第八十八話:里帰り
船を降りると同時に、強風が前髪をかき上げた。周期的な揺れが足元から伝わってくる。地上は遥か下だ。六本足が地面を踏み締めた。
久しぶりに見上げる移動都市の街並みは相変わらず狭苦しい印象だ。大嫌いだったはずなのに、門をくぐると安心感に包まれた。記憶が美化されているのだろうか。今にして考えれば悪くない場所だったように思える。
「おーい嬢ちゃん、帰る時は声をかけてくれよ。俺たちもあまり長居できないから気を付けてくれ」
「了解。送ってくれてありがとね」
彼女をヌークポウまで運んでくれた船員に感謝し、ナターシャは移動都市の中へ進んだ。
早くアリアに会いたい気持ちもあるが、まずは先に御風様の元へ向かおう。御風様はいつもヌークポウの最上階に住んでおり、街に干渉することは滅多にない。街で唯一の長寿であり、理解しがたい偏屈者だ。
ナターシャは居住区を歩く。剥き出しの鉄板が貼り合わされたような壁。水がポタポタと漏れるパイプ。鉄格子の床は歩くたびに金属の擦れる音が鳴り、すぐ脇を街の循環水が流れている。埋もれたような家や、パイプの奥に隠れる街道、カサカサと何かが動く音、そのどれもが懐かしい。
「帰ってきたんだなぁ」
だだっ広いはずのヌークポウが少しだけ狭く感じられる。彼女が大きくなったからだ。記憶よりも乱雑な居住区は今にも崩れそうなバランスを保っており、よくこのような環境で暮らしたものだと感慨深くなる。
ふと前方が足音が聞こえた。続いて警備隊の服装が見えると、ナターシャは無意識に身を固くした。
「お前、もうすぐ子供が生まれるんだってな。ぜひ俺に会わせろよ」
「勘弁してください警備隊長。子どもが泣いてしまいますよ」
「おい、それはどういう意味だ」
何も悪いことはしていないのだから堂々とすれば良い。これでは犯罪者みたいではないか。
けれど、ナターシャの脳裏には、あの日、自分を船から落とした警備隊の姿が思い浮かんでいた。面倒事は避けるとしよう。ただでさえ団長から面倒な仕事を押し付けられているのだから。ナターシャは視線を落としてすれ違う。
「……ナターシャ?」
がしかし、呼び止められる。渋い声だ。誰が呼び止めたのかをナターシャはすぐに察した。
「おいっ、ナターシャじゃないか! お前いつ帰ってきたんだよ!」
振り向くと髭面のオヤジが目を丸くしている。ナターシャが幼き頃、立ち入り禁止区域に立ち入っては、何度も追いかけ回された相手だ。
ヌークポウの警備隊隊長。ローレンという名の男である。
「久しぶりね警備隊長様。見ない間に随分と強面になったじゃない」
「生まれつきだやかましい。おいお前達、悪いが先に見回りへ行ってくれ。俺も後から向かう」
ローレンは部下を下がらせた。彼は「厄介な問題児に再会した」と顔をしかめてつつも、どこか嬉しそうな表情をしている。普段からそんな顔をしていれば強面も解消されるのに勿体無い。
「お前今まで、というかなんで、あーいや、くそ、聞きたいことが山積みだぞ」
「落ち着いて話してよ警備隊長様。年下の女の子相手に緊張しているの?」
「相変わらずの減らず口で安心したよ。というか敬っていないくせに警備隊長様はやめろ」
それはそうだ。ナターシャはいつも茶化すつもりで警備隊長様と呼んでいた。
「でも良かった。本当に、良かった。お前が無事で安心した」
「心配してくれたんだ?」
「そりゃあそうだろ。急にいなくなりやがって、どれだけ心配したと思っているんだ」
「好きでいなくなったわけじゃないけど……ごめんね、ただいま」
彼女は柔らかく笑った。ローレンは昔のままだ。頑固で怒りっぽくて、そのくせに子ども好きで世話焼きな男だ。
「あぁ、おかえり。よく帰ったな」
その後は歩きながら今までのことを話した。もちろん、言えない内容もある。色々あってシザーランドの傭兵になったこと。リンベルと暮らしていること。目指していた小隊に入れたこと。
ローレンは傭兵に至るまでの「色々」を聞きたそうにしていたが、我慢してくれた。月明かりの森で暮らしたなんて言えば余計に心配されるか、気味悪がられるか。もしくは禁足地に入ったことを怒られるか。どれを選んでも良い結果にならないのは目に見えていた。
「一つ聞きたいんだが、お前がいなくなった日、うちの警備隊のエルドを見なかったか?」
ナターシャは表情に影を落とす。エルドとは彼女を船から落とした警備隊の名前だ。忘れるはずがない。
「知らないわ」
「そうか……いや、実はあいつもナターシャと同時にいなくなったんだよ。警備隊総出で探したんだが見つからなくて、結局行方不明扱いだ」
ナターシャは何となく理解した。
エルドが最も大事にしていたのは街の平穏だ。ヌークポウを守ろうとした父の意志をエルドは継いでいる。そのために年下の少女を躊躇なく船から落としたのだから、彼の信念は狂気に近いだろう。
あの日、彼は結晶憑きに噛まれていた。彼が結晶化するか、もしくは結晶憑きに堕ちるかは時間の問題だ。どちらにせよ街に被害が出るのは確実である。そんな状況で街を守るためにどうするか。
(きっと、私のあとを追って彼も飛び降りたのね)
本人がいないため真実はわからない。だが、強い志しを持った人間であることは確かだ。街のために自らの命を差し出したとしてもおかしくないだろう。
「怖い顔をしているがどうした?」
「……いえ、何でもない。気にしないで。ヌークポウではよくあることでしょ。早く死に、早く消え、コロコロと人が入れ替わる。私がそうだったみたいにね」
今度はローレンが表情を暗くした。もしかして他にも誰かいなくなったのだろうか。
「なぁ、ナターシャ……実は……」
ローレンが天井を見つめる。ナターシャからは見上げるような格好になって表情が見えない。「もっと腰を落としなさい」と不満げだ。
彼は「その」とか「お前の」とか呟いて、何度も言い淀み、やがて諦めた。足元を循環水が回っている。
「いや、わるい、忘れてくれ」
「歯切れが悪いわ。気になるでしょ」
「いいや、いいんだ。今話す事じゃない」
ナターシャは首を傾げる。そう言われると余計に気になるのだが、頑固なローレンはまったく口を割らなかった。
「それよりも御風様に会いに来たんだろ? 感謝してほしいぜ、本来ならば普通の住民は会えないからな。俺が口を聞いてやる」
「ローレンってそんなに偉い立場だったの?」
「知らなかったのか、俺は警備隊長様なんだ」
二人は居住区の階段を登る。上へ、ナターシャが登ったことがないほど、ヌークポウの高い場所へ。
乱雑な街並みは少しずつ変化し、昔懐かしさを感じさせるような古風で落ち着いた雰囲気に変わる。手入れの行き届いた封晶ランプがぶら下がり、中立国の旗印が壁に刻まれている。ナターシャは髪飾りを触った。ここが私の故郷だぞ、と髪飾りに教えるのだ。
「傭兵か……」
ローレンが心配そうに呟く。
そういえばヌークポウにおいて傭兵の印象は悪かった。野蛮で粗暴な話ばかりが一人歩きし、傭兵は戦いに飢えた蛮族の集まりだと認識されている。
「本当に大丈夫か? 危険はないのか? いつでもヌークポウに帰っていいんだぞ?」
大丈夫か、と聞かれれば否。団長の命令で任務をたらい回しにされ、禁足地に放り込まれた。
危険もおおいにある。むしろ危険しかない。
ならばヌークポウに帰りたいかと問われれば、これも否。ナターシャは第二〇小隊の一員でありたいと本気で考えている。
そんな考えを凝縮させて。
「大丈夫よ」
と簡潔に答えた。簡潔すぎて何もローレンに伝わっていない気がしたが、ナターシャは大丈夫なのだ。
やがて御風様の部屋に到着した。今になって気付いたが、登れば登るほど、街ではなくて城のような構造になっているようだ。クレメンスが「ヌークポウは百年戦争のために作られた巨大兵器だ」と言っていたがあながち間違いでないかもしれない。
ローレンが話を通してくれたおかげで、ナターシャはすんなりと面会を許された。彼は「俺は仕事に戻る。くれぐれも失礼がないように」と何度も念を押して帰った。ナターシャは淑女の如く静かな性格だと自負しているのだが、ローレンの認識は違うらしい。あとで彼の認識を改めねばならん。
「失礼します御風様」
落ち着いた木目調の部屋だ。ナバイアの研究所を思い出させるような本棚は御風様の趣味だろうか。棚の上には大量の資料が積まれ、ナバイアの研究員と思われる写真も飾られている。
「お聞きしたいことがございます」
窓際に老婆が座っていた。彼女は緩慢な動作でナターシャに顔を向ける。
立つことも出来ないのだろう。身は枯れ、髪も干し草となり、枝木のような指が椅子に添えられる。
されど、御風様の瞳には異様な光があった。今にも倒れそうな体だというのに、決して力尽きないと思わせる生命力。
「客人か、珍しい……そなたはもしや、中立国の使者かえ?」
老婆はしゃがれた声で少女に問うた。




