第七十二話:珊瑚の森の夜泣き海牛
とある境界を超えた時、ナターシャは「入ったな」と直感した。それは第三六小隊のエイダンたちや、クレメンスも同様に理解した。
今、この瞬間をもって、自分たちは禁足地ナバイアに足を踏み入れたのだ。
湿原の水位がいつの間にか膝ほどまで上がっており、背の高い草木によって先がほとんど見えない。
視界が悪いのは草木の影響だけではない。黒に近い灰色の雨雲が、東西南北、雲の切れ目が見えないほど果てしなく広がっている。結果として太陽の光がほとんど届かず、昼間だというのに夕暮れの曇り空の如く薄暗いのだ。所々に大きな岩影のような物が見えた。あれは結晶だろうか。暗くて正体がわからない。
禁足地・ナバイア水没原。これこそ中立国が抱える秘密の大湿原なり。
機動船は四隻だ。クレメンスの船と、彼の商会が用意した護衛船。どうやら原生生物の相手は傭兵に任せつつ、自前の護衛船で身を守る考えらしい。
先頭を第三六小隊の船が進み、中央に挟む形で商船が二隻、そして最後尾にナターシャたちの船が続く。
「――ナターシャ、聞こえるか。エイダンだ。俺たちは禁足地ナバイアに到着した。ここからは速度を落として進む。異常があればすぐに伝えろ」
船内にエイダンの声が響いた。返事を言う前に通信が切られ、ナターシャは唇を尖らせて外を見る。
空気はやはり、冷たい。禁足地にはいつも冷たい風が吹く。月明かりの森で川が逆流したように、また聖都ラフランで全ての水が枯れ果てたように、このナバイアでも常識外れな現象が起こるのだろうか。
ナターシャは普段と異なる種類の不安を感じた。禁足地にイグニチャフたちがいる。彼らを死なせないために、隊長の自分が気を張らなければならない。押しかかる重圧は少女にとって初めての感覚だった。
「ただの水没原ってわけじゃないよね」
機動船の窓の外、すぐ目の前を大きな珊瑚が通り過ぎる。原生生物の一種だ。名を「火膨れ珊瑚」といい、淡く光る姿は幻想的だが表面に毒を持っている。うっかり触らないように後で注意を呼びかけよう。
雨と暗闇で遠くまで見えないが、明らかに樹木ではない影があちらこちらで見受けられた。全て珊瑚の影であれば良いが、何となく動いているようにも見える。
嫌な雰囲気だ。
ナターシャは談話室へ向かった。部屋にはリンベル以外の仲間が全員揃っており、各々が緊張した様子で銃の整備をしている。そのうちの一人。硬い表情のイグニチャフが顔を上げた。
「ナターシャ、やばい、俺すっごい緊張している」
「見れば分かるから、取り敢えず銃を磨くのはやめたら? すでにピカピカよ」
「いいや、不安だ。錆の一つで弾が外れるかもしれない。そのせいで結晶憑きに食われるかもしれない。そう考えたら、腕が止まらなくて……」
ナターシャは屈んでイグニチャフを見た。
「大丈夫。私があなたたちを死なせない。二回も禁足地を生き延びたのよ、安心してついてきてほしい」
彼女は仲間を鼓舞した。望まぬ隊長だとしても、仲間の背中を押すのがナターシャの役目。不安を押し殺して気丈に振る舞うのが隊長だ。
イグニチャフは頷いた。彼もナターシャの気持ちは理解している。自らを落ち着かせるように星天教の祈りをささげた。禁足地で捧げる祈りは、はたしてナバイアの雲を越えられるか。
やがて機動船が止まった。
続く、銃声。方角は前方だ。拡声器からリンベルの声が鳴り響く。
「――全員甲板に出てくれ。第三六小隊が結晶憑きと戦闘中だ。音につられて他の原生生物が寄ってくるかもしれないから気を付けろ」
来たか、とナターシャは立ち上がった。
ドットルとナナトは既に戦う準備が整っている。イグニチャフも覚悟を決めたように銃を握った。
外に出た瞬間、刺すように冷たい暴風雨に襲われた。
視界に映るのは、暗い禁足地でぼんやりと光る珊瑚礁と、船に襲いかかる結晶憑き、そして応戦する他船の姿。ナターシャの後ろに続いたイグニチャフが珊瑚礁を見て「綺麗だ……」と場違いな呟きを残した。
「感傷にひたる余裕はないわ。囲まれる前に排除しましょう」
ナターシャの船にも結晶憑きが群がっている。数はさほど多くない。ナターシャ一人では手に余るが、仲間がいれば対処可能だ。
ナバイアの結晶憑きは一般的な姿と異なっており、結晶に混じって無数の珊瑚が生えていた。
「地域によって結晶憑きの見た目も変わるんだねぇ。いや、あの見た目は珊瑚憑きが正しいかな」
「馬鹿なことを言わないで構えなさいナナト」
ナターシャは結晶銃の照準を覗いた。視界に収まる結晶憑きは、なるほど、たしかに綺麗な姿かもしれない。結晶と珊瑚が場所を奪い合うように亡者の体から生え、視界を失った彼らは音だけを頼りに船へ近寄ってくる。歩くたびに白っぽい粉が舞い落ちた。ボロ布のような服装をしているが、恐らく中立国の人間だ。理性を失った亡者は降りしきる雨の中を手探りに進む。
慈悲は無用だ。ナターシャは外さないように落ち着いて照準をあわせ、引き金を絞った。雨に飲まれた銃声。放たれた弾丸が珊瑚憑きを貫く。
「おっ、さっすがナターシャ! いいねぇ、俺も負けてられないなぁ!」
珊瑚憑きが一斉に走り出した。機動船を明確な獲物と認識したのだ。
ナバイアに無数の銃声とうめき声が響いた。
◯
後方から銃声が聞こえたエイダンは手を止めた。既に第三六小隊の周りにいた珊瑚憑きは壊滅している。
「ネイル、依頼人の船はどんな様子だ?」
「問題ないですよ。僕たちと支援部隊が注意を引いているから、商船に向かった亡者はほとんどいません。仮に商船が襲われたとしても、あっちの船に乗っているウォーレンが全て始末しています。被害はゼロですね」
平凡な見た目の男が答えた。ナターシャが親しみやすそうな印象を抱いた青年だ。名をネイル。第三六小隊の苦労人と呼ばれ、小隊の雑事や後始末はすべて彼が引き受けている。
「支援部隊は役に立っているか?」
「あっちはですねー……」
ネイルが単眼鏡で後方の様子をうかがった。
「大丈夫そうですよ」
「それならいい」
ネイルの目には、後方で応戦するナターシャたちの姿が映る。流石に自分たちほど素早く殲滅できていないが、特に手を出さなくても問題なさそうな様子だ。ナターシャが第二〇小隊所属という前情報はネイルも知っており、彼女が珊瑚憑きを的確に捌くのは予想通りである。意外なのは、小太りの青年もナターシャに迫る勢いで亡者を駆逐していることだ。彼らに期待していいかもしれない。
「ネイルは船を動かす準備をしておけ。後方が片付き次第出発だ。ヌラはどこにいる?」
「彼は多分……」
ネイルは困ったような顔で船の外を示した。エイダンがその方角を見下ろすと、何故か水没原の上に仲間の一人が立っている。
「あぁ、エメ様! ヌラの献身を見ていただけましたか! このヌラ、船に近づく不届き者を一掃しました! エメ様に触れようとする者はっ、何人たりともっ、許しません……!」
長い髪を後ろでまとめた男が、血濡れた手袋で珊瑚憑きの頭を持ち上げた。
「あいつは何をしているんだ?」
「エメに供物を捧げているんじゃないですか?」
「エメは亡者の頭を欲しがるのか?」
「いやー、要らないでしょうね」
仕留めた亡者を掲げるのはヌラ。彼が第三六小隊の最後の隊員であり、エメを崇高するあまり偏愛卿と呼ばれる男だ。黙っていれば整った容姿をしているのだが、指一本でも動かした途端に、内に秘めた狂人が顔を出してしまう。
「私はお役に立てましたか? ぬぅっ、まだ足りませんか!? 不満があれば、このヌラに何でもご命令ください。不満がなくとも! ヌラをお求めください!」
ちなみに、件の衛生兵エメは早々に船内へ帰っており、ヌラの活躍は一切見ていない。更に言うとエメは衛生兵であるため、意味もなく船から降りるという危険行為は看過できない。もしもこの場に居れば絶対零度の如く冷たい視線で見下ろしただろう。
苦労人ネイルが呆れた様子で声をかけた。
「おーいヌラ、帰ってきてくださーい。支援部隊も無事に殲滅できたみたいなので出発しますよー!」
「いいや、まだだ」
「え?」
エイダンの瞳は水没原の闇に向いている。機動船から少し離れた場所、珊瑚憑きが現れた方角に、いつの間にか奇妙な生物がいた。ぬめりを帯びた体を波打つようにくねらせ、水面を揺らしながらゆっくりと機動船に近寄ってくる。
「あっ、まっずいですよ、エイダン隊長――ヨナキだ」
はんぺんのような白い体。橙色の斑紋が無数に光り、同じく橙色の触角がゆらゆらと暗闇に浮かぶ。
それは人の五倍はあろう体長を持つ巨大な生き物だった。
夜泣き海牛。一般的にはヨナキと呼ばれる、海牛の一種だ。驚異的な再生能力を有し、たとえ体が結晶化しても自切することで生き永らえる原生生物。
ネイルは依頼人であるクレメンスの言葉を思い出した。曰く、原生生物に遭遇した場合、どんな生物であろうとも撤退せよ。
「ぬん! 新手!」
ヌラは瞬時に拳銃を引き抜き、発砲した。遺物の一つである彼の拳銃は高い威力を発揮し、人間の頭ほどの風穴をヨナキに空ける。
「無駄ですヌラ! 頭だけになっても再生する化け物に拳銃なんか効きませんよ! さっさと気持ち悪い頭を捨てて船に戻ってください!」
「ちっ、これもエメ様の試練ですか!? このヌラ、お望みであれば果ての霊峰すら乗り越えてみせましょう!」
「あぁもう馬鹿!」
ネイルが悲痛な声をあげる一方、ヌラは二丁の拳銃を構えた。
放たれた弾丸が海牛の体を無惨に貫く。だが倒れない。禁足地に生まれ、結晶風の驚異に晒されながらも耐え抜いた原生生物。その生命力は人の手で奪えない。
ヨナキが淡く発光した。あれは警告色だ。ヨナキは自らの体を心臓のように脈打たせ、周囲の水をみるみるうちに吸収した。ヌラは膝元まであった水位が一瞬にして下がったのに気付き、珊瑚憑きの頭を放り捨てて機動船へ走った。
「無念!」
膨れ上がったヨナキ。巨体に吸収された水は極限にまで圧縮される。直後、ヨナキの口が大きくめくり上がり、高圧になった水が噴出された。凪払うよう放たれた水が大地を抉り、岩をも砕きながらヌラに迫る。
「ふんっ!」
ヌラが跳んだ。細身な体とは思えぬ跳躍力で機動船に張り付くと、そのまま船体の壁を走って登った。超人的な肉体。獣に劣らぬバランス感覚。それは彼が身に付け、あるいは体内に埋め込んだ遺物が成す力だ。
甲板に登ったヌラは手すりに仁王立ち、懺悔の叫びをあげる。
「私はまだ未熟だったということか! なんとも情けない! このヌラ、今すぐに飛び下りてしまいたい気分です!」
「出発するから早く中に入ってください!」
「何を言うかネイル! 私は試練の行く末を見届けねばならんのだ!」
「はよ入れ!」
ネイルの怒声が響く中、巨躯の海牛が襲いかかる。




