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「ねえ君。」
「……ゔ、身体痛った。」
「大丈夫?起きられる?」
「あ、スンマセン。」
ああ。朝か。
春の日差しが瞼を掠める。薄く目を開けると白く輝くまっすぐな陽の光が大きな窓から差し込んでいるのが見えた。
耳触りの良い男性の声と共に背中に支えをもらい何とか固まった身体を起こす。私はいったい何をしていたんだっけ。昨日、流絵と喫茶店で何時間も話し込んでいた所まではハッキリと覚えている。じゃあその後二人で居酒屋かバーにでもくり出して泥酔してどこかのベンチか駅かで寝てしまったいたのだろうか。記憶が無くなるまで飲むことは滅多にないんだけれど。
寝起きでほとんど開かない目ではあるが、何とか頭と身体で感謝と謝罪の意を声の主に伝えよう。
「すみません大変ご迷惑をおかけしまして、あの、ここは駅とかでしょうか、それか居酒屋さんの客室か控室なのでしょうか、本当に申し訳ありません。」
「ええと、混乱してるのかな。ごめんね、体調悪そうだしどこか休めそうな所に連れていってあげたいんだけど今謁見中だからとりあえず立って。」
「えっけん……?」
えっけん。謁見?日常生活ではまず耳にしないような言葉にパチンと目が開く。私の目の前には声の主、スラリとしっかりした体躯の青年。そして私と青年の前にはなんとも大きなイスが。それもただの大きいだけのイスではない。一目で高価であると分かる金色が全ての脚や背もたれにあしらわれており、それも塗られたチープなものではなく価値ある黄金で出来ていた。また、その椅子の周囲、そしてこの室内でさえも黄金で縁取られた窓や真っ赤なペルシャ絨毯風の模様のあしらわれた床など、あげるとキリのないくらい高級品で囲まれた空間だった。
「何者だ、その娘。」
そして目の前の大きなイスに座っていたのは、それに負けず劣らずの大男。口元に豊かなブラウンの髭を蓄えた、座っているから定かではないが身長が二メートルはあるのではないかというおじさまが鎮座していた。
「……え、と。」
おじさまの声は非常に低く、地を揺らすかの如き震えで、ついでに私の足をも震わせた。おじさまの顔が怖いというのもあるが、私の今の状態が良くないものであるとじわじわと分かってきたから。産まれたての子鹿の方がまだ緩やかに足をガタつかせている。私のはもはや秒速を超えていた。
見るからに場違いで、明らかに不審者。それが私から見た私の現在の客観的状況であった。
「すっ、すみません。私、あまりよく覚えていなくて、気がついたらここに、いました。」
「……、まあ良い。大方その男の仲間か何かであろ。」
「えっ。」
驚きの声をあげたのは私と青年のどちらもだ。そりゃあそうだ。だって初対面だもの。互いに目を見張り、同じタイミングで目を合わせた。
ワッ、この人、派手さはないが整った顔立ちだ。ふわふわとした猫っ毛のような黒髪と優しいルックスで、下手な美男子よりよほどモテそうである。
「・・・・・・はい。この者は私の仲間です。陛下の御前に立った衝撃と感動で少々混乱しているようで。突然の失礼、申し訳ありません。」
じい、と私が彼の顔を凝視していたのを懇願しているように見えたのか、青年はおじさまの勘違いに乗ってくれた。ただ、おじさまは興味なさそうな目で青年を見るだけだ。相槌くらいうてばいいのに。
「其方の上申、聞き入れた。もう下がって良い。」
「はい。」
気がつくと偉そうなおじさまと青年の話は終わったようで、青年はくるりと踵をかえし出て行こうとする。青年は一度私と目を合わせ、視線だけで着いてくるように促した。
「娘。」
「っは、はい!」
駆け足で青年についていこうと足を踏み出した瞬間におじさまのあの地震でも起こしそうな声で呼び止められた。
「……。」
「あの、何でしょうか。」
私が先ほど青年を凝視していたのと同じくらい、それかそれ以上の圧でこちらを見てくる偉そうなおじさま。その目に嫌悪や敵意は無いが同じく関心も無さそうだった。ただ少しだけ、本当に少しだけ心配そうに口元が引き攣ったように見えたのが印象的だった。
「お前の事情は知らん。が、」
「は、はあ。」
「帰りたければ空に言え。」
「うん?」
「後は知らん。去れ。」
そっぽを向いて虫でもはらうかのようにしっしっと手を振るおじさま。言った言葉の一つも理解できなかったが、部屋から出る瞬間に小さく聞こえた、俺も甘くなったもんだな、という地を揺らすどころかホコリも微動だにしないか細い言葉だけは、なんだか大事なもののように思えた。
「じゃあね、身体に気を付けて。」
「いや、ちょっと待ってください。」
「どうしたの?忘れ物でもあった?」
絢爛豪華な部屋を出た先は、あの部屋には劣るが十分質の良いもので飾られた一種の王宮のような空間がずっと続いていた。何も言わずに静かに進む青年に続いて無言で踏み心地の良い絨毯を踏みしめ、気がつくといつのまにか建物の外に出ていた。
そして突然告げられる別れ。思わず、というか懇願の気持ちを込めて呼び止めると、イラついた風ではないが、若干の面倒くささを滲ませて青年は振り返ってくれた。
「いえ忘れ物は……。すみません、迷惑ついでに教えていただきたいんですが、ここってどの辺りですか。飲んで気を失っていたにしてはちょっと見覚えのないものばかりで。」
そう。建物を出て目に入ったのは石畳で整備された道がしばらく続き、その先に見えるたのは映像でしか見たことのないような中世ヨーロッパ風の建物が立ち並んでいる。それらは私が居を置く付近には無かったもので。スマートフォンを確認しようとポケットを弄るが中には何も無く、更に持っていたはずのバッグすら持っていなかった。
そればかりではない、今しがた出てきた建物を振り返り見ると、それはそれは巨大な建造物で。しかもまるで王宮のようだと一度考えたからか、もうそれにしか見えない。寝ぼけて国外逃亡でもしてしまったのか。耳の奥で鳴る心臓の鼓動が聞こえたのか、王城付きでございというように甲冑を見にまとった門番らしき人の目つきが鋭い。
「君、酔ってあんなところに飛んできたの?才気あるんだかないんだか。」
「飛ぶ?いや近くの駅とか、通りの名前、あとはこの建物……、すごいですねこれ。」
「駅?駅なんてこの辺には無いよ。ここは王城。だから通りの名前もなにも今目に見えている地は陛下の固有所有地じゃないか。君、大丈夫?本当に混乱しているのか?」
「陛下……?ここ日本ですよね?駅が無いのであれば交番でもいいんですけど、あ、それかスマホ持ってませんか?差し支えなければ地図アプリか何かで場所を確認させて欲しいんです。」
そこまで言って青年の顔に大きく「?」と書かれているのに気がついた。器用だな。私の言っていることが何一つ理解できていないですと表情が言っていた。
「なにか変な感じがするな。ちょっと場所変えようか。ここで長話をするのは、マズい。」
「えっナンパですか?」
「置いていくよ。」
「あ待ってー。」
門番の方達の視線の厳しさが我慢の限界ぎりぎりにきていたらしい。青年はそそくさとこの場を後にする。このまま置いていかれると非常に心細い。完全に置いていく体勢になっている青年の背を必死に追いかけた。