Rest 2 -Part.3-
それは八月に入ったばかりの日曜日、つまりはカラオケの夜から四日後だった。午後九時を少し廻った頃から降り出した雨は、急速にその勢いを増していった。僕は、横殴りに吹き付ける水滴に濡れながらも外に置いてあったのぼりを店内に入れ、開け放しにしていた自動ドアのスイッチを入れた。程なくドアが閉まったことで雨音はかなり小さくなったが、逆にこもったような音が中で反響して何とも不気味だった。
「こりゃあ、ひどい雨だ。そう言えば、傘持ってこなかったな」
「ロッカーの脇に、忘れ物の傘がたくさんありますよ」
わずかの時間しか外に出ていなかったにもかかわらず、濡れ鼠のようになった僕の呟きに、洗い物をしていた島本が珍しく言葉を返してきた。今日初めてといっていい会話らしい会話に少し気をよくした僕は、その勢いのままに話を先に進めてみた。
「どう? 最近調子のほうは」
「どうって、別に普通ですけど」
「そう……。立ち入ったこと聞くようだけどさ、島本って、彼女とかいるの?」
その問いかけに、島本は洗い物をやめて手を拭くと、眼鏡の奥からこちらをじっと見つめてきた。しまったと思った。つい調子に乗って、余計なことを聞いてしまったようだった。僕は早くも後悔の念に苛まれた。冗談だよと質問を打ち消したかった。でも、そういう時に限ってうまく言葉が出てこなかった。島本の目に釘づけにされて動けなかった。だから、しばらく後に彼から放たれた意外な答えよりも、会話がうまく先に続いたことに心底安堵した。
「いますよ」
「へえ、同じ大学の子?」
「いえ、同じバイトの子です」
「えっ、それって」
「真美ですよ」
信じられなかった。島本が真美と付き合いだしたことより、彼が女の子を呼び捨てにしたことに驚いていた。今まで、バイトの女の子を名前ではなく苗字で呼んでいた島本が、至極当然のように真美を呼び捨てにしたのだ。そのギャップがたまらなかった。彼の人物像が根底から覆されたような気がした。
「いつからなんだ?」
でも島本は、もう僕の言葉を聞いていなかった。こちらに背を向けて、再び洗い物を始めていた。僕の問いかけは、店の厨房をしばらく彷徨った後で虚しく消えた。予想していたことではあったが、彼の口から正式に事実を聞いた今となっては、事態は決定的かつ絶望的だった。出来レースだろうが何だろうが勝敗は決着し、ドラマは既にクランクアップしていた。僕の役回りは真美のよき理解者、相談相手の男友達、あるいは先輩として固定された。もちろん、彼女を奪い取る筋書きも残されていたが、その役を演じるには僕はあまりにも役不足だった。と、少なくとも自分ではそう思い込んでいた。僕は諦念ともいうべき固定観念のもとに、そうして自らの手で肯定的な可能性を摘み取ってしまったのだ。
真美と河原のカフェに行ったのはその二日後だった。相変わらずの暑さに我慢しきれなかった僕らは、バイトからの帰り道で立ち寄り、夕立で濡れた雑草の上に並んで腰を下ろした。今日のオーダーはカルピスウォーターだった。
「白いキス、瞼で弾けた〜」
「何だい、それ?」
「知らないの? ときめきはカルピスウォーターのCM」
「そんなのあったっけ?」
「全く、俊介くんて、案外何も知らないのね」
呆れたようなとぼけたような複雑な表情を浮かべながら、真美はその「白いときめき」を一口飲んだ。彼女の喉が軽く動き、それとともに僕の心も少しときめいたような気がした。
「島本とうまくいったんだって? よかったな」
「えっ、何で知ってるの?」
「一昨日聞いたんだ、島本から」
「そう」
「今や夏真っ盛り。これから二人で十分に楽しめるな」
「相変わらず変わったこと言うわね。そういうあなたにも、そろそろ真っ盛りの夏が来るんじゃない?」
単なる言葉遊びに過ぎないと思った。売り言葉に買い言葉とは違うにしても、話の流れがもたらす言葉の綾でしかないはずだった。だから、その流れのままに僕は言葉を繰り出すだけだった。そこに真実など隠されているはずもなかった。
「どういう意味だよ?」
「ここだけの話だけど、潤子さん、俊介くんのことが好きみたいよ」
ここの他で話してほしくない内容だったが、それにしても真美の放った言葉は僕を驚かせるのに十分だった。事実かどうかは別にしてもあまりに突飛だった。火のないところに煙が立たないように、僕と潤子との間にそんな火種など微塵もないはずだった。
「どうしてそういうことが言えるかな。もっとましな嘘をついてみろよ」
「じゃあ、本人に直接聞いてみればいいじゃない。嘘かどうかすぐにわかるわ」
真美は少しふてくされているように思えた。カルピスウォーターを飲むスピードが上がったことからもそれは明らかだった。確かに、考えてみれば真美が僕に嘘をつく理由もメリットもなかった。真美と潤子の仲のよさからすれば、むしろ真美が潤子の援護射撃をしているとも考えられた。でも僕は、やはり信じることができなかった。何度も言うようにこれまでの僕と潤子との間には、そのきっかけのかけらもなかったのだから。