信じる系の物語
自分ももうくたびれ果てた老兵のような気分で生きていて、刀折れ矢尽きる、「膝に矢を受けてしまってな…」なんて具合なのだが……まあ、愚痴はよそう。
例えば、ベストセラー本だとか、ヒットした映画だとか、色々なものはもう全くまともに見る事ができないし、面白いとはこれっぽっちも思わなくなってしまった。以前はアニメなども多少は期待しながらチェックしていたりしたが、今やそんな事もない。老兵は死なず消え去るのみ。そんな気分である。
例を出すと、「君の名は。」という映画作品があるが、ああいうものは「恋愛」という物語を信じていなければ見る事はできない。他の、ベストセラーになるようなものは、多く、大衆社会が生んだ神話を信じ、強化する方向に動くので、そもそも、この神話にうんざりしきった自分には見るものも聞く事もなく、なんだか自棄になっているという次第だ。
人と話してみると分かるが、大衆社会における神話に関しては犯すべからざる禁忌という風になっている。その中に「恋愛」という物語も入るし、「社会的成功」とか「金」とか色々な事が含まれる。この神話は神話としてあり、確かであるのは確定的で、後は卑俗的な事しかない。本質的な事を話そうとすれば、居心地の悪い場所に来たというような感じもするし、場違いであるという視線を向けられる。
友人達と話していた時、ふと、彼らが全ての事柄を茶化しているのに気付いた。彼らには真面目な話というのはできない。できたとしても、「仕事」「金」「女」(「男」)の話であり、それもその価値観や物の見方は定まっているので、それ以上の話をしようとすると、茶化されて終わりである。彼らは茶化す事により、自分達の価値観を守る。彼らの価値観の根拠は数であり、集団である。
信じる系の物語、というタイトルにしたが、多くの物語は人々が信じているものを疑わないという誓約が裏にある。そして大衆が信じているものを、例えば、「落合陽一」のような賢い人が裏書きしてくれれば、それでいいわけである。権威を背景にした立派な人、なんだかわからないけど知名度のある人、賢いとされている人、そういう人が大衆の信じたい方向性に沿って言説を振るえば、そこに金と力が生まれる。ハッピーである。大したものである。ヤッホー。
立川談志の「イリュージョン」という狂気の世界に入ってきたので、真面目になろう。さて、こんな風にして、人々が信じているものを信じないとなると、孤立し、ろくでもない事になるわけで、ここに認識と行為の無限の深淵が生まれる。行為は、行為の無意味性を認識しているものにとっては意味がない。「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン少年が陥っているのは、行為の前の認識の段階で、彼は賢いからこそ動き出す事ができない。彼は世界を逍遥する。そして、世界に入り込む事がついにできない。
先に、「恋愛」は、現代が作った神話で、これを信じなければ既存の恋愛物は入り込めない、と言った。これは現実もそうで、ディズニーランドに行ってみたり、誕生日に祝ってみたり、そういうフィクションにおいて、自分達の神話を作っているのだが、これに無意味と倦怠を感じるともうどうにもならない。では、一体どうなるのだろう。
ここからが自分が非常に苦しかったポイントなのだが、過去の、仏教とかストア主義とか、一連の静寂主義と言えばいいだろうか、現実の猥雑さと離れて己の精神にのみ立脚し、ただ世界を観照する思想というのは、こういう所から生まれてくると思う。
しかしながら、これは果たして答えなのか、そういう賢者的なポイントにただ安穏として座っていられるのか。行動や行為が無意味であると感じた時、その反対の瞑想的な精神が見えてくるが、これは本当に正しいのか。ここに行為と認識の矛盾が問題となってくる。
過去の色々な人を見ると、みんなこのポイントで悩んだように思えるし、これから先も苦しむ人がいるだろう。世間が信じている神話を自分も信じて、走り出すならば話は簡単である。そこで成功するにせよ挫折するにせよ、その走る方向性や価値観そのものは疑われないのだから。頑張ればいいじゃん、という話で終わる。しかし、行為全般を秤にかけ、認識によって、大衆神話のみならずあらゆるものを計量しだすと、行為は遠くに行ってしまう。ハムレットの逡巡はこういう所にあると思う。
さて、こうなった時、問題はどうなるのか。問題は行為に対する認識の優位性である。面倒なので、飛ばすが、認識が行為に対して優位であるというのは間違いないと思う。ここで「いや、行為は認識より大事!」という人は、認識というものに深く入り込んでいないだけ、と見る。何故そう見るか。それは直観と取り敢えず言っておく。
で、問題は認識であるが、更に突き進めば、認識を認識していくという事である。認識を認識する、精神を精神する、世界と自己を切り離して、自己の内に閉じこもるが、更に閉じこもるという精神作用を分解していく。こうすると、気が狂いそうになるのだが、そこまで行く。すると、そもそも、認識と行為という風に分割している事が、自分の認識であると、精神作用の現れだと気付いてくる。
人が、行為に駆り立てられる場合、通常は行為の先の「目的」があるからだが、「目的」が単なる虚妄と気付くと、行為は止む。しかしながら、行為止み、精神立つ、となっても、精神を精神そのものが踏み倒していく過程というのがある。自己の大切さを、他人よりも遥かに大事に思う僕がいるとする。しかし、そのように自分を大切にするとはどういう自分なのだろう。自分を他人と分割して見る自分そのものが、単なる虚妄ではないか。デカルトは我思う故に我有りと言ったが、「思う」からと言って「ある」とは言えないはずである。それは単に思っているだけである。そして思う存在は、もし他が欠けている世界においては、存在しえないだろう。自分が世界の中で生きているという事実があるからこそ、自分と世界を切り離して自分を唯一者として見る事ができる。
これは精神の牢獄を更に「牢獄していく」というような実験だろう。自分でもあやふやなので(読者には突っ込みどころが無数あるだろう)、もう少し考える必要がある。比喩的に言えば、自分というものの純粋性、その独自性というものが成立可能なのは、それが「自分だけ」で存在しえていないからだ。肉体の成立もそうであるが、精神の成立もそうだろう。パスカル的な思惟の宇宙は、パスカルの脳髄に宿った。だが、その思惟そのものを思惟するならば、彼の思惟の限界は、彼の思惟内部には示されない。彼は生きている。だから、考える。だが、思惟はこれを逆さまにする。思惟はこれを意識しない。
行為と、現実を軽蔑し、孤立と精神の中に閉じこもる。そこにやすらぎを見出す。が……それもまた一つの現実的行為に他ならない。ハムレット、並びに、ラスコーリニコフの両人は、自己の内部の絶対性に囚われているが、作者はそこから抜け出している。(ドストエフスキーは四十年以上かかり、牢獄での経験も経てようやく抜け出した) そこではドラマは発生するが、絶対化した自我には単なる踏み越えるべき障害としてか見えない。そして障害を踏み倒しても踏み倒してもそこに答えはない。ラスコーリニコフは答えがない事を「悟り」、ハムレットは肉体的な死によって思考に終止符を打つ。彼らが認識できなかった事はなんだろう。あるいは、認識すべき事はなんだろう。それは、認識もまた一つの行為であるという視点だ。彼らの思考もまた紛れもなく、現実的な行為であった。現実の一部だった。だから、作者はその位相から彼らのドラマを描く事ができ、ラスコーリニコフやハムレットの内部から見れば全ては悪夢に見えた。
話を最初に戻すと、ベストセラー的な「信じる系の物語」は本当に信じている物語で、本当に信じている人向けの物語で、それが嘘だと指摘されれば激高されるタイプのものである。テクノロジーが新しい未来を引き起こすとか、私は「前向き」に生きるとか、人を好きになるのは素晴らしいとか……それらは、そういうものとして機能している。機能する事にベストセラー物は一役買っている。では、それら全ての意味は一体、何なのか。シェイクスピアのような人であれば、劇という形式を通じて、限界を突破しようとする個人を用意し、彼を破滅か死に到達するまで走らせる。普通人は常識で抑制し、なんとなく満足(心の奥底では不満足)するが、それを遥かに乗り越える。乗り越えて、乗り越えた先に何もない事を証明する。しかし、これは、内心が目的を持ち行為となって現れ、行為の果てにあるものをあまりにも強く信じ、走るからこそ現れる証明性であった。
現代は、この証明から逆に走らなければならないのかもしれない。すなわち、行為するのが無意味であると認識したとしても、内省もまた行為の一部で、瞑想のもまた現実との関係性において発生する行為の一部であるから、外部に行為していくのも(内省と同じく)無意味ではない、と。人間の認識には限界があるが、それは行為によって否定されるものではない。孤立している人間を救うのは、他人が優しく微笑みかける事ではない。他人が手を差し伸べる事でもない。孤立が更に深まり、孤立がついに孤立ではないと悟る事にある。孤立は、不可能だ。絶対的な孤立は思惟の中にのみあり、この思惟を人は逃れられない、その限界は明らかだと人は気付いた時ーー彼はもはや開かれた世界に生きている。
ウィトゲンシュタインが「ドアを開ける時、蝶番はついていなければならない」と言うのは、「蝶番がついていない事を恐れてドアを開けない」というような生活形式は、彼の疑いそのものを破壊するほどまでに無意味であると感づいているからである。孤立は、孤立そのものによって破壊される。その時、孤立は孤立ではない。「他者」なんてものが発見されるわけでもない。人は「とにかく」そんな風に生きているのである。様々に生きる形態を「孤立」だとか「内省」とか「関係」だとか言ってみているというだけの事である。今、抽象的な事を自分が散々言ったように。
さて、ここまで色々ぐたぐだと書いてきたが、今書いた事は穴だらけの理論であろう。がーー反論はそれぞれの心の中でお願いする。自分としては疲れた。老兵は死なず消えるのみーー認識と行為の矛盾から避けられないのは人間の運命だが、認識を認識すると、行為と認識を分割するという事柄自体が、相対化される。その時、認識止み、行為止み、ただ生きる事が現れる。そういう点に、仏教だとかウィトゲンシュタインだとかは到達し、シェイクスピアやドストエフスキーは小説という人生実験装置を用いて暗示した。そんな風に自分は思っている。とにかくそう思っている。つまりはとにかくーーーとにかく、そんな風に思っているという話だ。