表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
162/163

番外編:待ち焦がれた少女

 

 ――ミラノ水鏡世界。現世から隔離された一種の別世界であり、太陽が昇ることはなく、まるで写し鏡のように現世と同じ星空が広がる。かつて広大な大地には何もなかったが、とある化け物が一夜にして城や街を作り、地上で暮らしていた人々を移住させたことで小さな国が生まれた。陽が上らぬ夜の国。それは送り水によって命の選別が行なわれる恐ろしい場所であり、現世で生きられないはみ出し者にとって最後の楽園である――。


「さあ到着したわ。ここがミラノ水鏡世界、よ――」


 神殿の扉を開けたナターシャは言葉を失った。彼女の記憶にあるミラノ水鏡世界とは様変わりしていたからだ。

 まず城の規模が違う。遠目からでもわかるほど大きな城壁が何重にも建てられ、その奥にいくつもの塔が連なる豪華な内城が見えた。城まで離れているというのに、目の前にあるかのような威圧感をおぼえ、否応がなくここが禁足地なのだと感じさせた。街も賑やかになった。以前の静かで寂れた雰囲気が一変し、多くの人と蟹が行き交っている。ラフランの装いに似た服装の住民も混じっている。

 さらにナターシャを驚かせたのは、神殿から城までの道筋に、甲冑の騎士がずらりと並んでいることだ。まるでナターシャたちが来るのを待っていたかのように。甲冑はどれも綺麗に磨かれており、夜空の星がきらきらと反射した。


 困惑したのはナターシャだけではない。イヴァンとミシャも呆気に取られた様子で城を見上げており、彼らの顔が「よもや三年でここまで変わるのか」と物語っている。反対側を見ると、パラマが涙を流しながら祈りを捧げ、彼に従うように他の信徒も膝を折り、両手を重ねて拝んでいた。


「とりあえず、城に行くしかなさそうね」


 まるで寄り道を許さぬがごとく、道の両脇に並ぶ騎士たちに気圧されながら、ナターシャたちは城に向かって歩いた。よく見ると騎士に混じって小さな石蟹も整列しており、ハサミを懸命に持ち上げる姿は敬礼しているように見えて可愛らしい。周りを観察しながら道なりに歩いていると前方に人影が見えた。


「あら、思っていたよりも到着が早いですね。少し遅れてしまいました」


 墓守りのリーベだ。黒を基調としたローブを羽織り、同じく黒い杖をコツコツと鳴らしながら微笑みかけてくる。真っ黒な服に身を包んでいるからこそ、彼女の滑らかな金髪が余計に際立った。まるで作り物のような美しさだ。


「随分と手厚い歓迎だな。一国の王になった気分だ」とイヴァンが軽い調子で言った。

「あなた方は王の客――つまり賓客ですからね。さて、まずは止まってください」


 王の客、という言葉に引っかかったナターシャだが、問い返す前にリーベが動いた。彼女が真っ直ぐにパラマのもとへ向かうと、パラマはすぐさま感極まった様子で膝をつき、手を胸に当ててこうべを垂れた。


「お初目にかかります、“慈しみの修道女”様。我ら“慈しみの子供達(プーロ・チルドレン)”、貴方様にお会いする日を心待ちにしておりました」

「その名はとうに捨てました。今の私はただの墓守りです。それで……後ろの者たちはなんですか?」


 パラマの肩が跳ねた。リーベの声音に、隠しきれない苛立ちが感じられたからだ。


「聖都ラフランの、信徒です」


 パラマが不安そうにリーベの顔色をうかがう。何が気に障ったのだろうか。信徒を連れてきたのはまずかったのか。瞬時に頭を働かせるパラマだが――。


「あなたは、まあいいでしょう。きちんと加護を受けているようですし。ですが後ろの者たちはだめです。この地に結晶を持ち込むことは許しません」


 リーベの杖がコン、と地面を叩いた。直後、信徒たちの周囲の地面が盛り上がり、土で作られた龍のようなものが大口を開け、彼らを丸呑みにした。抵抗する間もない、一瞬の出来事だ。龍の中からくぐもった叫び声がする。パラマが再度、杖で叩くと地面に大穴が空き、龍は信徒たちを飲み込んだまま地中深くに潜ってしまった。


「困るんですよね。せっかく外界と切り離したのに、ここで結晶化されると台無しになってしまいます。せっかく街が賑わい始めたのですから、邪魔をしないでくださいね」


 同胞が殺されてもパラマは微動だにしない。まるで絶対の忠誠を誓うように頭を下げ続けている。彼にとってリーベは母であり祖なのだ。リーベから生まれた“慈しみの子供達(プーロ・チルドレン)”だからこそ、母の決定に異論があるはずがない。


「では参りましょう。王が楽しみに待っていますよ」


 リーベは微笑みながら振り返ると、何事もなかったかのように先導を始めた。


 ◯


 ナターシャは墓守りから十分に距離をとりながらついていった。その表情は険しい。彼女の第六感が警鐘を鳴らし始め、嫌な予感がじわじわと胸に広がる。


「どうなっているのよ。あの人、明らかに以前と雰囲気が違うんだけど。逃げたほうがいいんじゃない?」

「同感だが、さっきの力を見ただろう? 下手に動くのは危険だ」

「……まずはリンベルを見つけるべき」


 前回とまるで違う、ミラノ水鏡世界の空気が警戒心を抱かせた。鈍っていた第二〇小隊の感覚を呼び起こす。ここでは常識が通用しない。わかっていたはずなのに、比較的平和だった前回の記憶が、どうしてもナターシャたちの警戒心を薄れさせた。

 何か、異変が起き始めている。初めてラフランに訪れ、粉砂糖が振るわれたケーキのような街並みを見たときに感じた、漠然とした不安に襲われる。

 そんな不安の正体を掴めぬまま、ナターシャたちは城の中へ通された。外観こそ変わったものの、相変わらず人の気配がまったくせず、ここだけが時間に取り残されたみたいに静かである。別世界から、さらに別世界へ迷い込んだ……そう思えるほど静寂とした世界だった。

 リーベは上階ではなく城の裏手に向かった。目的地は外庭にある花畑だろう。ということは、やはり王は“彼女”で間違いない。あえて玉座ではなく花畑で待つ王なんて一人しかいない――。


「こちらへどうぞ」


 裏手の花畑はより一層、花の種類が増していた。ナターシャはおろか、色んな禁足地を巡ったイヴァンですら知らない花ばかりだ。満天の星空の下、緩やかな丘に見たことのない花が咲きほこり、その中にぽつぽつと石の墓がたっている。歴史に刻まれなかった英雄たちの墓。リーベが守る神聖な場所。それらに囲まれながら彼女は待っていた。


「やあ。久しぶりだな」

「リンベル!」


 ナターシャが駆け出した。友の姿を見た瞬間、色々な不安がすべて吹き飛んでしまった。

 二人は勢いよく抱き合った。なにせ三年ぶりだ。ヌークポウにいた頃からずっと一緒に過ごしてきたからこそ余計に長く感じられる。王の威厳によるものだろうか、近くで見上げるリンベルの顔は凛々しく、大人びて見えた。


「元気にしていたかしら。こんなに離れたのって、月明かりの森で暮らして以来じゃない?」

「そうだな。いつまでも会いに来ないから寂しかったぜ。私から行こうかと迷ったほどだ」


 互いに同じ気持ちだった。早く会いたいと思っていた。

 だが、まだナターシャは気づいていない。ナターシャの「会いたい」とリンベルの「会いたい」が同じではないことに。執念とも呼ぶべき、暗く純粋な想いがリンベルの瞳に宿っていることに。三年という年月は、片方にとっては日常にふと寂しくなる程度だったとしても、もう片方にとっては耐えがたい苦痛の時間だった。

 ナターシャは抱き締められながらリンベルの顔を見た。柔らかな灰色の髪が緩くカーブを描きながら顔に垂れ、その奥に青く、本心を隠すような深い瞳がある。ナターシャはようやく違和感をおぼえ、「どうしたの?」と尋ねようとしたが、先にリンベルが後ろの三人に話しかけた。


「お前らも久しぶりだ。華やかしい噂はミラノにまで届いているぜ。亡霊さながらの逃げ足ってわけだ。ベルノアとソロモンはいないのか?」

「ベルノアは傭兵をやめて、中立国で研究をしている。ソロモンは……もういない」


 リンベルが目を丸くした。それから「やはりか」と納得したように頷いた。リンベルとソロモンは決して長い時間を過ごしたわけではないが、それでもソロモンが死に場所を求めていたのは彼女も理解している。ゆえに驚きこそすれ、動揺はしない。

 リンベルは目を閉じて黙祷した。むろん、ナターシャを抱き締めたままだ。むしろリンベルの腕に力がこもったため、ナターシャの細い体が苦しそうにもがいた。ナターシャが「そろそろ離してよ」と言っても腕は解かれない。リンベルはおもむろに目を開けると、控えていたリーベに話しかけた。


「リーベ、墓をたててくれないか。勇敢な戦士の墓だ。この地に眠るのが相応しいだろう」

「わかりました。ナターシャは積もる話があるでしょう。他の皆さんだけついて来てください」


 リーベに言われるがまま、イヴァンたちは妹の墓がある方向へ歩いていく。一瞬だけミシャが不安そうな目をナターシャに向けたが、リンベルの背中に遮られた。そして二人きりになってようやく、リンベルはナターシャを離した。


「ねえ、王になったってどういうこと? それに街や城が全然違うんだけど? あの甲冑はなに? それにリーベって何者なの?」とナターシャが気になっていたことを尋ねた。

「ハハ、質問だらけだな……ミラノに来て驚いただろ? 私なりに頑張ったんだ。リーベに手伝ってもらいながら、少しずつ街を修復して、城の守りも強固にして、誰も入れず、誰も出られないように作り上げた。ここが()()()の理想郷だ」


 リンベルが力を誇示するように両手を広げた。花びらが一陣の風に巻き上げられる。満天の輝きを背後にしたリンベル。その姿は花畑で踊る少女のように美しく、同時に、人間離れした不気味な存在感を放っており――いうなれば禁足地の主にふさわしい風格があった。


「送り水を飲んだ私たちはこれから先、他の人間よりも長い、長い時間を過ごすんだ。そんな余生を最高の場所で送りたいと思ってな、住民にも協力させて頑張ったのさ。見てみろナターシャ。この星空も、この国も、すべて私たちのものだぜ」

「あなた、権力なんて興味がなかったじゃない。それに王様になったらジャンク屋も開けないわ。本当に良かったの?」

「もちろんさ。間違った選択だと思ったことは一度もない。本当に一度もな」


 リンベルが背を向けて地面に屈んだ。足元の花を摘んでいるように見えるが、ナターシャからはよく見えない。ざわざわと花が揺れた。得体のしれない生き物が足元を這っているかのようだ。


「ああ、間違っていなかったとも。私はこの日をずっと待ち望んでいた」

「確かに三年は長かったけど、ちょっと大げさじゃないかしら?」とナターシャは肌をさすりながら言った。

「三年? 違うね、私が待っていたのはもっと長い時間だ」


 リンベルの声には噛みしめるような実感が込められている。

 その声を聞くと、ナターシャの心にうずくまる不安が大きくなった。彼女はこの感覚を知っている。禁足地で幾度も感じた「欲」という名の冷気。人を狂わせ、ろくでなしに変えてしまう恐るべき狂気の波動。だがナターシャは信じたくなかった。目の前の友人からそのような空気が発せられていると、受け入れたくなかったのだ。ゆえに彼女は勘違いだと自分に言い聞かせた。

 風が吹き荒れ、花びらが竜巻のように舞い上がり、星々がよりいっそう輝きを増した。吹き荒れる風の中心でリンベルが立ち上がる。


「つまり、だな――」


 ふらりと死人のように揺れたかと思うと、唐突にリンベルが動いた。ナターシャはとっさに後ろへ下がろうとした。だが次の瞬間にはリンベルが目の前にまで迫っていた。非戦闘員だったとは思えないほど俊敏な動きに、ナターシャの反応が追いつかない。


「リンベル、ちょっと待っ……!」

「もう私は待てないんだ」


 逃げられないように、ナターシャの後頭部に手を回しながら、リンベルが白い花をナターシャの口元にあてた。その香りを吸ったとたん、ナターシャの意識が急速に遠のいた。かつて幽玄草と呼ばれ、一時期は多量に吸えば死に至らしめる毒の花として恐れられ、効能が解明されてからは睡眠薬として重宝された、女王の国の古い花だ。幽玄草の催眠性は強力であり、吸った人間は幸せな夢を見ながら長い眠りにつく。

 ナターシャが遅れを取った理由は、リンベルの動きが予想外に速かったこと、彼女が武装をしていなかったこと、そしてなによりも、リンベルに襲われるとは微塵も思っていなかったことだ。

 ナターシャは睡魔に抗おうとした。だが人の意思で耐えられるものではない。まとわりつくように強く、体温を奪うように冷たい睡魔が、ナターシャをミラノ大瀑布よりも深い場所へ(いざな)う。


「おやすみ、ナターシャ」


 ナターシャの瞳が完全に閉じられた。眠りに落ちる瞬間まで、ナターシャの瞳は困惑に揺れていた。やがて脱力した体をリンベルが支えると、女王は決して誰にも見せない、欲に溺れた笑みを浮かべた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ