第一話 「俺はトイレで死んだ」
とある大国の大統領が、世界の人々を戦争に巻き込み、政治ゲームを続けている。
その全部の起点に「俺がディールしてやる」という一人相撲じみた思想があって、その煽りでヤポニアのスーパーの棚は空になるかもしれない。
80年前の戦後統治による呪縛が、ガソリンスタンドの価格表示によって解けるとしたら——歴史の皮肉としてできすぎているが、十分ありえる話だ。
考える頭はある。動機が生まれた。あとは怒りが正しい方向に向かうかどうか。
本作はイラン戦争に関してのsonnet4.6と筆者とのやり取りの中でたどり着いた現代資本主義の本質と、それを超えていく新たな思想を、小説という媒体に落とし込んでみたものです。sonnet4.6と筆者の合作、初投稿ですので構えずに気楽に一読くださると幸いです。
楼和四十八年、秋から冬に季節が変わる頃。
田中五郎、享年四十二歳。死因 ——トイレットペーパー不足によるストレス性心臓発作。
あの日、休みだと言うのに、五郎は朝からおかしな胸騒ぎを感じて浮ついていた。
ラジオからは奇妙なニュースが流れ続けていた。中東の産油国が石油の輸出を制限する、という話だ。石油。五郎には関係のない話に聞こえた。石油は工場や自動車のものだ。港湾で働く自分には、少々燃料代が上がるくらいの話だろうか。
ところが昼前に妻の幸子が青ざめた顔で帰ってきた。
「近所のスーパーも、駅前の薬屋も、どこにも紙がないの。トイレットペーパーが全部消えたって」
五郎は最初、笑った。
「紙がなくなるわけないだろう。中東の石油とヤポニアの紙は関係ない」
しかし幸子の顔は笑っていなかった。テレビをつけると、主婦たちがスーパーの前で殺到している映像が流れていた。棚が空だった。本当に空だった。段ボールの切れ端すら残っていなかった。
五郎の胸が締め付けられ始めた。
なぜ紙がなくなる。石油がなくなると紙もなくなるのか。そういえばトイレットペーパーはパルプで作るが、パルプの工場は重油を使うのか。重油が高くなれば生産が落ちる。生産が落ちると店頭から消える。そういう理屈だろうか。
翌日からも五郎は変わらず仕事に出ては、やってくる船の荷揚げを続けていた。年の瀬が近づく中、船の数は目に見えて減ってきていた。現場のトイレにはご丁寧にも、「トイレットペーパー持ち出し厳禁!」の張り紙がされている。
夕方、仕事を終えて帰宅しようとした五郎は、永倉社長に呼び止められた。永倉は俯きながら「ほんと悪いんだけど、船が向こう3週間、もうずっと予定がないんだ。申し訳ないが来月からは、五郎くんにしてもらう仕事はないので」いわゆる死の宣告だった。
—— 待ってくれ、俺はこれからどうすれば
喉まで出かかった声を飲み込み、「分かりました、、これまで、お世話になりました」と伝えられたことに意味はあったのだろうか。
家までどうやって帰ったかは、定かではない。物資を探しに、隣町のデパートまで行っている幸子が帰ったら、何と説明しようか。自宅のトイレに篭り、棚を確認した。最後の一ロール。幸子が最後に買い置きしたやつだ。あと何日もつ。一週間か。それとも十日か。その間に新しいのが手に入らなかったらどうすれば良い。俺はこれからどうすれば良い——
将来の不安に胸が、ぎゅっと痛んだ。
視界が明滅を繰り返す中、五郎は便座の上で、滑り落ちるように崩れ落ちた。
最後に聞こえたのは、ラジオの声だった。
「——石油危機の影響は、今後ますます深刻化すると見られ——」
うるさい、と思った。
俺にとっては紙の話なんて、雑音だ。静かにしてくれ。
——そして意識が、消えた。
気がついたら、見知らぬトイレに座っていた。
白くて清潔そうな壁紙、見たことのない形の照明。足元には薄い板のようなものが落ちていて、それが光っていた。今気づいたが、便座の横にはいくつかボタンもついているらしい。
体を起こすと、横に鏡があった。映っていたのは三十歳くらいの男の顔だった。自分の顔だが、自分の顔ではない。若い。楼和四十八年の自分よりずっと若い。
界和8年。
その時なぜだか五郎は、ハッと状況を理解した。転生というやつだ。死んで、別の時代の別の体に入り込んだ。名前は田中ゴロウ、前世と同じ字を書く。港湾関係の会社に勤める独身の会社員。同姓同名、仕事も港湾関係のヤポニア人とは、いったい何の因果か。
五郎が真っ先に確認したのはもちろん。
便座から立ち上がり棚を開いた。
——ある。
ロール十二個入りのトイレットペーパーが、どんと鎮座していた。
五郎は床に膝をついて泣いた。こんなにも嬉しかったのは、幸子が結婚を受け容れてくれた時以来だと思った。前世で死ぬ間際に感じた脅迫にも似た激情——あの、紙がなくなるかもしれないという根源的な恐怖——が、ようやく消えていく気がした。
泣きながら、五郎は思った。よかった。これでもう大丈夫だ。
しかし涙が乾くより先に、傍らの光る板——スマートフォンというものだと、体の記憶が教えてくれた——のニュース画面が目に飛び込んできた。
「イスラニア共和国への空爆、三日目に突入。アメリア合衆国とイスロン王国が安保理の承認なく共同軍事作戦を継続。ハルムズ海峡、機雷敷設の恐れ——原油価格、一バレル百十ドルを突破」
五郎は画面を、しばらく見つめた。
ハルムズ海峡。
中東の石油。
価格高騰。
——また石油か。
前世の記憶が一気に蘇った。あの頃と同じ匂いがした。胸の奥で、楼和四十八年の空気が戻ってきた。
違うのは、スマートフォンがあることと、自分がすでに「この話の結末」を知っていることだ。
五郎はゆっくりと立ち上がり、スマートフォンを握り直した。
「俺、似たようなのを前に経験してるぞ」
棚のトイレットペーパーを一本取り出して、手の中でくるくると回した。
今は十二個ある。でも、この戦争が長引いたら——
五郎は棚を閉めた。今度は戦略的に備蓄しないとな、と気を引き締めた。そしてそれより先に、なぜこうなっているのかを理解しなければならない、とも思った。
前世の自分は理解できなかった。そのままトイレで絶望して死んだ。
今世の自分には、時間がある。
◆ ◆ ◆
翌日から五郎は、ひたすらニュースを読み込んだ。
職場に行くと、同僚の国木田が言った。「ゴロウ、また中東が燃えてるな。でもまあ遠い話だよな」
五郎は何も言わなかった。
遠い話。前世の自分もそう思っていた。石油と紙は関係ないと思った。
でも全部繋がっていた。
石油が止まると、工場が止まる。工場が止まると、物が消える。物が消えると、人が死ぬ。直接ではなく、じわじわと、静かに。
五郎はスマートフォンに情報を打ち込んでいった。ヤポニア共和国の石油輸入のうち、中東依存は九十五パーセント。ハルムズ海峡が封鎖されれば、備蓄は約二百日分。その後は——
国木田が続けて言った。「やっぱりアメリアが正しいんじゃないか?イスラニアは核を持とうとしてたんだろ?」
五郎はまた、何も言わなかった。
今はまだ、言えない。
言っても誰にも届かない。
でもいつか届く日が来ると、五郎は思った。ガソリンが二百円を超えて、スーパーの棚が薄くなって、電気代の請求書を見て人々が嘆き始め、この世界の正体に自ら気づき始めた時——その時、初めて言葉は届く。
五郎はノートを取り出し、最初のページにこう書いた。
「前世、俺はトイレで死んだ。今世、俺はトイレットペーパーがなくなる理由を知っている。それだけが違う」
窓の外に見える埠頭に、タンカーが一隻泊まっている。
どこから来て、どこへ行くのだろう。なぜだか、五郎はしばらく目を離すことができなかった。
この話はフィクションです。現実とはあまり関係ありません。




