第五十四話:薄ら寒い聖女の間
ナターシャが部屋の前まで進むと、パラマは恭しく一礼をしてから扉を開いた。同時にナターシャはなぜこの一角だけ気に掛かったのかを理解した。全く結晶化現象の影響を受けていないのだ。そもそも鐘楼の内部は少なからず結晶化現象が進んでいる。裏聖堂の結晶化した祭司が良い例であり、柱や壁の小さな亀裂には結晶が侵食しているのがわかる。
しかし、この部屋だけは別だ。文明崩壊前の姿のまま。部屋の中は綺麗に整頓がされており、洒落た木製の家具が落ち着いた雰囲気をかもし出す。本棚には見覚えのある書物が飾られていた。月明かりの森で見かけた、銀髪の少女が表紙の本だ。
南側に街全体を見渡せる大きな窓があり、小柄な人影が椅子に腰かけている。回転式の椅子は外を眺めるためのものだろう。パラマは椅子をナターシャへ向くように回転させ、その人物の名を口にした。
「彼女がラフラン最後の聖女――ラ・フィリアです。僕の妹ですね」
何よりも目を引くのはラ・フィリアの体から生える無数の結晶だ。結晶化現象とかけ離れた部屋の中央で、彼女だけは夜風の影響を肩代わりしたかのように結晶が生えている。パラマが黄金の髪をしているが故に、ラ・フィリアの細くてなめらかな紺色の髪が際立ち、伏せられたまぶたが人形のような印象を与えた。
「“ラ”は聖女の証。彼女は今も生きています。だからラフランの加護は保たれる。鐘楼は結晶に飲まれない」
「結晶憑き――いや、巡礼者ということ?」
「ええ、彼女が最初の巡礼者です」
パラマの表情から笑みが消えた。
「結晶化現象が始まって文明が崩壊し、ラフランはかつてないほどの混乱に陥りました。街を捨てるべきだと主張する者と、街に残って最後まで守るべきだと主張する者でラフランは二分され、嘆き、喚き、瞬く間に血が流れた。あっけないものでしたよ。偉そうに神託を並べていた指導者が真っ先に逃げ出したのですから」
思い出を語るパラマの表情は苦渋に歪んでいた。ナターシャが鐘楼に来てから初めて見る、パラマの負の表情だ。
「その光景を見たフィリアは自分が最後の聖女になるであろうと察し、街を守るために一つの決心をしました。それが、加護を保ったまま結晶化すること。そうすれば彼女の体は朽ちることなく残り続け、ラフランの民は半永久的に守られる」
「立派ね」
「立派です。立派すぎた」
夕日が差す。二人の聖女に影が落ちる。パラマの抑えられない憤怒が体からあふれ、煮え返り、金色の覇気となってナターシャを焼いた。
「わかりますか。聖女とは、国も自分も、信条も差し置いて、民に忠を尽くす人間のことです。他人を蹴落とし、我先に逃げ出そうとする人々すらも助けるために、自ら命を差し出す存在! あぁ、誠に清廉なり!」
パラマは結晶化する妹を止めたかったのだろう。彼の言葉の端々には、かつての指導者たちを批判するような感情が見え隠れする。妹の選択すらも間違いだと言いたいのかもしれない。
しかし、ナターシャはむしろ聖女の選択を賞賛した。理解し難いほどに賛美を送った。
(何が彼女をつき動かしたのかしら、正義感? 聖女の使命? それだけで自己犠牲を受け入れられる? 私は無理だわ。理解ができない。彼女の思考を知りたいのに分からない……あぁ、だからパラマは聖女を名乗らないのね。聖女の名が身の丈に合わない)
ナターシャはただただ感服した。世の地獄に真っ向から向き合った聖女。この大窓から争い合う街の人々を見ていたのだろう。鐘楼に、自らを置いて逃げる者達の背中を。
「街が結晶化しているということは、加護が弱まっているのね」
「妹が結晶化して長い時間が経ちましたから」
ナターシャはうんうんと頷きながら街の景色に目を向けた。無惨に結晶化した街が違って見える。日は陰り、水も枯れ、正気をなくした巡礼者の街。大型の巡礼者がのっそりとした動きで侵入者の死体を運び、街の中央を分断するように肉の壁が築かれている。
(美しい街だわ。怪物となっても街を守るために働き続ける巨人達。ラフランの素晴らしさを布教するために世界中を歩く巡礼者。シザーランドよりも、ヌークポウよりも、献身的で優しさに包まれた街だわ――痛っ……)
ナターシャはめまいのような吐き気が込み上げた。気持ち悪い。
はて、自分は何故これほど感動をしているのだろうか。
パラマが近い。満足げな笑みが目の前にあった。鐘の音がうるさいほどに頭の奥を打ち鳴らす。これは警鐘だ。今しがた浮かんだ疑問を忘れるなと叫んでいた。
「顔色が優れませんね。どうかしましたか?」
「ちょっと、頭が痛くて――」
「そうですか、そうですか。それはよかった。さて、敢えてあなたに説明したのはお願いがあるからです」
ナターシャはぐるぐると視界が回る中で、三日月のように歪むパラマの表情を見た。あれは獲物を追い詰めて愉悦に高ぶる顔だ。馬鹿みたいに震える体。息を止めても、激しい動悸は鎮まらず。現実に戻ろうと唾を飲み込めば、乾いた喉に貼り付くだけ。
(なに? 何がおかしいの? やだ、やだやだやだ、気持ち悪い、ここから逃げ出したい……おかしい……おかしいの? 私はおかしいの?)
おかしいのだ。鐘の音が何度も、何度も鳴り響く。これは現実か。夢だと知覚しながらも覚めやらぬ悪夢のように。もしくは脳を開かれてぶんぶんと振り回されるように。あまりの激痛に頭を抑えようとすると、彼女の手首をパラマが掴んだ。パラマの瞳が見開かれ、ナターシャを逃さないように、腕が腰に回された。
「あなたも聖女代行として共にラフランを布教しましょう! 世界をまわり、新たなる信徒をラフランに招くのです! 禁足地なんて、不愉快な呼び名は忘れなさい! ここは聖都ラフランだ!」
「や、やだ……」
「なぜですか? 僕の言葉に共感してくれたのは目を見ればわかりますよ。あなたはラフランに感動したのでしょう。ならば共に聖女代行として歩みませんか?」
表情を歪めてもなお、パラマの顔は美しい。きめ細かな金髪が辛抱ならんと暴れている。あと一押しだ。少女が瓦解するまで、もう少し。
このままでは駄目だ。何が駄目なのか分からないが、ナターシャは体を動かそうとした。それなのに、自分の体が部屋から逃げ出すのを嫌がっている。
(なぜ拒否するのかしら……別にいいじゃない、この世は地獄なのだから、全部忘れて聖女代行になればいい。優しさを抱いて生きた聖女のように、パラマの隣で――)
浅い眠りを繰り返すような酩酊とした気分だった。ナターシャは次第に自分が正常な判断をしているかどうかも分からなくなり始め、自分の両腕が結晶化しているのが視界に映り、それが現実であるかも判断できなくなって、そして、このまま沈んでもいいじゃないかと馬鹿げた妄想すらよぎり。
夢現。否。
ナターシャは頭を振った。思考停止した脳が拒否反応を起こし、間近にまで迫ったパラマを睨み返した。彼女の小さな手に力がこもる。たじろぐ聖女。離すまいと掴まれるナターシャの腕。
「失礼する」
パラマとナターシャの足元に銃弾が撃ち込まれた。跳弾した弾は二人を引き裂くように間を抜け、奥の壁に銃痕を刻んだ。パラマは驚いたように壁を見て、そこにできた新しい傷に一瞬だけ殺気を放ち、すぐに普段の笑みを浮かべて入口に顔を向けた。
「あらあら、これはイヴァン隊長様。傭兵のご挨拶はずいぶんと過激なのですね。聖女の部屋に傷を付けるとは罪深い」
「俺の隊員に手を出すな。何をしていた?」
「私はナターシャに街の素晴らしさを説いていただけですよ。いきなり銃を撃つなんて非常識な方ですね」
「あまりにも二人の距離が近かったものでな。まずはナターシャを離せ」
イヴァンは引き金に指をかけたまま命じた。それが威嚇ではなく本気で撃つつもりなのだとわかると、パラマは不服そうにナターシャから手を離した。腰と右手首が解放されたナターシャは若干ふらつきつつも聖女から距離を取る。
「どうやらナターシャは、いえ、あなた方は疲れているようですね。部屋に戻ってゆっくりと休まれるのが良いでしょう。大丈夫、ラフランの鐘が心を落ち着かせます。何も、問題ございませんから」
「好意は感謝するが船の自室で休ませてもらう」
「どちらでも構いません。あぁ、でも……吹雪はまだ止みませんよ」
パラマは手をかざした。イヴァンの背後にある薄暗い廊下、その両側の燭台にぽん、ぽん、ぽん、と火が灯る。いつの間にか外は薄暗い。夜の訪れ、人外の時間。
「帰るぞ」
「うん……」
ナターシャは頭を抑えたままイヴァンの隣に立ち、部屋を出ようとする。
「ナターシャ」
彼女を呼び止めた聖女の声は感情を押し殺したようにひどく無機質で冷たかった。
「覚えていてください。僕はね、妹が自らを結晶化してまで守ろうとした街を失いたくない。彼女が愛したラフランが時代と共に忘れられるのが我慢ならない。だから、どうか、愛してください。行き先の無い僕たちを」
扉が閉まる。パラマとラ・フィリアを残して聖女の間が閉ざされる。




