第百四十九話:夜明け
連絡塔で突如として爆発が発生し、続けてナターシャと天巫女、そして異形と化したアーノルフが飛び出した。
ローレンシア兵に動揺が広がる。彼らだけではない。解放戦線も、傭兵も、誰もが固まった中で動けたのはベルノアだけだった。彼は巧みな操縦で機動船を走らせ、廃墟や結晶を足場にして跳躍し、落下中のナターシャを空中で受け止めた。
「流石は俺様! 完っ璧な計算!」
ナターシャがごろごろと甲板に転がる。天巫女は無事だ。派手な脱出になったが作戦成功である。
「……生きてる」
天巫女をかばったせいで体の節々が痛い。走り続けたせいで足もガクガクと震える。アーノルフから受けた傷口は消毒する必要があるだろう。寝転がっている場合ではない。だが、ナターシャは力が抜けて立てそうになかった。
「大丈夫か?」
「ありがと、イヴァン」
イヴァンに手を差し伸べられた。隣にはいつもどおり無表情なミシャがいる。二人とも返り血でどろどろに汚れていたが目立った外傷は見受けられない。この中で一番重傷なのは恐らくナターシャだろう。
「ミシャ、船内に天巫女を案内してくれ」
「……ん。立って、天巫女様。外はまだ危険」
天巫女は魂が抜けたようにひどい顔だ。白銀の輝きは失われ、夢を見ているかのように瞳が曇り、住民に振り撒いていた笑顔も消えている。残ったのは深い喪失感。
「ミシャ、任せたよ」
「……ナターシャも後で治療」
「はい」
天巫女は甲板から出る瞬間までうつむいたままだった。
頭上をひゅるひゅると砲弾が飛ぶ。ベルノアの操縦ならば万に一つも命中しないが、それでも身構えてしまうのが傭兵の性。
ナターシャは甲板を見渡した。なにか違和感があると思ったが、そうだ、彼女がいないのだ。いつもならば甲板で敵の警戒をしているはずの、ソロモンの姿が見当たらない。
「このまま戦場から脱出するぞ。目的地はまだ決めていないが、どこがいいだろうな。食べ物が美味しくて、ベルノアが研究に集中できる国を探したい」
「……ねえ、イヴァン」
「ミラノから離れすぎるとナターシャが大変だろうし、現実的に考えると中立国が無難か。あの国なら追手の心配もあまりない。しいて言うなら――」
「ねえってば。ソロモンは?」
イヴァンは唇を結んで細く息を吐くと、煙草に火をつけながら手すりに肘をかけた。
「あそこに炎がみえるだろ?」
彼が示した方向に煌々と燃える火柱がある。空を赤く染めるほどの激しい炎は遠くからでもよく見えた。風もほんのりと熱い。
「ホルクスを道ずれにあの中だ」
イヴァンの横顔が寂しげに照らされた。彼は涙を流さないが、その姿は墓場で祈る姿と重なって見える。きっと彼は仲間との別れを何度も味わってきたはずだ。そして泣き顔を見せないように独りで甲板に立ったのだろう。
ついにこの日が来た。
ギュッと手に力を込める。覚悟はしていた。甲板上でソロモンに忠告された日からずっと、彼女の身に宿る炎はけっして消えることなく、いつか自らを焼いてしまうだろうという予感があった。されどやはり、わかっていても悲しいものだ。
「回収も、できない?」
「無理だ。船があいつの炎に耐えられん」
空が暗い。日暮れの時間が近付いている。ナターシャにできることは、ただソロモンの炎を見届けることだけ。
「遅かれ早かれ、どんな選択をしたってこうなっていた。わかるだろ?」
「ええ、わかるわ」
「なら暗い顔をするな。生き残った者は顔を上げるべきだ」
「……イヴァンだって暗い顔をしているくせに」
「もともとだ」
ソロモンは死に場所を探していた。軍医の誇りを捨てきれないからこそ、戦うたびに彼女は自責の念をつのらせた。戦うことでしか復讐を果たせず、されど命を奪う行為に心を苦しめ、そんな相反する葛藤を抱えて生きたソロモン。
彼女は戦い遂げたのだ。ホルクスと、そして自らと。故に悲しみではなく敬意を捧げよう。
煙草の火が消える。イヴァンは炎に背を向けた。
「落ち着いたらミラノ水鏡世界に行って、ソロモンのお墓をたてましょう」
甲板を出ようとする背中に呼びかけると、彼は振り返らずに「ああ」と返事をしてから去った。
残されたナターシャの頬を熱い風がなでる。日が落ちるにつれて火柱はよりいっそう輝きを増し、第二〇小隊が進むであろう夜道を照らす。亡霊が欠けた。また一人、大切な仲間が船を降りた。
「……みんな不器用なんだから」
誰もいなくなった甲板で、少女は一人、拳を手すりに打ち付けた。
○
第二〇小隊の凶行とも呼ぶべき天巫女誘拐作戦。各軍を率いる将は当然ながら予想外であり、特に第二〇小隊の上官であるラトリエ団長は司令室で怒りに震えていた。
「やってくれたなイヴァン」
彼女は底冷えするような声で通信を切った。すでに第二〇小隊の船は戦場から脱出しており、彼らを追うのは不可能らしい。せめて第三六小隊が居れば話が変わったのだが、彼らは出撃前にイヴァン達と争った影響で不在だ。
噂をすれば戦場に居ない英雄様から通信が入った。
「む、エイダンか。どうした?」
「――頼まれていた第二〇小隊の捜索についてだが、イヴァンの自宅には何も残されていなかった。出発前に処分する時間はなかったはずだから、あらかじめ重要なものは機動船に移していたのだろう」
「ちっ、まあ期待はしていなかったさ。ご苦労だ。ちなみにイヴァンは天巫女をさらって逃げたよ」
「――それはまた面白い。ルーロの亡霊から今度は裏切り者か」
「なにが面白いもんか。まったく、各国に問い詰められるのは私なんだぞ」
「――それも長の役目というものだ」
「言っておくが、お前も他人事じゃないからな。ナターシャとミシャを失ったせいで、あいつらが引き受けていた面倒な任務が空いちまった。便利な飼い犬だったんだが……当然、しわ寄せは第三六小隊にいくだろう」
「――表向きに公表できるものなら受けるさ。裏は専門家を呼べ」
ふん、とラトリエは鼻を鳴らした。この男もどこまで本気かわからないものだ。
「――ああ、それとナターシャから伝言を預かっている。『飼い犬に噛まれる気分はどうかしら?』だそうだ」
ラトリエは通信機を握りつぶした。
天巫女を奪われたことで最も衝撃を受けたのはこの女、アメリア軍団長だ。
彼女は限界を超えた遺物の使用によって倒れそうな状態だったのだが、部下からの報告を聞いていよいよ椅子に座り込んでしまった。
「……アーノルフ元帥は?」
「死亡しました。確認されますか?」
「いいや、必要ない。援軍はどうなっている?」
「あと三日は、かかるそうです」
アメリアは天を仰いだ。頭の中で冷静に戦況を分析する。動かせる兵の数、指揮官の数、援軍までの時間。もしくは軍全体の士気。天巫女とアーノルフという二大象徴を失った影響は大きいだろう。今後は最後の軍団長であるアメリアが軍を率いねばならない。彼女は苦渋に顔を歪め、絞り出すようにして命令を下した。
「……撤退だ」
「首都を捨てるのですか!?」
「一度退き、援軍と合流する。今のままでは勝てん」
ローレンシア軍撤退。事実上の敗走である。
傭兵とローレンシア軍が大きく揺れる一方で、解放戦線は士気が上がっていた。第二〇小隊がアーノルフ元帥を討った、という情報が瞬く間に広まったからだ。第二〇小隊は裏切り者ではないのかと疑問の声も上がったが、それ以上にアーノルフの死という衝撃が大きすぎた。
「ユーリィ様! 敵が撤退しております!」
「追撃だ! だが深追いはするな!」
「ハッ!」
部下が浮かれないように注意しつつ、ユーリィは進軍を指示する。ここは攻め時だ。敵が撤退するならば追い詰めて戦力を削ぐのが定石。
もっとも、戦況とは裏腹にユーリィの表情は晴れない。彼は旧友の行末と自分達の未来を見据えているから。
「ふう……君達の選択、しかと見届けたよ。正直なところ、天巫女を横取りされたという事実は今後を考えると手放しで喜べないけれど、せめて君達の選択が無駄にならないように僕も戦おう」
彼は第二〇小隊が去った方角に視線を向ける。恐らく彼らと会うことは二度とない。かつて共に戦場を駆け、同じ志を持った友人の無事を祈りながら、ユーリィは静かに別れを告げた。
○
戦場を離れた第二〇小隊の機動船は大きく迂回するように進んだ。以前ならば昼夜を問わず走り続けられたのだが、ソロモンが居なくなったことで操縦の交代ができないため、夜は結晶風があまり吹かない場所を探して休むようになった。
今夜も機動船がすっぽり入るような岩山の窪みで停泊中だ。ナターシャが甲板から地平線を眺めていると、背中から声をかけられた。
「眠れないの?」
「天巫女様、起きたんですか」
「私も眠れなくって」
「では少し話しましょうか……隊服、似合いませんね」
「うるさいよ」
天巫女はいつもの巫女装束ではなく耐結晶用の隊服を着ている。祭壇で祈る姿を知っているナターシャからすると違和感があるのだが、本人はあまり気にしていない様子だ。アーノルフを止められなかった時点で巫女装束を着る資格がないと思っているのかもしれない。
「孤児院のみんなはどうなったの?」
「ココットから通信が来ましたよ。元の孤児院は一帯ごと封鎖され、別の孤児院に引き取られたそうです」
無事で良かった、と天巫女は安心した。天巫女が孤児院で過ごした時間は短かったが、それでも立場関係なく受け入れてくれた孤児院は彼女にとって大切な場所だ。叶うならばもう一度、一緒に暮らしたいと考えている。
「君達はこれからどうするの?」
「天巫女様を安全な場所に連れて行ってから、落ち着いて暮らせる場所を探します。おそらく中立国になると思いますよ。そのあとは、そうですね、ミラノに墓参りをしましょうか」
「また禁足地に向かうんだ」
「もうミラノ以外には行きませんよ」
二人はまだ見ぬ国、中立国を想像した。他国とは一切の同盟を組まず、独自の軍事体系によって国を守り続けた強国だ。その歴史は大国や商業国に並ぶほど古い。敵対している国もいないため交易が盛んであり、ベルノアが喜びそうな研究機関も集まっているのだとか。
「私はいつか、天巫女としてもう一度ローレンシアに帰るよ。もちろん時間はかかるだろうけど、今度は自力で守れるように力をつけて、孤児院のみんなを迎えに行くんだ」
「中立国に着いたらたくさん時間があります。ゆっくり進みましょう」
「そうだね。焦らず、ゆっくり。でも――もしかしたら、君達に頼るかもしれない。私はまだ非力だから」
天巫女は不安を隠すように拳を握りしめた。彼女は痛感したのだ。壊れた世界において自分がいかに無力であるか。アーノルフにどれだけ助けられていたか。これから先、彼女は一人で歩まねばならない。第二〇小隊がずっと隣にいるわけにはいかないのだから。
ナターシャは振り返る。空がにわかに朱色を帯び始めた。新たなる時代、新たなる人生を祝福するかのように。
「第二〇小隊はいつでも依頼をお待ちしていますよ」
ちょうど地平線から太陽が昇った。夜明けの時間だ。ナターシャは逆光を背負いながら防護マスクを外す。結晶に怯える必要はないだろう。朝日に輝く白金の髪を揺らし、わずかに潤んだ水晶の瞳で少女は微笑んだ。




