1.
それは白くて眩しい午後の日差し。
それは新緑が照らす緑の影。
それは私のではない華やかなドレスが放つ煌めき。
それは…私ではない誰かの白くて美しい柔な手。
貴方が握るのは…他の誰かの手
そして重なる唇…
彼らは庭園で沢山のゲストに盛大に祝われ永遠の誓いをしているのだ。
私は無言で胸に抱えて持っていた大量の事務書類を窓の前に置かれた花台にバサっと置いた。
窓から溢れる外からの光は私以外を照らし、本日侯爵家の庭園で豪奢に飾り付けられた飾りの中心には私の幼い頃からの婚約者が、私の知らない令嬢と色とりどりの紙吹雪が舞う中仲睦まじく笑い合っている。
私はたまたま侯爵の執務室へ至急の確認事項があった為、一人本邸の長い廊下を歩いていたのだ。
そう言えば今日一日部屋の外に出ないようにと言われていたかも知れない。皆、この庭園での祝いに参加していたのか、よく見れば侯爵家で働くいつもの顔ぶれである文官達や離れの使用人達の顔もちらほら見える。皆んな拍手をしながら楽しそうに笑っていた。
「ああそう…そうなの…私だけが…」
知らなかったのね。
今置いた書類の束に目を落として私は声にならない声で呟いた。
まるで私だけが切り取られた空間に居るようだ。
貴方にとって私は何だったのだろう。
私はあの人の婚約者ではなかったのだろうか…なら、あれは?今ここで観ているだけの私は…何者なのだろう。何故…ここに…
ふらっと今来た廊下に踵を返した。次第に駆け足になりハァハァと息を弾ませ自分の自室に走って戻った。私には専属侍女はいない。以前はいたのだ。でもいつしか全ての支度は自分でするようになっていた。
「急がないと…きっと今しか…」
婚約者である私が花嫁修行と言う名目で侯爵家の門を潜ってから約四年。肝心の結婚は執り行われる事は無かった。理由は侯爵家の事業不振だと言われた。私の実家からの持参金も少なく借金がある為返済が落ち着いたら、などと説明された為、私は借金返済の為持ち得る知識を総動員して力を振るう事にした。
それも全て彼の為に…二人のこれからの幸せの為に…と頑張って来たのだ。
自室の必要な物だけ鞄に詰め込んで部屋を出る。荷物が少なくて自分でも驚いた。
ここは敷地内の離れだ。今日のパーティーの用意で使用人達も本邸に呼ばれているのだろう。厨房の裏口から簡単に屋敷の外に出る事が出来た。普段買い物に出る事すら許されない私には、唯々肩透かしだった。見張り一人置かないとは、四年と言う月日で随分と関心が薄れたものだ。
「実家には、戻れないわね。手紙すら来ないし守る事も出来ないでしょう…なら…もう」
良いわよね?
書類の束より軽い鞄を肩に掛け、私は侯爵家をあとにする。
寝る間を惜しんで再生計画を立て綿密に計算して新事業を軌道に乗せる為あくせく働いた無意味な膨大な時間と、事業に関する多岐に渡る仕事の数々、そして愛していた筈の元婚約者と裏切った侯爵家を…
誰にも何も告げず全て投げ出し私は一人旅立ったのだった。
*
それから一月。流れ流れて行き着いたのは顔はウサギ体毛は羊、脚はダチョウ尻尾はキツネ。身体の大きさはトナカイほどもある「ミミルキー」と呼ばれる珍獣が生息する保護区のある島だった。
定期で立ち寄った運搬船に乗せてもらい外海に出て次の物資補給の地である中継地を経てマサラヤマン島へ。船の上だけでも二十日間を過ごす。
生まれて初めての一人旅。女が一人旅なんて危ないだろうと思われるかも知れないが私は少し伝手があった為無事にこの自然豊かな島まで辿り着けた。
「…貴方だけは私を見てくれていると思っていたわ…」
夕日が海に沈む様を宿屋の窓から暫く眺める。私の太陽は私だけのものでは無かった。逃げ出したあの日から一月経っても胸の痛みは治らない。
私は私の婚約者を愛しいと思っていた。優しい人だと思っていた。愛してくれていると信じていた。
彼はいつも朗らかに笑い掛けてきて、いつも私を凄いと褒めてくれた。私の銀の長い髪に綺麗な紫色のリボンを結んでくれたり、仕事を優先して欲しいと夜会やパーティーには呼んでくれなかったけど帰ったらケーキを渡してくれたっけ。
時々女物の香水の匂いが酷くしていたけれどそれでも彼の気遣いで我慢出来た。
侯爵家の事業を幾つも成功させ赤字を覆した私が、私こそが本当に必要な女で妻になるんだと…たったそれだけが心の支えだった。
結婚の話が宙に浮いて破棄にされていたのなら何故私にそう伝えなかったのか。何故屋敷に私を置いたままにしたのか。…勿論解っている。
「皆んな嘘つきね…」
**
小侯爵であるバレリオの結婚式が侯爵家の大庭園で行われた。現侯爵が事業に失敗し、借金が膨れ上がり、返済の為爵位を返上して国庫から借入を検討するまでになっていた四年前。侯爵はまさかこんなに早く借金が返せるとは思っていなかった。いや、返せる筈が無かった負債額を一人の神童とも言える少女がたった二年強で黒字に好転させたのだ。
少女は語学と数学に強く学校で経済学を専攻。十五の歳で八以上の語学を取得。王宮の外交官や財務官をも目指せる実力を持っていた。
見目も美しく銀髪を持つその少女をたまたま先代の遺言で嫡男のバレリオの婚約者にしていたのは侯爵家の僥倖であった。
持参金が少ないと言う理由で半ば強引に侯爵家に引き取り、失敗した事業を当時十五歳になったばかりの息子の婚約者に丸投げしたのだ。負債を抱えた侯爵家の最後の頼みの綱がこの才女だと言われている少女だったとは他家の者は知る由も無かっただろう。新事業も順調で、その伝で隣の公国の現公国妃の姪との縁談が持ち上がったのだ。受けない訳が無い。余りに身勝手な話だが、少女の家はしがない子爵。比べようも無かった。侯爵は少女を第二夫人にすれば良いとコリーンの婚約者である息子のバレリオに持ち掛け、バレリオもそれに同意した。
仕事ばかりで遊びにも行けず、強引に連れ出す事も出来ない。逆に華やかで可愛らしく自分を頼ってくれる公妃の姪に夢中になっていったバレリオは、二人の女を分け隔てなく愛すれば問題無いだろうと軽く考えたのだ。
しかしこの国では第二夫人とは名ばかりで、所謂公認の妾と言うだけの扱いになる。国に提出するような書類も無く、何の価値も権利も無い。
暫くの間は未来の侯爵夫人の扱いだった彼女は、以後未来の妾として扱われるようになった。侍女も付けられなくなり、本邸から離れに居を移され少しずつ婚約者と言う立場から消されて行ったのだ。だがその能力はずば抜けていて手放せるものでは無い。故に普段から逃げないよう監視を付ける程行動に制限を掛けていた。侯爵家は利益を生む金の卵である他家の子女を正当な理由無く軟禁していたのだ。
**
「わぁ!貴方がミミルキー?なんて素敵で不思議な動物!」
「マー」
「鳴き声が可愛いわ~」
「マー」
「体毛がピンク色なんて可愛い!でも大きいのね、背中に乗れそうだわ」
「マー」
「保護対象だからね、本来触っちゃいけないんだけど自分から近付いて撫でろって時はこう、わしゃわしゃしてやると喜ぶよ。気性が穏やかで懐きやすいんだ」
そう言ってミミルキーの身体をわしゃわしゃと撫で回すガイドの男。長いオレンジ色の硬そうな質の髪を後ろで一括りしていた。肌は褐色。精悍な顔付きで瞳は澄んだグリーンをしている。年齢は三十前後だろう。
ここマサラヤマン島は固有種のミミルキーを保護するガイド兼レンジャーが住んでいる。森を探索する際は必ず彼らと同行しなければならない。
「ふふ、素敵。もふもふで癒される…」
「わざわざここに癒されに来たの?」
「そうね…全部捨てて来たから。今まで行きたい所も行けなくて。たまたまこの島の事は知ってたから…」
「そう、長旅ご苦労様。いっぱい癒されてね。帰りはまた船かい?」
「帰り、かぁ。帰れないから次は何処に行こうかな…」
「あらら、帰る所までないか?困ったお客様だね~」
「ふふっ、大丈夫何とかするわ。婚約者がね私以外の人と結婚しちゃって…だから全部捨てて逃げて来たの」
「めちゃくちゃディープな人生だった…え?と言うか君ほど綺麗な女性を振るなんてそいつ何?何処の王様?」
「ふふ…ありがとう」
「…じゃあ、暫くミミルキーと過ごしてみたら?性質は穏やかで懐っこいし勿論俺に幾らでも話してくれて良いからな。そうだ、俺達お友達から始めよう!」
「ん?」
「大丈夫待つよ?ゆっくりいこう」
「ん?」
「あ、実は俺ガイドが本職じゃないんだ。普段は王宮に居たり…週一回くらいしか来れなくて…今日たまたまガイドに入ったんだけど。あ、宿は本島に?それともコテージか?」
「王宮って?あの…貴方は」
「ああ、この島を所有してるバムダ王国の第一王子ウィンダムだ。宜しくな!」
「はあっ?」
*
周辺は点在する島々が十二あり、その中心に比較的大きな島がある。長い歴史の間独自の進化形態を築き「獣人」と呼ばれる耳や目や尻尾など人間とも獣とも似て非なる様々な人類が誕生していた。
頂きに座するは魔法を操るウィンロードと呼ばれる種族で彼らを王族とした統治国家、それがバムダ王国だ。
「そう、ウィンロードのウィンダムだ。因みに下の弟はウィンマム。その下がウィントム。更に下がウィンニャム。更に父は…」
「あ、長くなりそうなのでもう良いです。えっと…改めまして、夜空に煌めく十二と尊いバムダの光が輝きますように。私はコリーンと申します、王子様」
王子の話している内容は自分に必要無いとスッパリと遮り丁寧な挨拶に切り替える。と、言うかこんな場所に何故王子が?信じて良いのかな?
「コリーン、出会えて嬉しいよ。君は肌が透き通るように白いし綺麗な銀髪だ。君の瞳は光を浴びた苺みたいに珍しいね。一目見た時から惹かれてたんだ。食べたいなって思ってた」
「ひぇっ目玉はお、美味しく無いです!」
思わずシュバっと両手で目を隠す。彼は獣人だ。もしかすると…目玉が好物…?
「ぷはっ!違う違う。そうじゃなくて…ああ、人間の女性にはこんな事言わないのか。獣人にはこれで伝わるんだけどな~、まあ良いか」
彼はそう言って朗らかに笑い飛ばした。どうやら目玉は食べられないらしい…私はホッと安堵した。
基本的に進化も種族も異なる彼らではあるが、出来上がったモノは人間も獣人も大して変わりが無かった。見た目や文化は人間同士でも違う訳で。生活環境であっても差して違いも無く、言葉も通じるし食べ物も共通している部分も多い。
まあ、目玉を食べる種族が居てもおかしくないが…彼は違うようだ。と、言うかウィンダム王子は普通に人型だった。尖った耳や尻尾なんてモノは付いていない。ウィンロードなら空を飛べる筈なのだが翼も生えていないのである。
ミミルキーをわしわし撫でている姿は、田舎の日に焼けた健康的な農場小作人のようだった。
「そうそう、言葉も流暢だよね。で、本当はどこ出身なの?」
「…大陸の東部辺りからです」
「え!?そんな遠くから一人で?」
「ええ」
「それは…帰る気は無いって事で良い?」
「はい、逃げて来たので帰りません」
隣り合って互いに別のミミルキーをわしゃわしゃ撫で回しながら呆然と私を見つめるグリーンの瞳。
確かに普通なら女一人大陸の東からなんて簡単には来られないだろう。数日では無い、数十日掛かるのだから。その間に命の危険が無かった訳ではないが、どちらかと言うと故意だったし、それ以外はかなり快適にここまで来た。
「…運が良かった、だけじゃないよね?」
「そうですね。お仕事関係で沢山の伝手がありまして…まあ、いずれどこからかバレるかも知れませんが、これからも逃げ回ってやろうかと思っております」
「追いかけて来るもんかな?」
「ええ、多分」
「その婚約…元婚約者が君を…諦めきれないって事?」
「いえ、そうじゃなくて…彼は私など何とも思ってはいないでしょう。他の女性と結婚するくらいですし…」
「まあ、そうかも知れな…ん?じゃあなんで?」
何故私を追いかけてくる必要があるのか…それには一つ二つ理由がある。だが別に意図してやった訳では無かったのだ。本当に、たまたま…まあこの自称王子に話すつもりは全く無いので私の話は終わりにする事にした。
「ところで王子様、ミミルキーは島にどれほど生息しているのですか?」
「ん?えっと…ざっと成体が五百個体ってところかな。これでも増えた方なんだ。五年程前大規模な密猟者集団が入り込んでね…相当数やられた。ミミルキーは食用には向いてないし、身体も大きい。珍しい毛皮目的で密猟されたんだ」
「…なんて事を…」
「皮を剥がされたミミルキーは弱ってそのまま。それからレンジャーを配置したんだ。彼らは強いよ?」
「…目玉を食べますか?」
「いや、ちが…何かごめん。一旦忘れようか、それ」
どうやら目玉は食べないらしい。
**
「は?コリーンが居なくなった?なんで!?」
小侯爵であるバレリオが報告を受けたのは結婚式から十五日経った頃だった。何故なら彼は新婚旅行に出ていたからだ。賑やかな観光地で可愛い一級品の新妻と今彼は人生で一番最高の時を過ごしていた。が、早馬で届けられた書簡に唯々血の気が引いていく。
「…子爵家にも帰らず?一体何処へ…?え?嘘だろ?」
そこには侯爵から元婚約者であるコリーンが姿を消した事、事業の業務を全て放置している事など事細かに書かれていた。
多岐に渡る事業は一つや二つでは無い。大小おおよそ三十以上もの事業を同時に手掛け、融資のみでも十以上ある。過去ドン底まで落ちた侯爵家は今や国内上位に名を連ねる程の投資家になっていたのだ。…だが、立案、計画、指示に駆け引き。全ての組み合わせを同時に回していたのは
コリーン一人だった。
何故なら彼女一人で全て完璧にこなせてしまえるから。数人居る文官もコリーンに頼りっぱなしで、日々複写程度の業務をダラダラ行っていただけだ。頭を使わず給金だけが労せず入って来る状態に誰が働こうとするだろうか。そして名前だけ貸せば何もせずとも潤う生活にいつしか慣れ沈んでいった侯爵家。だがそれは言い換えれば非常に危ない諸刃の剣である事を彼らは気付いていなかった。
「…困ったな。どうしてコリーンは出て行ったんだ?僕の事を愛していたんじゃ無いのか?酷いよコリーン!新婚旅行から帰ったら探しに行かなくちゃ」