シーン3 なんだか気まずい雨宿り
シーン3 なんだか気まずい雨宿り
「マティルダ?」
たしかプレーンのコクピットにも、その名前が書いてあった。
アタシが鸚鵡返しにその名前を呟くと、リカルドの顔色が変わった。
「エルザ、帰るぞ」
彼は何かを誤魔化すように、乱暴に娘の手を掴んだ。
エルザという女の子はちょっと怯えたように見えた。
「リカルドさん、大分飲んでますね」
アタシは彼に向かって言った。
「ああ、なんだ、それがどうした」
「飲むなっては言いませんけど、娘さんの前でそういう感じなのは、アタシはあんまり感心しませんね」
リカルドの表情が、途端に険しくなった。
何を言い出すんだ、この女は、そんな彼の声が聞こえてくるようだった。
「俺に、口出しするのか。お前、俺を、誰だと思ってるんだ」
リカルドが、アタシに向かって手を伸ばした。
酔っているせいか、目測がずれて、彼は勝手に数歩よろめいた。
「おっ、この」
彼はアタシが逃げたと思ったらしかった。
「やめて、パパ」
エルザが彼の手を引き、ようやくリカルドは踏みとどまった。
「パパ、ごめんなさい。もうお部屋帰るから」
エルザがまた眼に涙をあふれさせた。
アタシは彼女のそんな仕草に、いたたまれない気持ちになった。だが、これ以上ここで彼と悶着を大きくしても、困るのはこの子の方だろう。
リカルドは何か言いたげにアタシを睨んだ。しかし彼にも僅かに理性は残っていたと見えて、吐き出しかけた言葉をぐっと飲みこんだ。
「行くぞ、エルザ」
苛立ったように、彼は娘を連れて行った。
途中、一度だけエルザはアタシを振り向いた。
あんなに小さな子なのに、その顔は、アタシを気遣うようにも見えた。
翌日は、これまた大変な一日になった。
まずは早朝からチームPRの収録とかで、アタシはチームロゴとスポンサー名で固められたコスチューム姿を披露する羽目になった。
といっても、インタビューに答えるアンディの後ろで、お人形さんのように固まった笑いを浮かべ続けるだけの仕事だ。
簡単そうに思うかもしれないが、何にも面白くないのに笑顔でいるのも、それはそれで難しいものだ。
ようやく解放されたと思ったら。
「次はサーキットに移動だよ」
アンディは全く悪気のない様子で言った。
「え、サーキット? でもアタシ、整備の仕事が・・・」
「そっちは、マックと親父に任せればいいよ。全チームのレースクイーンが集まっての集合撮影なんだ。カレンダーとかにもなるし、収益の分配もあるんだから、参加しないと」
どうやらそれは確定事項のようだった。
アンディはオーナーだ。
彼がそういうのなら、従うしかない。
アタシはアンディの運転する車でサーキットに向かった。
「リカルドさんって、大丈夫なんですか?」
走る車の中で、アタシは何気なしに尋ねた。
「え、急にどうしたんだい?」
アンディは驚いた顔をした。
「いえ。別に大したことじゃないんですけど」
昨夜の事を正直に話すのも、ちょっとためらわれる。アタシは誤魔化すように言葉を濁した。
「良い奴だよ。子供思いだしね」
そうは、見えなかったけど・・・
見えなかっただけかな。
「お酒とか、随分飲むんですよね」
「そういう時もあるさ。彼も人間だからね。でも、レース前にはきちんと仕上げてくるよ、今朝だって、大分早くからトレーニングを始めていたし」
「そうなんですね」
昨夜の様子からすると、ちょっと意外な気もした。もっとも、プロのレーサーなんだし、その位は当然なんだろうか。
アタシはこれ以上この話題を振らない事にした。
サーキットのメインスタンド付近のパーキングに車を止め、会場前まで案内したところで、アンディは先に帰ると言い出した。
ちょっとー、こんな所に置いてきぼりか。
「仕事が重なってるんだよ。終わる頃に迎えを来させるから、よろしく」
アンディは可愛くもないウィンクをした。
やれやれ、仕方ない。
アタシは着替えの入ったカバンを持って中に入った。
本物のプレーンレースサーキットに入ったのは初めてだった。
正直、その広さと、あらゆるものの巨大さに度肝を抜かれた。
考えてみれば、身長20Ⅿ近い巨大ロボットがレースをするのだ、コースも勿論、メインスタンド前のモニターだって、半端ない巨大さが必要になる。
ピットが設置されるブースはパドック船がそのまま着艦できるようになっているから、もしかしたらその直線だけでも数キロはあるかもしれない。
目を丸くしていると、GⅩ1の運営スタッフがアタシを呼びに来た。
更衣室でささっと着替えを済ませ、歩きにくいヒールを履いて指定された場所へ行くと、すでに他のチームの専属レースクイーン達が待っていた。
各チーム一人かと思ったら、多い所では五人もいた。
アタシは端っこに並ぶように言われて、そこで、心が折れそうになった。
いや、ね、アタシだって、そんなに悪い体形じゃないと思いますよ。
身長だって167はあるし、スリーサイズだって、とりたてて主張はしていないけど、それなりに見れるレベルだとは思っている。
けどさ。
ここに並んだ瞬間、完全にアタシはみんなの引き立て役になった。
全員、背だって、アタシより高いし、何よりも胸も尻も半端なくて、ウェストは折れそうに細い。
正直、折ってやりたくなるほどに細かった。
くそ、グラマーお化けどもめ。
モデル気分は一気に失せて、アタシはこの場に居る事が苦痛でしかなくなった。
それでも仕事を失いたくない一心で頑張った。
撮影会が終了すると同時に、アタシは逃げるようにサーキットを出た。
他の女たちは、お互い気心も知れているようで、集まって楽し気に話をしていたが、アタシはどうしてもその輪に加わることが出来なかった。
サーキットの外に出ると、空には雲が湧きだしてきていて、急に薄暗くなった感じがした。
気のせいか遠くから雨の匂いがする。
駐車場に出てみたが、アンディも、迎えに来ると言った車も見つけられなかった。
どうしようもないので、しばらく待ってみる事にした。
そのうちに、思った通り、ぽつりと雨粒がきた。
アタシは周囲を見回した。
ストリート沿いに立つドリンク販売機の隣に、僅かなひさしがあった。
あそこなら目立つし、雨宿りにもよさそうだ。
アタシは走ってその下に立った。
程なく、土砂降りになった。
グリッドリッジの天候は変わりやすいとは聞いていたが、これはひどいもんだ。
視界までも悪くなって、アタシはもっと良い場所で雨宿りをすればよかったと後悔した。
それにしても、迎えはなかなか来なかった。
時間が経つうちに、どんどんアタシは不安になって、心細くなってきた。
道路の方にばかり気を取られていて、傘を持った男が近づいてきた事に気付かなかった。
「こんな所に居たのか」
急に声をかけられて、アタシは心臓が止まる程驚いた。
振り返った先に居たのは、なんとリカルドだった。
「り、リカルドさん?」
彼はアタシをじろりと見た。
「アンディに頼まれたんだ。アンタを迎えに行ってくれってな」
リカルドから、昨夜の酒臭さは消えていた。
気のせいか、表情も僅かに穏やかに見える。
「すみません。でも、どこから来たんですか。車は見えませんでしたけど」
「往復の無料バスだ。関係者向けに出ている」
「そんなのがあるんですか?」
「何も知らん奴だな」
リカルドはアタシに傘を差しだした。
アタシは素直に受け取って、彼の後を歩いた。
「アンタを探すのに、ちょっと時間がかかった。次のバスを待つしかないな」
少し苛ついたように言ってから、リカルドはサーキットの前にある小さなカフェに入った。アタシがどうしようかと迷っていると。
「どうした、そんな所に居ると風邪をひくぞ」
彼が大きな声をあげたので、アタシは仕方なく一緒に席に着いた。
急な雨で、避難してきた客は自分たちだけではなかった。
この店も、レースが始まる頃になれば、大分にぎわう事になるのだろう。お洒落というよりは、合理性を求めたような、殺風景なカフェだった。
彼は時計を確認した後、自分用にコーヒーと、アタシにはココアを頼んだ。
「・・・・」
正直、気まずかった。
彼は無言でコーヒーを飲んでいるだけだったが、時々アタシを見る目が、なんだか鋭くて怖かった。それに、昨夜のちょっとしたやり取りを、彼だって覚えているに違いない。
「あ、あのー」
勇気を振り絞って、アタシは声をかけた。
彼が目をあげた。
「エルザちゃん、かわいい子ですね」
アタシは彼女の泣き顔を思い出しながら、言った。
リカルドは、少し意表を突かれた顔をしたが、その表情がふっと緩んだ。
「あいつは、母親似だからな。俺に似なくて良かった」
「それじゃあ、奥さんも、さぞかし美人なんでしょうね」
ぴくり、と彼の眉が微かに上がった。
やば、またアタシ、禁断ワードに触れちゃったかも。
いつもながら、自分の失言に後悔を覚える。
だが、リカルドは落ち着いた様子でコーヒーをすすった。
「ああ。美人だった」
過去形だった。
アタシはそれ以上聞く事が出来ずに、再び口をつぐんだ。
時計はなんとも進まなかった。
こんな時だけゆっくりと流れるのだから、本当に時間ってのは言う事を聞かない。
参ったな―。
と、窓の外に視線を移した時だった。
「珍しいな、マーキュリーが女連れとはな」
嘲るような声が、アタシの耳に飛び込んだ。
傍らに、細身で背の高い男が立っていた。側に女を二人連れていた。
さっきレースクイーンの撮影会にもいた女だと、すぐに分かった。
「お前、ファルカンか。どうして、こんな所に」
リカルドが、驚いた声を上げて立ち上がった。
どうやら知りあいだろうか。それにしては、リカルドの声には出会いを喜ぶような響きは含まれていなかった。
「お前は、GPF1の選手だろ。こんな田舎レース会場に何の用事だ」
リカルドが男を睨んだ。
男、ファルカンが、ほんの少し楽しげに口元を歪めた。
「それは、昨シーズンまでの話さ」
「・・・!?」
ファルカンは左右に侍らせた女たちに、意味ありげに微笑みを振りまいた。
女も笑った。なんだかすごく嫌な感じがした。
「GPF1にもそろそろ飽きてきたんでね、新しい刺激を探していたら、ちょっと面白いチームから声がかかったのさ」
そう言って、彼は自分の胸元を指した。
どこかで見たようなマークがプリントされていた。
「そのエンブレム。お前、まさか・・・」
リカルドの声が微かに震えた。
「そのまさかさ。今期は久しぶりにあんたと勝負ができるなマーキュリー」
「プリンスオルダー。・・・ワークスチームか」
ワークスチーム。つまり、このGⅩ1の優勝候補の大本命チームだ。
アタシも驚いて、この、ファルカンという男をじっくりと観察した。
去年までGPF1に居たという事は、スペシャルライセンスの持ち主だろうし、醸し出す雰囲気は、スター選手のそれを纏っている。
リカルドの表情からすると、何か因縁があるみたいだが、残念ながらアタシはそこまでプレーンレースの情報通ではなかった。
アタシは彼らが睨み合うのを、息をのんで見守った。