日本語に魅せられた男
Author:末吉
謎とは、疑問に思ったものである。
言葉とは心理を表すものである。
言葉とは感情を表すものである。
言葉とは理解するものである。
言葉とは違いを生むものである。
言葉とは不思議を体験できるものである。
これは、そんな言葉に魅せられた男の過ごす一日の話である。
時刻は早朝四時。一月であるこの時期では朝日など昇っておらず、大学で飼っている鶏ぐらいしか起きていなかった。
……はずなのだが。
「教授ー! 起きてくださいよ教授ー!! そして開けてくださ~い!」
一人元気に目の前の扉をノックしている女性がいた。
その女性の顔はとても可愛らしく、パチリとした大きな目、その目に合わせて大きく弧を描く眉、彫はそこまで深くなく、唇はうっすらと桜色。
身長は百六十に届くかどうか。胸は僅かばかり膨らんでいる。
そんな体型な上に声までどこか幼いので、誰が見ても子供にしか見えなさそうだ。
一月だというのにスカートを穿いている彼女は、やはり寒いのかノックする回数を増やした。
「開けてくださいよー。寒くてここにいたくないんですよー」
だんだんと力を強めていく女性。
ちなみに、ここは大学内にある学館の、教授たちの部屋が連なる場所。この時間帯では周りの部屋にあまり人などいないのだが、彼女がノックする部屋だけは別だった。
いくら建物内部とはいえ今は一月。その上朝の四時にスカート。
どう考えても寒いに決まっているのだが、彼女自身は部屋に入りたいのか気付いていない。
ある程度ノックしていたのだが次第に腕が疲れたのかやがてノックするのをやめ、ドアに背中を預けて彼女はか細い声で言う。
「……開けてくださいよ、お願いですから……。本当に、お願いですから……」
しかし部屋から何の反応も返ってこない。ただただ静寂なだけである。
しばらく彼女はそうしていたが、だんだん怒りが込み上げてきた。こんな朝早くに学校に来て会いに来たというのに、まったく反応なし。ただの待ちぼうけだ、と。
これに関しては実のところ彼女が悪い。
彼女が緊張して早く目が覚めたので学校に来、教授に会いに来てしまったのだ。
何度も言うがさすがに今は朝の四時。大抵の人が寝ている時間帯なのだから反応がないのは当たり前なのだが、どうもそのことすらぽっかり頭から抜けているようであった。
とうとう彼女は怒った。
「もう! 教授なんて知りません!! それでは!」
そして彼女は帰ってしまった。
それから四時間後。
女性がいた部屋の中から、一人の男性がとぼとぼと出てきた。
その男の身長は百八十を超えているようだが、猫背なのか腰が少し曲がっており、とてもそんな風には見えず、顔立ちはボサボサの髭とボサボサの髪のせいであまり清潔感がない。ただ、よぼよぼの目と欠伸をしているところを見ると、どうやら寝起きのようだ。
「う~ん」
彼は天井にぶつけないように腕を伸ばす。
「あーよく寝た」
そう言いながら腕を下ろす。部屋の前に女性がいた事など気付いていないようだった。
彼はそれから少し準備運動をし、意識が覚醒したのか背筋は伸びて顔はシャキッとなり、其のまま歩き出した。
「さて、学食へ行こう」
そんなことを呟きながら。
学食に着いたその男は、券売機で醤油ラーメンの券を買って調理場の方へ向かう。まだ一月だというのに白衣とジャージという、豪く寒そうな格好をしていた。
その男は調理場で準備をしている割烹着のおばちゃんの前まで行くと、その件をテーブルに置いて言う。
「これで」
「あいよ」
券を受け取ったおばちゃんはそれを籠に入れ、「先生がまた醤油ラーメンだってよ!」と声を調理場に張り上げた。
調理場では了解! という声が。それを聞きながら、おばちゃんは男の顔を見るように顔をあげてから言った。
「先生。いい加減家に帰らないのかい? 家賃とかあるでしょうに」
男はあくびをしながら言う。
「そうは言ってもですね、俺には住む家がありませんし」
「借りればいいじゃないか。近くには職員寮もあるんだから」
毎度仕込中に朝食を食いに来るな。そんな気持ちを顔には出さないようにしながらおばちゃんはそういうと、男はこう返した。
「あっちはもう満室ですよ。それに、学校側から許可は取っているので問題ないはずですが?」
そこから少しの間睨み合いが生じたが、奥のほうから「醤油ラーメン上がり!」という声がしたので二人はふぅっ吐息を吐いた。
「まったく。朝から疲れるよ、あんたの相手をしてると」
「疲れてるなら疲労回復用マッサージ器をあげますけど?」
「本当に疲れるよ! さっさと食べてその機械もってきたら授業行きな‼」
文脈として前後のつながりがなってない……、などと呟きながら、自身が頼んだ料理を押し付けられて席を探す男。
まだ人がいないので席はどこも空席なのだが、彼はなぜか一番奥のほうの隅っこの席まで移動して、座った。
「いたただきます」
ラーメンを前にして両手を手に合わせて律儀にいう男。それから端を手に取り、ラーメンをすすっていく。
「朝からラーメンが食えるっていいよなぁ、本当」
そんなことを呟きながら嬉しそうに食べ進めていると、「前、いいですか?」という声が聞こえた。
いつものことなのか、男はどんぶりから顔を離さずに「いいですよ」と答えた。
男の前に座った女性は、手に持っていたコーヒーをテーブルに置いて尋ねる。
「またラーメンですか? 本当にお好きですね、路信先生は」
「……」
しかし食べることに夢中のせいか、その声には反応しなかった。
そして毎度のことなのか、彼女もまた返答を聞かずにコーヒーを一口飲んだ。
男――路信の前に座っている女性の名は新島小枝子。
彼女は路信と同じでこの大学の教員である。ただし、彼とは立場が違い助教授ではあるが。
そんな彼女の容姿やスタイルは、大学内でも話題である。
艶やかで流れるような長い黒髪、透き通るような白い肌、冷たそうな細い目をしながらも、笑顔がとても素敵、括れがありウエストは細いと美人で名高い先生である。
小枝子はコーヒーの入ったカップを再びテーブルに置き、路信に目を向ける。すると、彼はどんぶりから顔を離したところだった。中身がなくなっているのを見ると、汁まで飲み干したようだ。
満足げな路信に、小枝子は笑いかける。
「おはようございます、路信先生」
「あ、おはようございます新島先生」
多くの男性が彼女の笑顔を見ると虜になるのだが、路信は付き合い上の笑顔だろうなぁとしか思っていなかった。
「今日もラーメンですか。本当にお好きですね」
「ええ。毎日ラーメンでも生きていけますよ」
そう言うと同時に席を立つ路信。丼が乗ったお盆を持っているので、どうやら片づけるようだ。
それ見た小枝子は一緒に席を立とうとしたが、路信に「もう少しゆっくりしたらどうです?」と言われ、立つことが出来なかった。
彼女が動かないのを確認すると、路信は食器を片づけに向かった。
残された彼女はというと。
「……本当に鉄壁ですね、路信さんは」
コーヒーを一口飲んでからそう呟き、ハァッとため息をついていた。
食器を片付け終えた路信。それから先ほどの場所へ戻るのかと思ったが……そのまま自室へ戻ってしまった。
「今日は一限とメンテとメンテと四限か……空いてる時間が殆どねぇがこういう契約だし、仕方ねぇよな」
壁に貼られたスケジュール表を見て呟く路信。それから彼は授業の準備をして、マッサージ器をどこに置いたかを思い出していたら、ベルが鳴った。
「やべっ、授業授業」
ベルに気付いた路信。準備した教材を手に持ってドアを開け、鍵もかけずに教室へ向かった。
彼が出て行った後、ドアの鍵がカチャンと音を立てて閉まった。
ここ、私立幹倭の城大学は一風どころではない、変わった大学である。
具体的にいうと、土地が広大でその中に農学部・工学部・文化学部・医学部が存在しているのである。
そのせいか学部と学部の境界線に寮があったり、移動時はバスが運行していたりしている。
また、さまざまな学部が存在しているため在学人数も多く、毎年二千人近くの人間がこの学校に通っている。
ついでにいうと先生は基本的に自宅から来ており、生徒は大体が寮で生活している。
路信はというと、文化学部の研究室に居を構え、自身の研究しているテーマを教えている。
それは彼がこの学校で教鞭をふるう条件の一つだが……今ここで話すと長くなるので別の機会にしよう。
場面は戻り、ここは路信が授業で使う文化学部二階のある教室。
各学部構造は大体同じで、全五階構造の内、一階から三階までが教室、四階と五階が先生たちの研究室となっている。
生徒たちは先生が来ないので隣の人たちと雑談している。路信がベルの前に来ないことなど毎度のことなので、誰も注意をしなかった。
が、一部の空間だけはやたらと静かだった。ただ一人を除けば。
「信じられない! 教授ったら、せっかく朝四時に行ったのに開けてくれなかったんだよ!? 早く来てもいいぞって言われたから行ったのに、ひどいと思わない⁉」
「そ、それはいくらなんでもあんたが早すぎたのが原因でしょ。ふつうは寝てるわよ、その時間」
「教授だったら起きてるかもしれないじゃん!」
「なにで?」
「研究に没頭してとかで!」
先ほどから怒りながら文句を言う少女の名は、内藤瑠依。朝四時から路信の部屋に押しかけようとした、何ともそそっかしい人物である。
その隣で愚痴ともとれる文句を聞いている少女の名は、佐々木紗枝。瑠依の親友であり、気苦労が絶えない人物である。
教室には三十人ほどの生徒がおり、二人は窓側の奥のほうに座っていた。
文句が止まらなそうだと思った紗枝は、頬杖をついて窓の外の景色を見てつぶやいた。
「……だったら結局、入れてくれなかったんじゃない? あの先生、自分の研究に他人をあまり巻き込まないから」
「うっ」
そういえばそうだったと気づく瑠依。そんな彼女に紗枝が追い打ちをかけようとした時、路信が教室に入ってきた。
「悪いな。毎度授業に遅れてきて」
そんなことを言いながら。
もちろん、毎度のことなので生徒たちは気にしない。
彼が遅刻することなど当たり前の事だからだ。
「じゃ、さっそく先週の復習をするぞー。霧内、どこまでやったか覚えてるか?」
「え、えっと……」
「はい正解が出るまで空気椅子なー。次、呉屋」
「えっ! えーっと、言葉の歴史、ですか?」
「惜しい。正解出るまで立ってろ。じゃ、次は……」
そうやって生徒を指していると、奥の方で元気に手を上げている生徒が「教授ー私を指してくださいよー!」と雰囲気で出しているのに気付いたが、路信は完全に無視して別な人にした。
「次、叶」
「はい。言葉の歴史と日本語の成り立ちです」
「正解。霧内と呉屋は座っていいぞ」
そう言って黒板には「日本語の表現過多の理由と受け取り方」と書いていく。
「はい。シラバスに書いてある通り、今日からしばらく此れな」
一人だけ膨れっ面がいたがそんなことを気にせず進める路信。
彼は決して甘い先生ではなかった。
「まずは日本語の表現過多の理由から。日本語には、同じものを指すが言葉が違うものが多々存在する。例を挙げるなら、『母親』と『お母さん』だったり。『切る』と『斬る』だったり」
そう言いながら『母親』の隣に『お母さん』と書き、『切る』の隣に『斬る』と書いた。
「他にもまだたくさんあるが……果たしてこれはどうしてなんだろうな? 十分でみんな考えてくれ」
そう言って彼は椅子に座り、教室を見渡す。その間彼らは路信の言ったことを忘れないうちにまとめ、それが終わった人は彼が出した問題について考えていた。
全員が考え出したとき、路信は思い出したようにプリントを配り出した。
「今配っているプリントに書いてくれ。十分経ったら回収する」
ちゃんと名前とか書けよーと呼びかける路信だが、全員無視して自分の考えを書いていた。
十分後。
「ハイお前ら回収するぞー。後ろから回してこい」
路信はそう呼びかけ、最前列の生徒に集まったプリントを回収し、ぱらぱらと教壇で見ていく。
たった三十枚ぐらいのプリントを見るのに時間をかける必要がないのか、全てをめくるだけで終わらせる路信。それらがすべて終わると、何ごともなかったかのように続けた。
「お前らの考えは分かった。そんじゃ次なー」
こうして彼の授業は続いていった。
授業が終わり。
次の授業の教室へ移動するもの、ここでそのまま授業を受けるものなどに分かれてる生徒達を尻目に、路信は回収したプリントを持って教室を素早く出る。
しかし、彼の前には二人の女性が立ちふさがっていた。
「教授ーどうして私を指してくれなかったんですかー?」
「なぁ佐々木。前々から聞きたかったんだがこいつ、自分が指されない理由に気付いてないのか?」
「紗枝は関係ないじゃないですか! 今は私が話をしてるんですよ‼」
一人の女性――瑠依が見上げて路信に悲しそうな声で質問すると、彼は瑠依の隣にいた女性――紗枝に言外にこいつは馬鹿なのかと聞いたので、瑠依は路信の向う脛を蹴ってから反論する。
くらった路信だが、特に痛がらずに先の質問に答えた。
「んだよ。お前に聞いたらすぐ答えちまうじゃん。他の奴らの理解力を試すからお前には指さないんだよ」
「あ、そうなんですか! さすが教授、他の生徒にまで気が配れるんですね!」
キラキラとした目で路信を見る瑠依。その姿はまさに昔の少女漫画に出てくるヒロイン。
そんな彼女に内心で頭を抱えながら、路信は紗枝に話しかけた。
「次の授業大丈夫か、お前ら」
「いえ、こうしてる今もやばいです」
「なら早くいけ。今のうちなら何とかなるだろう」
「分かってます」
それだけの会話で紗枝は瑠依の背中を押し始め、路信は早歩きで自分の研究室兼自宅へ戻った。
「ハァ……ったく。内藤の奴、なんであんなにポジティブなんだか。俺みたいな奴に対してよ」
戻った路信はそんなことを呟きながら先程の時間回収したプリントを資料が山積みになっている机に無造作に置き、工具箱を代わりに持つ。
それから壁に貼っていたメンテナンス表を見て場所を確認し、部屋を出た。
文化学部館から出てきた路信。
彼が最初に目指す場所は、この大学の事務館。彼が根城にしている場所から自転車で行っても三十分かかる。
にもかかわらず、校舎脇にある駐輪場へ向かいそこから一台のママチャリを押してきた。
何の変哲もないママチャリだが、荷台のところに黒い直方体が溶接されていた。
「それじゃ行くか」
彼は自転車にまたがってそう呟くと、普通に事務館へ向かった。
黒い直方体から出た炎が、自転車を別次元の乗り物に変えて。
所要時間わずか数分という驚異の時間をたたき出して自転車の損傷がほとんどないにもかかわらず、「まだ制御装置の方が……」などとブツブツ言いながら工具箱を持って事務館へ入る路信。あれほどの速度なのに体の方は何ともないことに驚きを隠せないのだが、そんなことは些末な事らしい。
「ちぃーっす」
「おう来たか。早速空調を調べてほしいんだが」
「へーい」
中に入り挨拶をすると、恰幅の良い事務員が返事と指示を出したので、それに従うように空調の制御装置の方へ向かった。
「…………あー管制システムの基盤が古いな。さっさと変えろって言ったじゃねぇか」
「使えるから使ってたんだよ」
「さっさと変えろ。そうしないとこの先冷暖房つかなくなるぞ」
「それは困るな」
工具を取り出して空調の制御装置を解体して原因を答える路信。それを聞いたその事務員が困り果てた顔をすると、ため息をついて彼は携帯電話を取り出し、誰かに電話を掛けた。
「あ、もしもし仕事中? 悪いんだけどさ、特急でサウス社の管制システムの基盤持ってきてくれない? 俺が講師やってる大学まで。え? 用事? そんなの他の奴に押し付けろよ。どうせ運ぶだけだろ? 何他にいない? そしたらお前、お得意様だったら設置されてるはずだから飛ばしちまえよ……って、何、新規? おいこらマジかそれふざけんな今から乗り込んで会社潰すぞ……ま、冗談だが」
『冗談でもそんなこと言うな! お前の言葉は全て本気に聞こえるから怖いんだよ‼』
「さっさと持って来いよ。具体的には二時間遅れるごとに代金が二千円引きになる」
『ただ働きさせる気かァァァァァ』
「じゃぁな」
一方的にいって切った後、彼は事務員に「てなわけで、空調に関しては終わりました。他には?」と訊いた。
「いや……特にないな」
「なら、基盤が届いたら連絡ください。理事長室のメンテ行かなくちゃいけないんで」
「ありがとう」
では。そう言ってお辞儀した彼は、その場を後にした。
空調システムを解体したままで。
「ったく。面倒だな……」
事務館にある階段をのぼりながらそう愚痴る路信。一歩一歩普通に上ってはいるが、それにつれてやる気が下がっているように見える。
と、三階まで上った彼は、ハァァァァと盛大にため息をついた。
「面倒」
「何が面倒なの?」
「げっ」
「何が、ゲッ、なのよ」
彼がポツリと漏らした言葉に返事があったので周囲を見渡すと、目の前に百五十満たない茶髪のショートボブ、スレンダーで表情がきついけど可愛いと称してもいい外見な女子がいたので思わず声を上げ、それに対しその女子は表情を変えないまま冷たく言い放つ。
それでさらにげんなりした彼は、「やる気なくしたから帰るぞ、理事長」と言って背を向けた。
「いや待ちなさいよ」
「待てといわれて待つバカなど現実に存在すると思うか?」
「足を止める位ならいるでしょう……って本当に戻るな!」
「はぁ……」
渋々といった形で振り返り対面(というか見下ろす形)する路信。そこから、彼は言った。
「戻っていいか?」
「いやダメでしょ。何言ってるのお……路信教授」
「年下に言われてもなぁ」
「立場的にはあたしが上だし。それに、こうやって職を与えたのもあたしだし」
「別にどこでもやっていけるんだがな」
「そりゃそうでしょうけど」
あっさりという彼に、その女子は小さい声で肯定する。その声には若干嫌味が含まれていたのだが、彼は気にせずに続けた。
「まぁ仕事だ。とりあえずお前の仕事部屋行くぞ、未来」
「って、勝手に先行かないでよお兄ちゃん!」
――――どうやらこの二人、兄妹だったらしい。
放課後。
「それでですね、今日は楽しいことがたくさんあったんです!」
「あっそう……ところで、今日はってことは、昨日は楽しいことなかったの?」
「在りましたよ何言ってるんですか! こうして教授と会える日は毎日が楽しいです‼」
「じゃぁなんで今日は、って言ったの?」
「うっ……言葉って難しいですね」
「だろ? 特に日本語は」
瑠依の言葉を訂正しながら本を読む路信。その本の題名は『日本語の増加について』。
彼は椅子にではなく床に寝転がって読んでいる。なぜかというと、そのほうが後ろに気を使わずにリラックスした状態で本を読めるからだ。
そんな彼を瑠依は備え付けてあるソファに座り、見下ろす形で質問した。
「教授ーそろそろ私にも教えてくださいよー」
「あー?」
「知ってるんですよー。私を助けてくれたんですから」
「…………お前今頬を染めてるだろ」
「なんで分かったんですか⁉ こっち見てないし鈍感なはずなのに!」
「バカかおい。そんなんで教えるわけないだろ。言葉の違いをきちんと理解できないやつにできるか」
酷いです横暴です乙女の心を平然と踏みにじってきます……顔を両手で隠しながら悲しそうに言う瑠依だが、路信がそれを信じるはずもない上にどうでもよいと思っている節があるせいで「騒ぐな帰れ」と一蹴する。
当然のように、瑠依は憤慨した。
「なんですかそれ! 教授はデリカシーも何もなさすぎます‼」
「デリカシーなんて要るのか?」
「要りますよ! 昨今の恋愛小説でも、開き直ってそんなこと言う人いません!」
「開き直るも何も、純然たる疑問なんだが……ていうか、お前夕飯どうするんだよ。寮の門限大丈夫なのか?」
「寮の門限は十時ですから大丈夫です! それと、夕飯は教授と一緒に食べたいです‼」
「却下」
「酷いっ!」
即答され、今度はソファにうずくまる。だが路信は見ておらず、本のページをめくっているだけ。
と、ここで彼の部屋のドアがノックされる音がした。
が、瑠依は動こうとせず、路信も本を読み続けるだけ。
コンコン。もう一度ノックされる。
「……お客さんですよー」
「今何時だ……って、まだ六時半か。四限終わってからずっと読んで……今三周目か」
「そんなに読んでるんでしたら私の相手してください!」
「なんで?」
「さびしいからです‼」
「ドヤ顔で言うもんじゃないな、それは……さて。誰が来てるのかな」
本を閉じ、のそりと体を起こす路信。床で寝ていたにもかかわらず白衣は綺麗で、そもそもシミひとつない。
腕を伸ばせない路信は代わりに手首を鳴らしてから「はーい」と言ってドアへ向かいあけた。
「遅かったですね、路信先生」
「……新島先生? 一体どうしてここに」
「どうしてって、昨日言ったじゃないですか。『一緒に夕飯食べましょう』って」
「そうでしたか?」
「忘れたんですか?」
「あいにく昨日は籠ってた記憶しかないんですが……」
「でも食堂で会いましたよ? 一心不乱にラーメンを食べてました」
「それっていつですか?」
「朝です。その時にそう言ったんですよ」
「……あー。頭の活動がほとんどなかった時ですねー。体だけ動いて欲求のままラーメンをむさぼっていた記憶が……」
「ですので行きましょう」
ずずいっと路信に接近する小枝子。そのきれいな顔立ちを間近で見れるという状況なのに、路信は『覚えてないって言いたいんだが……どうしてこうも積極的なのだろうか』と考えながらポリポリと頬を掻いて言葉を探していた。
そんな彼の様子を見ていた小枝子は内心で少しの罪悪感と多大な期待に胸を膨らませていたところで、彼の後ろから現れた瑠依を目撃した。
瑠依は女人の声がするとわかるや否やソファから起き上がって路信と会話している人の正体を確かめ、それが小枝子だとわかるや否や鬼のような形相で彼女をにらみつけながら歩き出し、路信の片腕をつか――めずに、片手を握って叫んだ。
「教授は私と一緒に食べるんです! 新島さんは他の男の人を捕まえればいいじゃないですか! それか帰って食べてください‼」
そのあと猫のように警戒心をあらわにする瑠依。それを見た小枝子は青筋を一本立てながらも大人の笑みを崩さずに言った。
「私は約束したんです。学生はお友達と一緒に食べたらどうです?」
「なんですかーその余裕はー!」
「事実ですから」
「……はぁ」
二人の口論にすぐさま辟易した路信は、どっか別の就職口探そうかなーと思いはじめていた。
これは、騒乱の間に挟まれた、平和な一日の話。
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