表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/163

第十話:花の湖にひそむ者

 

 人間の適応能力とはすごいもので、森に入って数日が経てば段々と心に余裕が生まれてくる。ナターシャは教会の前で愛銃を構えた。


 たとえ禁足地に放り出されても銃の練習を欠かしてはいけない。自分の命を守る武器なのだ。食料集めも大切だが、同じぐらい銃の練習も大切である。


 木の幹に向かって順番に発砲した。太いもの、細いもの、風に揺れる葉っぱ、果実のような結晶。ナターシャの弾丸はほとんどの的に命中した。以前ならば半分も当たれば上出来だった。しかし、今のナターシャは八割程度当てられる。


「うーん、よく見えるようになったのかしら?」


 子供の成長は早いと聞くが、どうやら自分は優秀なようだ。大器晩成とはまさにこのこと。ヌークポウで隠れて練習した成果がようやく出始めたのである。


 そう思いたいところだが、何となく違う気がした。そういえば黒水を飲んでから妙に感覚が鋭くなったように思う。何かが変わったというよりは、徐々に変化しているような曖昧な感覚。内側から体を焼かれるような激痛は二度と味わいたくないが、見返りはあったのかもしれない。


 神様はいつも気まぐれだ。都合の良い時にしか手を差し伸べてくれないし、信心深さと慈悲は比例してくれない。敬虔(けいけん)な信徒には過酷な試練を。(けが)らわしい悪党には幸せの結末を。困った神様なのだ。

 最後に一発。結晶を撃ち抜いてから銃をしまった。やはり調子が良いようだ。


「さてと、今日は群生地の奥に向かってみようかな」


 ナターシャは目印を頼りに群生地を目指した。廃墟から離れると結晶の数は少しずつ減っていき、その代わりに大きく枝を広げた(にれ)の木が森の空を覆う。鳥の消えた森は寂しさを感じさせ、連なるような楡の巨木がナターシャに時間の流れを忘れさせた。空気が湿り気を帯び始め、背の高い草が茂り始める。


 楡の群生地に到着したナターシャは真っ先に姿勢を低くした。


 耳を澄まして黒い虫達がいないか警戒したが、周囲に気配は感じられなかった。代わりに冷んやりとした空気が肌を撫でる。廃墟に比べればマシな方であるが、群生地の周辺も冷たい風が吹いていた。


 ナターシャは草をかき分けながら奥へ進んだ。楡の種を集めたい気持ちもあるが、今日の目的は新しい食料を確保することだ。ついでに森を抜けるための道を少しでも開拓すること。ナターシャの計画では廃墟を拠点にしながら南を目指し、最終的には森を抜けて傭兵国を目指すつもりである。


 楡の群生地を抜けるにはあまり時間がかからなかった。背の高い草が視界を悪くしていただけで、群生地自体は広くないようだ。


「沼地……ではなくて湖ね」


 群生地の先には湖が広がっていた。水面には花畑の固まりがまるで浮かんでいるように見える。花畑はどれも大きな円形を描いているようだ。水面を覗き込むと灰色の藻が大量に沈んでいる。何となく動いているように見えるが、濁っているせいで詳細は不明だった。


 ナターシャは手のひらほどの石を掴むと、花畑に向かって投げてみた。放物線を描いた石は何も起きずに花畑へ落ちた。水の音が聞こえないということは、花畑の下には地面があると思われる。念のために大きさを変えて放り投げてみたが結果は変わらなかった。


「……えいっ」


 思い切って花畑に飛び乗った。ナターシャが乗っても地面が沈むようなことはなく、このまま歩いても問題なさそうだ。浮島に咲くのは薄紅色の花。彼女を歓迎するように花びらが揺れる。


「何の花だろう。ヌークポウには咲いていなかったし本でも見たことがないわ。花を食べる地域があるって聞いたけど、これはどうかしら」


 しゃがんで花を観察した。料理を(たしな)む関係上、植物の知識は豊富だと自負しているが、そんなナターシャでも見覚えのない花だ。月明かりの森にだけ咲く花だろうか。


 「長く見つめても仕方がない」と立ち上がろうとしたとき、花の間を縫うようにして茶色の物体が襲いかかってきた。

 ナターシャは瞬時に愛銃を引き抜いて発砲する。茶色の襲撃者は弾かれたように吹き飛び、花畑の上に亡骸をさらした。「我ながらよく反応できた」とナターシャは自分を褒めてあげる。やはり調子が良さそうだ。


「……蛇だ」


 襲撃者は蛇だった。胴体に大きな風穴を空けてピクピクと痙攣をしている。首もとを掴んで口を開けさせてみると、二本の鋭利な牙から透明の液体が滴った。十中八九、毒だろう。


「毒蛇は流石に食べられないかしら。いや、調理の方法次第では食べられなくも……」


 ヌークポウでは頭を切り落とした毒蛇がよく売られていた。ナターシャ自身も買ったことがあり、鶏肉のように淡泊な味で美味しかったと覚えている。あぁ、ヌークポウが懐かしい。寄宿舎のみんなに囲まれて、今夜はカレーだよ、と声高々に宣言して。子供たちと一緒に大喜びするアリアがいて。結局、最後に作ったカレーは食べられずに終わってしまった。間違いなく最高傑作だったのに――。


 トリップ気味だった思考を現実に戻した。毒蛇の頭を切り落とし、浮島のほとりで血抜きをする。血抜きといっても、尻尾を逆さまに持って放置するだけだ。蛇から滴り落ちる血が湖に広がった。


 水面に映る自分の顔をぼんやりと見つめながら、ナターシャは考えにふけった。肉食の蛇がいるということは、他の小動物もいるはずだ。結晶の中心地である廃墟から遠ざかったことで、湖の周辺には森の原生生物が生息しているのかもしれない。


 よくよく目をこらしてみると、湖の中には魚らしき影も確認できる。何の種類かまでは分からないが、焼けば大抵食べられる。何ということだろう、ここは食料の宝庫じゃないか。月明かりの森には結晶憑きしかいないと思っていたのに。ナターシャは俄然やる気が出てきた。


「ふふーん、やっぱり神様は見ているのね。教会で毎朝お祈りをしているのが届いたのかしら。それとも、いたいけな少女を哀れんで下さったのかも」


 今日はお肉だご馳走だ。上機嫌で血抜きをするナターシャ。


 瞬間、水面から飛び出した触手がナターシャの毒蛇を奪い去った。あまりにも綺麗な触手さばき。少女はさっきまで蛇を掴んでいたはずの右手を見ながら呆然とする。


「――ハッ!」


 我に返ったナターシャは水面を覗き込んだ。薄暗くてよく見えないが、細長い生き物が蠢いている。


「う、うそ! 私の肉を返してよ……!!」


 ナターシャは水中に向かって銃を撃った。水面が揺らぐせいでちゃんと狙ったはずなのに当たらない。それどころか、細長い生き物が猛烈な速度で水面に近付いてくる。


 勢いよく飛び出した触手がナターシャの首に絡まった。咄嗟の出来事であった。蛇を奪われた際に反応できなかったのだから、二回目も触手を避けられるわけがなく、そのまま水中へ引きずり込まれるナターシャ。後には静寂だけが花畑に残った。


 ○


 淡水ミミズと呼ばれる生き物がいる。月明かりの森の湖に生息し、花畑の下でじっと獲物を待ち構えるのだ。地面の振動で獲物を察知し、勢いよく飛び出して水中に引きずり込むことで捕食する湖の番人。奴を知る者は決して湖に近付かない。


「……! ……!?」


 ナターシャは淡水ミミズの全貌を見た。それは、生き物と呼ぶにはあまりにもグロテスクであり、生理的な嫌悪感を抱かせるに十分な様相をしていた。


 ミミズ特有の長い胴体を持ち、粘液に覆われた体が豚の腸を思い出させる。胴の幅は人間と同じ程度。先端には無数の触手が揺れ、触手の中央から大きな口が覗かせる。ナターシャから奪った蛇をむしゃむしゃと食らいながら、新たなる獲物に触手を伸ばすのだ。


(この……!)


 ミミズとは思えないほどの締め付けだ。手でふり解くのは不可能である。ナターシャは(なか)ば混乱しながらも、首に巻き付いた触手を銃で吹き飛ばした。淡水ミミズが驚いたように体をくねらせる。その隙に浮上しようとするナターシャ。しかし、淡水ミミズの触手が再度足に絡み付いた。ぬめりとした嫌な感触が足先から這い上がる。


(気持ち悪いって言ってんのよ……!)


 触手を撃ち抜こうと試みるも、うねうねと動きまる触手に水中で当てるのは至難のわざ。四苦八苦している間に水底へ沈んでいく。更にもう一本、ナターシャの足を捕らえた。


(埒があかない……それなら、ナイフで……!)


 ナターシャは体を器用にくねらせると、腰のナイフを引き抜いた。銃が当たらないならば確実に斬り落とすのみ。思い切り上半身を屈ませて、左足に絡まった触手にナイフを突き立てる。淡水ミミズにも痛覚があるのだろうか。締め付けが緩んだ隙に右足の触手も斬り裂いた。


(よしっ、今のうちに呼吸を……!)


 しかし、淡水ミミズも黙っていない。水の抵抗を無視した勢いで薙ぎ払うように触手が振るわれた。水面へ上がろうとしていたナターシャの腹を正確に捉え、横なぎに吹き飛ばす。


「ガッ……!」


 一瞬、意識が飛びかけた。肺の空気が一気に吐き出され、「これはまずいなぁ」と他人事のような感想が浮かぶ。残った触手がナターシャに絡み付いた。


 ぐんぐんと引き込まれるナターシャ。もう少しだった水面が遠ざかっていき、代わりに大口を開けたミミズが歓迎してくれる。ミミズに似合わぬ、立派な牙だ。円形に並んだ牙には蛇肉の一部が残っている。このままでは自分も同じ結末を迎えるだろう。


 ――あぁ、まったく、本当に最悪だ。ナターシャは自らの境遇を嘆いた。


 警備隊のエルドに囮にされ、ヌークポウからはじき落とされ、廃墟につくなり水も食料もなく。井戸は黒い水しか出さないし、腹をくくって飲んでみれば文字通り血反吐を吐いた。結晶憑きのせいで夜も安心して眠ることが出来ず、(にれ)の木を見つけたかと思えば虫の群れに殺されかけ。そしてついには巨大なミミズに食われかけている。


 ふざけるな、と不運な少女は声にならない叫びを上げる。少女は確かにヌークポウの外を望んだ。しかし、それはこのような誰も知らない湖の底で淡水ミミズに食われるためではない。自らの足で、自らの生き方で人生を選び、そしていつかヌークポウに帰って友人に自慢する。私はこんなに色々な世界を回ったんだぞ、と。そのために知識を身につけ、技術を磨いたのだ。


 ナターシャは最後の力を振り絞って、胸元にまで迫る触手をナイフで突き刺した。残った右手で愛銃を引き抜き、照準を淡水ミミズに合わせる。


(死ねよ、くそミミズ……)


 大口を開けたミミズに照準を合わせ、ナターシャは引き金の指に力を込めた。


 本来、水中では銃の威力は激減する。発砲こそ可能であるが、水の抵抗によって勢いが落ちるのだ。首元の触手を吹き飛ばしたように、ゼロ距離で狙い撃つなどの工夫をしなければ淡水ミミズまで届かない。

 このとき、ナターシャは全ての勢いを利用した。推進力、角度、もしくは淡水ミミズが触手で引っ張る力。それらを一発に込めて放たれた弾丸が、淡水ミミズの大口へと吸い込まれていった。刹那、弾は淡水ミミズの頭を貫通して赤黒い液体をまき散らす。


「ぶはっ……!! ゲホッ、ゲホ……ハァ……」


 触手から解放されたナターシャが水面から顔を出した。

 空気がある。もっとたくさんの空気をよこせ、と肺が叫んでいる。力の入らない体を懸命に動かして、ナターシャは湖のほとりへ泳いだ。とにかく地上へ上がりたい。結晶だとか、黒いもやの集合体とか、そんなものはどうでもいい。一刻も早く安全な場所へ。触手が届かぬ、地上へ。


 這うようにして水から上がったナターシャは、力が抜けたように仰向けで転がった。まだ呼吸が整っていない。今まで散々な目に合ってきたが、今日は一番最悪な日だった。「ミミズに食われかけました」なんて笑い話にもならないだろう。

 濡れた髪の毛が(ひたい)に張り付く。白金色のまつ毛から水滴が落ちた。(にれ)の木漏れ日がこれほど暖かいのだと初めて知った。自分は今、生きている。淡水ミミズの感触はまだ体に残っているし、寒さでカタカタと震えているが、それでも自分は生き残った。空に向かって手を伸ばしてみた。こんな小さな手でも、やろうと思えば案外やれるものなのだ。


 冷たい風が「早く帰れ」と少女を急かす。濡れすぼった体では風邪を引いてしまいそうだ。早く帰ろう。火を焚いて体を温めて、それからゆっくり眠ろう。


「……ケホッ、本当に、ひどい目にあった……」


 フラつきながら立ち上がる少女。ポタポタと水滴をこぼしながら、彼女は自らの住処へ帰っていく。

 次の日、腹が立ったナターシャはバケツいっぱいの黒水を湖にぶち込んだ。哀れな魚がぷかぷかと浮かんだという。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ