オリオン座-3
「大ちゃん、元気?」
「え? ああ、うん」
突然の質問にたじろいだけど、泉の声が明らかに弾んだ。ちょっと待ってて。短く言うと、電話を手から離したのか少し雑音が入った。しばらくして、少し離れたところから、「大輔、コンニチハは」泉の声が聞こえたと思ったら、
「コンニチハ!」
「ごめん、この子ばかみたいにでかい声出した」
泉が本当に申し訳なさそうな声で謝るので、ううん、いいのいいの、と笑った。
「ていうか大ちゃん、しゃべれるようになったんだ」
「うん、一応。まだぜんぜん片言だけどね」
照れたように誇るように笑う。わたしは初めて会ったときの泉を思い起こす。飄々とした、まるで十八歳には見えない雰囲気をまとった美人。それが十年でこんな笑いかたを覚えるのだから不思議だ。少なくとも泉はこの十年間で何か得たものがあるんだな。なんだか置いてけぼりを食らったような空洞を覚える。それを察したかのように、泉が十年前と同じ口調で言った。
「そうだ、歩、遊びにおいでようちに」
「え――いいの」
「うーん、まあ、分かんないけど、いいんじゃない? あの人、ってダンナだけど、日曜いっつも空けてるし。なんかねー家族団欒のためだっつって。ばかみたいって言っちゃだめかな――あ、来週の日曜、どう」
「わたしは大丈夫だけど……あのさ、ひーくんも一緒に行っていい?」
もちろん。かるーくあかるーくすばやーく。三拍子揃った素敵なお返事。わたしは肩まで入っていた力をゆっくり抜いて、布巾を手から離す。その手を鼻の前に持っていってみると、洗剤のかすかなオレンジの香りが、鼻腔をするりとすり抜けた。あ、オレンジ、食べたいかも。
「じゃあ日曜、昼過ぎでいいかな?」
「うん、うん。一日家いるし何時来てくれても大丈夫」
「そっか、ありがと、じゃあ日曜に。それまではひーくん死なせないわ」
冗談に紛らせたつもりだったけど、泉がちょっと押し黙った。眉をひそめて言葉を探す様子が、くっきりと脳裏に浮かんだ。
「いつ死んじゃうとかさ、ひろとくん、決めてないの」
彼女らしい直球の質問に思わず笑ってしまいそうになって、慌てて頬を引き締める。
「うーん、決めてるのは決めてる、けど」
「けど何」
「あんま頼りにならないというか」
「何それ、ていうかいつなの?」
オリオン座が見えた夜。わたしはゆっくりとそう発音した。そう、確かに彼はそう言った。そしてここ最近、毎晩熱心に夜空を見上げている。
「オリオン座?」泉はちょっとほっとしたように繰り返した。「あーよかった、今まだ九月だし、ぜんぜんまだまだじゃん。それまでにはきっとひろとくん忘れてるよ」
だといいけどな、とわたしは答える。ほんと、そうだといいんだけどな。
それから少し他愛ないことを喋り、大ちゃんがお腹空いたと騒いでいるようだったので電話を切った。時計を見るとまもなく二時という感じで、茹でたパスタに潰した梅としそを絡めたスパゲティを作ることにする。食べたら買い物に行こう、そう、オレンジも買おう。窓を開けていても汗が滲むので、仕方なくクーラーを入れた。
そう、まだ九月で、まだ暑くて、夏よりの気候ではあるのだ。
あるのだ、けど。