第十九話:少年少女は分かたれた
静けさを取り戻した教会で、ナターシャはゆっくりと息を吐いた。愛銃に込めていた力をぬくと、強く握り過ぎたせいで手のひらにグリップの跡が残っていた。広げた指先は小刻みに震えており、今も心臓が跳ね回っている。
弱さを見せたら終わりだと思った。自らの力で優勢を作らなければ、井戸で襲いかかってきたディーバーのように惨めな末路をたどることになる。ディーバーは隙を見せたから負けた。イヴァンは隙を作らせたから同じ土俵に立てた。だが、ナターシャは納得がいかない。たまたま上手くいっただけ、つまりは運がよかっただけに過ぎないから。
「イヴァンって人……私のこと、撃てたよね」
ナターシャが女神像の裏から飛び出したとき、イヴァンの銃口はナターシャを捉えていた。虚を突かれながらも狙いを定めたのだ。驚異的な反応速度。しかし、なぜか彼は撃たなかった。理由は分からないが、考えても無駄だろう。ナターシャが子どもだったからとか、背中の遺物に目を奪われたとか。
彼に限らず、初めて目の当たりにした傭兵たちは想像以上に洗練されていた。赤髪の身軽な少女が持つ無機質な殺意も、鋼鉄の乙女が燻らせた燃えるような覚悟も、鮮烈な光景としてナターシャの記憶に刻まれた。端的に、気圧された。イヴァンと名乗った男は何故かナターシャに過剰なほど警戒していたように思われたが、ナターシャからすれば彼らの方がよほど強大で敵わぬ相手に見えた。廃墟で戦ったローレンシア兵ですら彼らの前では有象無象に思えてしまう。
「あぁ、分からない、分からないわ……でも、凄かったなぁ」
傭兵は悪だ。ヌークポウに居た頃から彼らの悪評は何度も耳にした。傭兵は戦争に取り憑かれた狂人たちの集まりであり、戦場でしか生きられないはみ出し者が壊れた世界で銃を握っているのだ。アリアとディエゴが絶対に傭兵国へ行っては駄目だと言ったのも、幼い頃から繰り返し聞かされた傭兵の悪評によるものだ。
もっとも、それらの噂が全て、大国の流した偽りの情報であることをナターシャは知らない。
ナターシャは遺物を前に抱えて撫でた。冷静に考えてみると、こんな鉄の塊を巡って殺し合うなんて馬鹿馬鹿しい。結晶化現象を克服する方法ではなくて、人の殺し方ばかりを考える大人が多すぎる。だから人の文明は崩壊したのだ。
「シザーランドかぁ。どれくらい離れているのかしら。たしか間に中立国を挟むはずたから……もしかして国ひとつ分の距離? もっとかな?」
いつまでも森に引きこもるわけにはいかない。どこかの国へ行き、仕事を探す必要がある。ヌークポウにいた頃は軍人も悪くないと思っていたが、流石にローレンシア兵と殺し合った後に大国へ向かうつもりはなかった。ならば、残る選択肢は一つ。傭兵の国シザーランドだ。
銃身に映る自分を見つめながらグルグルと思考を深めていると、「カタン」という足音が教会の入り口から聞こえた。顔を上げると招かれざる客がナターシャを見つめている。
「次から次へと……私って人気者なのかしら」
ふらふらと歩く結晶憑きを一瞥し、ナターシャは遺物を構えた。右膝は曲げたまま、左足をピンと伸ばして狙撃銃を抱え、片目を閉じてスコープを覗く。十字のドットサイトが標的の頭を捉えた。息を細く、長く吐いて、目の前の敵に意識を集中させた。
「行き場のない者は帰りなさいな」
愚か者の頭が吹き飛んだ。白金の少女は満足気に微笑んだあと、「そっか、帰る場所がないんだ」とつぶやいた。
○
カップルフルトという街がある。
月明かりの森の北に位置する金融都市カップルフルト。この都市になぜ金が集まるかというと、過去に一大国家として名を馳せた新興国の名残りであった。北西にあった首都が崩壊し、さらにローレンシアの侵攻から逃れるべく人々はカップルフルトに流れ着いた。現在は商業国の首都として巨大都市を築いている。
階層都市の別名も有しており、街の機能を地区別に分けられている。貿易エリアや金融エリア、歴史的建造物の保存エリアなど、しっかりと棲み分けがされた構成はヌークポウに似ている。各階層を支える支柱は新興国が残した遺物によるものだ。結晶化を防ぐために細かく階層化し、夜風に飲まれた地区から切り離しと増築を繰り返したことで迷宮のように複雑化した。
「月明かりの森に向かう方法? そんなもん親と恋人に感謝の手紙を書いたらいつだって行けるぜ。帰ってこれないだろうがな」
「生還者なんているわけがないだろう。禁足地を舐めてんのか」
「話によると帝国が情報を規制しているって聞いたことがあるわ」
街が回り、情報が回り。ナターシャを探すべく、船を降りたディエゴは真実と嘘に振り回されていた。
「おい小僧! 無駄話してねーでさっさと運べ!」
「すんません!!」
「ったく、一文なしのテメーを雇ってやってんだ。給料分ぐらい働け!」
酒場の店主がディエゴの尻を蹴飛ばした。つばと、酒と、ついでに野次馬の不躾な視線や悪態を浴びる。腹が立ったディエゴが拳を握りしめて立ち上がると、顔を上げた瞬間に殴られた。
「お前のせいで料理がこぼれたじゃねーか! 給料から天引くぞ!」
「なっ!?」
ディエゴが愕然とした表情を向けると、店主の男は当然だと言わんばかりに睨み返す。周囲の酔っ払いが偏屈そうに笑っていた。
「ディエゴも学習しねぇなー。もっと上手く立ち回ればいいのによ」
「ハハッ、こいつにそんな芸当はできねーよ。親父さんに殴られて酒樽へ頭を突っ込むのが特技だからな」
「それでまた弁償させられる、と。お前も難儀だなぁ」
哀れみと蔑みの入り混じった視線を受けたディエゴは、俯いて歯を食いしばった。言い返せばまた店主に殴られる。言い返さなくてもさっさと働けと蹴られる。本当にクソみたいな場所だ。
ディエゴは自分の無力さを痛感していた。有り金を全て持ってカップルフルトに降りたのは良いが、思っていたほど情報は集まらず。ヌークポウはとっくに街を離れており、助けてくれるような知人も友人もいない。すぐに金は底をついてしまった彼は、裏道の酒場で働くことになった。
(今だけの辛抱だ……)
考えが甘かったという他ない。彼が持っていたのは勢いだけ。先のことなんて考えていなかったし、カップルフルトが昔よりもずっと治安が悪化していることも知らなかった。力なき少年は現実に打ちのめされる。
貿易エリアのさらに下。他国から流れ着いた浮浪者に混じりながら、ディエゴは雌伏の時を過ごした。全ては彼の大好きな笑顔を取り戻すため。生きているかも分からない少女を助けるため。
「ディエゴ! 次の料理が待っているぞ!」
「はい!」
次から次へと料理を運びながら、ナターシャの情報を集める生活。たまに、なぜ酒場で給仕の真似事をしているのだろうかと考える時がある。今だってそうだ。忙しく働き回っていると本来の目的を忘れかけてしまう。このままでは駄目だと言い聞かせても人間という生き物は忘れやすい。
「っ!?」
突如、世界が回転した。粗暴の悪い客に足を引っ掛けられたのだ。運んでいた料理を地面にぶちまけ、そこへ顔面から突っ込むディエゴ。周囲に笑顔があふれた。
「よしっ、賭けは俺の勝ちだな!」
「外れちまったか。もう少しこいつに期待していたんだがな。まんまと引っかかりやがった」
厨房から親方の怒鳴り声が聞こえてくる。嘲笑。罵声。娯楽を失った人間はこんなにも醜くなるらしい。ヌークポウという鳥籠で育ったディエゴは、世の中がいかに地獄であるかを痛感した。
(ちっ……)
頭に血が上った。へらへらと笑う男を今すぐ殴ってやろう。客かどうかなんて関係ない。クビになるかもしれないが、今はとにかくぶん殴ってやりたい気分だった。頭から安いスープをしたたらせた少年が、拳に力を込めて立ち上がろうとした。
「そういえば聞いたか? ローレンシア軍が月明かりの森に向かったらしいぜ」
「大国様も命知らずだなぁ。そのまま帰って来なければいいさ。世界が少し平和になる」
ディエゴはハッと我にかえる。腰を浮かせた中途半端な姿勢で固まる彼を、周囲の客は訝しんだ。本来の目的を忘れてはいけないのだ。少年は我慢を覚えた。それは大人へ近づくための一歩であり、クソったれだと馬鹿にした世界へ踏み入るための手段だ。
ディエゴは考えるのが苦手だった。だが、ナターシャは常々、考え続けろと彼に説いた。「思考を止めた人間は屑と同然であり、人ではない」と過激なまでに力説した。
だから、彼は考える。カップルフルトに居続けても先へ進めない。ならば場所を変える必要がある。少しでも禁足地の情報を持っており、ナターシャについて何か分かるかもしれない場所。
(……ローレンシア)
少年は大国へ渡ることを決意した。傭兵と全面的に敵対し、時には周辺国家を侵略して資源を奪うローレンシア。黒い噂ばかりの国へ渡るという選択が正しいかどうかは分からない。しかし、少年なりに考えた結果なのである。停滞するための言い訳ではなく、前に進むための勇気がほしい。
やがて、ディエゴは金融都市で渡航費を集めてからローレンシアに渡ることになる。それはもう少し先、ナターシャが巨大船ヌークポウから落ちて、約一年が経過してからのことだ。




