(下)
出会ってから三週間ばかりたった、ある日。
いつものように俺は粗大ゴミ置き場へ足を向けた。キララは、いなかった。
今日は遅れてくるのかな、と俺は持参したジュースで喉を潤しながら、手持ち無沙汰に彼女を待った。しかし、一時間経っても、彼女はその場に現れなかった。不安になって周囲をうろついてみたが、彼女の面影すら見つけることはできなかった。
自分の中に、一つの予感がよぎる。
確証はない。でも俺は、何となく、この予感はきっと当たっているんだろうな、と確信に近いものを感じていた。
“――私、もうすぐ転校するんだ”
彼女の言葉が、フラッシュバックする。
ああ。そうか。
彼女は、行ったのか。
別れの挨拶さえしないまま、彼女はその痕跡さえ残さず、俺の前から、消え去ってしまった。
「せっかく今日は、報告したいことがあったのにな……」
斜に構えて、ひとりごちる。寂しくないったといえば嘘になる。だが、彼女がこの先幸せを手に入れるためには、俺は笑って送り出さなければならない。そんな気がした。
「せめて何か一言、残して行けっつーの」
気持ちを紛らわすため、あえてつっけんどんな口調で声を張る。さて、これからどうしようかな、と思い視線を動かすと、ふと、ひとつの掃除用具入れが目に留まった。
それは、二人が初めて出会った日、キララが入っていた掃除用具入れだった。
もしかしてこれを開けたら、また中から彼女が出てくるんじゃないか、なんてありえない妄想をしながら、俺はごく自然に、ゆっくりと用具入れの扉へと手をかけた。そして、思い切って、一気に開ける。
中には、何も入っていない。ただ仄暗い空虚さだけが、そこに広がっていた。肩を落とし、両手をだらりと力なく下げる。
「んなわけねーか」
僅かでも期待した自分を嘲笑うかのように吐き捨てる。何を期待していたんだ俺は。彼女はもういないっていうのに。
俺は扉を閉めようと、静かに手を伸ばした。そして、そこで固まった。
掃除用具入れの扉の裏側。
一度扉を開けないと決して見えないところに、それはあった。
キララからの、メッセージ。
ピンクの油性ペンで大きく、丸っこくて如何にも女子っぽい字で、それは書いてあった。
はは、なんだよ。
ちゃんと一言、残して行ってんじゃん。
彼女からの思わぬ贈り物に、自然と頬が綻ぶのが分かった。逸る気持ちを抑えて、扉に刻まれた置き手紙を目で追いかける。
そこに書いてあったのは――
「ただいまー」
妻の雛子が玄関を開けた音で、感傷に浸りきっていたしていた意識は一瞬で現実へと引き戻された。
そう。あれは、十五年前の出来事。子供の頃の、笑ってしまうくらい青臭くて、甘酸っぱい思い出。
「あれ? どうしたの?」
ベランダの長椅子に腰掛けてぼーっと夕日を見上げていた俺を一瞥して、雛子は不思議そうに聞いてきた。
「いや、ちょっと昔のことを思い出してた」
俺はなんでもない風を装って答えた。彼女も取り立てて興味をそそられなかった様で「ふーん」と素っ気なく返事をしてきた。
俺は一つ咳払いをしてから、雛子に向かって、唐突に話しだした。
「俺さ、小学生の頃、好きな女の子がいたんだ」
「へえ。それで?」
「でも、その子が、何て言うか……。いわゆる、いじめに遭っている子でさ」
「……」
突然の昔話にも関わらず、雛子は無言でじっと話を聞いている。俺は構わず続きを話した。
「その子、健気でさ。いじめられてるのに、仕返しとか全然しようとしなくて。で、最終的には、その子が転校していって、泣き寝入りでおしまい」
「……ふーん」
彼女は無表情を崩さない。しかし、その目は俺をしっかりと捉えていて、話の続きを促しているようにも見えた。
「でも俺、やっぱりその子がいじめられっぱなしのままなのが、どうしても我慢できなくってさ。そんで、いじめてたやつを特定して、こっそり復讐したんだよね」
雛子の眉が、ピクリと微かに反応したような気がした。
「そいつがやったように、掃除用具入れに閉じ込め返してやってさ。正直言ってあまり褒められた行為じゃないってのは分かっていたけど、まあ、目には目を、ってね」
「……そんなこと、してたんだ」
「若気の至りってやつだよ」
俺は肩を竦めて笑った。彼女も、口元だけで薄く笑ってくれた。
「……私にもあるよ。子供の頃の、青臭い思い出」
俺の思い出話に触発されたのか、雛子は俺の隣に腰掛け、ゆっくりと話し始めた。
「私、小学生の頃、いじめにあっててさ。それがもう結構陰湿で、家に帰ると私、毎日一人で泣いてた」
決して明るくない話題を、彼女は淡々と呟いた。俺は黙って、続きを促す。
「そんな時、一人の男の子に出会ったの。そいつ年上だったんだけどさ、すんげえ生意気で。……でもそいつは、決して私のことをいじめたりしなかった。むしろ、独りぼっちでいる私を誘って、毎日のように遊んでくれたの。私、それが本当に、どうしようもないくらい嬉しかった。だけど、やっぱり子供ってダメだね。照れ臭くて、結局一度も素直にお礼を言えなかったよ」
「そっか」
俺は彼女から視線を逸らす。斜陽がいやに眩しい。二人の間に、夏のそよ風が吹き抜けた。
「ねえ」
しばらく二人で押し黙っていると、やがて雛子が、おずおずと口を開いた。
「なに? 雲母」
静かに彼女の方を向き、あえてあの頃の――思い出の名前で、呼んだ。
「今はもうキララじゃないし。苗字変わったし。……あんたとおんなじのに」
そう言って、いつかと同じ勝気な瞳で、俺を見返してくる。
照れくささで自分の顔が熱を持っているのがわかる。真っ赤になっている彼女の顔も、きっと熱いだろう。
彼女は一度顔を逸らし、深呼吸をしてゆっくりと肺の中身を入れ替える。
次に顔を向けたとき、彼女はにっかりと、俺を見て微笑んでいた。
十五年前と同じ、眩しそうな笑顔だった。
「一緒に遊んでくれて、本当に、本当にありがとう。大好きだよ」
あの時扉に書いてあった言葉を、キララだった彼女は、一言一句違えず口にした。
「どういたしまして。俺も、大好きだよ」
そうしてやっと俺は、扉に書かれた置き手紙の返事を返すことができたのだった。
【了】
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