Take Me Higher
Author:大和麻也
《2》
俺たち兄弟は、空に魅了された。
両親が航空会社に勤めていたため、海外旅行をたくさん経験し、飛行機にも何度も乗った。会社のいろいろなパンフレットを読み、さらに魅了されていった。
だから、兄がパイロットになるのも自然なことだった。
兄が副機長としてフライトをするようになるのに遅れ、生活に余裕のできた俺も航空機の免許を取った。旅客機で世界を飛び回る兄と違って、セスナ機のみの操縦ではあるが、兄弟揃って空を飛び回るようになれたことは嬉しかった。
やがて兄には天音さんという婚約者ができ、両親と俺を含めた五人暮らしが始まった。兄は世界を飛び回っていたから家にいることは少なかったが、だからこそ海の向こうから戻ってきて一家五人が揃う日はとても幸せだった。
婿に行くよう床に臥せた両親が俺にうるさく言い始めたころ、その生活に亀裂が入った。
兄が搭乗した飛行機が、エンジンのトラブルでインド洋に沈んだのだ。
以来天音さんは人生を絶望して塞ぎ込んでしまい、父は死に、母も病気がひどくなった。先の長い天音さんだけでも元気を取り戻してほしいのだが、俺が兄の代わりになることはできずにいた。
きょうも、天音さんは自室から出てこない。数日に一度、月命日などは特に塞ぎ込んでしまう。何度くじけようとも、俺にはそれしかできることがないから、天音さんの部屋をノックするのだった――
《1》
「天音さん、空に行きたくありませんか?」
ソファで項垂れている、義理の姉になるはずだった女性に、俺はそう声をかけた。
しかし、彼女は力なく首を振る。対して口元には力が入り、いまにも唇を嚙み切って血を出してしまいそうだ。ほんの一言だったのに、涙を堪えているのもわかる。美しい女性のその悲壮な様子は、見るに堪えなかった。
「やはり、嫌ですか」
「はい。婚約者が命を落としたところに、わざわざ行くなんて」
わざわざ行けば、――悲しすぎて辛いだろう。
でも、天音さんと俺とでは、明らかに意見が違っている。俺はやはり、死んだ兄が大好きだった世界を、嫌いなままでいてほしくない。
「貴久が大好きだった世界です。確かに怖い世界かもしれませんが、それだけ美しい」
「そうじゃなくて……」
「解っています。でも、天音さんが兄の好きだった空を見てやってくださいよ。ひとつの弔いにもなりますし、綺麗なものを見れば、少しは気が晴れるかもしれません」
「…………」
「安全は俺が保証します。絶対に、天音さんを守りますから」
天音さんはゆっくりと、顔を上げる。顔にかかった長く艶のある黒髪と悲しげな表情が入り混じって、真夜中に出会う古びた日本人形のような、とても妖しく艶めかしい魅力を醸し出していた。
疑い、探るような眼差しに対し、俺は自信を持って頷いた。
「守ります」
「……いつか、行きたいとは思います」
「…………」
「貴好くんの言う通り、私も貴久さんが一番輝いていた世界を全身で味わってみたい。嫌いになりたくない、だって、地上から見上げただけでもとても綺麗なんですもの」
「…………」
そうは言うが、天音さんの部屋は常にカーテンがかかっている。兄の死以来、一度としてまともに空を眺めたことなどあるまい。きっと、悲しみに淀んだ空ではなく、兄と共に眺める清々しい空が好きだったのだろう。空の魅力を語る兄が好きだったのだろう。
様々な気持ちを押し殺す俺に、天音さんはたったひとつの気持ちを絞り出す。
「空を飛ぶこと自体は怖くない。私だって、何度か飛行機に乗ったことはあるわ。
何よりも空が嫌なのは、いざ空へ行ったらそのまま、貴久さんのところへ行きたくなってしまうんじゃないか、って思うから。空へ行くということは、貴久さんのところへ近づいていくってことでしょう? 貴久さんのすぐ近くへ行ったら、私、私――」
「…………」
ついに涙を流し始めた天音さんに、俺は何も言えなかった。
「……ごめんなさい、急に泣き出して。貴好くんは強いのね、私はすぐに泣いちゃうのに。
――貴好くん、私、頑張ってみようと思う。いい加減立ち直って、強い気持ちを持ちたいから。いつか、私を高く高く、空へ連れて行って」
「……任せてください」
「ありがとう」
俺の胸は熱く、きつく、苦しく、いまにも破裂しそうだった。
《5》
頭にかけていたゴーグルを下ろし、自分の気持ちにスイッチを入れる。
すぐ傍には、大切な人がいる。
空の向こうでは、同じ憧れを抱いた同士が見守ってくれている。
操縦桿に手をかけたところで、ふと、このフライトが間違いなのではないかと思えてくる。俺にしかできないことを決心してやっているというのに、なぜか、この先に大きな過ちと虚無が待っているような気がする。
だが、そんな雑念はすぐにふり払う。一度空へ飛び立ってしまえば、あとは自分たちだけの世界だ。つまらない後先など考えて、この大空を晴れ晴れと飛び回れるものか。何が待っていようと、俺は乗り越えられる。乗り越えて見せる。
前を向き、睨むようにその先の大空を広々と見つめる。
振り返る必要などない。大切な人がいまさら涙を流すはずはない。
さあ、テイク・オフ。
高く、もっと高く、兄のいる空へ――
《3》
部屋で美しく眠っていた。
俺はそっと静かに近寄り、顔に手をかざす。
呼吸はない。
恭しく慎重に手を取って、脈を計る。
脈もない。
すでに全身が冷たい。
「天音さん……」
大声を出したり、揺すぶったりして起こそうとは思わなかった。もう起きないことは解っていたし、もし起きる可能性があったとしても行動を起こす勇気はなかったのだろう。
しばらくは動けなかったが、ようやく動悸の落ち着いた俺は立ち上がり、周囲を見回す。探していたものは、天音さんのすぐ近くに転がっていたので、見つけることは容易かった。拾い上げると、なるほどこれは危険な薬物だ。
息を吐き、心臓を黙らせる。
仕方がなかったのだ。
天音さんは、どうしようもなく辛かったのだ。
俺にとって、美しい姿のままで逝ってくれただけ救われた気分だ。首吊りや飛び降りなど、醜く変わり果てた天音さんを見ないで済んだのだから。
部屋を出るため、開けたままのドアへ踵を返す。
「…………」
俺は、念のため小瓶についた指紋を拭きとっておいた。
《4》
せっかく立ち直る光が見えてきたというのに、すべてが水泡に帰してしまった。
俺には何もできなかった。それどころか、大変な重圧を与えてしまった。
天音さんは、耐えられなかったのだ。我慢できないと感じたのだ。
空へ行くこと、つまり――
兄の近くへ行くことに。
***The Next is:『薮の中』