表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄され、悪役に仕立て上げられたと思ったら…意外な人に助けられました。

作者: 弊順の嶄

 城下町の人々は、私のことを〝成り上がり姫〟と呼ぶ。

 不名誉なあだ名だが、貧困街に住む天涯孤独の町娘から、若き国王殿下の婚約者まで登りつめてしまったのだから、そう言われても仕方ない。むしろ、的確に表した名前だと思う。


 まるでおとぎ話のようだった。

 昔、町のならず者に乱暴されそうになっていたところを、たまたま通りがかった殿下が救ってくださったのだ。

 だけど私は、乱暴されそうになったこと、そして自身が住む国の王が目の前に現れたことに動転して、その場から逃げ出してしまう。その後、殿下は配下を総動員して、その場に残された靴だけで私を探し出した。

 なぜそこまでして私を捜索したのか理解できず、まさか不敬罪に問われるのではないかと恐々としていた私に、殿下はなんと「友人になりたい」と仰ってくださったのだ。


 それから私は殿下の命で、彼が別荘として所持していた城近くの小さな民家に通うようになる。

 程なくして殿下に見初められた私は、継母の家政婦を辞め、結婚までの間、彼とその家で同棲することになった。



 殿下は、絵に書いたような良き夫だった。

 一般的な常識や感覚を持ち合わせていない私には分からなかったが、見目もとても良い御方だと噂に聞く。

 外見の美しさは、貧民の私には分からないが、触り心地の良い癖毛や大きな瞳は、子供のようで愛らしいと思うことがある。


 だが、殿下との生活は、庶民の私には少し不自由だった。


 殿下と出会う前、私は継母の家で掃除から炊事、洗濯など、考えられうるあらゆる家事を熟していた。日々の雑務はお手のものだった。

 不自由だと感じたのは、厳密には生活にまつわることではない。


「……エラ」


 エラ。それは私の名前だ。

 声の聞こえた方を振り返ると、そこには一枚の紙を手にした殿下が立っていた。


「はい。どうなさいました?」

「これは……君宛ての手紙かな」


 宛名には〝シトルイ〟とあった。

 城下町で過ごしていた頃の古い友人だ。町で人気のパン屋の娘で、貧困にあえいでいた私にパンを分けてくれたりして、家族ぐるみで良くしてもらっている。気付けば、親友と呼べる間柄になっていた。


 そのことを伝えると、殿下は渋い顔をしながら、私にこう伝える。


「あまり……僕以外の人とは、連絡を取ってほしくないかな」

「え?」


 殿下からの予期せぬ要望に目を見張ると、彼はこう続けた。

 私は次期王妃になる立場なのだから、民衆とは距離を置くべきだと。

 だが、彼は民衆との距離が近いこと慕われている。私に対しては距離を置けと指示するのは、どうも納得がいかない。

 それに、彼女は一番仲が良く付き合っていた時間も長い親友だった。手紙まで断つのは、あまりに酷いのではないだろうか。


 その不満が顔に出てしまったようで、殿下は畳みかけるように更に続ける。


 彼が身を置く宮廷には、政略や謀略が渦巻いている。王室である故、臣下だけでなく、身内さえも信用できないのだという。なので、実の両親ですら、私には会わせたくないらしい。

 これは、彼が私とまだ友人だった頃から、繰り返し伝えてきた悩みだった。

 なので、絶対的な信頼を置くために、私には完全に交友関係を絶ってほしいのだという。


「その代わり、僕は君を一生愛するし、君のために何だってするよ。願いがあれば、いつでも言ってくれ」


 殿下はいつもそう言ってくれる。

 であれば、と、私は意を決して、わがままを言ってみることにした。


「友人の手紙……やっぱり、捨てたくありません」


 殿下の顔が曇っていくのが、ひしひしと伝わってくる。


「この子は女性です。男性であれば、どうしてもというなら連絡を絶ちますが……殿下にだって友人はいらっしゃるでしょう?」

「それは……古い友人だからさ。それに、王族の建前ってのがある」


 古い友人というのであれば、私だってそうだ。

 そう言おうと口を開くも、その手前で彼に言葉を遮られてしまう。


「君まで僕を見捨てるのかい?」


 そう言われてしまうと、もう言い返せなくなってしまった。


 きっと、私に完全な信頼を置きたいのだろう。

 愛する人のためだ。この先のためにも、嫌がることは極力したくない。


「大丈夫だよ。私がずっと守ってあげる」


 そう言って、殿下は私の頭を撫でる。

 だが、殿下のその言葉は守られることはなかった。


 別れの時は、何の前触れもなく訪れた。



「婚約を解消してほしい」


 ある日の午後。昼食が終わった後、殿下は突然そんなことを言い放った。


「……え?」

「精神的に不安定でね……これ以上、僕のわがままに君を巻き込むわけにはいかない」


 こちらから尋ねる前に、殿下自身が理由を語り出す。

 確かに、不安定だと思う面は多々あった。手紙を絶った他にも、仕事を辞めさせたり、買い出しすら禁止して、私と周囲との交流を断絶したり。私が城下町の知人や友人の名前を出せば、すぐに男かと問い質したり。

 だけど私は殿下の境遇を鑑みて、それも仕方ないことだと受け容れていた。叱ったことは一度もないはずだ。


 そこで私は、今回の婚約解消の原因は私なのではないかと思い至る。

 きっと優しい殿下のことだから、私への不満を強く言えなかったのだろう。

 手紙の件で、私がわがままを言ってしまったのがまずかったのかもしれない。彼の言葉や好意を、私にはもったいないと言ってしまって無碍にしたこともあった。


 辛かったが、殿下が私を疎ましく思うようになってしまったのなら、それを受け入れるしかないだろう。


「わかりました……殿下のお望み通りに」



 殿下はそのまま家を私に譲って下さり、私は一人でそこに住み続けることになった。

 だがそれから一日後、遣わされてやってきた王家の配下から「この家は王族の所有物のため賃料が要る」との通達があり、稼ぎのない私一人には払えず、間もなく家を出ることになった。


 元々、私は天涯孤独で身寄りもない。そのため、帰る家が他に無いのだ。

 あるにはある。だが、継母や義理の姉妹から毎日のように体罰を受け、馬車馬のように働かされていたため、正直戻りたくはない。

 何より、最後に顔を合わせたとき、彼女たちは尋常ではないほど怒り狂っていた。家事全般を任せきっていた私が、思いがけず王族に嫁ぐことになったためだ。今戻っては、何をされるか分からない……。


 握りしめた財布代わりの麻袋を、軽く掲げてみる。鈍い金属音がした。

 貯金はほんの少し。一月程度であれば、ひとまず食事には困らないだろう。ただ、宿を取るとなると少し厳しいだろう。

 ……早く職を探さねば、と思いながら、久方振りで少し様相の変わった城下町をさまよった。


 何故か道行く人々からじろじろと見つめられた。

 あだ名されるほど、私の顔は広く知られている。婚約解消の話が早くも出回っているのだろうか? 情けない気持ちになったが、解消は事実なのだから仕方がない。私は端に寄りながら、道を進んだ。


 しばらくして、城下町のメインストリートに到着する。

 すると、道中で馴染みの顔を見つけた。


 手紙をくれていた、シトルイというパン屋の娘だった。

 私は彼女に向かって大きく手を振り、人目もはばからず名前を呼んだ。


「シトル!」


 彼女はこちらに気付き、目を合わせると―――すぐに視線を伏せ、そそくさと横道に逸れていってしまった。

 彼女の実家であるパン屋は別の方向だ。どこかに遊びに行くのだろうか、と思いつつ、今日はまだ食事を取っていないことに気付く。

 ちょうどいい。久々に彼女のパン屋に行ってみよう。


 予期せぬ言葉だった。


「あのー……」

「一見様お断りだよ」


 笑顔が素敵だったおばさんが、無表情のまま私を突き放す。

 城下町のパン屋でそんな話、聞いたことが無い。何より、私は一見様ではないはずだ。


「世話してやったのに……とは言わないけど、あたしらだけじゃなく、娘にも一切連絡を寄越さないってのはねぇ……」

「あ……」


 そこで私は、ようやく手紙のことを思い出した。

 半年ほど前、殿下が捨ててしまってからそれきりだった。でも、あれから一通も来ていなかった。その筈だ。だが、私のその希望的観測は、おばさんの次の言葉にすぐに覆されてしまう。


「あの子はね、少し前まで、あんたに手紙ずーっと出してたんだよ。全く返事が来なくてもね」


 まさか、殿下が私に伝えずに捨てていたのだろうか……?

 それなら、先程のシトルの反応にも納得できる。突然恋人ができて、一般階級よりは幾分か裕福な生活を手に入れ、手紙の返事を寄越さなくなった親友。きっと良い印象は抱かないだろう。


「そ、それは……殿下が……」


 言い訳がましい抗議をしようとして、私は口を噤んだ。

 確かに、手紙を捨てたのは彼だ。ただ、それが確実だと言えるのは最初の一回だけ。後の数回は、もしかすると配達のトラブルかもしれない。

 それに私も、そこで殿下の言いなりになったのは事実。


 結局、選んだのは私。

 私は友人ではなく、恋人を選んだのだ。

 そう思うと、何も言い返せなくなってしまった。


 そのまま黙り込んでいると、おばさんは更に予期せぬ言葉を投げかけてきた。


「あんた、殿下という存在がありながら浮気したんだってね」

「え……?」

「捨てられるのも仕方が無いよ」


 身に覚えのない嫌疑をかけられ、私は愕然とした。


 まさか、と在りし日のことを思い出す。

 一度、買い出しのために市場の男性と話した後、しつこく問い詰められたことがあった。もしもそれが原因なら、異性と話しただけで浮気扱いだなんて、たまったものではない。


「そんなこと、してません……!」

「あっそ。ほら、お客さんの邪魔だよ。どいたどいた!!」


 必死に抗議するが、店主は聞く耳を持たない。


 それもそうだろう。実は、殿下は城下町の人気者なのだ。

 度々城下町を訪れ、民衆の言葉に耳を傾ける、心優しい王子として評判だ。私を助けてくれた日も、城下町の貧困層の調査のため、わざわざ彼自身が出向いていたのだと聞いている。

 そんな彼を裏切った娘の話など、まともに聞くわけがない。

 結局、パンは売ってもらえなかった。


 それから私は、嫌な予感を抱えながら、一食だけでもと売ってくれる店を探した。

 だが、例の噂話がかなり広範囲に広まっていたようで、どの店でも店主にやんわりと拒否されてしまった。あけすけに出禁を言い渡されてしまった店舗もある。

 半日かけて尋ねた飲食店には、ほとんど入れなくなってしまった。



 日が傾きつつあった。

 歩き疲れて、人気のない路地裏で腰を下ろす。店の者だけでなく、行く人々から白い目で見られた。人の多い場所に居るのはなるべく避けたい。

 友人も、家も、何もかもがなくなってしまった。

 いや、そもそも私には、最初からそんなものなかったのだ。殿下に見初められてから、贅沢をし過ぎてしまった。


 そういえば殿下は、婚約破棄の慰謝料として手切れ金を送るという話をしていた。だけど、特定の住居を持たない私にどう送金するというのだろう? 王族が、私如きの特定にわざわざ人員と時間を割く筈もない。


(お腹、空いたな……)


 正直、今は人の多い場所には行きたくない。だけど、そんなこと言っていられない。

 一縷の望みに賭けて、私は市場へ向かうことにした。


 比較的最近、殿下に外出制限を掛けられるまでは頻繁に通っていた市場。ほんの少し見ない間に、出店や露店が変わっている。

 そして最も普段と変わっていると思ったのは、日没が近いにも関わらず、市場は普段とは異なるざわめきに支配されていることだった。


 不思議に思い、大通りに顔を出す。

 その理由は、すぐに分かった。


 普段は人でごった返している大通りが、ある点を中心にして円状に開いていた。私は無心で人ごみをかき分け、円の内部に顔を出す。

 中心では、見覚えのある男性と女性が談笑していた。


「どうだい? 僕の国の市場は」

「すごい……お茶も果実も、色んな国のものが売っているんですね」

「後で、僕の両親も招いて茶会でも開こうか」


 美しい女性だった。艶やかな黒髪と、それとは対照的な雪のように白い肌。だが、その首元には、赤黒い線が一周している。

 裂傷の跡だった。肌が白いだけに、それは特に目立った。


 いつかの来賓の際、顔を見たことがある。隣の大国の第二王女・キオナティだ。王妃に負けず劣らずの美貌を兼ね備えた王女だったが、その首の傷の所為で婚約が破談になったこともあると聞く。

 そこまで思い出して、一つの単語が引っかかる。


(婚約……)


 まさか、新しい恋人だろうか。だけど、私と別れてから数日しか経っていない筈だ。そんなすぐに恋人はできるものなのだろうか? それとも、まさか―――

 混乱。動悸。いろんなものが同時に襲ってきて、私は思わず二人から目を背ける。

 その時だった。


「エラか?」


 数字瞑りに殿下に名を呼ばれた。以前とは違う、どこか他人行儀な口調だった。

 殿下は何を思ったのか、私に歩み寄ってきた。私はその場から逃げることもできず、立ち尽くす。

 周囲の人々は「成り上がり姫だ」とか「浮気したあの……?」だとか、私を指して口々に喋っている。

 そして私に掛けたのは、思いもよらない言葉だった。


「……キオナ宛に、中傷の手紙が届いていました。差出人はまさか、貴女ではないでしょうね?」


 時間が止まったかと思った。

 一体殿下は、何の話をしているのだろう?


 浮気に続いて、キオナ姫宛ての中傷の手紙……。

 もちろんだが、どちらも一切記憶にない。

 だがそれを伝える前に、あまりの混乱で、私は何も言えずに固まってしまう。


 殿下はあくまで丁寧な口調で、畳みかけるように続ける。


「彼女はあの傷の所為で、ただでさえ中傷が多い。それが前婚約者の貴女だとしても、許せない……!!」

「そんなっ…! 違います……!」


 ようやく我に返り、遅れながらも私はようやく反論する。

 婚約解消してからの私には、ペンどころか手紙用の紙を買う金すら無い上に、城下町のありとあらゆる店から応対を拒否されているのだ。

 何より私は、今までキオナ姫が来訪していることすら知らなかった。そんなことができるわけがない。


 必死の形相の私に、殿下はやや呆れた様子で「分かりました」と返したものの、その言葉はどこか機械的なものだった。


「今後、城には近寄らないでください」


 最後に言い捨てたその言葉は、私が犯人だと断定しているようなものだった。


 後ろでキオナ姫が、困惑した様子で私と殿下を交互に見つめている。

 そんな彼女の肩を抱き、殿下は颯爽と城へと戻っていった。


「大丈夫だよ。私がずっと守ってあげる」


 いつか私に掛けてくれた言葉。

 それで私は、彼女が新しい婚約者なのだろうということを確信した。



 市場から遠ざかっていると、日が完全に落ちてしまった。

 結局宿も取れず、私は路地裏で茫然自失と立ち尽くしていた。

 街灯や人気のある公園や住宅街が安全なのだが、近隣住民から退けと怒鳴られてしまい、すぐに追い出されてしまった。


 背中を壁に預けたまま、ずるずると地面に腰を下ろす。

 気付けば、涙がこぼれていた。よくここまで我慢できたものだ。


 そもそも、誰かと幸せな家庭を築こうとすること自体が間違いだった。継母たちに扱き使われ、細々と生きていくのがお似合いだったのだ、私には。

 私はその場で膝を抱え、声を殺して泣いた。


 それから、何時間経っただろうか。涙も枯れた頃だった。


「―――大丈夫ですか?」


 すぐ隣の通りから、足音と共に、私を心配する声が聞こえてきた。

 乾いた涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、そこには男性が経っていた。


 二十代中頃……私より少し年上程度の、まだ若い青年だった。

 彼は私の顔を覗き込むと、ハンカチを差し出してきた。私はそれを受け取らず、そのまままた顔を膝に埋めた。きっと闇夜ではっきりとは見えないだろうが、この顔を誰かに見られたくは無かったのだ。


「貴女……殿下の婚約者……ですよね?」

「……前の、ですけどね」


 人恋しくなったのか、つい彼の言葉に返答してしまう。


「俺、ベディマって言います。危ないですよ、こんな夜中に外に居ちゃ」

「……でも、帰る家がないので…」

「……なら、宿は?」

「……取れませんでした」


 少し言葉に詰まりながら、会話を続ける。久々に掛けられた優しい言葉に、また涙が出てきてしまいそうだったからだ。

 青年……ベディマは、そんな私の状態を察してか、ペースを落としながら会話を続けてくれる。

 その優しさがまた身に染みて、私はまた泣き出してしまった。


 それを見て、落ち着かせるつもりなのか、ベディマは私の肩を抱き寄せようとしてきたが、私は驚いて反射的に手を弾いてしまった。

 程なくして私は落ち着きを取り戻し、彼に「ごめんなさい」と謝罪をして、顔を上げる。


 ベディマは少し気まずそうにしながら、思いもよらぬ提案で会話を再開した。


「俺の家は酒場なんで匿えませんが……夜が明けるまで、一緒に居ますよ」


 膝に手を付いて中腰になり、私に顔を近寄せるベディマ。その端整な顔には、爽やかな微笑みを湛えている。

 その笑顔を見て、ほんの少しの余裕が生まれて、私も軽く微笑み返した。

 泣き晴らして、少し冷静になれたのかもしれない。


 だが同時に、ある考えがふと脳裏を過る。


 ……別れたところに、突然心優しい男性が現れるなんて、あまりに都合が良すぎる。

 しかもこの通りは、貧困街のようなもの。昔、継母に拾われるまで過ごしていたのでよく分かる。こんな夜中まで居座っているのは盗人か、通り魔、強姦魔くらいのもの。


 空腹と絶望でよろけながら立ち上がり、私は彼から距離を置く。

 彼は中腰のまま、不思議そうに首を傾げた。


「ベディマさん……一体、何が目的なんですか?」

「え? 目的だなんて、そんな……」


 その時。月明かりを受けて、布地が弛んだベディマの懐で何かが光った。


 それは確かに、ナイフの切っ先だった。


 私は思わず、その場から駆け出す。

 だが気力を失った私の体が思考に追い付かず、ベディマの方が先に懐からナイフを取り出し、私目掛けて振りかぶった。

 ナイフが右足を抉る。危うく腱を斬られる寸前だったが、運よく逸れたようだ。

 ただ、それでも痛みは免れない。感じたことのない激痛に悶絶しそうになるが、それを堪えて逃げ出す。


「エラ!!」


 驚きより、怒鳴り声に近い声色で名前を呼ばれた。

 彼が追ってくる気配は無かったが、私は恐怖心に背中を押され、無我夢中で住宅街を走り抜ける。


 気付くと、城壁が目の前にあった。


 そして―――不運なことに、そこには何故か殿下とキオナ姫が居た。

 夜の散歩だろうか。護衛も付けずに不用心だなぁ……疲弊した脳は、一周回って普通の思考を取り戻す。だが、今はそんなことを考えている場合ではない。


「お前……!!」


 月明かりの下で私の姿を見つけるや否や、激昂する殿下。

 その後ろでは、キオナ姫は不安げな顔で後退りをしている。突如現れた私と殿下、どちらに怯えているのだろうか。


 殿下はキオナ姫を庇いつつ、私に怒号を飛ばす。


「二度と近寄るなと言った筈だ!! それほどまでに王族に未練があるのか!?」

「そんな…! そんなことありません…!!」


 王族になど興味はなかった。お金も要らなかった。貧乏でよかった。

 ただ、愛してくれる人さえいれば、私はそれで良かった。

 それなのに―――


 気付けば私は、どこからともなく現れた警備兵に囚われていた。

 そこで私の意識は、一時的に途絶えた。





 独房に入れられてから、何日経ったのだろうか。


「オイ、出てこい」


 聞き慣れ始めていた見張りの男の声に急かされ、私は目を覚ます。

 酷い肩こりにも慣れたものだ。石の寝台から体を起こして、私はよろけながらも立ち上がった。


 念願かなって、私は遂に牢を出ることになった。

 日が昇っている。久々に浴びる朝日の眩しさに、ぎゅっと目を細める。


 私はそのまま、城のすぐ手前にある市場へと連れられた。

 投獄前にも見た市場だ。早朝のため、まだ人気は無い―――かと思いきや、そこには大量の民衆が集っており、活気で溢れていた。


 そして、見慣れた大広場には、幼いころに見たきりだったギロチンの処刑台があった。


 同じ立場になれば、誰にでも分かるだろう。処刑されるのは自分だと。

 過去に、陛下……つまり殿下の父上が、臣下を処刑したことがあった。確か、陛下の好みの店にケチをつけただとか、そんなしょうもない理由だったと聞いている。

 そんなにも簡単に処刑されてしまうのだなぁと思った。私もきっと、同じだろう。


 両脇を抱えられ、処刑台に立たされる。

 足元には民衆が群がっている。そして台から少し離れたところには、殿下とその配下たちの姿があった。

 震える眼球で殿下を見遣る。だが、殿下はこちらに一瞥もくれることはなかった。


 少し遅れて、キオナ姫もやってくる。すると程なくして、突如として殿下が演説のようなものが始まった。

 民衆が殿下の言葉に耳を傾けるため、一斉に口を閉ざす。


「かつて愛した者を処すのは、この上なく辛い……それが、浮気という許されざる裏切りを犯した者だとしてもだ」


 キオナ姫に目を向けた。彼女に意見を求めているらしい。

 落ち着いた様子で、彼女は言葉を紡ぐ。


「……だから殿下は、エラ様ではなく、わたくしを選んでくださったのですか?」

「……いいや? そんな理由ではないよ。君の心根の美しさに惹かれたんだ」


 民衆から二人を祝福する歓声が上がった。

 やや会話の前後が繋がっていないように感じる。二人の仲睦まじさを前面に出したいのだろうか? きっと、もうこの先永遠に分からないのだろうな。


 ……あぁ。なんとみじめなんだろう。

 涙も出せず、ただ私はぼんやりと殿下を見つめる。

 そこで私は、気付いてしまった。


「……あ」


 思わず声が出てしまった。

 殿下のすぐそばにいた、兜を脱いだ兵の一人。それはつい先日、私を殺害しようとした男……ベディマだった。

 しかも、それだけではない―――かつて、私に乱暴しようとしてきた男たちの姿もあったのだ。


 悪夢にまで見た、あのおぞましい体験、光景。忘れようにも忘れられない。間違いはない。確かに、あの男たちの顔だった。

 そして私は、すべてを悟った。


 おとぎ話のような運命は、すべて仕組まれたもの。

 彼の自作自演だったのだ。


 思い返してみれば、周囲へのアピールが過剰な人だった。

 きっとこれから始まる私の処刑も、むごたらしく民衆の目前で晒されるのだろう。王族の権威を見せつけるにはうってつけの場だ。


「二度も深く愛した者に裏切られるとは思ってもみなかった……浮気、次期王妃への中傷、そして昨晩、彼女は僕らの逢瀬に押しかけ、彼女を傷付けようとした」


 新たな罪が着せられている。だが、もうそんなことはどうでもいい。

 早く、殺してほしい。私を楽にしてほしい。


 未だかつてない、穏やかな心持ちになっていた。

 そして、私は静かに、目を伏せた。


「―――お待ち下さい!!」


 その瞬間。あまり聞き慣れない声が上がった。

 本人は頑張って声を張り上げていたようだったが、この処刑の場にはとてもそぐわない、優しい声色だった。


「……これは次期王妃の命令です。直ちに刑を取りやめなさい!」


 その声の主は―――キオナ姫だった。


 驚いて顔を上げると、本人と視線が交差した。

 あろうことか彼女は、これから処刑されるであろう私に微笑みかけてきた。見た者を深く安堵させるような、柔らかな微笑みだった。


 それからキオナ姫は、殿下に向き直る。


「あなたと一対一でお話ししたときははぐらかされてしまったので、ここでお尋ねします。殿下」


 キオナ姫の配下と思しき男性が、くしゃくしゃに丸められた襤褸切れのような何かを彼女に寄越した。

 手が汚れるのも厭わず、彼女はそれを開いて、彼の目の前に突きつける。

 それは、いつか私が殿下に宛てた手紙だった。


 覚えたての私の拙い字が、大衆の面前に晒される。だが、絶望の淵に立たされ、死を目前にした私に、羞恥心といったものは湧き上がってこない。

 だが、キオナ姫の目的は私を辱めることではなかった。


「わたくしに届いた中傷の手紙の筆跡は、エラ様のものと大きく異なります。恐らく、差し向けたのは他の者でしょう」


 予測していなかった出来事なのだろう。殿下が珍しく目を丸めていた。

 だが、すぐにいつもの調子に戻り、つらつらと言葉を返す。


「キオナ、そんなものを持ち歩いていたのか……見るのも辛いだろう。早く捨てなさい」

「はぐらかさないでください、殿下!」


 その可憐な容姿からは想像もつかない強い口調で、ぴしゃりと言い放つ。今まで見せていた柔らかな雰囲気は、露と消えていた。

 殿下は彼女から言い返されるとは思ってもみなかったようで、一瞬だけ言葉を失っていたが、すぐに普段の飄々とした態度を取り戻す。


「だけど、エラの手紙はもう保管していないんだ。確認しようがないよ」

「殿下。これは、エラ様が書いた方の手紙です。中傷の手紙ではございません」


 キオナ姫は「あなたは、最愛の方から頂いた手紙も覚えておられないのですね」と付け加え、私の手紙を、ゆっくりと丁寧に、本来の折り目に沿って折り畳んだ。

 殿下は少しだけ考え込むような素振りをした後、ゆっくりと口を開く。


「だが、彼女には他の罪がある。処刑は止めないよ」

「昨日、私もあなたも彼女から襲われていません。むしろ、襲われた形跡があったのはエラ様の方でした。浮気に関しても、浮気をしたという噂話だけが蔓延していて、相手の情報は一切無く、証拠も無いようですよ」


 キオナ姫の言葉の後、その場が静まり返り、代わりに民衆がざわめき始めた。

 殿下は珍しく黙り込んでいる。

 それからキオナ姫は、殿下が婚約解消後に今まで私に向けてきたような懇切丁寧な口調で、淡々と語り始める。


「この首の傷のせいで行き遅れた、わたくしのような者を娶ってくださったこと、とても嬉しく思います」


 何の前触れもないキオナ姫からの感謝に、殿下は肩を竦めて笑った。


「急にどうしたんだい? キオナ―――」

「城下町の皆様から、殿下の評判はよく聞いています―――〝普段から奴隷のようにこき使われ、挙句に乱暴されようとしていた町娘を救いだし、そして、傷もので行き遅れの姫を娶った、心優しき王子〟だと」


 またも会話をはぐらかそうとする殿下の言葉を遮り、キオナ姫は強い口調でまくし立てる。

 そして彼に留めを刺すように、こう言い放った。


「全ては、この〝心優しい王子〟という偶像を壊さぬまま、わたくしを使った政略結婚を成功させるため。そうではありませんか?」


 饒舌だった殿下が、完全に黙り込む。

 しばらくキオナ様も同じように黙っていたが、やがて全く言い返してこない殿下に痺れを切らしたのか、更に声を荒らげた。


「一国の王子ともなれば、やはり世間体もありましょう。ですが―――わたくしは、自分を愛してくれた女性を犠牲にして、見目の良い偶像を作り上げるような御方とは、結婚したくありません」


 キオナ姫は指輪を外すと、殿下に突き返す。そして。


「婚約は、破棄させていただきます」


 キオナ姫のその言葉を皮切りに、市場全体に静寂が訪れる。

 その場の誰もが、呆気に取られていたと思う。かくいう私もそうだった。

 前婚約者の処刑の場で、まさか現婚約者が婚約を破棄するなど、誰が予想できようか。誰もが困惑し、殿下と姫、どちらかが静寂を打ち破るのを、ただひたすらに待っていた。


 だが静寂を破ったのは、渦中には居ない、一般兵の一人だった。


「何だ! 貴様ら!!」


 その声の後、処刑台の周囲を見回すと、七人の男性が処刑台に群がっている光景が視界に入った。警護を搔い潜り、処刑台に上がると、処刑人たちを台から次々と突き落としていく。

 そのうちの一人が私の拘束を解き、台の上から連れ出してくれた。一見すると私が乱雑に誘拐されているような構図だったが、彼らは満身創痍の私を抱え、懇切丁寧に歩行の補助をしてくれた。


 この人たちが警護を片付けてくれたおかげで、おぼつかない足取りながら逃亡に成功する。

 彼らは市場を抜け、大通りに向かっているようだった。今は市場に人が集中しているため、大通りには人は一切いない。


「エラ!!」


 そんな閑静な大通りに、突如として悲痛な叫び声が響いた。


 振り返るとそこには、何故か殿下の姿があった。

 肩で息をしていて、私たちを慌てて追ってきたのであろうことが伺える。


 殿下は私に駆け寄ろうとするが、逃亡を補助してくれた人たちにすぐ阻止されてしまう。

 ただ、彼はこちらを攻撃してくるつもりはないようで、私に何か必死に訴えかけようとしていた。


「待ってくれ、エラ。違うんだ。キオナとの結婚は父上に強いられて、立場上、仕方なく―――」


 意図は分からないが、殿下はこの期に及んで言い訳を続けているようだった。だが、語り口はしどろもどろで、信憑性の欠片もない。


 すると、その後ろに遅れてキオナ姫が現れた。

 殿下はキオナ姫に気付くと、はっと顔を上げ、すぐさま私に背を向ける。


「キオナ―――」

「エラ様!」


 殿下がキオナ姫に声を掛けるが、彼女は目もくれずその横を通り過ぎ、私の名を呼んだ。

 多くを語らず、ただ真っ直ぐに私の目を見据えるキオナ姫。


 私は殿下に背を向け、再び大通りを駆け出した。





 キオナ姫が手配したらしい馬車に乗って、私たちは城下町の正門を目指して走る。

 車窓を流れていく町の風景は、どこか遠い過去のもののように思えた。


 だが、今は思い出に耽っている場合ではない。町を視界の隅に追いやって、私はキオナ姫に向き直る。


「キオナ様……何故あのようなことを……?」


 無礼を承知で率直に尋ねると、キオナ姫は申し訳なさそうに微笑んだ。


「申し訳ありません。正直に言ってしまえば……貴女を体良く利用したんです」


 そう前置きをしてから、彼女はぽつぽつと語り始めた。


 こう言っては不躾だが、自分の国と比べれば小国だと。政略的な婚約であることは明白だった。

 更に彼女は、王妃から虐待を受けていたという。首の傷もその時のものらしい。想像を絶するものだったのだろう。

 今回の婚約も、体の良い厄介払い。小国にほんの少しでも貸しが出来れば十分、といった程度。


 殿下には徐々に好意を抱きつつあったが、前婚約者の私の罪の大半が冤罪であることに気付き、彼も王妃と同じ見かけばかり良いだけの人間だと知り、落胆したのだと。


 そして今日、私の件を足がかりにして、王妃と王子へ〝仕返し〟をしたのだという。


「ごめんなさい、巻き込んでしまって。偉そうにしていますが、わたくしも、結局は殿下と同じですわ」


 再び謝罪をするキオナ姫だったが、素人が傍から聞いている分には、今回の政略結婚は彼女側にはメリットだらけのように思えた。


 小国とはいえ、王族なのだからそれなりの生活は約束されるはずだ。

 それに、彼女は言ってしまえば大国側の客人。本国では手酷い扱いを受けていたかもしれないが、ここではその危険はまずないだろう。もしあっても、臣下からのやっかみ程度。

 王妃も冷遇していたとはいえ、姫の身にもし何かあれば、建前上は何らかの報復を行うだろう。


 まさか。無実の罪で処刑されるたった一人の町娘を憐れんで、わざわざ今の身分を手放すような真似をしたのでは―――


(……なんて、そんなわけないか)


 そう思い至り、すぐに考えを改める。

 殿下と生活するうちに、自分が特別扱いされるのに慣れて、思い上がった考えに至るようになってしまった。

 でも、そう都合の良いことを思わずにはいられない。


「いえ。キオナ様は、私の命の恩人です。本当に、ありがとうございます」


 彼女は謝罪ばかりしているが、私を助けてくれたことに変わりはない。

 心からの感謝を伝えるため、頭を下げてその場に跪こうとすると、「待って待って!」とキオナ姫から止められてしまった。

 確かに、馬車の中は狭いし邪魔になるか……と思い直し、私は座席に戻る。


「……でも、凄かったです。あんな、おとぎ話みたいに、上手いこと逃げ出せるなんて。それに、キオナ様のあの堂々たる演説も……」

「ふふ……本当は、少し怖かったの。今も、まだ心臓がドキドキしてますわ」


 そう言ってから、キオナ姫は胸に手を当てる。私も彼女に倣って胸に手を置き、顔を伏せ、深呼吸で心臓を落ち着ける。

 それからしばらくの間、無言の時間が続いた。


 ふと彼女の様子が気になり、顔を上げると、同じように彼女も顔を上げていた。

 またしばらくの間、顔を見合せる。

 すると突然、キオナ姫が堪え切れなくなったようにフフッと噴き出した。緊張の糸が切れて、私も声を押し殺しながら笑い出す。

 私たちは顔を見合わせたまま、二人で笑いあった。



 それから一息置いて、キオナ姫はまた突拍子もない提案をしてきた。


「エラ様。貴女さえよろしければ、わたくしたちと旅をしませんか?」

「へー……へっ!?」


 予期せぬお誘いに、思わず声を上げる。


「殿下の流した悪評が城下町にまで回ってしまったと伺っております。そんなところで生きていくのは大変でしょう」

「ええ、まぁ……ですけど」


 と言いかけて、私たちには旅に出る選択肢以外が残されていないことに気付かされる。


 美しく、強い王女だと思っていた。

 撤回しよう。彼女はとんでもない、おてんばお姫様だ。


「キオナ様、よろしくお願いいたします」


 私は、手の甲を上にする形で彼女の指に触れ、座ったまま跪く動作をした。だが彼女は、そんな私を見てすっと手を離してしまう。

 驚いて顔を上げると、そこには、握手を求める形で私に手のひらを差し出す彼女の姿があった。


「もう、わたくしは姫なんかじゃありませんわ。ね、エラ」


 溌溂と笑うキオナ姫。この短時間で、彼女には驚かされてばかりだ。

 再び私も笑い返して、彼女の手を握る形で取った。


「そうだね、キオナ」


 王子様がいなくたって、お姫様はきっと幸せになれる。


 私たちが幸せになるまでの物語は、また別の機会に。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ