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人には大なり小なりなにかしら好きなものが存在する。食べ物や洋服、特定の誰かだったり果ては自身だってその対象になり得る。そういった愛好する何かは自分の人生を豊かにし、または彩りを与えてくれるものであり大事に慈しみ愛すべきものであるのだ。まあただの自論ではあるが。
ただこの考え方は私にとって至極当たり前で自己を形成するため非常に重要なことなのである。
「ウンウン分かった分かった。色がゲーム好きなのはようく分かったったら。主人公大好きなのはもう幼稚園児の時から聞いてるわよ。」
「違うってば!私が好きなのは正統な勇者!道を真っ直ぐ進み、どんな困難な出来事にも立ち向かい、誰にでも優しくて、」
「はいはいはいそれそれ。はーあ、そんなんだから振られんでしょうが。」
「振られたんじゃない。振ったの。」
私の拗ねた物言いに友人の流絵は呆れたようにため息を吐く。じるるとストローを吸うと溶けた氷で薄まったオレンジジュースが登ってくる。なんだかその味が彼氏と別れたあの日に飲んだオレンジジュースを思い出させ、未練などないはずなのにむず痒く悲しい。
「……そんな顔するなら別れなきゃ良かったのに。」
「だってアイツ『今どき正統派勇者なんて流行んないって。時代は異世界転生!なんか俺やっちゃいました系主人公だぜ。』なんて言ったのよ。私がどれだけ勇者というものを愛しているか分かっている、いや分かっていたくせに。裏切りよ裏切り。」
「自分が好きなものを相手も好きになって欲しいってのは結構傲慢だと思うけど?」
「……うん。」
家が隣同士で生まれた時から一緒の流絵。同じだけの年数を生きているはずなのに自分なんかよりずうっと大人びていて達観している。
ばっさりと切られた言葉の刃に反論の余地などなく、それは私がもうすでに幾度となく反省してきたものであった。
「売り言葉に買い言葉だったの。」
「うん。」
「別に別れたかったわけじゃない。」
「好きだったもんね。」
「いや好きとかはもうそんなになかったよ。価値観全然違ったし。」
「おい。」
なんてね。ちょっとは好きだったよ。
どれくらい経っただろうか。馴染みの喫茶店で流絵と話し込んでいたが、もう日が傾きかけている。客はまばらとはいえ半日居座ったとあれば流石に迷惑だ。
流絵と目が合うと同じことを思っていたのだろう。そろそろ出よっかと荷物を互いに片付け始めた。
「さて、と。私この後実家に帰る予定だからそのまま駅に行くけど。」
「うーん散歩でもして帰ろうかな。」
「傷心中だしね?」
「うるさい。」
喫茶店から出ると店内より少し冷たい空気が襟首から服の中をさわる。思わず身震いすると流絵は困った顔で笑って、自分の使っているマフラーを私の首に巻き付けてくれた。
「これ。貸しとく。」
「え、いい、いい。歩いてたらあたたまるって。」
「次会った時に返してくれれば良いから。」
有無を言わさぬ雰囲気におとなしく赤いチェック柄のマフラーをお借りする。甘くて優しい香水の香りが微かにする。
「ああ、そうだ。ねえ色。」
「ん?」
「どこかこの近くに恋愛成就だか良縁祈願だか交通安全だか家内安全だかなんだかよく分からないご利益のあるような無いような神社があるらしいわよ。」
「なにそのふわふわした神社。」
「もう今日は暗くなるから探すのは明日にでもして、見つけたら今度こそ例の価値観とやらにぴったりの彼氏を神様に紹介してもらいなさい。」
「ええ?神社の名前も分からないんじゃ探しようもないんだけど。」
そもそもこの辺に神社なんてあっただろうか。数年前にこの近くに単身で越してきて、それからこの辺りは網羅していると思っていたが意外と知らないところはあるらしい。
顎に手を当てちょっとだけ考えてみるがとんと見当はつかない。すると流絵も同じように首を傾げて考えるような素振りを見せる。
「噂だけどね。なんでもその神社は神様の方が人を選ぶとかなんとか。」
「なに、オカルト?流絵が珍しいね。」
「ま、本気にしちゃいないわよ。あんたの気休めにでもなればいいかと思って。」
そう言って流絵はそろそろ帰るね、といつもの人好きのする笑顔で手を振って帰っていった。
しんと静まり返る自分の周囲が、沈む夕陽に照らされて嫌に不気味に見える。借りたマフラーを少しだけ強めに締めていつものお散歩コースへと足を踏み出した。身体は軽いのに足取りは重く、ああこれが傷心中の世界の見え方かなんてバカみたいなポエム紛いの言葉を胸の内で吐いた。
いつもの散歩道。大通りより一つ住宅街の方に入り込んだそこ。車通りは大通りよりがくりと減り、たまにこのあたりの住民のものと思しき車が通る程度。二年前という比較的最近に埋まった住宅地であるからか街灯はきっちり等間隔に並び、そのどれも明々と灯っており不備のあるものは一つもない。ランニングやウォーキングに励む人も定期的にすれ違う。若い女が一人で歩いていても不安要素は比較的少ないこの、いつもの道。
歩き始めてすぐ、大通りがすぐ近くにあるため閑静な住宅街とは言い難いこの場所で場違いな低めの鈴の音がコンと鳴った。その音が脳のてっぺんに到達するとなぜだか心臓がどくりと脈打った。
本当に?本当にここはいつもと同じ道?
先ほどまでは彼氏に振られ、いいや、振った傷のために重かった足取りは、何か言葉にできない不快感に絡め取られずしりと更に重い。
見たままは同じ道であるはずなに、まるで何かがズレている、ズレ込んでいるような。
「道に迷ったわけでもない、よね。」
こんな自宅近辺で出したこともないが念のためスマートフォンを取り出し地図アプリを起動させる。するとどうだ。
「いや圏外て。なんで?」
真新しい住宅の立ち並ぶこの一画で?少し進めば出られる大通りの向こうには立派な会社が立ち並んでいるのに?
いよいよこれはおかしいと元来た道を一度戻ろうと踵を返した。
「と、りい。」
そこには今まであった道などなく深い深い大きな森と、その口のようにぼっかりと丸く開いた空洞とその先が存在することを告げる道があり。そしてその道が神様の通り道であることを知らせるかの如く石でできた鳥居が存在した。
そして当然のようについ先ほど流絵から聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。
『どこかこの近くに恋愛成就だか良縁祈願だかなんだかよく分からないご利益のあるらしいような神社があるらしいわよ。』
『なんでもその神社は人を選ぶとかなんとか。』
明らかに人智を超えた状況に意外にも心は落ち着いていて。恐怖に慄くことも、混乱しパニックに陥ることもなかった。むしろ平常時より心は凪いでいて呼吸がしやすい。
「いくらなんでもフラグ回収早くない?あらゆるRPGやってきたけどここまでとんとん拍子にことが進むのは中々ないよ。」
ただ、いかに自身が落ち着いていようと、この状況が明らかにおかしいことは理解している。いくら危機感がないだとか空気が読めないだとか考えすぎるただのバカだとか言われた私でさえ、噂の神社らしいものがありそうな森の中に入ることは憚られた。
立ちすくんだまま前にも後ろにも進めずにいると、森に向けて透き通った風が足首を抜ける。嘲笑うような、誘うようなその風。喉がひくりと引き攣るのを感じ、森の中の暗闇に向かって声を出す。
「あ、あ、明日にしない?私明日も仕事が休みだし、そもそも明日に噂の神社を探しながら感傷に浸る予定だった訳だし、しかもほら私今日なんか筋肉痛であんまり体動かないから森の中とかいつもと違う筋肉使うようなとこ歩きたくないし、それに、っう!」
つらつらと此処に入りたくないですと丁寧に説明していたのだが、今度は明らかに苛立ったような風がゴウと背中を押した。
「はよ入れって?分かった分かりました!でも私、怖いの無理だから。ビックリさせるの無しね。私が一度でもビビった途端お社ぶち開けて御神体粉砕してやるからね。ほんとだよ。」
念のため鳥居に一礼し道の端を歩きながら道なりを進む。
道は舗装されてはいないが歩きにくさは感じられない。外から見た時は森の中は真っ暗で鳥居の中の様子など一つも分からなかったのに、いざ中に入ると薄ぼんやりと月明かりが、目に入る何もかもを照らしてくれていて、気味の悪さはまるで無かった。むしろ観光名所にでもなりそうなくら美しい場所であった。
「あ、お社。てことは着いたのか。」
十五分ほど歩いて到着した先には簡素な小さな社だった。目の前に立ってみるが別段なにか不思議な声が聞こえたり、喋る動物が飛び出すことも、自分の身体に異変が起こることもない。
じっと見ていると今年の初詣に彼氏と参拝したことが思い出されてくる。あの時はこんなに優しくてかっこよくて何でも知ってて私のこともわかってくれる人はこの人以外にはいないと本気で思っていたのに。今思うと仕事場の先輩の方が優しかったし、高校で一度も同じクラスにならなかった人気者の男の子の方がかっこよかったし、彼の弟の方が博識であったようだし、流絵の方が私のことを分かってくれた。
「ああいけない。神様もこんな汚いの聞きたくないか。」
流絵は何と言っていたっけ。彼氏を紹介してもらえみたいなことを言っていたような気がする。
気を取り直して財布から5円を取り出し、賽銭箱に投げ入れた。
「勇者みたいな彼氏ください。」
その瞬間。まるでつまらないモノマネでも披露したかのように足元に真黒な大穴があいて私の体は素直に重力に従っていった。
くそ!やられた!
「絶対御神体粉砕してやるからな!!」
私の声はわんわんと反響して空へと響いていった。驚かせることと手の届かないところに追いやるということを同時にするなんて、ビビらせたら御神体粉砕してやると言ったのに!卑怯だ!
落下。落下。落下。
落下。落下。
落下。
あまりにも長い時間の落下だ。着地地点は全く見えず周囲と同じ真っ暗がずっと続いている。落ちるスピードにファンタジーは一切なく遠慮のない空気抵抗が顔面を削る。
もう一時間くらい経ったのではないだろうか。それほどまでに長い落下だ。最初こそ、ああこれはもう死んだな、と故郷に残した両親や親友の流絵に感謝の念を送るなどしんみりと涙の一つや二つほろりとしていたのだが、ここまでくると流石に飽きてくる。
一種のアトラクションになりかけているこの落下。すでに体勢を変えるスキルを習得しており、上手に仰向けに寝ている。空気の流れがまるでウォーターベッドのようにふわふわボヨボヨと背中を刺激しておりなんとも心地が良い。
「ふあ……眠くなってきた。」
地面に叩きつけられるのが怖くないといえば嘘になるが、いまだに見えない地面にどう恐怖を抱けば良いのか。もうここまでくると落ちているのか、下からの強風にただ浮いているのか分からなくなってきているのだ。
脳の錯覚に身を委ね、私は目を閉じ睡眠へと飛び立った。身体は落ちているが。