プロローグ
その日の僕は、いや僕の乗った自転車も含めて快調だった。懸案だった仕事もようやく終わり、平日ではあったが久しぶりの休みを取った。夕べの打ち上げで飲み過ぎたにもかかわらず、もたれているはずの胃も意外とすっきりしていた。それにしても、自分の住むアパートの近くに、こんなのどかな河原が広がっていたなんて全く知らなかった。もちろん、現実としての川の存在は十分過ぎるほどにわかっていたが、感覚的にうまく把握されていなかったのだ。そのせいもあってか、目に映るもの全てが真っ白なキャンバスのように新鮮だった。足元のサイクリングロードは、中央に点在する白線を道標に河原を突き抜けて一直線に伸び、遠く陽炎の彼方に霞む鉄橋へと消えていた。首を上げて空を仰ぎ見ると、そこにはこれからさらに輝きを増すであろう太陽が君臨し、八月最終日の午前中を見事なまでの残暑にしていた。身にまとうVネックの白いTシャツは、滲み出る汗で肌にまとわりついていたが、僕はそんなことなど気にもならなかった。三十歳をはるかに過ぎてなお部屋でのストレッチだけは欠かさない僕の体は、確かに同年代と比べても瑞々しさを保っていたが、この心地よさはそのためでも、また頬を撫でる意外に爽やかな風のせいでもなかった。これから向かう先に、実に数ヶ月ぶりに訪れるお気に入りのあの場所が横たわっているからだ。
視線を数メートル先に戻すと、そこには近所の奥様方と思われる四人組が小さく固まって井戸端会議をしていて、傍らでは五人の子供たちが、これまた小さく固まって座り込んでいた。取り立てて何の変哲もない光景だったが、でも僕は子供たちの手元に光る何かが妙に気になった。
だから、急ぐ旅でもないのをいいことにその場に自転車を置くと、同年代に見える彼女たちのほうではない、もうひとつのささやかな輪の中に入っていった。
「こんな時間に、どうして花火なんかやってるの?」
子供たちの手には今の時間帯にも、また周囲の白さにも相応しくない線香花火が握られていた。かなり前からやっていたらしく、足元にはピンクと黄色と灰色に染められた残骸が無造作に放置されていた。
「おうちに残ってたの。前に海に行ったときに買ったの」
何気ないその言葉に不自然に反応する自分がいた。いや、言葉にではなかった。僕の脳裏を過ぎったのはその点景だった。光景という面ではなく点なのだ。それは間違いなく、記憶の片隅にある点と結びつき、おぼろげながらも一本の線を形成していた。でも僕の思考は、そこでぷつりと切れてしまった。線が面となって広がりを見せなかったのだ。だからもどかしかった。喉元まできていながら出てこない歯痒さを感じるしかなかった。
僕はそこに、子供たちと記憶の断片を残したまま再び自転車に跨った。久しぶりの、何よりせっかくの貴重な休日なのだ。変な考えごとに時間を費やすのはやめて、降り注ぐ太陽の光に身を委ねようと思った。何はともあれ、僕は前に向かって進んでいかなければならないのだから。
僕のお気に入りの場所は、そうしてサイクリングロードを十分ほど走り、さらに雑然とした路地を通り抜けた果てに忽然と現れた。そこは町の西に位置する駅に程近い場所にあったが、駅と近くを走る国道周辺のごくわずかな地域を除いては閑静な住宅街が広がり、遠くからかすかにピアノを弾く音が聞こえた。東京郊外にある典型的な光景がそこにあった。
くるくると回る赤白青三色の目印を横目に引き戸を開けると床屋独特の香りがほのかに漂い、目の前に左右対称にある三脚ずつの黒い椅子と鏡のセットと見事に調和していた。僕はここに立つ久しぶりの感覚にすっかり頬が緩み、自分を席に促す店員の声も耳に入らずにその場に佇んでいた。やっとここに来られた、これで何もかも忘れてすっきり気持ちよくなれると思いながら。
「ずいぶんと久しぶりですね。いつもと同じ感じでいいですか?」
おそらくパソコンの顧客データで見てきたのであろう、僕より十歳以上は年下に見える茶髪の男は、いかにもの営業スマイルを浮かべながらこちらに話しかけてきた。自分が店員だったら、やっぱりこんな風に微笑むだろうなと奇妙な同情をしながら軽く頷くと、彼は腰から素早くハサミを取り出して、早速僕の髪を切り始めた。相変わらず今日も暑いですね、などとありきたりの世間話を始めるその姿にさらに同情しながらも、眼前に広がる鏡越しの世界を覗き込んでみると、切り取られた長方形の空間に僕以外の客は誰もいなかった。閑散とした空間には、手持ち無沙汰ながらうんざりした表情で外を眺める男が一人と、ひそひそと話をしながら規則的に笑い合う男二人と女一人、それだけだった。客よりも理容師のほうがはるかに多いこの状況は、でも僕を不思議なまでに安堵させた。当然のことながら僕は、彼らの仕事仲間でも、ましてや友達でもなかった。全くの部外者で赤の他人だった。そして同時に、彼らから一身にサービスを受けるべき唯一の存在だった。何の遠慮も気配りもいらなかった。だから好きなのだ。この日を待ちわびていたのだ。全方位に心が開放されるこの瞬間を。
頭の隅のほうから音楽が聞こえてきた。突然だと思ったが、どうやら単に気づくのが遅かっただけのようだった。始めのうちはバラードのようにゆっくりと静かに聞こえていたが、次第に音が大きく聞こえてくるにつれて、それははるか前に耳にしたある曲と結びついた。
「この曲は……」
僕の突然の問いかけに驚いたのか、彼はしばらくの間ハサミを止めて鏡越しにこちらを眺めていたが、すぐに営業スマイルを取り戻すと流れるような口調で答えた。
「さあ、自分はよく知らない曲ですが」
「夏の日の1993だよ、そうだよ」
長方形の空間越しにきょとんとした彼の顔が見えたが、僕は何よりもその音楽によって開かれた世界に懐かしさが込み上げ、やがてそれはとめどなく湧き出る切ない想いに変わっていった。十一年前のあの夏は、今と同じように暑かった。むせぶような風の匂いや気だるい昼下がりも変わらなかった。ただひとつ違ったのは、僕の胸に隙間なく宿っていた熱い想いだった。まだ何も描かれていない、狂おしいまでに輝く真っ白な世界だった。