第百三十一話:星空に祈る
翌日、リンベルの姿が消えた。同室で寝ていたナターシャはすぐさまイヴァンに報告する。
「リンベルがいない?」
イヴァンが首をかしげる。失踪したのがベルノアならばいつものことで済むのだが、リンベルが単独行動をするのは珍しい。
「足音で起きなかったのか?」
「柔らかい寝具が悪いの。あの寝心地はもはや麻薬よ。大国の花だって目じゃないわ」
「爆睡していたと。なるほどな」
ナターシャはぶんぶんと首を振るが説得力はない。
事実、城の寝具は素晴らしいものだった。さすがは王族とイヴァンも唸ったほどだ。思わぬところでミラノ水鏡世界の技術力を知らしめられたのである。
「マクミリア祭司もいませんよ」
「あの女は別にいいんじゃねーの? 俺達を毛嫌いしてたみたいだし、むしろ清々しただろ」
「彼女がいたほうが帰還後の説明が楽だったんですけどね。特に狩人が全滅してしまったのは少々困ります。面倒事は少ないほうがいいでしょう?」
「勝手に付いてきて勝手に消えたんだから放っとけよ。それよりもリンベルだろ」
コンコンと部屋の扉がノックされた。足音はおろか、気配すらしなかったため一同に警戒が走る。現れたのはリーベだ。昨日と同じく喪服のような黒一色の衣装を羽織っている。
「リンベルは体調が優れないようでしたので別室で休んでいますよ」
「別室? 大丈夫なの?」
「ご心配には及びません。慣れない変化にびっくりしたようです」
「念のために私が診てきましょう。これでも元軍医ですから」
「では後ほどご案内しますね」
ナターシャがほっと息をつく。墓守りの言葉を完全に信用したわけではないが、このタイミングでリンベルだけを狙う理由はないはずだ。おそらく本当に休んでいるだけなのだろう。
「あんた、なんで蟹を抱いているんだ?」
墓守りが石蟹を抱いている。甲羅に真新しい傷がついた小さな蟹だ。なんとなく見覚えがあるような気がした。
「この子はちょっと事情がありまして――こら、暴れないでください。あっ」
リーベの腕から飛び出した石蟹がベルノアの足もとにまわり、ハサミを持ち上げて「シャーッ」と威嚇をした。
「こう見ると可愛らしいですね」
「そうかぁ? 蟹のくせに威嚇しやがって生意気だ。そういやマクミリアも溺れてるのを助けてやったのに礼を言うどころか、ずーっと生意気な態度だったな――イタタッ、こいつ挟みやがった!」
「彼女、どこにいったんでしょうね」
仲良さそうに戯れる蟹と傭兵を見ながらリーベが微笑んでいる。消えた祭司の行方を知る者はいない。自己主張をするように石蟹がハサミを持ち上げたが誰も気付かない。
「さあさあ、墓ができましたので花畑に向かいましょう」
リーベの言葉に一同の目が変わった。寝ずに作ったにしても予想以上に早い。ましてや彼女の細腕では墓石を運ぶのも大変だろうに。半信半疑でリーベの後ろについていく。
彼女の言葉は本当だった。花畑に墓石が三つ。ジーナとリリィ、そしてアリアの名前が刻まれている。
無数に並ぶ墓石の中で、その三つだけは特別な雰囲気を放っているように思えた。もちろん錯覚だ。長い旅の終わりが一種の思い込みを生んだだけであり、同じだけの物語が他の墓石にも眠っている。名も無き英雄墓にも、地面に咲く花々にも。
「ベルノア、銃を」
「あいよ」
イヴァンは妹の相棒である狙撃銃を墓の前に置いた。見るからに逸品と分かる代物だ。機動船と同じ黒銀のフォルムは第二〇小隊の一員であることを示しており、丁寧に磨かれた銃身にはうっすらと古傷が残っていた。
「太く、短くだな。お前は立派だったよ」
イヴァンの声が優しい。他の隊員も静かに目を伏せている。あのベルノアですら真面目な表情で黙祷をした。
ナターシャも友人の墓に歩みよった。アリアの墓には彼女がつけていた赤いリボンを。リリィの墓にはナターシャを含めた同期諸君の傭兵タグを置いた。そこには今は亡きドットルとウォーレンの名前もある。
「壊れた世界に夢は無し。人はまだまだ獣だし、外は酷い世界だよ。でも、もうちょっとだけ頑張るね」
思っていたほどの達成感や充足感はない。ああ、終わったんだな、というささやかな喪失感だけが胸に灯る。
これは残された者達の自己満足だ。ミラノ水鏡世界に埋めてほしいと彼女達に頼まれたわけではない。星が見える場所で死にたいと本人が言ったわけでもない。だが必要な行為なのだ。いわば、忘れられない過去に踏ん切りをつけて前を向くための儀式である。
そう考えると胸に広がるものがあった。前言撤回、達成感はあるようだ。失ったときにたくさん泣いたから、もう涙は流れない。強い決意。前に進むぞという光が宿る。
シザーランドに帰ったとき、第二〇小隊はどうなるのだろうか。
未だに黙祷を続ける仲間の後ろ姿を見つめながら、ナターシャは静かに思うのであった。
○
城に戻る際に聖都ラフランについて墓守りに尋ねた。彼女曰く、聖女代行は墓守りの子供だそうだ。本当の親子ではなく、かつて彼女が世話をしていた子供達の末裔であるらしい。パラマが会いたがっていたと伝えると、彼女は「聖都の上層部と争って敗れたと聞きましたが、まだ生き残っていたのですね」と驚いている様子だった。
他にもいくつかの昔話をした。
例えば結晶風のこと。世界が壊れた原因はローレンシアにあるようだ。正確にいえば大国は首都変遷の際に一度改名しており、ローレンシアとは別名だった頃に一大事件が起きたそうである。
世界は神秘に満ちている。それは比喩の類いではなく、ラフランの巨人が不死身の肉体を得たように、もしくはナバイアの人魚が空を泳ぐように、人の理解が及ばぬ領域の力が存在する。
かつての大国は神秘の力を燃料に利用しようとした。目に見えぬ未知の力を結晶に変えようとしたのだ。
その結果がどうなったかは言わずもがな。暴走した力が世界中を結晶で包んだ。大国は首都を捨てざるを得なくなり、今も西の古都では放置された古代兵器が結晶風を生み続けているのだとか。
話を聞いたナターシャは墓守りの年齢が気になったが、聞いた瞬間に首が飛びそうな予感がしたため我慢した。やぶ蛇をつつく趣味はない。
「入るよリンベル」
扉を開けるとリンベルが上体を起こしてベッドに腰かけていた。その姿にナターシャは一瞬、言葉を失う。眠たそうにまぶたを半分上げ、はだけた服装で虚空をぼんやりと見つめる彼女はどこか儚げで美しく、扇情的でありながらも品があり、まるで怪物を身に宿したような底知れない業を感じさせた。
それは奇しくも、ありし日の雨濡れたナターシャと酷似している。
肉体的に、そして精神的に、何かが変わった。ナターシャの知らないところで友人に異変が起きた。
「ああ、ナターシャか」
そうして彼女は微笑むのだ。さも何事もなかったかのように。
「調子は、どう?」
「すこぶる良い。いや、強がりじゃなくて本当に良いんだ。生まれ変わったみたいにな」
問題ない。つまり話す気はない。ナターシャは納得していないものの「そう……」と返した。友人の瞳が追求を避けていたから。
「墓はどうだった?」
「ちゃんとできていたわ。リンベルも挨拶をしにいく?」
「いいや、私はあとにする。今は体がまだ重い」
「でも出発までそれほど時間がないよ?」
「あー、そのことだが……いくつか話があるんだ」
リンベルが言いづらそうに頬をかく。
「実は送り水を飲んだ」
「はい?」
「いや、ほら、私もヌークポウの呪いにかかっていてな、仕方なかったんだ」
「仕方がなかった?」
「その場のノリっつーか……わり、事後報告になった」
ごめん、と片手を前に上げるリンベル。ナターシャは大股でベッドに近づくと、リンベルの頭をパシンと叩いた。中々に良い音だ。
「痛てぇ!」
「せめて相談してからにしてよ! あの水がどれだけ危険かわかっているの!?」
「だから謝っただろ!」
「そういう問題じゃないじゃん! もしも適合しなかったら謝ることすらできなかったんだから! 残されるほうの身になってほしいわ!」
「ああ!? お前が言うな! 勝手にいなくなるわ禁足地に行くわで散々心配をかけたあげく、しまいにゃ体に穴を空けて帰ってきたくせに!」
「喧嘩に正論を持ち込む奴はひねくれている!」
その後もあれやこれやと言い合う二人。さすがに疲れたのか、ナターシャが隣に座ってため息をはいた。
「とりあえず無事で良かったわ。本当に異常はないの?」
「問題なしだ。心身ともに健康だぜ」
「はあ……あなたまでいなくならないでよ」
ナターシャは額に指を当ててうつむいたまま、視線だけをリンベルに向ける。細い前髪がカーテンのように視界を遮った。ランプに照らされる二人の少女。また一つ、流れ星が瞬く。
「そんなわけで私はここに残るぜ。私は傭兵じゃないから機動船を借りるのも難しいし、何度も来るには遠いからな」
「ベルノアに言えば乗せてくれるのに……」
「そういうわけにもいかないだろ」
ベルノアならば何も考えずに了承しそうだが、リンベルの気持ちの問題らしい。基本的に傭兵以外が船に乗るのは許可が必要だ。自分の事情で何度も禁足地に行かせるのは気が引けるのだという。もっとも、好き勝手に行動しているナターシャ達が異常であり、リンベルの感覚が至極真っ当なのは別の話。
「ナターシャも定期的に来るんだろ。そのときにまた話そうぜ」
「わかったわ。元気でねリンベル。危険が少ないといっても、ここは禁足地なんだから無茶しないでよ」
「あいあい、またな」
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。ベルノア達にもよろしく伝えておいてくれ」
人間関係というものはいとも容易く変化する。片方が友人だと思っていても、もう片方が同じとは限らない。もしかすると並々ならぬ想いを隠しているかもしれない。
だからこそ面白いのだとリンベルは思う。彼女自身も歪な感情だと理解しているが、少なくとも「自分の気持ちに正直になった」という意味では前に進んだ。故に、今は正しい選択をしたと信じよう。
ヌークポウからずっと一緒だった二人がミラノ水鏡世界で分かたれた。




