第六十五話:幕間 天巫女の一日
天巫女の朝は早い。
「天巫女様、おはようございます。準備ができておりますのでお越しください」
窓の外はまだ薄暗く、日の出まで時間がある。夜が明けると集会が始まるため、それまでに冷水で身を清めなければならない。天巫女は眠気が残る頭を無理やり覚醒させ、乱れた髪を手櫛で整えると、部屋の前で待つ侍女たちに連れられた。
夜の間に星々の寵愛を受けて清められた水は、早朝の冷気によって更に水温を低くし、塔の中央に貯められる。特にローレンシアは寒さが厳しい国であり、真冬は氷の膜が張ることもしばしば。それを侍女に手伝ってもらいながら、天巫女は全身を清めるのだ。
「っ……」
天巫女はこの時間が一番苦手だ。寝起きの体温が下がった状態で冷水をあびると、びっくりした心臓が大きく脈動し、少し遅れてから、指先の感覚がなくなっていく。手のひらが芯から痛くなり、今すぐに暖かい寝室へ帰りたくなる。
身を清めた天巫女は集会用の儀礼服に着替えさせられ、日の出と同時に集会へ向かう。祭壇には巫女つきと呼ばれる女性が天巫女を待っていた。巫女つきは祭壇への立ち入りを許される数少ない女性であり、天巫女が身を清めている間に、祭壇に咲く花々の手入れや集会の準備を進めるのが仕事だ。
「まずは星の神々に祈りを捧げましょう。今日、皆が集まれたのも星の導きがあってこそです。天主は我らを見守り、我らに恵みを与え給う。かの恩寵に感謝奉り――」
口を動かすのは天巫女だけだ。彼女は冷え切った唇を賢明に動かした。一度でも噛めばやり直し、巫女つきたちの仕事にも影響が出てしまうから。
集会が終わると巫女つきが祭壇から去っていき、天巫女だけが残された。黙祷の時間だ。天命を全うしたローレンシアの民が無事に神々の元へ昇るよう、ただただ真摯に祈るのだ。祭壇には半透明の花が咲いている。祈りの花が、ゆらゆらと揺れている。
黙祷の次は朝食だ。天巫女専用の食堂で、彼女は侍女と巫女つきに見られながら食事を済ます。他の者が天巫女と同席することは許されない。そして、天巫女が祭壇以外で一人になることも許されない。天巫女が動かす食器の音だけが食堂に響いた。
その後は国務のために塔のあちこちへ足を運ぶ。元老院の議会に出席する日もあれば、軍部に労いの言葉をかけに行くこともある。街の視察、他国から来た使者との会合、権力者たちへの挨拶まわりや、信任状などの天巫女でなければ確認できない書類の処理。
濁流のごとくせまる激務をこなし、侍女や巫女つきに見られながら昼食を取り、また国務。
「天巫女様、本日の議題についてですが――」
「外征していた第三軍が帰ってきました。ぜひ彼らのもとへ――」
「中立国から書状が届いております――」
「シザーランドの傭兵が現れました! 奴らがローレンシアに害を成すか否か、星の神々にお尋ね下さい――」
「天巫女様――」
「天巫女様!――」
日が暮れると国務は終了し、天巫女は再び祭壇へ向かう。平穏な一日をありがとうございました。どうか明日も、星の民を見守って下さい。国の安寧と民の幸福を願い、天巫女の一日は終わる。
彼女はローレンシアの象徴だ。星天教を国教に定め、信徒が国民の大部分を占める大国において、天巫女は欠かせない存在である。たとえ彼女の行為が無意味だとしても、天巫女が存在するという事実によって国の平穏が保たれる。神なき時代に祈る少女。彼女の声は誰に届くか。
◯
「たまには普通の暮らしをしてみたい。そう、あなたは昔、おっしゃっていましたね」
話しかけるのはアーノルフ元帥。当然のように立ち入り禁止の祭壇へ入っている。
「そんなこともあったね。もう覚えてないや」
「私は覚えていますよ。忘れませんとも。今も、普通に暮らしてみたいと思いますか?」
「うーん、どうだろ。想像できないなあ」
誤魔化しではなく、本心から分からないのだ。
「だって不可能だからさ。私が今更、天巫女をやめるなんて許されない」
「誰が許さないのですか。星天の神々は寛容なはずですよ」
「私がだよ。私は民に夢を見せた。誰かを導く人は、最後まで夢を見せる責任があると思うの。少なくとも天巫女には、ね」
彼女は天巫女という立場に慣れてしまった。たとえ始まりが苦痛であっても、毎日のように繰り返し、習慣として染み込ませ、そこに大義が生まれた瞬間、かつて抱いていた夢は諦めに変わる。それでいいと、納得してしまう。これこそがローレンシアの悪癖。星天教の忌むべき慣習。
やはり壊すべきなのだ。元老院の腐敗も、捻じ曲げられた少女の願いも、星天教という長い歴史も、全て、すべて――。
「顔が暗いよ。どうかしたの?」
アーノルフはハッと顔を上げた。天巫女が心配そうに見つめている。
「いえ……そうですね、先の戦いで失った兵士を思い出しておりました」
「ふうん? ルーロの亡霊と戦ったって聞いたよ。正式には第二〇小隊だっけ?」
「ルーロ戦争で幾度となく戦場をかき回した疫病神ですよ。この戦いで多くの優秀な兵士を失いました。彼らの無念を、私は背負わなければいけません」
朽ちた聖城で第二〇小隊に襲われ、かの亡霊によってホルクス軍団長の兵士が多く犠牲になり、彼の右腕である狙撃兵・イサークも怪我を負った。アーノルフの援軍が間に合ったため救出できたが、失われた命は多い。そう、天巫女は報告を受けている。
この戦いは元老院や軍部、そして民衆の間で異なる受け取り方がされていた。
元老院は激しい憤りを感じている。傭兵が商業国に向かうという情報を聞き、元老院の息がかかった兵士を襲撃させることで手柄を横取りしようとしたのだが、結果的に返り討ちとなって大事な手駒を失った。元老院は作戦が失敗したのはホルクス軍団長の指揮能力に問題があり、ひいては上官であるアーノルフに責任があると非難した。
軍部は元老院の主張に反論をせず、失われた兵士に黙祷した。この悲劇は第二〇小隊という悪魔が現れたのが原因であり、かの小隊の恐ろしさを知る上層部は、ホルクス軍団長を糾弾することができなかった。
星天教を司り、天巫女の力を保有し、国の政治を一身に受け持つ元老院。
侵略や国の治安維持、遺物回収などを主な目的とする軍部。
二権分立であるが故に、両者の思惑がぶつかり合い、分断されるローレンシアの中枢。
そして、民衆はこれらの悲劇をひどく感情的に受け止めた。ホルクス軍団長は国のために戦い、結果として多くの部下を失ったのだ。それなのに、因縁のある第二〇小隊の仕業であるにも関わらず、元老院はホルクスを非難する。そして、民に愛される男・アーノルフ元帥は自分にすべての責任があると主張してホルクスをかばった。
なんたる美談。なんたる、茶番。
アーノルフ元帥がいたからホルクス軍団長たちを救出できたのだ。何もしていない元老院がアーノルフ元帥を非難するのはおかしいだろう。
民衆は怒りの声を上げた。悪いのは傭兵だ。間違っているのは元老院だ。民の声は日に日に大きくなり、最上階に住まう天巫女の耳に届くほど激化している。
そして、自分たちの怒りが、他でもないアーノルフの思惑によって操られていることを民衆は知らない。
「アーノルフ。君は自分の責任だと思っているの?」
「ええ、これは私の責任です。私の指示が多くの兵士を殺したのは、間違いなく事実ですから」
「それが君の狙い?」
アーノルフは心外だと首を振った。
「私が部下をあえて殺させたと? いくら天巫女様といえどもお戯れが過ぎますよ」
「私はね、アーノルフのことを正しく評価しているの。君が傭兵の動きを予測できないはずがない。第二〇小隊の強さを知る君なら、彼らに対抗できるだけの戦力をホルクス軍団長に采配したはずだよ」
「それは過大評価です。私は彼らの動きを予測できなかった無能な元帥ですよ」
天巫女は彼が本音を話していないと直感した。同時に、これだけ長く共にいながら本音を話してくれないアーノルフに悲しくなった。祭壇の花がさめざめと揺れる。
「民衆は元老院ではなく、軍部を、アーノルフ元帥を支持している。そうまでして国の頂点に立ちたいの?」
「私はそのような野心を抱いておりません。天巫女様は疲れているのですよ。今日も巫女の務めを一日中されていたのでしょう?」
「話を逸らしたね。悪い大人だ」
「賢い大人です」
天巫女は頬を膨らませた。しかし、その表情は布に阻まれてアーノルフから見えない。布一枚の距離が果てしなく遠い。天巫女は制約によって素顔を隠し、アーノルフは偽りの笑顔を浮かべて素顔を見せない。両者の間に透明な壁があることを理解していながらも、それを壊す方法を彼らは知らなかった。
「前にも言ったけれど、これは天巫女としての務めだから大丈夫だよ。私にしか出来ないことがあるんだ。それを放棄したらダメなの」
「務めであっても疲れは溜まります。どうか、今日はゆっくりと休んでください」
「君が本音を話してくれたらぐっすり眠れると思うなぁ」
「ハハッ、お戯れを」
天巫女が立ち上がった。
「どちらにせよ、これから元老院と話があるから、寝るのはもう少し後になるね」
「まだ働くのですか?」
「働くんじゃなくて務めだってば」
「同じですよ。どうか休んでください。話し合いなんて一度すっぽかした程度では何の問題もありません」
「まるで経験者のように語るね。とにかく私は行くよ。君こそ休みなさい。ここ数日は働き詰めなんでしょ」
天巫女は呆れたように去っていく。アーノルフだけが祭壇に残っていると問題になるため、否、入っていることが既に問題なのだが、彼は早足で天巫女を追いかけた。
二人は静かに塔を歩く。アーノルフは歩幅を狭くし、数歩先を天巫女が進む。二人はあくまでも天巫女と元帥の関係であり、祭壇の外で気軽に声を交わすことは出来ない。会話はなく、肩は並ばず、されど、どこか寄り添うように、二人はローレンシアの夜に消えた。




