第六十三話:銀世界を走る
結晶の雪が降りしきる中、船は三日間走り続けた。はるか上空から落ちる小さな結晶の粒が機動船の装甲を傷付け、軋むような音が昼夜を問わず鳴り響く。徐々に減っていく燃料計は船の余命だ。
そんな緊張感の中、ベルノアはほとんど休息を取らずに操縦を続けた。この猛吹雪を越えられるのは彼しかいない。ソロモンでは力不足。祖国で船乗りをしていたベルノアだからこそ、ラフランを覆う分厚い吹雪の中で、方向感覚を失わずに操縦することができる。
「――お前ら、外に出ていいぞ」
拡声器から聞こえた声はひどく疲れていたが、それ以上に抑えきれない達成感が滲んでいる。ナターシャは防護マスクを片手に甲板へ出た。暖かい船内から外に出た瞬間、突風が彼女の前髪をかき上げる。じんじんと鼻先が痛くなるが、ラフランの冷気ほど寒くない。
船の外には一面の銀世界が広がっていた。吹雪は既に止んでおり、ちらちらと僅かに降る雪が甲板の上に溶けていく。防護マスクは必要なさそうだ。澄んだ空気が肺いっぱいに広がり、ようやく任務が終わるのだと実感した。
ナターシャは船尾に立って遠ざかるラフランを眺めた。流石に三日も走ればラフランは遥か彼方である。雪と結晶の吹雪に包まれて街の影すら見えない。
「ほら、風邪を引くぞ」
「ありがとう」
イヴァンが黒コートをかけてくれた。ナターシャは自分の体を抱えるようにコートの両端を掴む。
「長かったね。私、こんなに大変な戦いをしたのは初めてよ」
「傭兵見習いにさせるような任務じゃなかったな」
「そうかもしれないね。でも、良い経験になった。帰還したら他の見習いたちに自慢しましょう。禁足地から生還したんだって言えばみんな驚くに違いないわ」
「よく生きて帰ったなって?」
「そそ。びっくりしすぎて亡霊に間違えられるかもしれない」
隣で笑ったような雰囲気がした。視線を向けると仏教面の隊長が手すりにもたれ掛かっている。気のせいだったのかもしれない。
「禁足地から生還したのは二回目か」
「実質的には初めてみたいなものよ。月明かりの森は本当の禁足地じゃなくて、地下の旧市街が本物なんでしょ」
「細かいな」
「イヴァンが教えてくれたんじゃん」
粉雪がちらちらとナターシャの髪に落ちる。そんな様子を眺めていたイヴァンは、ふとナターシャの耳についていたイヤリングが無くなっていることに気が付いた。赤い宝石のイヤリングは白金の髪によく似合っていたから覚えている。
「お前、イヤリングはどうした?」
「え?」
彼女は慌てたように耳もとを触った。そこにあるはずの感触が無いことを知り、明らかに落ち込んだ様子をみせる。
「嘘、もしかして戦闘中に取れちゃったのかしら……」
「あれほど激しい戦闘だったから仕方ない。大事なものだったのか?」
「リンベルがくれたものなんだけど……そっかぁ、結構気に入っていたんだけどなぁ……」
しょんぼりと肩を落とす少女にどう言葉をかけようか。イヴァンは平静を装って煙草を取り出す。
「……命あっての傭兵稼業だ。イヤリングが代わりに守ってくれたんだと思っておけば、あんたの友人も悲しまないだろう」
「そうね……ありがとう。イヴァンは合理主義者だと思っていたけど、お守りとか信じるんだ」
「たまには、な」
冷たい風が吹き抜けるせいで上手く煙草に火がつかない。イヴァンが煙草を咥えたまま顔をしかめていると、みかねたナターシャがくすりと笑い、風から守るようにライターの周りを両手で包んだ。「悪いな」と呟き、火が灯る。
「今回の任務は助かった。正直、期待以上だったよ。よく頑張ってくれた」
「ふふ、えらく褒めてくれるじゃん」
「正当な評価だ。特に、聖鈴の狙撃と巨人の援護は良かったよ。パラマの意表を突くことができたからな」
「パラマが私を見習いだと侮ってくれたからよ。イヴァンたちのことは常に監視していたけど、私にだけ警戒が甘かったでしょ?」
「あぁ、いかに聖女代行といえども人の子だったわけだ」
吐き出された煙があっという間に遠くへ離れていく。
「小隊ってのは構成が大事だ。今の四人で長く活動してきたが、今回の任務で、改めて狙撃手の必要性が身に沁みた。戦略の幅が段違いに広くなる」
ナターシャは友人から聞いた言葉を思い出した。
(狙撃手……)
かつて第二〇小隊にはジーナという狙撃手がいたという。ルーロ戦争で失われた五人目の亡霊。イヴァンが禁足地にこだわるもう一人の仲間。
「あなたたちの仲間、ジーナについて、聞いてもいい?」
「……詳しく話していなかったな。ジーナは、俺の妹だ」
イヴァンが懐かしそうに目を細める。
「あの時の俺は人を撃つのが怖くってな。躊躇する程度の覚悟で人を撃つなってジーナによく怒られた。あいつは傭兵の中でも飛び抜けて優秀な奴だったんだ。冷静で合理的。よくできた妹だよ。あの頃から俺は隊長だったが、作戦の大部分はジーナが考えていた」
「狙撃手なのに?」
「狙撃手だから。俺たちの動きが一番見えていたのさ。おかげで隊長としての面目が丸潰れだった」
柔らかく笑うイヴァン。「そんな顔もできるんだ」とナターシャは横目で彼の表情を見つめた。
「そもそも俺とジーナは戦争孤児だったんだ。行くあてもなくシザーランドに流れ着いて、いつの間にか二人で傭兵になっていた。それからソロモンと知り合って、ベルノアを紹介されて、ミシャと出会って、まぁ、ミシャとの出会い方は強烈だったが……色々あって、五人で小隊を組んだ」
「……色々じゃあ、分からないわ」
「ハハッ、話すと長いんだ」
「子どもに話す内容じゃないってこと?」
「拗ねるなよ」
否定されなかったことにナターシャは頬を膨らませた。話すと長いのは事実なのだろうが、ナターシャは知りたいのだ。しかし、イヴァンもまた、戦争の記憶をむやみに語るつもりはない。傭兵の思い出は心の中。深い奥底にしまい込む。
「過去は一人で思い出すぐらいが丁度良い。あんたもそう思わないか」
ナターシャも脳裏に思い出す。愛した両親のこと、戦争屋のこと。アリアにもリンベルにも話したことがない記憶を。
「どうかしらね。分からないわ――」
はた、とナターシャは怖くなった。もしかして、自分たち家族が引き起こした争いの中に、イヴァンは巻き込まれていないのだろうか。なぜ今まで、その可能性に思い至らなかったのか。あのラフランの地下に広がる薄寒い地下牢の中で、恐ろしき看守の足音を聞きながら、償うべき罪人は自分だったのではないか。
「第二〇小隊は他人の過去に干渉しない。知らないのが優しさになることもある」
そもそも、自分は家族だったのだろうか。両親には捨てられてしまったのだから、真に家族と呼ぶべき関係だったのはヌークポウの子どもたちかもしれない。だが、ヌークポウからは落っこちてしまった。ならば、今度はシザーランドの友人か。しかし、酒を交わしたリリィは教会に眠った。
「優しさ?」
「そうだ。過去なんてどうでもいいじゃないか。他人の過去を知ったとして、それが相手のためになる、なんてのはどんな状況だ? 知らなくていいんだよ。知らずに、今を受け入れればいい」
居場所がない。帰る場所がない。止まない粉雪が二人の傭兵を包み込み、真っ白な世界に煙草の火だけがぽつりと浮かぶ。
「ナターシャは帰還したら正式に配属する隊を決めるのか」
「うん」
「配属先はもう決まっているのか?」
「ううん、まだよ」
イヴァンは大きく息を吐いた。
「うちに入るか?」
そこに居場所はあるか。少女はまだ分からない。
「……うん」
それでも進むしかないのだ。「そうか」とイヴァンはつぶやくと、短くなった煙草を捨てて、新しい煙草を咥えた。ナターシャは自然と、長年そうしてきたようにライターの周りを両手で包み、イヴァンもまた、何も言わずに受け入れた。
「煙草は合理的?」
「いいや、体に悪いし腹も膨れない。非合理の極みだ」
「なのに吸うんだ」
「そうだ。人は無駄なことをしないと生きていけないからな」
新しい火が灯る。今度の火は小さいが、第二〇小隊にとっての新しい火だ。
風向きが変わる。ラフランに誘うような向かい風から、機動船を後押しするような追い風となる。
変化の瞬間を感じ取ったイヴァンは寒そうに肩を震わせると、ナターシャの頭にポンッと手を置いた。
「ほら、そろそろ中に入れ」
「イヴァンは?」
「これだけ吸ってから入る」
ナターシャという存在はこれから先、小さくない影響を第二〇小隊に与えるだろう。期待の新人として、もしくは亡霊たちの同調者として、彼らに立ちふさがる敵を撃ち抜くのだ。第二〇小隊が変わる。良くも悪くも、白金の少女がイヴァンたちを無理やり前に進ませる。
甲板に一人、イヴァンは遠ざかる禁足地に目を向けた。地上では、これからラフランに向かう巡礼者が、点々と足跡を残しながら機動船とすれ違った。巡礼者はふらふらとおぼつかない足取りで吹雪の中に消えていく。
「過去なんてどうでもいい、か」
男は自分の言葉をもう一度口にし、自重するように息を吐いたあと、吸い終えた煙草を甲板に踏み潰した。
船内に戻ろうと振り返ったイヴァンは、南の方角から雪原を走る機動船の姿が見えた。
「ん? あれは――」
見覚えのない船だがシザーランドの旗が掲げられている。少なくとも味方なのは確かだ。徐々に大きくなる影は、明らかに第二〇小隊の機動船を目指していた。




