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第八十九話:銀貨の真実

 

「違いますよ」


 御風(みかぜ)様は乾いた息を吐いた。ひどく落胆した様子の彼女は、沈みそうなほど深く椅子に腰掛ける。


「残念じゃ。まことに、期待というものは人の心をお手玉のように(もてあそ)ぶ。右へほれ、左へほれ、ワシはもう待ちくたびれた。まだ、迎えに来てくれんのかえ」

「誰かを待っているのですか?」

「待っているとも。ずっと、先代も、先々代も、待っておった。ヌークポウが歩みを止めない限り、ワシらは待ち続けるのじゃ」


 ナターシャは首を振った。会話が成り立たない相手に時間を費やすつもりはない。


「私はシザーランドの傭兵です。あなたが待っている者ではありません」

「傭兵か。蛮族が何の用じゃ。戦いの残り香に惹かれたか。それとも甘言に踊らされたか。ここには何も無いぞ。そなたらが奪いたい物も。そなたらを必要とする戦の火種も」

「違いますって。私はただ、大国の花(イースト・ロス)の商人について聞きに来ただけです。御風様はナバイアに眠る探求者の血を継いでいると聞きました。その叡智を分けてくださいませんか?」

「ナバイア、そなたはナバイアを知っておるのか。懐かしい名前じゃ。それに大国の花(イースト・ロス)とな。カッカッ、これは愉快。傭兵も東の民には手を焼くのかえ」


 御風様はプルプルと震える指を壁に向けた。そこには絵が飾られている。


「知っておるとも。その絵は売人が肌身離さず持ち歩く大国の花(イースト・ロス)の印じゃ。もちろん見える場所には付けん。肌に直接刻む者。鍵をかけて隠すもの。もしくは大国の花(イースト・ロス)の銀貨を服の中に入れる者。そうして信頼できる相手にだけ見せるんじゃ。私は売人だけど許してください、とな」


 一輪の花が描かれた大きな絵だ。だが奇妙である。花にしては茎の形が歪であり、しかも途中で折られたみたいに茎の先端が膨らんでいる。


「売人は全員がこの証を持っているのですか?」

「あぁ、必ず。片時も離さん。風変わりな民族よ」


 ナターシャは絵に近寄った。


「その絵は面白いものじゃ。白金の、絵を下ろしてみい」

「届かないです」

「貧相じゃのう。傭兵は戦いばかりで飯も食わんのか」


 余計なお世話である。ナターシャは背伸びをして何とか絵を取り外す。


「そのまま、ワシに見えるように置くのじゃ」


 ナターシャは言われた通りに絵を広げた。対面の御風様に向かって置いたため、ナターシャからは逆さまになる格好だ。


「分からんかえ。よーく見てみなんし。思い込みを捨てるんじゃ、見えてくるものがあるじゃろ」


 ナターシャは眉間に皺を寄せた。よく見ろと言われても逆さまの花が描かれているばかり。綺麗な絵だが面白さは分からない。

 首を傾げてみる。やはりただの花だ。遊ばれているのかと顔を上げるも、御風様は真面目な表情でナターシャを見守っている。


(思い込みを捨てる、ねぇ)


 これは花ではない、と仮定しよう。

 逆から見ると、花びらが下向きに広がる姿はドレスのようにも見える。そうなると枝分かれした茎は腕だろうか。中央の太い茎は胴体、そして先端が膨らんだ茎の断面は――。


「ほれ、見えた」


 ドレスを着た女性だ。花の絵ではない。美しい女性がナターシャを見下ろす。


「上下逆さの騙し絵じゃ。上から見れば花。下から見れば、美しいドレスを着た女性。東の民は気に食わんが、この絵だけはよう出来ておる」


 既視感だ。

 こんな任務を受けるんじゃなかったと後悔するほど、気持ちの悪い感覚だ。

 彼女の記憶が急速に巻き戻る。マリーの歌、探求者の亡骸、水没した研究所、目を覚ました水没原。ぐるぐると頭の中で回って、たどり着いた記憶の逆流。


「おや、そなたはこの絵を知っているのかえ? カカッ、それは幸運じゃ。いや、不運かえ。売人の印を実際に見れる者なんてほとんどおらん。そなたはどこで、この絵を見たんじゃ?」


 思い出すのは、ろくでなしの夜。


「本当に……これは、売人の証なの?」

「そうじゃとも。売人にとって上下逆さの花印(はなじるし)は絶対に捨てられない誇りじゃよ」


 ナターシャは右手で(ひたい)を覆った。自分の頭を鷲掴むように力を込め、痛いほどに両目をつむった。なんてことだ。なんてことを、してしまったのだ。ナターシャは花印を知っている。ナバイアに向かう船の中、ろくでなしの夜に、小太りが落とした銀貨を拾ったのだから。


 と、いうことは何だ。リリィの家族と会いに行くという名目の任務に、「彼」は何を考えて参加したのだろうか。内部情報を漏らした自責の念か。同期の仲間を死なせたことに対する後悔か。それとも、かつて大国の花(イースト・ロス)が蔓延した金融都市にナターシャ達が向かうと聞き、焦って参加したのか。


「どうしようもない、屑どもが」


 少女の右手に力が込められ、白金の前髪がくしゃりと乱れる。ナバイアに向かってから、嫌なことばかりだ。

 仲良くなれたのに救えなかった人魚がいて、娘を忘れてしまった家族がいて、それで今度は、仲間に紛れた屑野郎か。


 ナターシャの様子を、御風様は恍惚とした表情で見つめた。何も知らぬ小娘に真実を突きつけるというのは何度味わっても愉快なり。「あぁ、気分がいいぞ。若返ったような気分じゃ」と老婆は笑った。


「のう、白金の。昔話に付き合え」


 御風様は返事を待たない。


「ヌークポウは百年戦争のために作られた。それは過酷な研究じゃったよ。これほど巨大な船だ、動かすには莫大なエネルギーが必要になる。その資源をワシらは見つけた。だがそれは悪魔の力でな、近付くだけで何人もの研究者が命を落とした」


 御風様は自らが経験したように語る。事実、先代の血を継ぐ彼女は知識という名の記憶を受け継いでいた。

 枯れた体に赤みがさす。興奮したように、御風様が口角を上げる。


「どうにか悪魔のような力を利用できないかとワシらは考えた。戦争の(かたわ)らで、戦地に向かう兵士を見送り、時に無駄金を使うなと揶揄されながら、少しでも祖国の勝利に貢献しようと研究を重ねた。じゃが、ワシらが多くの犠牲を払ってようやく完成した時、すでに戦争は終わっていた! 結晶が戦争もろともワシらの夢を奪ったのじゃ!」


 御風様は握り拳を落とす。


「断じて認めんぞ。絶望して歩みを止めれば、それまでの犠牲が無駄になってしまう。国を復興するためにヌークポウを解体すると言われた時、ワシらは無理やり出航したよ」


 御風様の瞳には祖国を発つヌークポウの光景がありありと浮かんだ。まだ結晶の影響が少なかった頃。国の制止を振り切って、研究者は外の世界を目指した。ヌークポウの威厳を他国に見せつけるために。


「ワシは先代に託された。いつか、祖国がヌークポウを必要とする日まで、この巨大船を動かし続けてくれ、と。じゃから船は止まらない。命を燃やし、循環水を回し、ヌークポウは世界を横断する!」


 御風様はこの日一番の大声で宣言する。倒れそうな体を気力で支え、椅子から立ち上がって杖を打つ。

 老婆の覇気が、未だ顔を覆う少女を煽った。


「どうじゃ白金の。そなたも壊れた世界に生きるのは止めて、共にヌークポウで暮らさんかえ。ここは良い街じゃ。夢を奪った結晶に真っ向から立ち向かう。これ以上の大義は無いじゃろう」


 ナターシャは顔を上げた。そこに宿るは、強い否定の意志。


「私が乗る船はもう決めているの。それに、やることがある。私の手で終わらせないといけないことが、さっき見つかったの。だからヌークポウとは歩まない」

「そうかえ。残念じゃ。所詮はそなたも傭兵の一派。中立国とは相容れんというわけかえ」


 御風様は「悲しいのう、哀れじゃのう」とどこまで本気か分からないように泣いた。彼女からすれば、ナターシャが否定する気持ちが理解できなかった。ヌークポウの外は残酷だ。騙し、騙され、殺し、憎まれ、限られた資源を奪いあう。野蛮で粗暴。仁義も理念も救済もない。そんな世界で暮らすぐらいならば、共にヌークポウで腐れば良いものを。


 ナターシャは御風様に礼を述べた後、部屋を出た。

 混沌としたパイプの街を少女は走る。動悸が激しい。知りたくないことばかりが増えていき、世の汚さ、受け入れ難い不条理が募っていく。最悪な里帰りだ。もっと明るい気持ちで故郷を歩きたかったのに。


 世は地獄と誰かが言った。あっちは害意、こっちも敵意。そこかしこに小さな悲劇。生きるのに必死で他人に気をつかう余裕がなく、自分を大切にする方法も知らない人々で溢れている。もっと優しくなってくれ。少女が憧れたのはこんな汚い世界ではない。


「待ってて、アリア」


 早く友を連れてヌークポウから出よう。街に染まる前に。どうしようもない悲しみをこらえて。




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