5話:二人の放課後
「じゃあそろそろ号令お願いします。」
前田先生の声に合わせて、クラスの誰かが立ち上がる。
「気をつけ、れい。お願しまーす。」
軽快な声とともに、朝の空気がぴんと張る。
続けて体育係が前に出てきた。
「来週は体育祭があります。今日のショートホームルームで出場する種目を決めてください。ムカデリレー、騎馬戦、やり取り、障害物リレー。一人複数参加できますが、一人ひとつ以上参加必須です。」
一瞬の静寂ののち、教室はざわめきに飲み込まれる。
「俺、ムカデリレーと騎馬戦やりたい! 俺が全部とる!」
「はぁ?ずるいだろ。」
笑い声と野次が飛び交い、黒板の前は小さな戦場のようだ。
「隆誠は何やるの?」
昂が身を乗り出してくる。
「んー……ムカデリレーかな。やったことないし、面白そうだし。」
「いや、あれ地獄だぞ。全身筋肉痛になるらしい。」
「そんなに?……やっぱやめようかな。」
口ではそう言いながらも、内心では“何か一つは役に立ちたい”と焦りがある。帰宅部で体力もない僕にとって、体育祭は正直荷が重い。それでも、瀬那さんの前で情けない姿だけは見せたくなかった。
放課後。
今日は瀬那さんと帰る約束をしている。病院に寄るから勉強は一緒にできないそうだ。トイレで手間取り、気づけば校門へ急ぎ足。夕暮れの逆光の中に、彼女の細い後ろ姿が見えた。
「瀬那さん!すみません、待たせました。」
「一分遅刻!女の子を待たせたらダメだよ?」
顔を膨らませて少し赤くなっている。やべ、怒ってる....。
「本当にごめんなさい。トイレに行ってて。」
必死に弁解する僕に、瀬那さんはすぐ笑顔を戻す。
「嘘だよーん。全然間に合ってるよ。」
「え?あーびっくした。」
「私演技うまいでしょ?」
「心臓に悪いからやめてください。」
「ふふっ。」
他愛ないやり取りに救われる。
彼女といると、日常の緊張もくだらない失敗も、不思議と許される気がする。
「隆誠くん、自転車だよね? 私、バスできたんだ。」
「じゃあ、自転車置いていきます。」
自然にそう言っていた。ほんの少しでも長く一緒にいたいから。
「え? これ、後ろに座れそうじゃん。」
・・・ん?
さらりと放たれた言葉に、心臓が跳ねる。何を言い出すんだこの人は。
「いやいやいや! 危ないですし、僕捕まりたくないです。」
「大丈夫大丈夫。私も一緒に怒られてあげるから。……ね?一回くらいしてみたかったんだ」
そう言うや否や、ひらりとサドルの後ろに腰掛ける。そんな顔されたら断れるわけもなかった。
「……わかりましたよ。何言われても知りませんからね。」
こうなれば逆らえない。肩越しに感じる彼女の気配に、鼓動が制御不能になる。
「安全運転でお願いしまーす。」
両手が肩に触れた瞬間、背筋が硬直した。柔らかな体温が伝わってくる。
⸻
風を切って走る。
最初は周囲の視線が恥ずかしくて仕方なかったが、やがてその感覚も薄れた。橋を渡り、長い下り坂に差しかかる。
「いーーやっほーーー!」
突如、背後から腹の底を突き上げるような声が響いた。
「ちょっ、瀬那さん!? 声大きいですよ!」
「だって気持ちいいんだもん! 最高ー!」
笑い声に釣られて、こちらも笑ってしまう。
あぁ、こんなに楽しそうな瀬那さんを見るのは久しぶりだ――。
だが、次の瞬間。
背中に彼女の腕が回り、顎が肩に乗る。
「うわっ!」
驚いてブレーキを少し強く握ってしまった。
「キャッ!」
ガタンッ、と大きな衝撃。自転車が大きく揺れる。
「いったぁ……。ちょっと気をつけてよ。」
尻をさすりながら、彼女はむくれた表情を見せる。
「す、すみません! もう二度としません!」
いや、そもそも抱きついてきたのはそっちじゃないか――と喉まで出かかったが、呑み込む。代わりに耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく鳴っていた。
体温。匂い。
久しく忘れていた“人のぬくもり”が、背中に残っている。
「そういえば、体育祭の種目は?」
沈黙を破るように瀬那さんが言う。
「僕、ムカデリレーになりました。」
「えー!去年やったけど大変だったよ?一番疲れるやつ。」
「やっぱりそうなんですか……大丈夫かな。」
「タイミングずれると全員で転ぶから。練習あるのみだね。」
「瀬那さんは?」
「私は騎馬戦の下だよ。あんまり激しく動けないけど。」
病院に通う彼女の体を思うと、不安がよぎる。
それでも――彼女は笑って言った。
「でも、思いっきり楽しみたい。最後だしね。」
「はい!お互い頑張りましょう。」
それから特に何事もなく瀬那さんを病院まで送り届けた。余命一年。その言葉が、再び心の中で重く響いていた。これから勉強しなきゃいけないのに彼女の事で頭がいっぱいになった。
(美川瀬那・視点)
放課後の校門。少し早く着きすぎたみたい。
五月の夕方はまだ柔らかいはずなのに、太陽の熱が肌を刺すように感じる。最近まともに運動していないせいか、すぐに息苦しくなる。……情けないな、私。
「瀬那さん!すみません、待たせました!」
声をかけてきたのは、少し息を切らせた隆誠くんだった。ほんの数秒しか待っていないのに、全力で走ってくるその姿に胸が温かくなる。わざと冗談を言ってみた。
「一分遅刻!女の子を待たせたらいけないよ?」
すると彼は顔を真っ赤にして、慌てふためく。
「本当にごめんなさい。トイレに行ってて」
――あぁ、もう。ほんと、すぐ信じちゃうんだから。
「嘘だよーん。全然間に合ってるよ。」
「え?あーびっくした。」
「私演技うまいでしょ?」
少し見上げるように言うと、彼は苦笑いしながら「心臓に悪いからやめてください。」と返す。その言葉に、思わず笑ってしまった。
本当に可愛いな、この子。
「隆誠くん、自転車?」
「はい。でも置いていきますよ。」
そう言われて、胸がきゅっとした。
――そんなふうに気を遣わせたくないのに。むしろ私が隣に並びたい。
だから、思わず口が動いていた。
「え?この自転車、後ろに座れそうじゃん。」
言った瞬間、自分の顔が熱くなる。なに言ってるの私。恥ずかしい……けど、ずっとやってみたかったんだ。生きているうちに。
彼は必死に拒否する。その真面目さが可笑しくて、つい意地悪を続ける。
「大丈夫。大丈夫。私も一緒に怒られてあげるから。ね?一回くらいしてみたかったの。」
そうして勢いで後ろに座り込んだ。
「……わかりました。何言われても知りませんよ。」
不満げに見えたけれど、結局は許してくれる。――やった。心の中でガッツポーズ。生きててよかった。
「安全運転でお願いしまーす。」
そう言って彼の肩に手を置いた。
思ったよりもがっしりしている。あ、男の子だな……。
彼の背中は思っていたよりも広くて、熱を帯びていて、少しだけ安心する。最初は怖かったけど、風を切るうちに恐怖は薄れて、ただ心地よさが残った。視界を横切る街並みがきらめいて見える。
「いーーやっほーー!」
我慢できずに叫んでしまった。自分でも驚くくらい大きな声。
彼が慌てて「声が大きいですよ」と振り返る。
――でもいいじゃない。楽しいんだもの。
それでも、坂道のスピードにふと怖さを覚え、反射的に腕を回して彼に抱きついてしまった。
「ウワっ!」
「キャッ!」
自転車が揺れ、強い衝撃。思わず尻をさすりながら苦笑いする。
「痛ったー……。ちょっと気をつけてよ。」
強がって言ったけど、本当は自分のせい。
すると彼は真剣に謝ってきた。
……なんだろう、隆誠くんの背中。やけに暖かくて、心臓の音が伝わってくるような気がして。
頬が熱い。慌てて両手で顔を触る。
――今の私の顔、誰にも見られたくない。
「そういえば、体育祭の種目は?」
話題を変えるように尋ねた。
「ムカデリレーになりました。」
「去年やったけど、大変だよ。ロープが擦れて痛いし、タイミングずれたら全員で転ぶし。」思い出すだけで苦笑してしまう。
「瀬那さんは?」
「私は騎馬戦の下。あまり激しく動けないけど。」
「でも、思いっきり楽しみたい。最後だし。」隆誠くんは真剣な顔で「お互い頑張りましょう。」と答えてくれた。
……ほんと、優しいな。
病院の前まで送ってもらい、手を振って別れる。振り返ると、背中が小さくなるまで自転車を漕ぐ彼の姿が見えた。私も、クラスのために頑張らなくちゃ。軽くランニングでもしてみようかな。体がどこまで持つかわからないけれど。胸の奥に、まだ彼に告げていない“病気の詳細”が重く沈んでいる。
いつか、ちゃんと....話さないとね。




