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第四話 「紙はあった。希望は——」

とある大国の大統領が、世界の人々を戦争に巻き込み、政治ゲームを続けている。


その全部の起点に「俺がディールしてやる」という一人相撲じみた思想があって、その煽りで日本のスーパーの棚は空になるかもしれない。


80年前の戦後統治による呪縛が、ガソリンスタンドの価格表示によって解けるとしたら——歴史の皮肉としてできすぎているが、十分ありえる話だ。


考える頭はある。動機が生まれた。あとは怒りが正しい方向に向かうかどうか。



本作はイラン戦争に関してのsonnet4.6と筆者とのやり取りの中でたどり着いた現代資本主義の本質と、それを超えていく新たな思想を、小説という媒体に落とし込んでみたものです。sonnet4.6と筆者の合作、初投稿ですので構えずに気楽に一読くださると幸いです。

転生から三ヶ月。

世界は音を立てて急速に、確実に変わっていた。


ガソリンは二百二十円を超えた。

電気代の請求書を見た同僚が「流石に高すぎて、生活が苦しい」と言った。

スーパーの棚の一角が、がらんどうになってしばらく経つ。輸入品のコーナーだ。包装に使うプラスチックの原料が上がったせいで、一部のメーカーは生産を絞っているという。合成繊維を使った安い衣類も値上がりが始まっていた。

職場の国木田が言った。「最近は物が高くてさあ。給料上がらないのに。政府は何やってんだろうな」

五郎は内心思った。政府は「支持します」と言っていたじゃないか、と。


その日の昼飯時、チャンが言った。「ゴロウ、面白いことに気づいたぞ。ヤポニアのニュースを見てると、物価が高くなった理由を説明するとき、アメリアの名前が出てこない。『国際情勢の影響』という言い方をする。誰のせいかを言わないんだ」

「面白くはないだろ。だがまあ、意図的なんだろうな」

「メディアも怖いのさ。アメリアのせいと書いたら、何か叩かれると怯えてる。その自己検閲がずっと続いてる」

ブラッドが珍しく真剣な顔で言った。「俺のおじさん、ジャーナリストなんだけど、アメリアのメディアも似たようなもんだって言ってた。戦争が始まると、政府の方針に反する記事は書きにくくなるって。愛国心という名の圧力がかかる。どこの国も同じだな」

アリが言った。「俺の国のメディアはもうない。建物ごと壊された」

また、沈黙が落ちた。


◆ ◆ ◆


その夜、五郎は長い時間をかけて考えた。

資本主義政治の現在地と未来についてだ。


今の世界を眺めていると、資本主義政治の業とも言える共通点が見えてくる。彼らは必ず「外敵」を必要とする。シンワが脅威だ。移民が危険だ。ロシニアが攻めてくる。イスラニアが核を持とうとしている。外敵を示すことで団結を促し、権力を維持する。

トランペットもそうだ。イスラニアを「悪」と定義することで、今回の戦争の正当性を作り上げた。ネタニャンは——五郎はイスロンの首相のことを調べていた——汚職の裁判を抱えているが、戦争が続く限り裁判は止まる。

彼らにとって平和とは、外敵の消滅ではない。次の外敵が現れるまでの空白だ。


一方で、スペリアのサンチェが「ノー」と言った動機は何だったろうか。イデオロギーではない気がする。ただ、「うちの国を、国民をこの戦争に巻き込みたくない」という内向きの、自分たちの生活を守りたいという衝動だった気がする。

アリが市場の話をした時もそうだ。あれはイデオロギーではない。ただ「金曜日に父親とスパイスを買いに行けなくなった」という、守りたかった日常の、その喪失の話だった。

世界中の「普通の人々」が静かに「嫌だ」と思っている。宗教も党もイデオロギーも違う、でも確かにある同じ向きへの力。それが今、ガソリン価格の上昇とともに少しずつ可視化されてきているのではないか。


五郎はノートに書いた。


「資本主義とは外部がないと成り立たない。二元的で副次的な思想だ。それに対して今の時代の反発は、必ずしも外部を必要としない。ただ自分たちの生活を穏やかに過ごしたいという内側から湧き上がる一元的な衝動だ。マルケスの言った階級闘争でも革命でもない。もっと静かで、もっと根本的な何かだ」


◆ ◆ ◆


翌週月曜日、五郎は出勤途中にいつものガソリンスタンドに寄った。

価格表示を見た。

レギュラー、二百三十八円。

隣に並んでいた中年の男性が、表示を見て舌打ちをした。そして堪えきれずと言った雰囲気で吐き出した。

「なんでこんなに高いんだ。政府は何やってんだ」

五郎は思い切って声をかけた。

「中東戦争で、石油の値段が上がってるんですよ」

男性は振り向いて言った。「そんなのとっくに知ってるよ。全く困るよな、イスラニアも戦争なんてやめてくれれば良いのに」

「その戦争を始めたのはアメリアとイスロンなんですが」

男性はしばらく黙った。それから言った。

「まあ……でもアメリアにも色々事情があるんじゃないか」

五郎は「そうですね」と言って、その場を離れた。

まだ早い。もう少し価格が上がれば、「事情」より「怒り」が先に来るようになる。


休日の昼、雨が降りしきる中、チャンおすすめのソバ屋に二人で行った。

チャンが言った。「ゴロウ、最近顔色が悪いな。恋の悩み以外なら聞くぜ」

「考えてるんだよ。ヤポニアが動けるようになるには何が必要か」

「またお前は。シンワ4000年の歴史に学びたいってことかい」、チャンは人好きのする笑みでおどけてから、

「一番必要なのは痛みだ」と真顔になった。「人間も国家も、本当に痛くなるまで動かない。今の物価高はまだ『不快』のレベルだろ。でもこれが『死活問題』になったとき、初めて人は本気で怒る。そしてその怒りが正しい方向を向けば、歴史が動く」

「正しい方向って」

「なぜこうなったか、原因を理解すること。中東のせいでも移民のせいでもシンワのせいでもなく、八十年間アメリア一国に依存してきたこと、その依存がGHKにより意図的に作られたこと、そしてその構造から抜け出す選択肢を潰されてきたこと、そこに怒りが向いたとき、初めて本物の変化が起きる。」

「今日もよく喋るな」と、熱く語るチャンに気のない返事を装いながらも、五郎はその言葉をそば湯で反芻していた。


◆ ◆ ◆


その夜も、五郎はトイレに入った。

棚を開けた。ロール、十八個。毎夜確認するのが癖になった。転生してすぐさま買い増した分が、まだまだある。

便座に座って、前世のことを考えた。

楼和四十八年。あの日は、紙がなかった。石油と紙が、世界情勢と日常が、どう繋がっているか分からぬまま、自分はトイレにて果てた。理由を知らぬまま、恐怖に塗り潰された。

今世の自分には、理由が分かる。分かりすぎるくらい分かる。

でも分かっているだけでは、世界は変わらない。

ガソリンスタンドの男性は「事情があるんじゃないか」と言った。山田部長は「アメリアが言うんだから正しい」と言った。国木田は「なんか最近物が高い」と言った。

三人とも悪い人間じゃない。ただ、繋がりが見えていない、耳目を塞いでいる、ごく普通の隣人たちだ。

彼らが自らの力で、見て、聞いて、理解した時に何が起きるか。

五郎には、なんとなく分かる気がした。前世で、あの瞬間に——紙がないとわかった瞬間に——感じた、あの恐怖と怒りのない交ぜになった激情。あれが何百万人、何千万人の単位で湧き上がったとき、社会は動く。

問題はその怒りが、どこへ向かうかだ。

シンワのせい、と言われれば人々はシンワを憎む。移民のせい、と言われれば移民を憎む。そういう誘導がいつも行われてきた。

でも今回は、因果関係がシンプルだ。

誰が引き金を引いたか、誰がハルムズ海峡を不安定にしたか、中学生でも分かる話だ。

スマートフォンの時代は、嘘をつくコストが上がった。ならばこそ己自身だけでも自分の心に誠実であるべきではないか。


五郎はトイレを出て、ノートの最後のページを開いて、書き付けた。


「前世、俺はトイレで死んだ。紙がなくなる絶望で憤死した。今世、紙はある。でも中東が燃えている。世界の構造は変わっていない。変わったのは、俺が理由を知っていること。


俺一人が知っているだけでは世界は変わらない。

でも知っている人間が一人増えるたびに、何かが少しずつ変わる、と信じる。

俺は前世で何も知らずに死んだ。

今世では、ガソリンスタンドで一人に話しかけた。

それだけは、確かに違う」


いつか書いたノートのページを開く。

「第一幕:脅威を作る。

第二幕:救済者として登場する。

第三幕:戦争を起こす。

反省ゼロで第一幕に戻る。」

上から大きくバツをつけてみた。あさから降っていた雨は、いつしか止んで、雲の切れ間から半月が覗いていた。


窓を開けると、夜の港の匂いがした。

近く、タンカーの汽笛が鳴っている。

中東に行く船か、それともどこか別の場所へ向かうのか。

五郎は目を閉じて、波音と汽笛を浴びて、自身が世界に溶けていく心地を味わっていた。

波には国境などわからないだろう。

翻って、国家はそれを作り、時に互いの民族を、宗教を、格差を憎み合い、外敵を探し続ける。

——きっと明日もアリは笑わない。——

でも俺は信じている。

アリも、チャンも、ブラッドも、国木田も山田部長も、ガソリンスタンドの男性も。アメリアの大統領だってきっと、互いに受け容れられるのだ、と。

前世トイレで憤死した男は今日もどこかで、世界への希望を、未来への祈りを、紡いでいる。

この話はフィクションです。ヤポニアはヤポニアで、アメリアはアメリアです。イスラニアはイスラニアです。現実とはあまり関係ありません。

ただ、ガソリンスタンドの価格は、現実と同じかもしれません。

レジで並んでいた老婦人の「なんでこんなに高いのかしら」という独り言も、現実と同じかもしれません。

一人一人の独り言が重なって、世界を優しく変えてくれる未来を夢見て。


——おしまい——

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