解毒の契
Author:稲葉孝太郎
嵐の夜だった。雨が簾のごとく降り注ぎ、冒険者たちの旅路を阻んでいた。続々とログアウトする者たちを尻目に、幾人かの冒険者はこの雰囲気を楽しもうと、場末の宿屋に集っていた。無論、それほど酔狂なユーザも稀であり、一階に備え付けられた飲み処のカウンタ席に二人、テーブル席に一人、男たちが腰を下ろしているばかりであった。
雨風の音をBGMにして、カウンタの男たちは品のない話題に花を咲かせていた。ただひとり、竪琴を持ったベール帽の吟遊詩人だけは、少し離れたところでこのゲームのOPを奏でていた。それは男たちの笑い声に入り交じり、ぽろぽろと合間を漂っては消えていく。
「おい、女将ッ! 酒ッ!」
角兜を被った大男が、唸りながら杯をテーブルに叩き付けた。食器棚に背を預け、両腕を組んで外を眺めていた女は、つまらなさそうに酒を注いで回った。彼女はこの巨大なVRMMOの中で、宿屋の主人という定住職を務めていた。それは職業選択の自由であり、彼女の素性を訝る者もいない。ただ変わり者と指差されるだけだ。他の冒険者の寝泊まりを世話する仕事など、回線料の無駄だと誰もが思っていた。現に多くの宿屋は、人間ではなくBOTによって営まれている。
女将は酒を注ぎ終えると、瓶を棚に戻し、自分もまた同じ場所へと戻った。カウンタ席の男たちはしきりに小突き合い、椅子を揺らしながら笑い転げた後、ふいに押し黙った。……話が種切れになってしまったのだ。沈んだ男たちの声と入れ替わるように、竪琴の音が場を支配し始めた。女将は目を閉じ、眠るようにその調べに聴き入っていた。
「……女将、何か面白い話はねえか?」
盗賊職風の痩せこけた男がそう尋ねた。女将は、かすかに眉をひそめる。
角兜の男が、カウンタを逞しい右腕で軽く打ち鳴らした。
「女将ッ! まだネンネの時間じゃねえぞッ!」
「……起きてるよ。少しは静かに飲みな」
場を沈黙が覆った。客が機嫌を悪くしたのではない。女将の鋭い語気に、男たちは返す言葉がなかったのだ。二人は気まずそうにお互いを見合った後、杯で唇を潤す。再び竪琴の音色だけが充ち満ち、軽快な雨音がそれに続いていた。
静寂。その二文字でしか表現できないような空気を破り、盗賊が再び口を利いた。
「なあ、女将……。こうも男ばかりじゃ、話のネタも尽きるってもんよ。ここはひとつ、何か面白い話を聞かせてくれ。あんた、このサーバは長いんだろ?」
返事はなかった。盗賊は下唇を押し出し、大げさに額をしかめた。こうなったら、この前町中で引っ掛けた女盗賊の話でもするか。男がそう思った矢先、女将は口を開く。
「昔、このサーバがまだレヴィデスと呼ばれていた頃……」
「レヴィデス? そりゃβ時代の……」
角兜の言葉に合わせて、女将は瞼を上げた。そして氷のような瞳で二人を一瞥した。
「人の話は黙って聞きな。お伽噺に口を挟んでいいのは、寝る前のガキだけだよ」
「す、すまねえ……」
角兜は杯を置き、叱られた子供のように縮こまった。女将はそれを良しとし、再び目を閉じると、嵐を背景に昔語りを始めた。
「まだこのサーバがレヴィデスと呼ばれていた頃、冒険者たちは手探りでシナリオを開拓していたもんさ。ほとんど試験運転のような毎日で、強制切断、アイテムバグ、ショートカットと、そりゃ何でもありだったね。もちろん、見つかったらペナルティを喰らうけど、何のことはないのさ。悪党がそこら中にいたよ。初心者を騙してレアアイテムをくすねる詐欺師から、冒険もせず女キャラに声を掛けまくるナンパ野郎まで、選り取りみどりだった。だけどそんな連中を尻目に、大勢の冒険者たちはランキング入りを目指してたんだ」
「ランキング入りね……今じゃこのサーバも、ただのソーシャルゲームだがな……」
角兜が感慨深げにそう独り言ちた。女将はそれを無視して、先を続ける。
「これはね、ひたすらにランキングトップを目指した、ひとりの少年の物語さ」
○
。
.
少年は苦しんでいた。ウロボロスの巣へ迂闊に踏み込んだことを後悔していたんだ。レベルも技能も、装備もアイテムも、何もかもが足りていなかった。そのことを一番良く知っていたのは、当の少年自身のはずだった。だけど登録して間もない頃にありがちな、焦燥と功名心が、少年の判断を鈍らせちまってたんだよ。
少年は死にかけていた。魂が消えてなくなるわけじゃないさ。死ねば意識は現実世界へと連れ戻され、通信ベッドの上で目を覚ますんだ。ひとつペナルティがあるとすりゃ、登録IDの抹消だよ。試運転を始めたサーバの常で、レヴィデスは過剰な登録待ちに悩まされてたからね。体験の機会は平等に与えられなければならない。そんなこと、どこのどいつが言い出したのやら……。くだらない販促の下に、死はゲームオーバの烙印を押されていたんだ。
運良く抽選を引き当ててから三日目。少年の冒険は早くもバッドエンドを迎えようとしていた。
「誰か……毒消しを……」
わずか五アスで買える消耗品。現実通貨に直してもパン一個にも満たない額さ。ただそれだけの節約が、少年から希望を奪おうとしていた。
少年は死にたくなかった。リセットボタンを押すように、もがき苦しんでいた。そのうち視界が霞んできてね。少年がアカウントの喪失を覚悟した瞬間、ふと誰かの足音が聞こえてきたんだ。
止めを刺しに来た骸骨剣士か、それとも身ぐるみを剥ぎに来た盗賊か……。足音は早いテンポで近付いて来る。そのリズムに誘われて、少年の意識は闇の一辺と化しちまった。
……少年が目を覚ましたとき、彼はシーツの上に横たわっていた。自宅の通信ベッドかと思って身を起こすと、腹部に激痛が走るじゃないか。母親の怒鳴り声も、妹の呆れたような蔑みも聞こえては来なかった。ゲームの中だ。そう悟った少年は、スプリングに身を委ね、手鞠のように軽く跳ね上がってみた。
あれは夢だったんだろうか。それにしちゃ、しくしくと胃が痛むじゃないか。毒の後遺症さ。夢じゃなかったんだ。そこまで苦しみを再現する必要があるのか、少年は不思議に思ったね。もしあるなら、そりゃ妙なリアリティくらいだろうよ。……まあ、管理人の気紛れと言えば、それまでなんだけど。
少年がそんな詰まらない思念に耽っていると、ふいに部屋の扉が開いた。窓から射し込む陽の光に透けて、ひとりの青年が敷居を跨いだじゃないか。少年は彼の名前を知らなかったよ。顔を見たこともなかった。ひとつ気付いたのは、その肩幅と白いチュニックから覗く胸板が、冒険者のそれだってことくらいかね。
「もう目が覚めたのかい?」
少年の動揺を他所に、数人の男女がぞろぞろと部屋へ雪崩れ込んで来た。
「もう、じゃねえだろ。いつまで寝てんだ、このガキは」
髪を短く刈り揃えた細身の男が、ぽりぽりと頭を掻いた。少年は痛みに耐えて上半身を起こし、突然の団体客に視線を走らせる。……知ってる顔はそこにはなかったね。さっきの青年と丸刈りの男を含めて、合計五人。そのうち二人は、若い女だった。要するに、どっかのパーティご一行様ってことさ。みな私服を着ていたから、職業は分からなかったけどね。
「毒にやられてたんだから、意識も失うさ」
と青年。その一言に、長髪の女が顔をしかめた。
「あらあら、それはわたしの魔法がヘボいってことかしら?」
女は口調だけ拗ねた真似をして、それから少年に笑いかけた。
「気分は?」
「だ、だいぶよくなりました」
少年の返答に、連中は様々な反応を見せたよ。僧侶と思しき女とリーダ格の青年は黙って微笑んだけど、他の面子はあまり面白くなさそうな顔をしていたね。もっとも、機嫌を損ねたとかじゃなくて、少年の打たれ弱さに呆れ返った風情だった。
「これからどうするんだい?」
青年の問い。【これから】が何を指しているのか、少年には霞掛かって見えた。電脳世界での予定を尋ねているのか、それとも現実世界でのプライバシを伺っているのか……。後者は失礼だろ。だから少年は前者と解釈して、ゆっくりと唇を動かした。
「とりあえず、あの洞窟に再チャレンジしようかな、と……」
少年の希望に、もうひとりの武道家らしき女が吹き出し始めた。
「再チャレンジだって? ……これだから初心者は危ないんだよ。あんた、運営の更新情報にちゃんと目を通してないだろ?」
図星だった。ログインばかりに急いて、ここ数日は新着情報に目を通すことすらしていなかったのさ。……怠けてたわけじゃないよ。日常のニュースと同じで、重要に見えて実は大したことのない情報の山が、煩わしくなり始めていたんだろうね。
少年が答えに窮していると、さっきの青年が口を挟んだ。
「あの洞窟は、三日前からランクAに格上げされたんだよ」
少年は言葉を失ったよ。ランクAと言えば、ラスダンと特殊なマップを除き、最上級の難易度に属するんだからね。そんなダンジョンに挑むことがどれほどの愚行か、初心者にも容易に察しがつくってもんさ。
「もっとレベルの低いダンジョンから始めることだね……。無理する必要はないよ」
そう言うと青年は視線を逸らし、仲間たちへと向き直った。
「それじゃ、俺たちは出発するとしよう」
その合図を待ち兼ねていたのか、冒険者たちはずらずらと部屋を後にしたよ。最後尾の青年が扉に手を掛けた瞬間、少年は思い出したように顔を上げた。
「ど、どうもありがとうございましたッ!」
青年は閉じかけていたドアを戻し、少年に微笑みかけた。
「お易いご用さ。……そうだ、これをひとつ」
青年は腰の荷物入れを開け、中を弄った。そして小さな種を取り出したんだ。それを宙に放り投げ、少年の手元へとダイブさせる。
得体の知れない小さな粒をキャッチした少年は、それをまじまじと見つめた。
「……毒消し?」
「買い過ぎてひとつ余ったんだ」
自分の吝嗇を見透かされ、少年は頬を赤らめた。素直に恥ずかしかったのさ。
「ソロのうちは、アイテムをケチっちゃダメだよ。命に係るからね」
青年が礼も待たずに部屋を出ようとしたので、少年は大急ぎでこう尋ねた。
「お、お名前は?」
緊張で声が裏返っちまってた。
だけど青年は振り向きもせず、ゆっくりと扉を閉めたのさ。
○
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嵐は続いていた。角兜の男はぐいぐいと酒を喉に流し込み、口元を拭った。
「ずいぶん冷てえ野郎だな。名前ぐらい教えてやりゃいいのによ」
男はまるで自分のことのようにそう呟くと、女将に杯を差し出す。もう一杯。無言の注文を受け取った女将は、酒をなみなみ注ぐと、それをカウンターに押し返した。
男は杯を手にし、窓の外を眺めた。雨脚が弱まる気配はない。
「……で、話の続きは?」
催促したわけではなかった。男は何となく、広間の沈黙に耐えられなかったのである。女将もそれを察したのか、すぐに先を続けた。
「少年が命の恩人と再会したのは、それから間もなくのことだった。ある日……」
物語の出だしに、角兜の男はその太い眉を持ち上げた。
「よく再会できたな。β時代でも、登録人数はそこそこ……」
「黙って聞きな」
女将の叱咤に、角兜は「ふん」と鼻息を荒げた。だが興味深そうに耳を傾けている。
それを確認した女将は目を閉じ、再び物語へと立ち返っていった。
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少年が命の恩人と再会したのは、それから間もなくのことだった。ある日、月間ランキングの表彰式があって、少年も興味半分に顔を出したのさ。今みたいに盛大に行われるイベントじゃなかったけど、それでも城の前は大勢の冒険者たちで賑わっていた。
黎明期のサーバは大らかなもんでね。「自由参加のイベントでは前列を上位者に譲る」なんて面倒な暗黙の了解もなかった。だから少年はなるべく早く来て、最前列を陣取ることにしたのさ。別にそんな面白いイベントじゃないんだけどね。他人が表彰されてるだけで、参考になると言えば、装備品とかファッションセンスとか、そういうことぐらいだし……。
まあ、初めてのことで期待してたんだろうね。少年が楽しんだのかどうかなんてことは、この際どうでもいいさ。式はβ版にありがちな手際の悪さで、ちんたらちんたら進んで行ったよ。そしてとうとう、月間最優秀チームが呼び出された。
「月間最優秀チーム、エンテレケイア、三百七十二ポイント獲得ッ!」
……少年は顎が外れるほどびっくりしたよ。だって、自分を助けてくれたあの青年と仲間たちが、壇上に現れたんだからね。
少年は頭がくらくらしてきた。表彰されているあの青年が、まるで太陽のように輝いて見えたんだ。自分もあんな冒険者になりたい。ただの気晴らしで始めたVRMMOが、少年にとって本当に活躍したい場になった瞬間さ。
で、ここから長い冒険話が始まるわけだけど……そこは全部飛ばすよ。他人の努力譚なんて、聞いても面白くないだろうからね。
少年はどんどん上達していった。仲間にも恵まれて、ランキングはまさにうなぎ上りってヤツさ。登録人数が今みたいに絶望的じゃなかったのもあるんだろうね。現行サーバでランキング入りするには、廃人じゃなきゃやってらんないよ。……っと、脱線しちまったね。
半年も経った頃には、少年のチームはベスト五を出たり入ったりしていた。後はもう運の勝負さ。新規ダンジョンがどこに出るか、ボスとの相性はどうか、アイテムの仕様変更が吉と出るか凶と出るか……。だけど、エンテレケイアを抜いたことは一度も無かったよ。少年が二位なら、あっちは一位。あっちが三位なら、少年は四位。そんな気の滅入るマラソンを続けていたとき、それは起きたんだ。
「不正アクセス?」
宿屋で休息を取っていた少年は、新しいダンジョンの位置を確認しながらそう尋ねた。視線の先には、このサーバで最初に知り合った女僧侶の顔が浮かんでいた。
「さっきギルドで耳にしたんだけど、プログラムの穴が見つかって、不正アクセスが横行してるらしいの。他人のIDをチェックできたりもするらしいから、被害の予測がつかないんだってさ」
少年はあんまり興味がなさそうだった。バグ技にも興味がないような純情な冒険者だったからね。能天気とか天然なんて言うヤツもいたけど……。
少年が関心を示さなかったんで、代わりに仲間のシーフが口を挟んだ。
「でもよ、見つかったらアカウント削除なんだろ? ……そこまでするか?」
「ハイリスクハイリターンだから、悪用するプレイヤが後を絶たないのよ。このサーバなんて所詮はβ版だし、運営の仕方も雑でしょ。正規版なら、とっくにメンテナンスが入ってるはずだもの」
それでも少年は地図に見入ってるんで、僧侶は怒って肩を突ついた。
「ちょっと、他人事じゃないのよ。もし違反者がランキングに滑り込み始めたら、私たちなんてあっと言う間に圏外だわ」
「それはさすがに管理人が見逃さないんじゃないかな……」
少年は馬耳東風でそう答えたよ。僧侶は肩をすくめるしかなかったね。
「今は明日のダンジョンの準備が先だよ。エンテレケイアの方から協力を申し出てくれるなんて、滅多にないんだから」
そう、少年の心は曇りなく明日の冒険に向けられていた。仲間が二名ほど麻疹でログインできなくて、彼と僧侶、それにさっきのシーフしか残っていなかったのさ。だったら休めばいいだろうと思うかもしれないけど、そうはいかないんだ。なんせ、少年のチームは月間暫定トップを走っていたんだからね。それに対して、エンテレケイアは三位。千載一遇のチャンスが巡って来たってわけさ。
だけど、まだ順位が確定したわけじゃない。次の最終ダンジョンで、どれだけポイントを稼げるかが勝負だった。とはいえ、三人で最終ダンジョンに挑むなんざ狂気の沙汰さ。臨時で誰かを雇おうにも、ギルドで勧誘できる冒険者に大したのはいないだろ。そこへ助け舟を出してきたのが、ライバルであるはずのあの青年だった。
少年は少しばかり緊張してたよ。恥ずかしい冒険はできない。そう思っていた。
「じゃあ、もう一回装備と連携を確認しよう。まず僕が前列で……」
夜更けまで作戦会議が続き、少年たちはようやく眠りについた。そして陽が昇り、彼らは約束の集合地点へと急いだよ。
ところがどうだい。集合時間になっても誰も来ないんだ。少年は気にしてなかったけど、他の仲間は不安になっていた。そしてシーフがこう言ったのさ。
「なあ、俺たち騙されたんじゃないか?」
シーフの聞き捨てならない台詞に、少年は前を見つめたまま答えた。
「そんなはずないよ」
「協力なんてただの口約束なんだぞ? 破ってもペナルティはない。もしエンテレケイアの奴らが、約束をすっぽかして別のダンジョンに潜ってたらどうする? ……一気にポイントが逆転しちまう」
少年は何も言わなかった。ひたすらに前を、空を見つめていた。初めてこのVRMMOに転送されたとき、少年はこの空の青さに驚きとときめきを隠せなかった。そんなことを思い出しながら、少年は待ち続けた。
どうなったと思う? ……来たんだよ、あの青年が。少年は微笑むと、森の奥から小走りに現れた青年と握手した。
「ジェイスさん、今日はありがとうございます」
「遅れてすまない。……早速ダンジョンに潜ろう」
少年は背後を探った。……青年は独りきりだった。
「……他の方は?」
少年の問いに、ジェイスは少しばかり気まずそうな顔をした。
「ちょっと事故があってね……俺しか参加できないんだ……」
「何ですってッ!? 回復役が私しかいないじゃないッ!」
少年サイドの僧侶がそう叫んだ。確かにこいつは予想外で、しかもトラブルだったよ。昨晩の打ち合わせが、全部パーになったんだからね。少年たちの計画によれば、回復を僧侶二人で厚くして、その代わり男性陣は回復アイテムを持たないという算段だったのさ。
僧侶が顔を赤くして怒っていると、少年は片手で彼女を制した。
「とにかく潜りましょう。残り時間がギリギリです」
四人はダンジョンへと向かった。出だしは順調だったよ。まあ、ランキング暫定トップと三位のリーダが参加してるんだ。手こずるわけがないのさ。
だけどね、後半になると雲行きが怪しくなってきた。僧侶のMPが尽きてきたんだ。そうこうしているうちにシーフが脱落して、僧侶もへとへと。もう低級魔法も唱えられない状態になっていた。こうなると魔法使いはただの置物だよ。
だけど少年は頑張ったさ。ジェイスのアシストも完璧で、奇跡的にボスまで辿り着けたんだ。ボスは洞窟ダンジョンにありがちなワーム型生物で、これがかえって好都合だったんだね。特殊攻撃は防具とアクセサリで無効化できるし、パンチ力はドラゴンなんかと比べて大したことがない。回復役がいないにもかかわらず、少年とジェイスのコンビはボスを追い詰めていった。
「ジェイスさんッ! とどめをッ!」
「いや、とどめは君が刺せッ!」
美しい友情……と言いたいところだけど、このやり取りが不味かった。ボスの最後のひと吹きで僧侶がパーティから離脱しちまったんだ。こうなったらなりふり構ってられないよ。少年とジェイスは協力してとどめを刺した。
「し、しまった……アイテムが……」
回復アイテムの類いは全部、飛ばされた僧侶の袋に入れてあった。装備をできるだけ軽くする工夫だったけど、こうなると悪手だね。そしてさらに悪いことが起こったのさ。
「ぐッ……!」
意識がいきなり揺らいだんだ。ワームの毒気に当てられたのか、それとも下級モンスタの不意打ちにあったのか……。少年が地面でもがいていると、壁のくぼみから声が聞こえた。
「道中ご苦労さん。ずいぶん待ったぜ」
くぼみから出て来た男の顔に、少年は見覚えがあった。……暫定二位のチームを率いているヤツだ。急成長したチームだったから、少年も警戒はしてたんだけどね……。男は手に針のようなものを持っていた。その正体に気付くまで、少しばかり時間が掛かったよ。
「ど、毒針ッ……?」
「こんなオモチャでやられる冒険者はまずいねえが、そこは最適化の罠だよな。……僧侶に任せきりで、回復アイテムを持ってないんだろ?」
男は洞窟の最新部に輝く、銀色のオーブへと手を伸ばした。
「悪いが、ここの秘宝は俺がもらっていくぜ」
「窃盗はペナルティだぞッ!」
ジェイスの怒声。男は振り向き、腰の鞘に手を掛けた。
「窃盗じゃねえ……対戦後の戦利品さ……」
こんな小悪党、普段のジェイスなら一撃でのしただろうね。だけど、ボスとの戦闘で満身創痍なのさ。もはや他の冒険者と闘う余力は残ってなかった。
「そもそも四人でダンジョンに潜ろうってのが悪いのさ。……あばよ」
男が剣をジェイスの胸に振り下ろした。だけどそれよりも早く、少年の短剣が男の背中に突き刺さったんだ。
「な……ぜ……?」
男は口から血を流し、ぐらりと一回転してその場に倒れた。……死んだんだ。
驚いたのは刺された男だけじゃなかった。助けられたジェイスも目を見開いてたよ。
「きみ……どうして……?」
少年は、齧ったばかりの毒消しを差し出して見せた。ジェイスはそれをしばらく見つめた後、ようやくその出所を悟った。
「そうか……これは僕がプレゼントした……」
少年はあのときの毒消しを、宝物にしていたんだよ。命の恩人からの貰い物としてね。
少年はオーブに触れ、そしてポイントを得た。……少年のトップが確定した瞬間さ。
「ジェイスさん、今日は本当にありがとうございました。このお礼は……」
「いや、お礼はいいんだ……。今日が最後だからね」
少年は耳を疑った。引退。それは日頃からよく耳にする言葉だったよ。だけど、それが目の前にいるジェイスの口から飛び出すとは、夢想だにしてなかったんだね。
「そんな……まさか引退するんですか……?」
「いや……アカウントバンだよ……」
「アカウントバン……? なぜ……?」
「不正にログインしたからさ。……おっと、そんな目で見ないでくれよ」
ジェイスの映像が霞んだ。
「なんであいつが俺たちの行動をチェックできたと思う? ……単純さ。不正アクセスをしてたからだよ。俺たちの会話を盗み聞きし、そしてエンテレケイアのメンバがアクセスできないようにIDを封印してしまった。だからここへ来るのに、俺も不正アクセスをするしかなかったんだ」
「そんな……そんなことしてまで……」
「トップを取る価値がない……かい? 俺は今でも覚えてるよ。初めて月間ランキングで表彰されたときのことをね……。本当に嬉しかった……。だから君にも、その喜びを味わって欲しかったんだ。……同じ冒険仲間として」
「でも……トップになる機会ならこれからも……」
ジェイスは悲しげに首を振った。
「ないよ。……きみを見くびってるわけじゃない。だけどね、このサーバは来月から拡張されて、登録待ちのユーザが雪崩れ込んで来るんだ。そうなったらもう終わりさ。俺たちみたいな、現実社会とゲームを行き来してるプレイヤの出る幕はなくなる。ランキングは廃人で埋め尽くされ、業者やBOTが横行する。……要するに、冒険は終わりなんだよ」
少年の瞳から、涙が零れ落ちた。それは憧れの人が引退するからでも、ゲーム環境が変更されるからでもなく、ただ全てが空しかったという、胸がからっぽになるような悲しみだった。
少年が嗚咽する中、ジェイスは彼の肩に手を置いた。その腕が再び霞んだ。それは少年の涙のせいだったのかもしれない。
「泣くなよ。別れに涙は禁物だ。……それに、考えてみろ。トッププレイヤが名もない少年を助け、その少年がトッププレイヤになる。……こいつはちょっとした伝説さ」
「僕は……僕は伝説になりたかったんじゃない……。あなたのことを愛……」
ジェイスは少年の涙を拭い、そして髪を撫でた。
「知ってたよ……。そういうのは、長くやってると分かるんだ……」
ジェイスの映像が本格的に乱れ始めた。液晶が狂ったようにブレる。
「もしまた会う機会があったら、リアルな君にお会いしたいね。……さようなら」
ジェイスは消えた……。そして少年の冒険もまた、終わりを告げたのさ……。
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嵐は止んでいた。それどころか夜もまた、星々とともに何処かへ消え去っていた。
女主人は語り部を終え、窓の向こう側に広がる朝焼けをそっと眼差す。
「……ちょうどいい。メンテナンスが終わったみたいだね」
彼女はそう言うと、角兜の男から杯をひったくり、後片付けを始めた。
角兜が躊躇いがちに声を掛ける。
「おい、女将……」
「今日はもう仕舞いだよ」
「いや、とりあえず礼を言っとくぜ……昔話のな……」
「……別に構いやしないよ」
女将はそれだけ言うと、杯を洗い場に浸した。
角兜の男はしばし手持ち無沙汰にした後、意を決して女将の背中を見やる。
「なあ……ひとつ質問していいか……?」
「何だい? 酒代なら二人で三十アスだよ」
「変な質問なんだが……そいつはホモだったのか?」
杯を洗う女主人の手が止まった。
「……違うよ。ナンパが嫌で、性別を偽って登録したのさ」
「ああ、なんだ、そういう……。ん、あんた、何でそれを……」
「さあ、今日はいい天気だよ。宿屋にゃ嬉しくないがね。金を払ってさっさと出てった」
角兜と盗賊は割り勘で金を払い、そして荷物を纏めて席を立った。
「それじゃ、仕事に行ってくるぜ。……また来るかもしれねえな」
「仕事? 冒険じゃないのかい?」
角兜は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「へッ、ランキング五桁の男が、冒険なんておこがましいや……。剣を研いで売って、その日の稼ぎで酒を飲む。……リアルと何も変わらねえな」
「……そうだね」
扉が開く。広間が朝風に清められ、女将はふと水仕事の手を休めた。
「ドアは開け放しといておくれ」
角兜たちは閉めかけた扉を戻し、ついにその姿を消した。
女将は、広間にただひとり残った詩人へと向き直る。
「さあ、あんたも宿代を払って出発しな」
詩人は竪琴の弦を弄びながら、窓の外を見つめて答える。
「……ひとりで、ですか?」
「当たり前だろ。……なんだい、新手のナンパかい? そういうのは大嫌いだよ」
憤る女将を他所に、詩人は椅子から立ち上がり、そしてベールを脱いだ。
時間が止まる。時計の針を巻き戻すように、詩人は震える女将の手を取った。
「再登録まで時間がかかってしまってね。……きみはあいかわらず泣き虫だな」
雨上がりの電脳空間。今日はまさに、冒険日和であった。
ミステリ仕立ての恋愛話です。元ネタは上田秋成の『雨月物語』に収録されている「菊花の約」。原作自体は友情ものなのですが、拙作は関係性を恋愛に置き換えました。もしお時間があれば、ぜひ「菊花の約」をご一読ください。同性愛関係の仄めかし、約束を果たすための献身などは、全て原作に依拠しています。
推理要素はそれほどないのですが、語り手=本人と、詩人=登場人物という二重の人物当てがメインになっています。個人的に趣向を凝らしたのは、「何が謎なのかが見えにくい」というあたりでしょうか。「何で語りがこんなに詳しいんだ?」という点に気付けば、女主人の謎については明らかになると思います(VRMMOならではのトリックですね)。詩人の方については、「短編ミステリに余計な登場人物は存在しない」という前提から、位置づけを試みる趣向です。
***The Next is:『話し合い』