ぽかんとした表情で呟いた。
野球の大会がいつ行われているのか、スポーツをすることにも観戦することにも興味のない僕にはわからない。しかしきっと、リンダには目標とするような大会があったはずだ。
その目標が、挑戦することもできずに失われてしまうかもしれないという状況で、こんなにも落ち着いていられるのは、まだそれをあきらめていないからだろうか。それとも、未だに頭が追いついていないからだろうか。
「しばらくはできないだろうけど、そのうちできるようになるとは思うよ。それにどうしても我慢できなかったら、僕がキャッチボールの相手くらいならしてやるさ」
僕にしては珍しく、慰めるようなことを言う。
自分でも珍しいと思うような僕の言葉を、やはり驚くような顔で聞いていたリンダは、その気の抜けたような表情に笑顔を戻して言う。
「ははは、それはいいな。……そういや、お前とキャッチボールなんてしたことなかったな。あかりとも、小学生の時にやって以来か……」
「ただし、手は抜いてくれよ。僕がお前の本気の球をまともにキャッチできるとはおもえないから」
リンダはスポーツ推薦で入ってきて、さらには部長を務めているほどである。もちろん野球の実力もすごいらしい。
らしい、というのは僕が、実際にリンダが野球をしている姿を見たことがないからだ。友達なのにおかしいかもしれないが、僕はそんな奴だった。
「そうでもねぇさ」
一瞬、僕が頭の中で唱えた『そんな奴』という言葉を否定したのかと思ったが、もちろんそんなはずはないと気づく。
「ちかは運動神経もいい方だろ。慣れればすぐキャッチできるようになると思うぜ」
多分リンダは僕をフォローしているのでも、自分の実力を控えめに言っているわけでもないだろう。ただ純粋にそう思ったから言っているのだ。
そんな僕の考えを証明するように、リンダは言葉を付け加えた。
「ま、離れすぎてお前のボールが俺に届かなくなることならあると思うがな」
そう言って快活な笑みを浮かべるリンダ。
あかりもそうだが、リンダはいつもこんな風に明るく元気に笑う。それが僕にはちょっとだけ眩しかったりするのだが、それでもそんな笑顔を見るのは、何というか……大げさかもしれないが、世界の明るい部分を見せてくれているような感覚になる。
そんな笑顔を見て少しだけ顔が綻ぶ僕だが、その眩しさに耐えられないというように顔を背け、到着した自分の部屋の鍵を開ける。
お互いに、「それじゃあまた」と言って同時に部屋に入っていく。
バタン、と扉を後ろ手に閉め、僕以外には誰もいない部屋の玄関で、俯いて立ち尽くす。
嫌悪感に襲われた。
誰に対してと聞かれれば、ほかの誰でもない僕に対してだ。
先ほどの、僕にしてはあの程度でも珍しい楽しげな会話を思い出す。いや、楽しげな会話なら以前にも何度もあっただろう。曲がりなりにも友達なのだから。もっと珍しいのは、リンダを気遣うような台詞を僕が吐いたことだ。
今まで、リンダが野球をしていることに自ら関わろうとしなかったくせに。
そして最も嫌悪感を覚えるのは、野球ができなくなってショックを受けているであろう友達を前に、僕は――世界が崩壊してむしろ楽しみだとさえ思っていることだった。
あいが言うように、少しだけ楽しみだと。
そんな風に友達が落ち込んでいる状況を楽しいと思っている僕に、僕は嫌悪感を抱く。
内側からじわじわと滲みあがってくる自己嫌悪を、僕はいつも通りため息で吐き出す。
「はぁ」と。
ため息は幸せが逃げていくというが、幸せと共にこの気持ちが抜けていくなら、そっちの方がいいと思った。
そもそもこんな僕に、幸せなどもったいないだろう……
そんな僕の、永遠に続くのではないかとさえ思う自己嫌悪の連鎖を止めるものがあった。
少女の声だ。
先ほどまで確かに誰もいなかったはずの部屋の奥から、かわいさと美しさを兼ね備えたような声が聞こえた。
「いつまで玄関にいるの? 早く入ってきなよ。ここはちかの家なんだから遠慮する必要なんてないんだよ。ましてや私に遠慮することなんて。なーんちゃって、そんな理由で玄関に立ち止まってるわけじゃないことは分かってるけど」
「いたのか。珍しいな、一日に二回も顔を出すなんて」
こんな不思議な登場をするのは、もちろんあいだ。
相も変わらず神出鬼没。鍵を掛けてあったのに一体どうやって入ってきたのか。
そんな、当の昔に考えることを放棄した疑問が、浮かんではまたすぐに投げ捨てられる。
僕は先ほどまで沈んでいたのが嘘みたいに、平然とした態度で部屋の奥へと足を進める。
「どう? 何か変わった?」
あいは我が物顔で僕のベッドに腰掛け、両足を交互にぱたぱたと揺らしながら尋ねてきた。
変わったとは具体的に何のことを指しているのかは分からなかったが、その曖昧な問いに、僕も曖昧に答える。
「変わった……のかな……。少しずつだけど、変わっている気はするよ」
こんな曖昧な答えなのに、それでもあいは満足げに、
「そう、だったら、良かった」
「なぁ、あい、そういえば昨日言ってたよな。確か二歩目があるって。世界の崩壊が一歩目だとしたら、二歩目があるって」
そこであいは少しだけ驚いたような顔になる。そして嬉しそうな顔で答えた。
「……へぇ、ほんとに変わったみたいだね。今朝から思ってたけど、こんな風にちかが少しでも興味を持って自分から質問してきたのって、私に名前を聞いた時以来じゃない?」
僕も、その言葉を聞いて、自分自身の変化に驚く。
楽しみ……なのだろうか?
わくわく……している?
こんな、今まで暮らしてきた世界が崩壊して、これからどうなるか全くわからない状況で、周りには前の世界に未練があって悲しんでいる人もいる中で、前の世界に何の未練ない僕は、楽しんでいるというのか。
この世界を。
だとしたら、いい加減に、救いようのないくらい、ひねくれている。
「ふふふ、自分でも戸惑ってるんだね」
あいはそう言って更に笑う。
その笑顔を見ていると、なんだか僕のねじまがった精神に対する気持ちなんて、どうでもなってくるような気さえする。
僕は黙って、部屋の中央に位置するテーブルを挟んで、ベッドの反対側にある勉強机の椅子へと腰を掛ける。
背もたれのある回転いすを回して、テーブルの向かいにいるあいのほうを向き、次の言葉を待つ。
「嬉しいな、これが労働の報酬ってやつなのかな。これなら勤勉な日本人の気持ちも分からなくはないかも」
まるっきり日本人な見た目をしていながら、まるで日本人でないかのようなことを言う。
「あまりの嬉しさに、何でも話しちゃいそうだよ」
そこまで言うと、あいは自分の顎に右手の人差し指を当てて小首を傾げ、可愛らしく悩むようなしぐさを取る。
「うーん、本当はいけないのかもしれないけど、別に誰が止めるってわけでもないしね、特別に教えてあげる。その体に――」
あいはいたずらっ子のような笑みでそう言ったとたんに、ふわりとベッドから立ち上がった。あまりに滑らかすぎて、急に彼女の体重がなくなって浮き上がったのではないかと思うほどだ。
あいはベッドから立ち上がるとそのままの勢いで軽く床をけり、僕と彼女の間にあった背の低いテーブルに、その陶磁器のようにきれいな脚の片方を乗せて、再び宙を舞った。
それはもう、飛び上がったとか、ジャンプしたと表現するのは絶対的に間違っていただろう。
彼女の体は、踏み台にされたテーブルから発せられる軽い、タンッ、という音には合わない高さまで浮き上がる。
ただ真上に浮き上がるのではない。斜め上に、僕の方へと彼女の体は宙を舞っていた。
そしてちょうど部屋の中央くらいまで来たあいは、その細い両手を伸ばしながら、椅子に座る僕に抱き付くように落下してきた。
僕は反射的に彼女を受け止める。
小柄とはいえ、高校生くらいの女の子が落ちてきたのに、全く衝撃はなかった。
ふわりと、まるで羽毛のような感覚の彼女は、僕の太ももの上に膝立ちして、僕の頭を抱きかかえるように腕を回す。
回された腕の重みは確かに肩で感じているのに、僕の太ももの上の感覚はまるでクッションをのせているような感覚だった。
この奇妙な感覚に、きっとこの子は天使だったのだと似合いもしないロマンチックなことを本気で考えていると、不意に、彼女に抱きかかえられている頭の中に何かが響き渡った。
まるでパソコンに新たなソフトをインストールするように、頭の中に新しい機能とその使い方が入り込んでくる。
言葉で説明されるわけでもなく、絵を見せられるわけでもなく、本来ならばそういった手段を経由して自分の頭の中に収められるべき知識が、まるで最初から僕に備わっていたかのようにインストールされる。
それはこの世界に新たに加わった法則だった。
この崩壊した世界に新たに付け加えられた法則――世界を変えるために新たに付け加えられた法則。
僕はその法則を瞬時に理解する。
いや、理解するというよりも、それは頭で理解するというよりは心で感じ取ったといったほうが正しいのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもよかった。僕はその、世界に新たに追加された法則を何と呼んでいいかと悩んでいた。
崩壊した世界に追加された、前の世界とは全く異なる法則。それはすなわち、魔の法則と言ってもいい。であるならば、僕たちはそれをこう呼ぶべきだろう――魔法――と。
僕はベッドの上に仰向けに寝転んで、世界の新たな法則について考えた。
あの後あいは、頭の中に突如入ってきた情報を処理しきれずに困っていた僕に、言葉で説明を加えくれた。
彼女曰く、この世界に、心に反応して生み出される新たな力を付け加えたらしい。あまりに突飛な話で普通なら信じられないが、今の状況も、そして彼女自身も、普通ではなかった。
僕が勝手に魔法と名付けたこの世界の新たな法則は、感情の高ぶりに際してその者に力を与えることにより、身分や家柄、財産といった既存の力に左右されることなく個人が平等に力を得る権利を与えるものらしい。
つまり、心の強さによって力の強さが決まる、ということだ。
心の強さが、意志の固さが、物理的にもその人の強さになる――そんなおとぎ話のような世界を彼女は作ったのだという。
この、少年誌の主人公が気合で敵を倒すような法則を魔法と名付けるのなら、その法則によって生み出される――すなわち感情の高まりによって生み出される力は魔力とでも呼ぶべきだろうか。
もっとも、その魔力を使えば漫画みたいに何でもできるというわけではないらしい。僕たちが使える魔法は、その者の生まれ育ちや経験、気質、夢、願望、その他諸々によって異なってくるらしい。
個人によって使える力が決まっているという点では、魔法というよりは超能力に近いかもしれない。
ちなみにこれらの情報は世界中の子供たちの頭の中にも植えつけられているらしい。しかしあいから直接言葉で教えてもらった僕とは違いその情報を信じられるかどうかは別問題だろう。それに、僕ほど確信的ではなく、そんな気がする程度にしているそうだ。それは混乱を抑えるためのものである。いきなり自分に不思議な力が宿ってそれの使い方まで知っているとなれば当然混乱するだろう。だからあいはそういった不要な混乱を抑えるために何かきっかけのようなものがあってから魔法が使えると確信できるようにしているのだそうだ。
そして、僕の使える魔法はというと、あい曰く、
『ちかの魔法はね、〝神に逆らう魔法〟だよ。逆神という名の通り、神に逆らう者ってわけだね』
聞いた感じは凄そうな魔法だが、そうは言われても全く持って使い方の分からない魔法だ。別に神様に逆らう気もないし、そもそも神様なんてどこにいるのだろう。そんな定義も存在もあやふやなものに逆らえたところで今後の役に立つとは思えなかった。
どうせならもっとこう、空を飛んだり瞬間移動したりしてみたかったと、ぼんやり思う。
そんな風に、いきなり与えられた謎の魔法を嘆いていると、ぐう、とお腹の音が聞こえた。
そういえば朝から何も食べていない。
時計を見ると時刻はちょうどお昼時の十二時半くらいだ。育ちざかりは過ぎているかもしれないが、一般的な高校三年生の男子としてはそろそろ何か食べないとつらい時間だ。
自宅待機がいつまで続くか分からないし、どうせ時間はたくさんあるだろう。なので久しぶりに料理でも作ってみるかと思い、冷蔵庫の中をあさくっていたところ、町内の数か所に設置されているスピーカーから町内放送が流れ始めた。
この町でスピーカーによる町内放送を聞いたのは初めてだったが、きっと昔は使われていたのだろう。軽くノイズをまじえながら古いスピーカーが必死に音を出している。
内容は、学校のグラウンドでボランティアによる炊き出しが行われるので食料がない方はお越しください、というものだった。
一応食料はあるがどうしようかと迷っていると、玄関のチャイムが鳴った。いつものようにのぞき窓から尋ねてきた人物を確認する。といっても、僕の部屋にチャイムを押して訪れるのは、どこかの業者か、そうでなければリンダかあかりくらいしかいない。そのうちのあかりも、ここが男子寮である以上はめったに来ることはない。
玄関の前に立っていたのは、案の定リンダだった。
僕はドアを開ける。
「おう、ちか。さっきの放送聞いただろ。俺たちももらいに行こうぜ」
楽しみそうな顔でそう言う、自炊なんて出来ないスポーツ系男子のリンダは、マイ箸と茶碗を装備していた。
何だか、こいつと一緒に行くのは恥ずかしいなぁ、と思っていた僕だったが、しかしよくよく考えるとリンダの行動のほうが正しいということに気が付いた。こんな状況だ、地震や津波など具体的な災害は起きていないとはいえ、今の状況はそれと似たような状況と言ってもいいだろう。料理店に行くわけじゃないんだ。箸や食器がどれほど用意されているか分からない。であるならば自分の分は用意していった方が向こうも助かるというものだ。
「ちょっと待ってて、今準備するから」
僕はそれだけ言うと、一度部屋の奥に戻り、自分の分の箸と茶碗を用意してリンダと一緒に学校のほうへと向かった。
男子寮から出ると、偶然を装ったあかりと合流した。
偶然を装った、というのがどういうことかというと、あかりは女子寮の前で明らかに僕たちが出てくるのを待っていたのだ。
正確には僕たちというよりも、リンダを待っていた。
僕は時折、こんな風にあかりがリンダに対して待ち伏せのようなことをしているのを目撃する。リンダは完全に偶然だと信じているようだが、登校時間の女子寮前や下校時間の校門前、さらには学食の前などでその姿を目撃している僕としては完全にわざとだと分かる。
分かったところでその行為の意味については深く考えない僕ではあるのだが、深く考えなくとも一般的にはそういうことだろうと思ってはいる。
もっとも、僕の考える一般的がどこまで一般的なのかは、大いに疑問の生じるところではあるので僕は自分の考えが当たっているとはこれっぽっちも思っていない。
というよりそもそもだ……僕ほどそういった感情に縁のない人間もいないだろう。誰かを好きになったことなんてあるはずもない。
それ以前に、世界も、人間も、大嫌いなわけだし。
しかし人間が嫌いとはいうものの、僕の隣で今歩いている二人は違った。この二人の心は本当にきれいだと思う。僕なんかと仲良くしてくれている時点でそれは明らかかもしれない。
そんな、考えても仕方のないようなことに奪われていた僕の意識を、二人の会話が強引に引き戻す。
「なぁ、そういえばさぁ、さっきから何かこう……体の中に変な力がたまってるような感じがしないか? 変なこというけど……今ならそれ使って、早く走ったりできそうなんだが。ストレッチパワー的な何かがたまってる気がすんだよ」
「何言ってんのよ……って言いたいところだけど、何でかな? 私もそんな気がする」
「なんかさっきからこんなんばっかだな……おい、ちかはどうだよ?」
一瞬どう答えようか迷ったが、何も知らないふりをした。
「僕も、何となく感じてはいるんだけど、何なのかはよく分からないかな。ストレッチパワーじゃないのは分かるけど」
そういえばストレッチマンって今もまだ放送してるのかな?
「うーん、これ使えば早く走るだけじゃなくてボールも早く投げれそうだぜ……ていうか、全体的に身体能力を上げれる気がする」
僕がそうだったように、きっと頭の中に情報が入ってきたのだろう。あいが言っていた通りだ。混乱を避けるために最初は、できる気がする、と思う程度だと。あとは本人の感情の高まりやその力を使おうという意思に準じて勝手に確信へと変わっていくだろうと。
「ご飯食べた後にでも試してみたら?」
恐らくあかりも、よく分からない力の正体を知りたいのだろう。そんな提案をした。
僕の方も〝神に逆らう魔法〟とかいう使いかたのよく分からない魔法では実際に魔法というものがどういったものか分からないので、実際にほかの人のを見て確かめたい。
ということで、誘導させてもらう。
「そうだね、ついでに学校にならボールとグローブくらいありそうだし、キャッチボールでもしてみる?」
「お! それはいいな。 ちょうど白球が恋しくなってたところだぜ!」
「あれ? 珍しいね、ちかがリンダとキャッチボールだなんて」
「それは俺も思った」
あかりに賛成の意を表するリンダ。
「そういえば最近ちかって元気だよね。初めて会ったときは、どんなものにも興味を示さない死んだような目をしてたのに」
そんな冗談を言ってあかりは笑う。
いや、冗談じゃないかもしれないけど。
「僕が暗いやつだったというのは認めるけど、さすがにそれは言いすぎだろ……」
「確かに、この世の終わりみたいな顔をしてたな」
リンダはそう言ってわざとらしく大げさに、うんうんと頷いている。
「リンダまで……」
「あ、もしかしてこういう状況でテンション上がる系とか?」
思いついたことを適当に言っている風なあかりだが、あながち間違っているともいえない。
「ま、明るくなるのはいいことじゃねぇか。それに、明るくなったのは割と前からな気もするしな。リンダっていうたびに恥ずかしがってた頃に比べりゃ、徐々に明るくなってたよ」
「確かにねー、私のこと下の名前で呼ばせるのも大変だったし」
「やめてくれよ、恥ずかしいから……」
思わず苦笑いでそんな言葉が出るが、二人の口は止まらなかった。
「言葉遣いもだよな。今もまだ無駄に丁寧なんだか女子っぽいんだか分からない言葉遣いの時があるけど、俺たちと話すときは、少しは男らしく砕けた口調になってきたよな」
「女子っぽいって……」
そんな風に思われてたのか……、ちょっとショック……
「案外女子うけはよかったんだけどね」
と、あかりが意外なことを言う。
「そうなんだ、まぁ僕はそんなことより早くご飯を食べてキャッチボールがしたいよ」
このセリフは僕のものではない。リンダが急に僕の口調を真似し始めたのだ。
僕にしては珍しくちょっとイラッとくる。
「リンダみたいなのには似合わないわよ」
あかりは気に入らないといった風に眉間にしわを寄せた。
「ははは、ひどいな、向さん。あれ? そういえば向さんは今日制服じゃないんだね。意外と私服の女の子らしいスカートも似合うじゃないか」
「んなっ!?」
あかりは体をビクッと震わせて、顔を赤くしたまま口をパクパクしている。
リンダはというと、驚いたように顔を固めながら、
「すげぇな、ちかの話し方……。あのあかりが女の子みたいに照れてんぞ」
「ちょっと待って、僕はそんなこと言わないし、主な理由はリンダが言ったからだよ」
しかしそんな僕のさりげない一言も、一応人並みに女の子に興味はあるっぽいものの、基本的に野球バカなリンダには届かなかった。
早くキャッチボールしてーなー、と言いながら肩をぐるぐる回して歩いていくリンダ。
僕も半分あきれたような顔でそれについていく。
一方、置いて行かれそうになったところで我に返ったあかりは、
「ちょっ、待って……っていうか私はちゃんと女の子よ! あとちかも何でそこだけフォローしないのよ!」
あかりの怒鳴り声を、もう慣れていますと言わんばかりの様子でスルーし、リンダは振り向かずにこう言った。
「あかりもキャッチボール来いよ。小学校以来か? 久々にやろうぜ」
いつものリンダにしては少しだけ早口なその言葉を、あかりは面食らった顔で聞いていた。
そしてすぐに照れたような、怒ったような顔になり、少し先で並んで歩く僕とリンダに聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「もう……何なのよ……なんか、ずるい……」
振り向いていた僕にはかろうじて聞こえたが、リンダのほうはどうなのか。
両手を組んで後頭部に当て、大きくひじを開いて隣を歩くリンダの横顔を見る。
といっても、人の心に疎い僕なんかが顔を見たところで感情を読み取ることなんてできるわけはないのだが。
ただ、隣を歩く友達の顔が、少しだけ赤く見えたのは、僕の気のせいだろうか?
炊き出しを行っていたのは近隣に住んでいる主婦の方やおばあちゃんだった。学食でよくリンダに大盛りをしてくれるおばちゃんがいて、リンダは今回も大盛りにしてもらっていた。
リンダのような明るく元気な運動部は、おばちゃんに可愛がられるタイプなのだ。その中でも人当たりが良く、好き嫌いせずに何でもたくさん食べるリンダは、もう学食のおばちゃん全員の息子か孫みたいになっている。
僕はよくリンダと一緒に学食に行くのだが、頼んでもないのに大盛りにされたりすることもしばしばだ。学食のおばちゃんたち曰く、「なんだい? それだけしか食べないのかい? ほらほら、あんたも寮ちゃんみたいにたくさん食べないと、大きくなれないし元気もでないよ」
一応言っておくと、僕は別に小柄なわけではない。いや、強がりとか見栄とかではなくて純然たる事実としてだ。ただ、僕の学校にはスポーツ推薦の生徒たちがいる。彼らは流石スポーツ推薦といったところか皆体格がよく、校内の平均身長をかなり高めているのだ。リンダもリンダで僕たちの年齢の平均身長を越している。
体が大きいということは、それだけエネルギーの消費量も多いわけで、当然食べる量も多くなってくる。つまり何が言いたいかというと、リンダはめちゃくちゃ食うのだ。
お前の内臓ってほとんど胃袋なんじゃね? というくらい食う。
そんなリンダに合わせて大盛りにしてもらってもありがた迷惑なわけで、そういう時は大抵リンダか、あかりがいればあかりにも手伝ってもらうこととなる。
早い話が断ればいいのだが、それができないのが日本人で、それをさせないのがおばちゃんだと、僕は思う。
そんなこんなで、今回もリンダと共に大盛りなのであった。
こんな状況で特定の人だけ大盛りにしていいのかと思ったが、思ったよりも人が来なくて、このままだと確実に余るらしい。
周りを見てみると、来ている人のほとんどが学生だった。恐らく寮で一人暮らししている学生が集まってきたのだろう。なんだか炊き出しというよりは学食に来ている気分だった。
きっと大半の人は家に食べ物があるから遠慮してこなかったのだろう。
思わず日本人だなと思ってしまう。
いすや机はなかったので、立ち食いという少々マナーのない形になってしまったが、この状況でいすや机まで要求するのは酷というものだろう。それよりも、いきなりこんなことになったのにも関わらす、その日のうちに炊き出しまで行われる対応の早さに感嘆すべきだ。
どうやら朝から何も食べていなかったのは二人も同じのようで、いつもより多めの量を三人とも完食した。
いつもよりもかなり時間がかかってしまったのは量のせいなのか、それともいつもより会話の数が多かったからなのか、僕には分からなかったが、ただ確かなのは僕にとってその食事が、今までの人生の中で一番楽しかったということだ。
あいの言う通り、僕はどうやら変わってしまったみたいだった。
嫌いだった前の世界が崩壊して、そんな世界で珍しく輝いて見えた数少ない友達と一緒にいる。そんな状況は、僕が抱えていたあらゆる負の感情を忘れさせるくらい、楽しかったのだろう。
そしてそんな楽しいひと時は、食後もキャッチボールという形で続いた。
道具は野球部の部室に余っていたのを借りた。野球部の主将を務めるリンダが鍵を持っていたので部室には簡単に入れた。
僕たちの学校には陸上などに使われるグラウンドとは別に、野球用のグラウンドもある。僕はあまり入ったことはないので分からないが、リンダ曰くここの野球場はかなり設備が整っているらしい。他県から選手を取り入れていることからも分かるように、スポーツには結構力を入れていたようだ。
陸上用のほうは炊き出しで使われているので、僕たちは野球用のグラウンドのほうに移動してキャッチボールを始めた。
まずは三人で三角形を作り、リンダから僕へ、僕からあかりへ、あかりからリンダへ、という順番で軽く肩慣らしをした。段々と距離を離していき肩を温めていたところで、一番最初にあかりのボールがリンダの使い古されたグローブに届かなくなった。
正直な話僕もぎりぎりで、あかりに負けじと頑張っていたので内心ほっとしていたところだ。流石はバレーのスポーツ推薦で入っただけのことはある。そこらの男子よりは身体能力があるだろう。自分が生まれつき運動神経が良くて良かったと、改めて思った。
キャッチボールをしている間、リンダはこの学校が野球には特に力を入れていたことや、今年は中学のころに全国大会でも活躍していたような一年生が入ってくれたこと、そして一年生にしてすでにエースで四番になっていたことなどを、嬉しそうに語ってくれた。そして最後に、自分のもとへと届かなかったあかりのボールを、まめができてはつぶれることを繰り返したそのごつごつした手で拾いながら、今年は本気で高校野球の日本一を狙えたと言って、一瞬だけ悲しそうな顔をした。
世界がこんなことになってまだ一日も経っていないが、きっとリンダも心の中では気付いているはずだ。世界は崩壊したのだと。もうあの世界には戻れないのだと……
先ほどまで浮かれていた僕は、リンダの気持ちを考えるといつもの負の感情が押し寄せてきた。先ほどまではしゃいでいたのが嘘のように、僕の顔が、日が沈むように暗くなっていく。そして、友達の気持ちも考えずに何を浮かれていたんだと、いつものように自己嫌悪へと陥る。
先ほどまでの楽しげな空気とは一変して、急に重苦しい空気になった。
いつもバカみたいに元気なリンダが、目に見えて落ち込んでいる。それもそのはずだ。青春のすべてを野球に捧げてきたというのに、目標とする大会に挑戦すらできないかもしれないのだ……いや、できないかもしれないのではない。心の中では、もう絶対にできないと感じていることだろう。どうしてかは分からないが、僕たちの心はもう世界は元に戻らないと認めてしまっているのだから。
そんな重苦しい空気を、あかりの声がいとも簡単に引き裂いた。
「もう! 何暗い顔になってんのよ」
「ん……すまん、ははは……」
リンダは無理に笑顔を作ろうとしているようだが元々分かりやすいタイプなので全然うまくいっていなかった。
「小学生の時なんて毎日のようにキャッチボールに付き合わせてたくせに……あの時はいつだって楽しそうにボール投げてたじゃない。『近所でキャッチボールしてくれるのなんてお前だけだ』なんて言ってさ……。嬉しそうに、一人ぼっちの私のところまで来て……」
そういえば前に聞いた話では、あかりたちの地元には子供が少なく、家から離れた学校に通っていたらしい。特にあかりに関しては近所に年の近い女の子がいなかったそうだ。
「こんなにいい環境でやってたから忘れちゃったの? 昔はさ、二人しかいないのに、あんなに楽しそうにやってたじゃん。なのに今はそんな楽しくなさそうな顔してさ。今は私だけじゃなくてちかだっているんだよ。それでも不満だっていうなら……付き合ってやんない」
聞く人によって非情だとも取れる言葉。さらに言えば、上から目線で高圧的ともとれるあまりに乱暴な言葉だ。
あかりは少し怒った風にそんな言葉を吐きながらリンダのほうまで歩いていき、ボールを拾おうとしてかがんでいた野球バカを見下ろす位置で腰に手を当て、尋ねた。
「ほれ、どうすんのよ」
そんな強引な態度をとるあかりを見上げるリンダの目は、太陽を背に逆光を浴びるあかりの姿がまぶしいのか細まっていて、その口は、笑っていた。
「……ははは……付き合ってもらうに決まってんだろ。あのちかが自分から言ってくれたんだ――キャッチボールくらいなら付き合うって。嬉しくないはずがねぇだろ。それに昔みたいにお前ともキャッチボールできるんだ。楽しくないはずがねぇ」
そう言うやいなやリンダは地面の上で動きを止めた白球を手に取り、その筋肉質な体からは想像もできないような滑らかかつコンパクトな動きで僕のほうに白球を投げてきた。
放たれたボールは、そのコンパクトなスローイングとは見合わないようなスピードで、とっさに構えた僕のグローブにピンポイントで突き刺さる。
ズバン! と気持ちのいい音を立てて僕のグローブに吸い込まれたボールは、零れ落ちることもなくしっかりとグローブの中に収まった。
「ふはははは! どうだ、ちか! これが高校野球トップレベルのキャッチャーの腕前だ! 自慢じゃねぇが盗塁さすことに関して俺は恐らく高校一だぜ!」
「なーに言ってんのよ、ずっと練習相手いなくてそれしか練習できなかっただけのくせに」
「う、うるせーよ」
痛いところを突かれたのかたじろぐリンダ。
ていうかいきなり投げてきたら危ない。
きっとまだ空元気なところもあるだろうが、あかりのおかげでリンダはいつも通りになった。
あかりはいつもこうして、すぐに暗くなる僕や、いつもは元気なくせにたまに落ち込むリンダを励ましてくれる。
その名前の通り、まるで明かりだな、と僕は思うのだった。
リンダは豪快に笑った後、少し言いづらそうに、
「その、なんだ……ありがとな。それに、すまん。お前も地元飛び出てまでこの学校でバレーやってるってのに……、つらくねぇはずねぇよな……なのに、俺だけ落ち込んじまって、挙句の果てには励ましてもらっちまってよ……」
多分、リンダは僕には聞こえないように言っているつもりなのかもしれないが、普段から声が大きいせいか調節ができておらず、まる聞こえだった。
「いいのよ、いつものことだし。リンダは昔っから、元気なくせに何かあるとすーぐ落ち込むんだから。慣れたもんよ。それに、私は別にバレーのためだけにこの学校に来たわけじゃないし……」
「それでも、もう一回行っとくぜ、ありがとな」
そう言ってリンダは一呼吸置き、
「よし! それじゃあ、昔みたいに楽しむとしますか! さぁこいちか! もう肩は十分あったまっただろう。全力で投げてみやがれ!」
僕はその声に反応して、嫌なことなんて全部忘れて思いっきりボールを投げた。
そして大抵、事故が起こる時というのは、こういった、一時のテンションに身を任せた時だということを、僕は忘れていた。
案の定、全力で投げたせいでボールの軌道は、リンダの方というより、どちらかというとあかりのほうに逸れてしまい、思わず僕は投げた後「あ、危ない!」と叫んでいた。
あかりは僕の叫び声にビクッと肩を震わせ、彼女の目が硬球へと向く。
その瞬間、中学生向けの軟球から高校生向けに硬くなった野球ボールの、人間の体にぶつかる鈍い音が、僕たちのほかに誰もいない野球場に鳴り響いた。
思わず僕は目を見張って、二人のいるところへと駆け寄る。
あかりはいきなりの出来事に涙目でその場にへたり込んだ。
「お、おい! 大丈夫か――リンダ!」
硬球がぶつかったのはあかりではない。確かに硬球はあかりのほうへと飛んでいったのだが、その隣に居たリンダが、反射的に右手でキャッチしていたのだ。その――グローブをしていない右手で。
何度も言うようだが、僕は生まれつき身体能力は高い方だ。それに先ほどのキャッチボールで肩も完璧に温まっている。そんな僕の全力投球を、いなすような動きもなくまっすぐに右腕だけを伸ばして受け止めたら、さすがに野球部でキャッチャーをしているリンダといえども、ただではすむまい。最悪、骨折もあり得るかもしれない。
僕は青ざめた顔でリンダの右手を見る。
「お、おい、大丈夫か? とりあえず病院だよな……すぐに、診てもらわなきゃ――」
と、僕がいまだかつてないほどに慌てていると、リンダはけろりとした顔で右手に握っていた硬球を、左手のグローブにパシンとパスした。
そして僕を安心させるように、右手を開いたり閉じたりしながら、何気ない口調で言った。
「ちか、落ち着けって。ほら、全然大丈夫だぜ?」
「ほ、本当に大丈夫なのか?」
「だーかーら、大丈夫だって」
「で、でも、何ともないってことはないだろ……やっぱり今すぐ病院に行って一度診てもらった方が――」
リンダはあくまで平気な顔で僕の言葉を遮る。
「あのなぁ、俺は野球部でキャッチャーやってんだぜ、このくらい何ともねぇよ……って、言いたいところだが……、そういうわけでもなさそうだな」
「や、やっぱり大丈夫じゃないのか!」
心配する僕をなだめるように、リンダは体の前で手を振る。
「いやいや、そういうわけじゃなくて……ほら、言ってたろ? 飯食う前に。なんか体の中に不思議な力みたいなのを感じるって。何ていうか、さっきあかりに向かってボールが飛んできたときによぉ、捕らなきゃ! って思ったら、何だかその変な力が強くなって……、それで、なんだかんだで無傷だった……的な?」
僕はその要領を得ない説明によって逆に落ち着きを取り戻した。いくらなんでも訳が分からないが、ひとつだけ心当たりがある。
もしかして、魔法?
ボールを受け止めてあかりを守らなきゃいけないと思って、高まった感情によって、魔法が発動したのか?
そういえば、学校に向かう途中にリンダは、不思議な力が体にあって、身体能力を全体的に高められそうだとか何とか言っていた気がする。
……ということは、リンダは魔法で身体能力をあげることによって、何の怪我もなく硬球を受け止めたということだろうか。
僕が初めての魔法現象に考えを巡らせている間にリンダは、腰を抜かして涙目のまま座り込んでいたあかりを起こそうとしていた。
リンダはあかりに手を差し出す。
「ほら、立てるか?」
あかりは自分が涙目になっていることに気付いたのか、顔を赤くして俯いたまま差し出されたその男らしい手をとった。
「う、うん……ありがと……」
消え入りそうな声でそう呟く。
リンダの手で引っ張られながらあかりは立ち上がったが、結局しっかりと立てず、前に倒れこんでリンダに抱きとめられる形になる。
「ご、ごめん……腰、ぬけちゃって……うまく立てないや……えへへ」
照れたように力なく笑うその顔が緩みきっているのは、危ない目にあった後の脱力感のせいか、それともほかの理由からか……
一方何も言わず……というか何も言えず抱きとめているリンダの顔は真っ赤だった。
とりあえず僕は、どうしてリンダの右手が無事だったのか考えているふりをして、二人の体が離れるのを待った。
何かもう、リンダの右手は本当に無事みたいだし、理由とかどうでもいいやと思ってしまったのは、やはり目の前の二人のせいなのだろうか?
それから一時して、二人は我に返ったように離れてお互いに反対方向を向いた。
何だか甘ったるいような、気まずいような空気が漂ったのでどうしたものかと思っていると、野球なら何でも解決してくれると思っているのか、野球バカのリンダが唐突に「おし、野球しようぜ!」と言い出した。
何でもいいからこの空気から脱したかったのか、あかりも「そうよね! そのために来たんだもんね!」と無駄に元気に答えた。
まぁ、僕としてもあんな空気は、ただただ居心地が悪いだけなので賛成なのだが。
野球、といっても当然三人でできるはずはなく、初めのキャッチボールの延長みたいなものだ。
だがしかし、決定的に違う点が一つだけあった。
リンダの魔法である。
キャッチボールをしながら色々と試した結果、リンダの魔法はやはり身体能力を上昇させるものだった。初めのほうは、初めて使う魔法にテンションが上がっていたみたいで、人間とは思えない動きを魔法によって実現していたが、あとのほうになると段々とパフォーマンスが落ちてきた。慣れとは恐ろしいもので、初めこそ魔法を使うだけで気持ちが高ぶってどんどん魔力が生産されていたようだが、段々と魔法を使うことに対して感情が高ぶらなくなり、結果、魔力も弱くなっていったようだ。
とはいっても、平常心の時でもある程度の魔法は発動できるらしく、本来の自分のベストパフォーマンス以上の身体能力を発揮していた。
結局僕たちは、高校生とは思えないほどはしゃいで、夕暮れ時まで体を動かした。
遊んだという実感があった。こんな感覚はいつぶりか、全く思い出せない。
そして今僕たちは、へとへとになって、学生寮へと足を動かしている。
「なぁ、お前ら二人もなんかできねぇのかよ。俺だけってのもおかしいだろ」
「そう言われても、できないものはできないよ」
これは嘘ではない。一応僕も自分の中に魔力は感じるのだが、全くと言っていいほど使い方が分からないのだ。何せ僕の魔法は〝神に逆らう魔法〟である。実際に何ができるのかさっぱり分からない。
「うーん。あかりはどうなんだよ?」
「え? 私? 私も、今のところは分かんないかな」
一体何を考えているのか分からないが、あかりは先ほどから僕たちの会話にワンテンポ遅れている。
「分かんねぇなら、しょうがなねぇな。んにしても、不思議だな。やれやれ、最近は不思議なことばっかだぜ」
「そうね……、この状況もそうだけど、その不思議な力もだよね」
「それと、そんな中でもこうして楽しくやってんのも、不思議だよなぁ」
「そう、だね……ははは」
「お、ちかが笑った。やっぱ変わったな、お前」
改めてそう言われ、僕も自分自身の変化に驚く。
前の僕は、こんな当たり前に笑うようなやつじゃなかったはずだ。
別に過去に何かあったとか、そんな悲劇の主人公みたいなわけじゃない。
ただ、小学校の高学年になった時くらいからか、急に自分の周りの世界がはっきりと見えだした。それ自体も別に不思議なことではないだろう。ただ単に、成長するにつれて世界に対する視野が広くなっただけだ。いろんなことについて考えることができるようになっただけだ。
でも、元々ひねくれて、歪んでいた僕の精神から見る世界は、とても残念なことに、あまりにも汚く、どうしようもなく残酷で、耐えられないほど醜かった。
だから、嫌いだった。
そんな世界に平気な顔で暮らしている人間が、化け物のように思えた。
そして僕もその一員であるということに気付いた時、僕は自分さえも嫌いになった。
それでも、そんな中で輝いている人にも出会えたのは事実だ。そしてそんな人が二人、僕の隣を歩いている。
そのことがたまらなくうれしくて、僕のあらゆるものに対する嫌悪感は、前の世界と一緒に崩壊してしまったのではないかと思わせるほどに、夕焼け色に染まる帰り道は幸せでいっぱいだ。
アスファルトだったはずの道に生えている草が、夕焼けの光を風と共に先へ先へと運んでゆく。それはまるで、この先にはもっと楽しいことが待っているよと言っているようだ。
世界が、美しく見えた。
――でも、僕はすぐに思い出させられる。
世界と、人間の醜さを。
声が聞こえた。男の呻き声だ。言葉で直接苦しいと言っているわけでもないのに、苦しそうだと分かる。
そのあとに続くように、女の子の声が聞こえた。こっちの方はちゃんとした言葉になっていて、「止めてください」という悲痛な声が路地裏のほうから聞こえてきた。
僕たち三人は顔を見合わせて、恐る恐る声のする路地裏のほうへと足を進める。
曲がり角の直前で、リンダはあかりにここで待っているようにと言って先へ進む。
僕もそのあとについていき、二人で路地裏へと続くその角を曲がる。
路地裏では、だらしのない格好をして髪の色をそれぞれ違う色に染めた若い男三人が、眼鏡をかけた学生一人を取り囲んで殴っていた。よく見ると、殴られているのは僕達と同じ学校の制服を着た男子生徒だ。
赤と茶色の髪の二人が男子生徒の両腕を左右からつかんで羽交い絞めにし、そしてその正面から金髪の男が腹や顔面を殴る。
みれば殴られる男子生徒の脚にはほとんど力が入っていなかった。
左右の男二人に無理やり立たされているような状態なのだ。
その奥の方で、男子生徒とどういった関係なのかは知らないが、恐らく彼女か何かであろう女の子が泣きながら、「やめてください」とかすれる声で必死に懇願している。
僕とリンダは初めての光景に唖然としていた。
いや、驚きのあまり動けなかったのではない。初めて生で見る暴力の世界に僕たちは恐怖していた。まるで足が地面に縫いつけられているかのように動かない。
茶髪の男が言う。
「おい、もうこれくらいにしとこうぜ」
その意見に賛成するように赤毛の男が言った。
「そうだよ、こんな奴いいからさっさとそこの女ヤっちゃおうぜ」
それを聞いた金髪の男は、息を荒げながら、
「はぁ、はぁ。くそが! こいつが逆らうからいけねぇんだよ。俺の手ぇはじきやがって!」
そう、訳の分からないことを叫びながら最後に一発顔面を殴った。眼鏡が飛び、左右の男が手を離したために、殴られていた男子生徒はその場に倒れこむ。
『手ぇはじきやがって!』だと? たったそれだけで? たったそれだけでそこの眼鏡の男子生徒はこんなことになっているのか。それも、どう見ても先に突っかかってきたのは不良三人だろう。金髪の男が女子生徒に手を出そうとして、それを男子生徒がはじく――そんな光景が頭に浮かんだ。そして、それが今のこの光景につながっているなんて、思いたくもなかった。
殴られていた男子生徒はまだかろうじて意識はあるらしく、女の子のほうへと向かう男たちに手を伸ばす。
ガラの悪い男三人ににじり寄られ、今度は自分の身の危険を感じた女の子の、「いやぁ……来ないで……」という声でリンダが、勇気を振り絞って一歩踏み出す。
僕はというと、目の前の光景に絶望していた。恐らく今なら警察に捕まることなどないとでも思ったのであろうか、そんなクズみたいな男たちを見つめる。
そして思った。
やっぱり、醜い。
リンダが男たちを止めようと、無謀にも声を掛けようとしたその時、ぼろ雑巾のように地面に打ち捨てられながらも必死に手を伸ばしていた男が、切れた唇から血を流しながら急に叫んだ。まるで、そうすれば何かが変わるかのように。その心が何かを変えてくれるかのように。そんなはずはないのに――叫んだ。
「やめろよおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!!!!」
瞬間、一瞬何か光線のようなものが走り、叫び声に反応して振り向こうとしていた男のうち、金髪の男の片脚が吹っ飛んだ。
ぐらり、と片足を失った男の体が傾き、その場に倒れる。
自分がどうして倒れたのかもわかっていなかった男は、自らの脚のほうを見て、絶叫した。
果たしてそれは痛みのあまり叫んだのか、恐怖のあまり叫んだのか、それは当の本人にしか分からないだろう。
喉からただ必死に空気を吐き出そうとしているかのような絶叫が、路地裏に響きわたる。
尋常じゃない叫び声に、思わず出てきてしまったのであろうあかりが、その光景を見て絶句する。
それもそうだ、足が吹っ飛んだと言えばそれだけだが、その事実が生み出す光景は、きっとこれから僕たちの脳裏に焼き付いて離れないだろう。
本体からちぎれた足が真っ赤な血を地面に流しながら転がっている異様な光景。
そして本来その足がついているべき位置からは、見たことのない量の血が出ている。
それもただ血がダラダラと流れているわけではない。その男がマネキンでもなんでもなく本物の生きた人間であることを示すように、心臓が血を送り出すリズムに合わせて血が飛び出てくる。
気付けばあたりは静まり返り、絶叫していた男も意識を失っていた。これだけ血が流れているのだ、もしかしなくても死んでいるかもしれない。
その場にいる僕以外の全員が地面にへたり込んでいた。
きっと、そのあまりに凄惨な光景に腰が抜けてしまったのだろう。
そして、仲間を失った残り二人のうち、茶髪のほうが、地面に倒れる男子生徒に向かって叫んだ。
「て、てめぇ、何しやがった!」
しかし、男子生徒は答えない。いや、答えることができない。
その口は震え、ガチガチと歯と歯のぶつかる音を鳴らすことしかできていなかった。
その後、一体どれだけの時間が経ったのかも分からないまま、誰かが呼んだ警察に一部始終を話した僕らは、パトカーで学生寮まで送ってもらった。
警察に対して冷静に話ができたのは僕だけだったので、ほとんど僕が喋る形になっていた。
僕とリンダは、一番あの光景にショックを受けていたあかりを女子寮の前まで送り男子寮へと戻ろうとしたが、女子寮の入口から立ち去ろうとするリンダの服の端を、あかりの震える手が掴んだ。
あかりはそのまま黙ってうつむいている。
僕はリンダに目だけで「そばに居てあげた方がいい」と訴えかけ、二人を残して男子寮のほうへと、一人で戻って行った。
一瞬、僕も一緒に残ろうかと思ったが、なんとなくリンダ一人に任せた方がいい気がした。最近の二人の姿を見ていると、そんな気がするのだった。
僕は沈んだ気持ちで、一人部屋へと戻る。
初めて見た大量の血や、その鉄くさい臭いが未だに僕の頭の中で再生される。
それでも僕は冷静でいられた。完全に冷めていた。
あの裏路地に入ってすぐに、僕は人間の醜さを思い出してしまっていたからだ。
そうだ、世界が崩壊したところで肝心の人間が変わらなければ意味がない。なぜなら僕の知る世界というのは結局、人間の作り出した世界だからだ。虫は虫の世界で、鳥は鳥の世界でしか生きていくことができないように、僕もまた人間の世界で生きるしかない。そしてその世界を作る人間が醜かったら、きれいな世界なんてできることはないだろう。
そんなことも忘れるくらい、この崩壊した世界に期待していたのか、僕は。
それとも、そんなことを忘れるくらいに、リンダたちとの時間は楽しかったのだろうか。
でも結局、そんな時間も最後はあんな悲劇的な光景で幕を閉じてしまった。今もあの二人はショックを受けた精神をお互いに慰めあっているだろう。
そこに僕がいないのはなんとなく寂しい気もしたけど、そもそも僕はショックの原因が違うからあそこにいたところで何の意味もない。
あんな光景なんて少し驚くくらいだ。世界にはあれよりもっとひどい光景が溢れかえっているのだから。それを生で見たのは初めてだったから少し驚いたけれども、それより僕の心に深く突き刺さっているのは、あの不良たちの行動だ。
やはり、人間は醜い。あんなのと同じ種類の生物だと思うと、死にたくなってくる。それともあいつらみたいなやつを皆殺しにすれば、人間も多少はまともなものになるのではないだろうか。
そんな危険思想家が僕の頭の中で熱弁をふるっている。
そしてそいつは言う。
安心しろ、そんな世界がやってくるのも夢ではない。君も見ただろう? あの頭のねじのはずれたような不良の、片足が吹き飛んでいくのを。それを願う心があれば、悲劇から脱することが可能な世界に、もうすでになっているんだ、と。
その声の言う通り、僕はあの時見ていた。殴られていた男の、地面に転がる眼鏡から光線が発射される光景を。
それはつまり、女の子を守りたいという気持ちで、彼が魔法を使って不良の片足を吹き飛ばしたということを意味する。
彼の強い思いが、目の前の悪を倒したのだ。そう考えると今日の出来事は何の問題もないハッピーエンドだったように思える。
だがしかし、そう思うには、あの光景は血に染まり過ぎていた。それに何より、ショックを受けていた二人の友達を見ていると、どうしても後味が悪くなる。
「はぁ、なんだかなぁ……」
楽しかったはずの一日がこんな形で終わってしまい、そのことで精神が疲れ切っていた僕は、思わずため息をついて部屋へと入る。
これ以上何かを考えて自分自身を酷使する必要もあるまい。
僕はなるたけ何も考えないようにして、部屋へ戻るなりシャワーを浴びた。ぼんやりと、今日は疲れたからさっさと寝よう、と思いいつもより早めにシャワーを切り上げる。
シャワーから上がり、冷蔵庫の中にあるすぐにつまめるものを適当に食べた後、どっと疲れが押し寄せてきた。
そういえば今日は学校のグラウンドで思いっきり遊んだんだった。久々に思いっきり体を動かして体力的にも疲れがたまっているようだ。
僕はずるずると重たい足を引きずりながら、ベッドの中に潜り込む。
長かった一日もこれで終わりか。明日も学校があるわけでもないだろうし、ゆっくり休もう、と思っていたのだが、ベッドの中には先客がいた。
「一日に三回も来るなんて初めてだね。えーっと……今夜は寝かさないぞ」
ずっとベッドの中に隠れていたのか、それとも僕がベッドに入ってから出現したのかは分からないが、とにかくベッドの中には本日三度目の登場となるあいがいて、意味不明なことを死ぬほどかわいらしく言っていた。
「…………」
僕はしばし無言で考えた後、そのかわいらしい顔から逃げるように目をつぶって、当初の予定通り睡眠の準備を始めた。
「え? 寝ちゃうの? ……流石に、慣れないことばっかりで疲れちゃった?」
その台詞には、今日僕の身の回りで起こったことをすべて把握しているようなニュアンスが含まれていた。
しかし今更そんなことで驚いたりしない。
世界が崩壊した時も、この世界に魔法という新たな法則が付け加えられた時も、割とどうでもいいかのように思っていた僕だ。今更、自分の身の回りの出来事をあいが知っていたところで、驚きはしない。
「ああ、今日は久しぶりに思いっきり運動したから、疲れてるんだ」
「そう、じゃあ、ちかが眠るまでお話してあげるね」
「いや、話聞いてた?」
あたかも僕がそう望んでいるかのような口ぶりで、自分のやりたいようにやろうとするにっこり笑顔のあい。そういえば、案外身勝手な奴だった。
しかし、あいの声を聴いているだけで癒されるのもまた事実だ。それはきっと、僕があいに特別な感情を抱いているとかいうわけではなく、ただ純粋にあいの声には元々そういう性質があるからだろう。
百人にきけば百人ともが心地いいと答えるような声を、あいはもっていた。
「どうだった? えーっと……ちかは魔法って名付けたんだったね」
いつものごとく曖昧な質問に、僕が眠たいながらも答えようとしたところで、あいはそれを遮るように言葉を続けた。
「あ、答えなくていいよ。ちかはそのまま寝ててね。邪魔しちゃ悪いし。今回はね、私がお話ししたいことを話す番。……っていっても、毎回そうなんだけどね」
そう言って、自嘲気味に笑う。
一瞬、胸が痛んだ。そんな笑顔はしてほしくない、と思う。
「いいよそれでも。僕はそれで満足だ」
「ふふふ、そう言ってくれると嬉しいな」
そうだ、そんな風に明るくて真っ白な笑顔でいて欲しい。
「意外だった」
あいは急に話題を変えて話し始める。あいの話はいつだって突然だ。急に話し始めて、話が終わったと思ったら、再び急に違う話をし始める。
「ちかがあんな楽しそうにはしゃぐなんて……。世界を崩壊させて、本当に良かったって思った。やっぱりちかも、人間なんだって思ったよ。それとね、それだけじゃない。もう一つ意外だったのは、その帰り道の出来事で、ちかが少なからずショックを受けたこと」
僕の胸に顔をうずめて語りだしたあいの表情は見えない。しかし、その口調はなんとなく寂しそうだった。
「最初に、路地裏で眼鏡の男子生徒が理不尽に殴られているのを見て、ちかはいつもの、あらゆるものに絶望したような顔に戻った。それはね当然だと思う。でもそのあと、男子生徒が魔法で彼女さんを守った時……どうしてかな、ちか、あんまり変わらなかったよね。表情も、多分……心も」
段々と、あいの口調が沈んでいくように感じる。
「私ね、あの時、ちかはまた――それこそお友達とはしゃいでた時みたいに、世界に対してもっと肯定的な感情になるんじゃないかって期待したの。だって、そうでしょ? あの眼鏡君の、彼女を守りたいっていう気持ちが、実際に彼女を守ったんだよ?」
あいはあの出来事を、そんな風に捉えていたのか。
確かに、あいの言う通りだ。何も間違っていない。でも、あの血だまりと、それを見たリンダとあかりの顔を見ると、やはり釈然としない。
「だけど、ちかは違った。何でかな? もしかしてあの時の光線の正体が分からなかった? それとも、やり過ぎだとでも思ったのかな? 初めてあんなに人間の血が流れるところを見てショックだったの? これだけはね、私にも良く分からなかったんだ」
初めてかもしれない、こんなに自信がなさそうにあいが何かを話すのは。いつもは何もかも見透かしたような態度なのに、今だけは、その神秘性が薄れ、彼女がただの一人の女の子のように思えた。
「まぁ、大方、最後に言ったのがあたりだと思うんだけどね」
と、付け加える。
「でもね、ちか。もしそうだとしたら、ショックなんて感じる必要はないんだよ。だって、前の世界には、あんな光景ありふれていたんだから」
それは、僕も知っている。実際に見たわけじゃないから、あいの言う通り初めは驚きもしたけど。それでも知識でだけなら知っている。
「それこそ、ちかみたいに言えば、日本人だよね。この国は平和ボケしてるってよく言うけれど、その通りだと思う。ちかのお友達も、その場にいた不良も、みんなそろって腰を抜かして立てなくなっていたんだもん。あんな光景程度で……。その点ちかはやっぱり流石だね。いくら日本人とはいえ、そこらの人よりは、世界が悲劇であふれてることを知ってた。だからあの場で、一人だけ立っていられたんだよね」
あんな光景程度――とあいは言った。世界には僕も知る通り、あれ以上の凄惨な光景であふれている。それをあいは、改めて確認しているのだ。まるで自分の目で見てきたかのように。
そしてそれは、実際にその通りなのだと、次の言葉で分からせてくれた。
口調は重く、その時初めて僕は彼女の中の、巨大な負の感情を感じた。
「ちかは知識でしか知らないだろうけど、私はこの目で見てきた――何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。とある学校では憂さ晴らしのためだけにいじめが行われたり、とある会社では社畜と呼ばれる社員が散々使いつぶされた挙句に自殺にまで追い込まれたり、とある家庭では子供が親から虐待を受けたり、とある国では平気で臓器が売り物にされたり、とある紛争地域では兵士も民間人も関係なく意味もなくむごたらしく殺されたり、とある業界では人間が売り物にされたり、とある富裕層では買い取られた人間がおよそ人間とは思えない扱いをされたり、とある警察では拷問みたいな取り調べで冤罪が生み出されたり、とある組織では薬物で人間を人間でなくしたり、とあるスラムでは餓死寸前の動けない子供にハエがたかっていたり、とあるゴミ捨て場では原形をとどめていない人間の死体がごみと一緒に捨てられていたり、とある路地裏では女の人が暴漢に襲われてそれを守ろうとした男の人が暴力によって地べたに打ち捨てられたり……」
そう語るあいは、本当にその光景をその目で見てきたのだろう。その言葉はまるで、見た目からは想像もできないような重さを持っている水銀のようだった。音声としてだけだったら心地よいはずの声からは想像もできない重圧を感じる。
僕の服を握るひ弱そうな手は震えていた。
「悲劇なんて数え上げたらきりがない。前の世界は、そういう醜い腐った光景であふれかえってたよ。そんな中で、ちかみたいにそれを知識としてでも知っている人はそれほど多くなかった――いや、知らないふりをしていただけかもしれないね。知らないふり、聞かないふり、見ないふり……まぁ、そんな世界、もう壊しちゃったから、もうそれでもいいと思うんだけどね」
後半は、本当にどうでもいいといった口調だ。
「あれ……なんか愚痴っぽくなっちゃってたね……」
愚痴。
先ほどの――もしそれが物理的な重さを持っていたなら、確実に僕の体は潰れていたであろう言葉を――愚痴と呼ぶのか、この少女は。
そんな軽い言葉では言い表せないようなものではなかったか、さっきの言葉は。
「……えっとね、何が言いたかったのかというとね、つまりは、今日の路地裏で起こった出来事は悲劇じゃないってことなの。多分、ちかのお友達もそのことに気付く。人間の足がちぎれるところを初めて見て、今はまだショックを受けているだろうけど、落ち着けば気付くと思う。あれは、悲劇でもなんでもない。むしろ奇跡のようなものなんだって――ただなすすべもなく蹂躙されるはずだったのに、強い心がそれを打ち破ったんだって――思い直すはずだよ」
そう言うあいの口調は、段々といつもの明るい口調に戻っていた。
確かに、あいの言う通りかもしれない。あのままいけば、本当に悲劇としか呼べないような状況になっていただろう。リンダは光線が炸裂する直前に、不良たちのほうへと声を掛けようとしていた。恐らく、あの場に魔法がなければ、止めようとしたリンダと一緒にいた僕はあの男子生徒のように地面に転がっていただろう。そして結局、やつらの最低な行為を止めることはできなかっただろう。いや、それどころか曲がり角に隠れていたあかりまで巻き添えを食うかもしれない。
そのことを想像しただけで、僕の中に、マグマのような熱い何かがふつふつと湧き上がってくるのを感じる。
あんな奴らはああなるのが当然だと、率直に感じた。三人とも死んで当然だとさえ思った。金髪の男は一応救急車で運ばれはしたものの、その後どうなったのかは知らないが。
そしてあいは、ただ黙って話を聞く僕に向かって、まるで自分の夢を語る無垢な子供のように、崩壊した世界について語りはじめる。
「前の世界の常識やしがらみは今もまだ残っているけれど、これからどんどんなくなっていく。そのための魔法だもん。自分の欲望を満たすことしか考えていないような人間はいずれ、何かを守ろうと必死になれる人間の心には絶対に勝てないことに気付く。今日の出来事のようにね。これってとっても素敵なことじゃない? きっとちかも、すぐに美しい世界が見れるよ。今日だって初めのほうはその片鱗に触れたでしょ? ああいうのが当たり前の世界に、なるかもしれない。……いいや、きっとなるよ」
そうだといいと、素直に思う。
突発的な事故や、人間が抱いてしまう醜い心自体は消せないかもしれない。しかしその結果から生まれるものは、当事者の気持ちの強さによって解決できる。そんなシステムを取り入れようとした結果が魔法という新たな法則だったのだろう。確かにそうすれば、避けることのできない思想同士のぶつかり合いも、それを思う気持ちの強さによって勝敗が決まるのだとすれば、その結果は正しいと言えるのかもしれない。
あいは、そんなことを考えていたのか。
今まで彼女が僕に語ってきたことといえば、自分が行ってきた国と地域についてや僕が読んでいた本について、少し哲学的な話など、ほとんど世間話程度のことばかりだ。お互いに深いところまでは話し合ったことがない。こんなに一緒にいるのに、あいの中の深い部分が見えたのは初めてだ。
つかず離れず、そんな距離をお互いに保っていたような気がする。
ゆえに今日のあいの本心からの言葉は、かなり重たいがその重さが、少し嬉しかった。
あいは話し疲れたのか、しばらく黙っていた。このまま寝てしまうのかとも思ったが、どうやらまだ言いたいことはあるらしく、再び口を開く。
「魔法はね、基本的に大人には使えないの。何でだと思う?」
何も喋らなくていいと言った割に質問をしてくるのは癖だろうか。いつも、僕があまり自分から話さないから、質問するのが癖になっているのだろうか。
「既存の常識や固定観念を壊すためだよ。子供に比べて大人たちは柔軟性に欠けるからね。それに、たとえ魔法が使えたとしても子供より力は劣るんじゃないかな? やっぱり人間の一生で最も感情の揺れの幅が大きいのは十代のころだからね。あと理由を挙げるとすれば、あんな世界を作った大人たちなんていらないからだと思う。これからは、魔法の使える子供たちが自分たちの手で世界を作っていく番だよ。新たな常識と共にね。もちろんその間、大人たちには保護者としての役目も果たしてもらわなきゃいけないけどね。でもそこに魔法はいらない。中には魔法を使える大人もまれにいるみたいだけど。多分、その人は子供みたいな心を持っているんだと思う。……いや、悪い意味じゃなくてね。きっとその人たちは、古い世界の常識にとらわれず子供たちをいい方向へと導いてくれるはず」
彼女は静かに、淡々と語る。恐らくこれまで一生懸命考えてきたであろう、世界のことについて。
醜かった世界が嫌いで、けれどどうしようもなかったちっぽけな僕とは違う。彼女は世界が嫌いという点では僕と同じでも、世界を変える大きな力があったに違いない。
もし僕にも、そんな力があったら、果たして僕はどうしていただろうか。
そんな、考えても仕方のないようなことを考えながらあいの話を聞いていたところで、僕の思考は鈍り、まぶたは重く、彼女の言葉のように重く、眠りへと落ちていく。
そんな中、落ち行く僕の意識に溶け込むように、言葉が聞こえた。きっとそれは、朝起きると忘れている夢のように、僕の記憶からは消えていることだろう。
それを確信しながらも、そんなのは嫌だな、と薄れゆく意識の中、僕は思った。
「あれ? 寝ちゃったかな……。そういえば、まだ日付は変わってないね……。ハッピーバースデー、ちか。お誕生日おめでとう。……ふふふ、こんなこと言ったらひねくれ者のちかはきっと、『同じこと二回言ってるぞ』とか言いそうだね」
二人の息遣いしか聞こえない静かな部屋に、あいの声だけが優しく染み渡る。
「この世界はね、私がもうあんな世界を見てられなかったってのもあるけど……ちかへの誕生日プレゼントなんだよ。世界が大嫌いだったちかへの、誕生日プレゼント――だからちか、どうかこの新しい世界を、大好きとまではいかなくても、嫌いにならないで欲しいな……」