耳無し芳一殺人事件 第一部「見立て殺人」
Author:奥田光治
『耳無し芳一』……山口県下関市に伝わる、数ある日本の怪談の中でも有名な部類に属する怪奇譚である。
明治時代に日本に来日して数々の日本研究を行った事で知られるハーンこと小泉八雲の怪奇譚集『怪談』の中にも登場し、同時に『怪談』の中で最も知名度の高い物語とされている。あまりにも有名な物語であるが、概略を示すとなれば以下のようになるであろう。
下関海峡はかつて平氏と源氏による壇ノ浦の戦いが行われた場所であり、同時に平氏や彼らの奉じていた安徳天皇の滅んだ場所である。その怨念は今に至るまで続いており、この辺りに生息する蟹には背中が人の顔をしているものもいるという。
そんな下関の近くの町に、盲目の芳一という琵琶師がいた。芳一は平家物語の暗唱を得意としており、特に壇ノ浦の戦いの歌は幾多の人を涙させたという。
そんな芳一は彼の歌を好んでいた阿弥陀寺の住職の寺に厄介になっていたのだが、ある住職が法事でいない日の夜、縁側で琵琶を弾いていた芳一は突然何者からか声をかけられた。それは侍のような男の声で、さる高貴な方が芳一の琵琶を聴きたいと言っているので一緒にこいというものだった。盲目の芳一はその人物が何者かはわからなかったがこれを承諾し、侍らしき男に手を引かれて屋敷を訪れる。そこで請われて平家物語の壇ノ浦の歌を披露したところ相手は相当に感動し、この後六日間演奏を聞かせ続けてほしい事、この事を誰にも言わない事を求め、芳一もこれに応じた。
一方、夜な夜などこかへ出て行く芳一に不審を感じた住職は下男に命じてこっそりと芳一の後をつけさせた。すると、芳一は阿弥陀寺の墓地にある安徳天皇の墓の前で無数の火の玉に囲まれながら平家物語を熱唱していたのである。驚いた下男は力任せに芳一を寺につれて帰り、住職は事の次第を問い詰めた。約束があるので躊躇していた芳一だったが、住職の剣幕にやむなく今まであった事を話す。すると住職は、このまま死者のいう事を聞いていたら、そのうち芳一は八つ裂きにされてしまうと警告した。住職が一緒にいれば何とかなるのだろうが、この日住職は法事で出かけなければならない。住職は考えた末に、芳一の全身にお経を書き込み、絶対に声を上げないように諭した上で寺を後にした。だがこのとき、住職は芳一の耳にお経を書き込むのを忘れてしまっていた。
その夜、芳一が覚悟をして待っていると、いつもの侍の声が聞こえてきた。だが、お経が書かれている芳一の体は見えず、声は苛立ちながら芳一を探す。ところが、お経の書かれていない耳だけは声にも見え、芳一が見つからなかった声は代わりにこの耳を持ち去ってしまう。耳を引きちぎられた芳一は痛みのあまり声を上げそうになるもそれをこらえ、耳から血を流しながら住職が帰ってくるまでひたすら同じ姿勢で座り続けた。
住職は自分の不手際を芳一に謝り、やがて芳一の怪我も治った。やがて、この不思議な経験を聞いた人々が芳一の元を訪れるようになり、いつしか彼は「耳無し芳一」と呼ばれるようになったという。
……以上が大まかなこの話の流れである。
そして現在、この『耳無し芳一』の伝説が、再び世の脚光を浴びようとしていた。ただし、それは『怪談』のような怪奇的で幻想的な話というわけではなく、極めて現実的で陰惨な「殺人事件」という形ではあったが……。
後に『耳無し芳一殺人事件』と呼ばれる奇怪な殺人事件の発生である。
山口県下関市と福岡県北九州市門司区を結ぶ関門海峡は本州と九州の境であり、なおかつ日本海から瀬戸内海に入る際の入口となる海峡である。それだけに普段から船舶の往来が激しい国際海峡でもあるのだが、その船舶往来の過密さや海峡そのものの狭さ、さらには潮の流れの激しさゆえに過去には何度か衝突事故が発生した事もあるという、日本有数の船舶の難所でもある。
特に平家滅亡の地として知られる壇ノ浦近辺は幅が六〇〇メートルとこの海峡の中でも最も狭く、それだけに事故の頻度も非常に高い。ゆえに全国に七ヶ所しかない海上保安庁交通部の海上交通センターがここには設置され、海峡を通る船の航行管制を行っている。ただ、幅が狭いという事は対岸に橋やトンネルをかけやすいということでもあり、九州と本州を結ぶ唯一の道路である関門自動車道の関門橋や、その下を通る関門トンネルもこの壇ノ浦の地に作られている。
韓国の釜山港から瀬戸内海の岡山県倉敷市へ荷物を運ぶ貨物船「第二南海丸」も、この関門海峡を通る船の一つである。二〇〇七年十一月六日火曜日早朝。第二南海丸は普段通りに関門海峡の北から瀬戸内海へと進入しようとしていた。壇ノ浦にある関門橋の下をくぐり、いよいよ難所とされる関門海峡に差し掛かる。この海峡を通る船舶には水先案内人の同乗が義務付けられており、ここに入る直前に小型船でその水先案内人が第二南海丸にも乗り込んでいた。早朝だけあって通過する船舶数はやや少なめだが、それでも油断をしていいような海域ではない。第二南海丸はピリピリした緊張感の中で海峡を進んでいた。
事件は、そのとき起こった。レーダーを見ていた航海士が突然叫んだのだ。
「前方に障害物!」
その言葉に、ブリッジの誰もが緊張した。普段から通り慣れている場所だけあって、船員たちはどこに岩礁があるか程度はわかりきっている。こんな場所にそんな岩礁などありはしない。だとするなら考えられる可能性は、他の船舶が何の前触れもなく突然この大型貨物船の前に現れたという事以外にはない。
「大きさは?」
「小さいです。小型ボートか何かのようです」
航海士のその言葉に、質問を投げかけた船長は小さく舌を打った。ここは海上保安庁の管轄する海上交通センターの管轄地である。したがってここを通る船はどんなに小型であろうとセンターの指示を受けているはずで、それを無視して現れた船となると、ここがそんな危険地帯である事など知らない最近の若者たちが乗ったレジャー目的の船舶くらいである。実際、船の大きさを聞いてこの船長が真っ先に考えた可能性もそれだった。
「こんな朝っぱらから何を考えているんだ」
とはいえ、このまま直進すれば直撃である。
「減速だ。通信室に連絡してセンターに通報。後続の船に対する対応を頼め」
「了解」
船の流通交差点であるこの海峡では、一隻の船の停止が他の船すべてに影響してしまう。それだけに、船長はいささか腹を立てていた。
「どんなやつが乗っているのか確認して来い!」
その言葉に、ブリッジにいた船員の一人が飛び出していく。そうこうしている間にも、船の速度は確実に低下していた。
「おかしいな」
と、船長の隣に立っていた水先案内人が双眼鏡を見ながら呟いた。
「どうしました?」
「いや、おそらくあのボートだとは思うんですが……」
水先案内人が船長に双眼鏡を渡す。船長は黙ってそれを受け取ると前方を確認した。
船から数百メートルの場所に、それらしきボートの姿が確認できる。だが、この地点から見た限りではその船上に人影らしき姿が見えないのだ。
「無人ボートか?」
この関門海峡のど真ん中にそんなものが漂っている事自体が異常である。が、その間にも第二南海丸はボートへ向かって減速しながらゆっくりと近づいていく。船首付近にいる船員たちがそのボートを上から見下ろして、何事か話しているのが見えた。
やがて、さっき出て行った船員がブリッジに帰ってくる。
「どうだった?」
「わかりません。何か積んであるようなんですが、黒い布のようなものが被せられていて中に何があるのかは……」
と、そのとき水先案内人が少し青ざめた表情でこう言った。
「船長、ひょっとしてこれはテロか何かじゃないでしょうか?」
「……まさか、あの小型ボートに爆発物が積み込んであって、船が近づくと爆発するとでも?」
「この海域は自衛隊の護衛艦も通過します。それを狙ったとすれば……」
馬鹿げた話ではある。が、昨今の世界情勢を見れば、簡単に笑い飛ばせる話ではない。
「よし、念のためボートから少し距離をとれ。それと、センターを通して海上保安庁に通報しろ」
海上保安庁第七管区は福岡県北九州市門司区に本部を置き、国際海峡である関門海峡、対馬海峡、及び山口県西部と北九州(福岡、佐賀、長崎、大分)の海上保安を担当する。関門海峡や対馬海峡の他、難所とされる豊後水道、玄界灘、さらには海上空港である長崎空港、新北九州空港、大分空港、米軍基地のある佐世保基地などもこの管区に属し、朝鮮半島の最前線でもあるため、他の管区に比べても非常に多忙な部署である。
関門海峡を管轄するのは門司に本部を置く第七管区本部の中にある門司海上保安部と、その分署である山口県下関市にある下関海上保安署など四つの保安署である。
第二南海丸からの通報を受け最初に駆けつけたのは、下関海上保安署所属の巡視艇だった。目標海域に差し掛かると、海上で停船している第二南海丸と、その少し先で波に揺れている小型ボートの姿が目視できた。
「目標確認。速度を落とせ」
巡視艇の責任者である海上保安官・平中宗弘はそう指示を出してゆっくりとボートに接近していった。早番で出勤してから一時間も経たないうちにこの通報があり、かなり慌しい中での出動だったにもかかわらず、落ち着いた様子で乗員たちに指示を出している。福岡の漁業を生業とする家の出身で、幼い頃から父親にくっついて船に乗っていたという男だ。そんな下関保安署一のベテラン保安官の指示に、乗員たちも冷静に作業を進めていた。
通報によれば、ボートには黒い布のようなもので覆われた何かが置いてあるという。第二南海丸は爆発物の可能性を疑ったようだが、確かにその可能性も捨てきれない。巡視艇も慎重にボートへ近づいていく。
小さなボートだった。そのボートに黒い布に覆われた何かが横たわっている。海上保安官たちはそのボートを巡視艇に引き寄せると、早速ボートの確認を始めた。
「いいか、油断はするなよ」
平中は自ら陣頭に立つと、ボートの中を確認する。黒い布に見えたのはどうやら黒いビニールシートか何かのようだった。その中に、何かが包まれている。海上保安官たちは緊張感に包まれながらも、そのビニールをゆっくりと剥ぎ取っていく。やがて、中に包まれていたものの姿があらわになった。
「うっ!」
その瞬間、海上保安官たちは思わず口を押さえて後ずさった。中にあったのは、あまりにも予想外の物体だった。
「こ、これは……」
平中は呻き声を上げた。ボートの中にあったもの……それは腐敗臭がし始めた中年男性と思しき全裸死体だったのである。
もちろん平中とて海上保安官である。ゆえに、今までに何度か溺死体程度なら見たことがあり、普通の遺体だったらここまで動揺する事はなかっただろう。
だが、目の前にある遺体は今まで見てきた遺体とは明らかに一線を引いていた。そして、それは他の海上保安官たちも同じように感じていた。
「そんな、馬鹿な……」
青ざめた表情の平中の呟きに、他の保安官たちも同調する。なぜなら、黒いビニールに包まれていたその遺体は、全身に何かわからない文字を書き込まれていたのである。
山口県警捜査一課に事件の第一報が入ったのは、遺体発見から三十分ほどが経過した後だった。
『県警本部より各局。海上保安庁第七管区下関海上保安署より通報。関門海峡に浮かんでいたボートの中から変死体を発見。状況から殺人事件の可能性が高いと考えられる。捜査一課は直ちに出動せよ』
通信指令センターからの連絡により、捜査一課にいた刑事たちが即座に行動に移る。今年四十五歳になるベテランの光沢春義警部補もそんな刑事たちの一人だった。
「警部、出動です」
「ええ、わかっています」
光沢の言葉に、上司の一里塚京士郎警部は低い声で答えた。年齢は三十代半ばだろうか。彫りの深い端正な顔立ちで、一見すると刑事には見えないが、こう見えても山口県警の中で一番の検挙率を誇る県警の切り札だったりする。一目見てブランド物だとわかる高級そうなスーツにこれまた上物のコートを着込んでおり、ニヒルなイケメンというのがパッと見た感じのイメージだろうか。
とはいえ、この男は別にキャリア組というわけではない。いわゆる準キャリアと呼ばれる国家公務員第二種試験を経て警察官になった人間で、ノンキャリアとキャリア組のちょうど中間に位置する存在だ。もちろん国家公務員なのであちこち転勤をして回っているらしいのだが、本来なら警備部や公安部などの要職を経験して出世していく国家公務員試験採用組の中でも珍しく、この男は採用後から終始一貫して各県警の刑事部を回り続けている。理由としては、本人が刑事部以外への異動を拒絶し続けている事と、彼が行く先々の刑事部でその無理が通るだけの事件解決率を叩き出し続けているため上層部としても彼には刑事部にい続けてほしいという思惑が働いている事があるらしい。
実際、彼が山口県警の捜査一課に配属されたのは一年前の話であるが、それ以降、彼はいくつもの事件を解決に導いている。元からいる刑事たちも最初のうちは反感を持っていたものだが、最近はその手腕にむしろ感心しているほどである。そんな一里塚の相方となっているのが、この光沢という刑事課一筋のベテラン刑事だった。
一里塚と光沢は県警本部の表に出ると、早速パトカーに乗って現場へと向かった。行き先は下関港。ここから一時間ほどの距離である。
「現場の状況はどうなっていますか?」
一里塚が運転する光沢に尋ねる。
「パッと聞いた限りですがね、関門海峡のど真ん中に浮いていた小型ボートの中から男の変死体が見つかったらしいです。詳細はわかりませんが、今のところは海上保安庁が処置を担当しているとか」
「関門海峡の真ん中、ですか」
一里塚の表情が少し険しくなる。
「ええ。よりにもよって何でそんなところで殺人事件とは」
「……これは管轄でもめるかもしれませんね」
「すでにもめているようです。先着した下関署の初動捜査班の話では、福岡県警の門司署の連中も出てきているみたいです。おそらく、じきに向こうの捜査一課の連中もやってくるでしょうな。おまけに海上保安庁まで絡んでいるとなると……」
関門海峡は山口県と福岡県の県境でもある。ゆえに、そこで事件が起こったとなれば、管轄権に関して問題が発生する事になるのだ。これが陸地であるならばまだしも、今回の現場は境界線の曖昧な海上である。しかも今回は海上における捜査権を併せ持つ海上保安庁も出てきており、三者による競合が生じている。もめるのはある種必然ともいえた。
「もっとも、こっちに通報してきた以上、海上保安庁は早々に手を引くようです。さすがに殺人事件は管轄外という事ですかな」
「無理もありません。海上保安庁に認められた海上での犯罪捜査権は、主に密輸などに適用されるものですから。不慣れな殺人事件に関しては専門職である警察に任せるつもりでしょう」
もっとも、と一里塚は続けた。
「この殺人事件に海保の興味を引きそうな事象……例えば、密輸や密漁なんかが絡んでいた場合は、向こうも黙ってはいないと思いますが」
「そうならない事を祈りますよ」
それからパトカーを飛ばし続け、やがて視界に下関の港が見えてきた。
山口県警は周囲を海に囲まれているが、常設の水上警察隊は存在しない。それは福岡県警も同様で、この近辺で水上警察隊を常設しているのは香川県警と宮崎県警だけである。このため、関門海峡周辺における海上における事件の管轄はほとんどが海上保安庁の管轄になっている。もちろん、今回のような場合もあるので県警も船舶を所有自体はしているが、その数は管轄する警察署にせいぜい一隻ずつだ。
今、下関港に停泊しているのも下関署が所有する小さな船が一隻だけだった。とはいえ、贅沢は言っていられない。一里塚と桜沢はその船に乗り込み、遺体が発見された関門海峡の真ん中へと向かった。
「かなり時間が経っているようですが、まだ船の引き上げができていないのですか?」
一里塚が船長に尋ねる。
「それが、福岡県警の連中が出張ってきてこちらへ遺体を上げる事を認めないんです。これは福岡県警の事件だから門司側に上げると言い張って」
「予想通りの展開ですね」
一里塚が困ったように首を振る。
「仕方がないので、海上保安庁立会いの下、海上で遺体の検死や現場検証が行われています。といっても、双方の鑑識が入り乱れた状態ですが」
「参りましたね」
「とりあえず、双方の県警捜査一課が出てくるまでは管轄権に関しては棚上げするとなっています。ですから、この先の事はお願いします」
そんな事を言っているうちに、現場らしき海域が見えてきた。数隻の海上保安庁の船が固まって何かをしている。船長の話では、県警所属の船が一隻しかないので先着した初動捜査班は海上保安庁の船に乗り移って現場検証をしているらしい。そして、それは福岡県警も同じのようで、先ほどから睨み合いが続いているとの事だ。
と、福岡県側からも「福岡県警」の文字が入った船がこちらへ向かってくるのが見えた。どうやら、福岡県警本部の刑事たちも到着したらしい。
「船長、現場に行く前に向こうの責任者と話をしておきたいのですが」
一里塚の要請に船長は黙って頷くと、進路を変えて警笛を鳴らした。向こうも気がついたようで、こちらに近づいてくる。数分後、二隻の船はすれ違う形で横に並び、互いの責任者がそれぞれの船から顔を出した。
「福岡県警捜査一課警部の三崎康夫だ」
挨拶してきた向こうの刑事は、四十歳前後の頑固そうな刑事だった。
「山口県警捜査一課警部の一里塚京士郎です。早速ですが、遺体をいつまでも海の上に浮かべておくわけにもいかないので、管轄について話し合いたい」
「とはいえ、そちらさんも管轄を譲る気はないんだろう? それは俺たちも同じでな。こっちは久留米市で起きた強盗殺人の捜査中にいきなり県警本部から呼び出されて来ているんだ。そう簡単には引き下がれない」
「そうですね。いつまでもこんな話をしていても埒が明きません。ですから、私に一つ考えがあります」
「というと?」
「あの遺体を乗せたボートですが、福岡側か山口側か、少なくともどちらかから流されてきたものであるということは間違いないでしょう。という事で、あのボートが流されてきた方の県が事件を管轄する、という事でどうでしょうか」
「……なるほど。だが、それには一度のそのボートとやらを見てみなければ」
「確かにそうです。ですから、これから一緒に確認してみませんか?」
そんな話し合いを経て、二隻の船は現場に集まっている海上保安庁の船へと近づいた。それを見て、ボートを係留している巡視艇を除いた他の船が現場を離れ、各県警の船に場所を譲る。そのまま一里塚たちはボートを係留している海上保安庁の船に乗り移り、ボートの近くに向かった。三崎たちも同じように船に乗り込んでくるが、まずは遺体の確認が第一だ。
ボートが係留されている辺りに行くと、担当の海上保安官が立っていた。
「山口県警の一里塚です。こっちは部下の光沢」
「海上保安庁第七管区門司海上保安部下関海上保安署海上保安官の平中宗弘です。本巡視艇の船長をしています」
今にも噛みそうな肩書きを一度も噛むことなくさらりと告げる。すぐに三崎もやってきてこちらも自己紹介し、関係者一同が集まった。
代表で一里塚が平中に質問する。
「どんな様子ですか?」
「ひどい遺体です。とにかく見ればわかります」
平中の言葉に一里塚は問題のボートを見やる。それを見て、一里塚や他の刑事たちも一瞬言葉を失った。
ボートの上に乗った遺体は全身に何か文字のようなものを書かれており、ある意味異様な雰囲気をかもし出している。特に顔全面に書かれた文字が、まるで犯人が死者に対する恨みをぶつけているかのように一里塚には見えた。
「凄いですね」
「まったくです。どうしてこんなところにこんなものがあるのか……」
平中が吐き捨てるように言った。そのボートの近くで、二つの県警の鑑識職員がそれぞれ鑑識作業をしている。一里塚は山口県警の鑑識職員に呼びかけた。
「順調ですか?」
「あ、一里塚警部。ご苦労様です」
「挨拶は結構。それより、身元はわかりましたか?」
「残念ながらわかりません。それらしい持ち物を所持していませんでしたので」
何しろ服を着ていない全裸の遺体である。それも仕方がないといえば仕方がなかった。
「では、死因は?」
「後頭部に傷がありますね。これが致命傷かと。それと、遺体の耳が両方ともなくなっていました」
「耳?」
「ええ。どうも、死後に切り取られたみたいです」
鑑識のその言葉を聞いて、光沢が思わず呟いた。
「まるで『耳無し芳一』の怪談みたいですね」
確かに、全身に文字を書かれている事といい、耳を切り取られている事といい、まるでこの壇ノ浦を舞台とする怪談『耳無し芳一』の再現である。
「『耳無し芳一』の見立て、という事ですか」
「でも、『耳無し芳一』は殴り殺されたりはしていません」
一里塚の言葉に、平中が実直に答える。とはいえ、何にしてもまずはこの遺体を陸地に引き上げなければならない。一里塚はボートに目をやった。そのボートの側面に、文字が書かれているのが見える。
『第三十六瀬戸内丸』
一里塚はすぐに無線で、山口もしくは福岡沿岸で『第三十六瀬戸内丸』という小型ボートがなくなっていないかを調べるように指示を出した。それから二十分後、無線に連絡が入る。
『下関港近くの漁港に係留されていた同名の釣りボートが、今朝から行方不明になっているという届出を確認しました。確認するまで断定はできませんが。おそらく間違いないかと』
「わかりました」
すぐにこの結果を三崎警部に伝えると、三崎は苦々しい表情をした。
「賭けはそっちの勝ちか。いいだろう、約束だから我々は引く事にしよう」
「ありがとうございます」
「せいぜい、捜査を頑張る事だな。俺らはさっさと久留米の現場に戻るとしよう」
皮肉めいた言葉で三崎はそう言うと、最後にもう一度遺体を見やった。
「しかし、何とも妙な遺体だな。これは、管轄外だった事をむしろ喜ぶべきか……」
と、そこまで言ったところで急に三崎の表情が変わった。
「ん? こいつ、どこかで見たような……」
次の瞬間、三崎は大声を上げていた。
「こ、こいつ。所沢じゃないか!」
「ご存知なんですか?」
一里塚がすかさず尋ねた。
「ああ。名前は所沢篤。数年前に福岡県下の暴力団を相手に拳銃の密売をやっていた男だ。俺も何度か捜査に加わった事がある。何年か前に東京の方で大規模な密輸摘発があったときに捕まって、そのまま東京で実刑判決を受けたと聞いていたが」
と、そこまで言って三崎は一里塚を見やった。
「一里塚警部。この男は福岡出身の男で、なおかつかつて福岡県警が追い続けていた人間でもある。となれば、我々福岡県警が管轄するのが筋というものではないか?」
「しかし、このボートがあったのは下関の漁港。したがって、本当の事件現場は山口側である可能性が高い。それがわかっているのに管轄を譲る事などできません」
そう言ってから、一里塚はこう言い添えた。
「とはいえ、こちらとしてもこの男の情報はほしいところ。そこでどうでしょうか。この際、合同捜査という形にしては。つまり、山口県警の捜査に福岡県警が協力する形ですね」
「合同捜査、か」
三崎は考え込んだ。
結局、福岡県警や海上保安庁との折衷もあり、山口県警下関署に正式に捜査本部が発足したのは事件翌日、十一月七日水曜日の早朝となった。捜査本部の置かれた下関署の会議室には、山口県警の面々をはじめ、福岡県警、海上保安庁の関係者らが集結し、普段設置される捜査本部に比べてかなり混雑している。また、拳銃密売絡みという事で生活安全部や組織犯罪対策部などの人間も出入りしている様子で、ますます会議室は狭く感じられた。
あの後、遺体の乗ったボートはそのまま下関港まで海上保安庁の巡視艇により曳航され、遺体はそのまま解剖へ回されていた。一方、遺体の乗っていたボートも引き上げられた後にトラックで下関署の倉庫に運び込まれており、そこで証拠品として綿密な鑑識作業を受けているはずである。
「えー、ではこれより『関門海峡拳銃密売人変死事件』の第一回目の捜査会議を始める」
捜査本部長に就任した下関署の署長の合図で、全員が正面を見つめる。ちなみに『関門海峡拳銃密売人変死事件』とは協議の末につけられたこの事件の正式名称だが、マスコミ各社は遺体の異様さに着目して、すでに『耳無し芳一殺人事件』などと好き勝手に呼び始めている。
「早速だが、事件概要の説明を頼めるか?」
「はい」
署長の言葉を受け、光沢が代表で立ち上がった。一里塚は光沢の隣で腕を組みながら何かを考えている。
「被害者は所沢篤。年齢は三十九歳。本籍地は福岡県福岡市。主に拳銃の密売人として裏社会では名を馳せていて、十年ほど前から九州地方で暴力団相手に拳銃密売活動を行っていました。が、七年前にその地元暴力団とのトラブルが起こり、ほとぼりが冷めるまで仕事場を東京に移していたのですが、その東京での取引の際に警視庁の一斉検挙に引っかかって逮捕。一年後に懲役四年の実刑判決を受けて東京の刑務所に服役し、二年前に満期出所しています。以後は再び地元の福岡に戻り、当初はおとなしくしていたものの、一年ほど前から再び拳銃密輸に手を出していたようです。主に福岡や山口を舞台に活動しています」
「その拳銃密売ルートは?」
これには海上保安庁から出席している平中が立ち上がった。
「現在、この北九州及び瀬戸内周辺においては近隣諸国の裏社会からの海上取引による拳銃密輸が後を絶ちません。海上保安庁第七管区もこの海上密輸に非常に神経を尖らせており、密輸船との銃撃戦になる事も度々です。この辺りで活動していた以上、被害者はその方面での密輸に一役買っていたと思われます」
「なるほど」
署長は光沢に先を促した。光沢が合図を送ると、鑑識の人間が立ち上がる。
「遺体に関して鑑識からご報告いたします。死亡推定時刻は一昨日……つまり、遺体発見前日である十一月五日月曜日の午後十一時及びその前後一時間と推察されます。遺体発見は昨日午前六時。関門海峡を航行中だった第二南海丸が浮いているボートを発見して海上保安庁に通報し、先程発言された平中海上保安官以下数名が遺体を確認しました。死因は後頭部を強打した事によるもので、いわゆる撲殺の可能性が高いと考えます」
「確かか? 突き飛ばされた事による後頭部強打の可能性は?」
「傷から見てありえません。頭蓋骨の一部が軽くではありますが陥没していました。これは明らかに鈍器で殴られた際にできる傷です」
「その鈍器に関しての詳細は?」
「不明です。ボートにもそれらしきものはありませんでした。傷から見るに、平たい鈍器ではなく何か金槌のようなもので殴られたと思われますが」
「問題の体に書かれた文字に関してはどうだ?」
その問いに、鑑識職員は資料をめくりながら答える。
「何らかの文字であることは間違いないようですが、何しろ体に書かれているのでどうにも判別不能です。ただ、個人的な感想ではありますが、意味のない文字をただ羅列しただけにも見て取れます。文字を書くのに使用されているのは油性ペンのようですが、この油性ペンも発見されていません」
「あれだけの事をするとなると、相当な時間がかかると思うが、その点に関しては?」
「文字は全身に書かれていました。実際に被害者と同じ体格のマネキンに適当に油性ペンで文字を書く実験を複数回してみましたが、どれだけ急いでも最低一時間前後はかかるようです。すなわち、犯人は被害者の殺害後最低一時間は、文字を書くためにその場にいる必要があったことになります。実際は遺体の処理などを含めるとそれ以上はかかったはずですが、その点に関しての推察はお任せいたします。それと、切り取られていた耳に関してですが、こちらは被害者の死後に切り取られた公算が高いようです。その耳は、現場から見つかっておりません」
「その他遺留品は?」
「被害者は全裸で、衣服や所持品等は発見されていません。犯人が持ち去ったと見て間違いはないでしょう。遺体を乗せていたボートに関しては現在倉庫にて調査中ですが、目ぼしい痕跡は現時点では確認できません。正式な結果が出るのは明日以降になるかと」
鑑識からの報告は以上です、と言ってその鑑識職員は席に腰掛けた。それを機に、光沢が再び発言する。
「その遺体の乗っていた小型ボートですが、下関港近くにある薊漁港という小規模な漁港に係留されていた『第三十六瀬戸内丸』という個人所有の釣りボートでした。所有者は薊漁港にある個人経営の貸しボート屋で、釣り客を中心に所有する五隻の小型ボートをレンタルする業務を行っています。貸しボート屋の経営者は猿島元輔。彼に対する聴取はこれからです」
「事件に関係している可能性は?」
「わかりません。薊漁港は夜になると人通りがなくなる場所で、問題の貸しボート屋も午後六時には店じまいして無人になるそうです。ボートも港に係留してあるだけで特に防犯対策などもなされていないので、やろうと思えば誰でも人に見られずに勝手にボートを使う事が可能なんです」
ただし、と光沢は言葉を続けた。
「実際の犯行現場が薊漁港周辺である可能性はきわめて高いと考えています」
「なぜだ?」
「この薊漁港にいたる道は国道から分岐する一本道だけで、そこから漁港近くにある薊集落を通過して港に行き着きます。ところが、死亡推定時刻に近い一昨日の夜十時頃、この国道と港に至る脇道の分岐点で大型トラック三台が絡む多重衝突事故が発生しているのです」
それを聞いて、捜査本部にいた全員がざわめいた。
「事故を起こした三台のトラックはこの分岐点付近を完全に封鎖してしまい、すぐさま下関署の交通課が駆けつけました。ですが、相手は大型トラックで、なおかつそのうちの一台に可燃性の薬品が搭載されていたということで処理が遅れました。結果、交通規制が解除されたのは昨日の八時頃。そしてこの事故の処理の間、港に通じる脇道を通過した者がいない事は、事故処理をしていた下関署交通課の人間によって確認されているのです」
「確かか?」
「そもそも事故車両が道をふさいでいたので通過したくても通過できない状況が続いていたようです。よって、少なくとも事故以降にこの分岐点から犯人が遺体を港に運び込む事は物理的に不可能だったと断言できます。つまり、犯行現場はこの分岐点から薊漁港までのわずかな距離のどこかと見るのが妥当でしょう」
「そこは漁港なんだろう。だったら、別の場所で殺害した後でその港まで遺体を船で運び、そこから港に係留されていたボートに遺体を積み替えるという事も可能なはずだ」
署長が鋭い意見を述べるが、光沢は首を振った。
「この漁港は入り組んだ湾の奥にありまして、港から三百メートルほど先にある湾の入口に無人の灯台が設置されています。この灯台から湾の入口に向けて気象観測用の暗視機能つきカメラが設置されているのですが、この映像を確認したところ、午後七時に入港してきた漁船を最後に、現在に至るまで港に入ってきた船舶は一隻も存在しません。そして、問題のボートは死亡推定時刻の約三時間後、すなわち午前二時頃にこの湾の入口を沖へ向けて流れていくのが、カメラにはっきりと写っていました。つまり、死亡推定時刻が午後十時から十二時の間である以上、被害者が死亡時に薊漁港周辺に存在しなければ、遺体をボートに乗せて沖に流すことはできないのです。以上の理由から、私としてはまずはこの薊漁港周辺の捜査を行うべきだと思います」
光沢の言葉に、署長は黙って頷いた。どうやら彼も同意見らしい。
「問題の分岐点と薊漁港の間には何がある?」
「距離にして一、二キロ前後。その間には小さな水産加工会社の工場と薊集落、そして終着点である薊漁港しかありません。人が住んでいるのは薊集落だけです」
光沢はそう言いながらホワイトボードに地図を書く。
「薊集落は人口二十~三十人の小さな集落で、主に漁業関係者や近くにある水産加工工場の従業員が住んでいます。先程紹介した貸しボート屋の主人である猿島もこの集落在住です」
「現状では、その範囲内に犯人がいる可能性が高いか。念のため聞くが、犯人が漁港の船を使って逃亡した可能性は?」
「確認しましたが、遺体が発見された『第三十六瀬戸内丸』を除き、薊漁港からなくなった船はありません。また、先程紹介した気象観測カメラを見ても、死亡推定時刻以降に港から出て行った船は『第三十六瀬戸内丸』を除き存在しません」
光沢はきっぱりと言う。
「わかった。ならば、まずはその薊漁港周辺の捜査に入ろう。今後の方針はその捜査がすみ次第とする」
署長の言葉に、その場にいた全員が頷いた。署長がさらに言葉を続ける。
「なお、今回は福岡県警、及び海上保安庁との合同捜査になる。海上保安庁は平中宗弘海上保安官、福岡県警は三崎康夫警部が担当者だ。三崎警部たちには被害者の足取り、及び被害者に恨みを持つ人間の選定をお願いしたい。拳銃密売人である被害者の足取りが山口、福岡の二県に渡っている以上、それが適任かと思うが、どうだろか?」
三崎たちは黙って頷いた。特に異論はない様子である。
「では、決まりだな。それぞれの捜査に期待する。以上だ」
その後、各捜査員の担当が決められ、捜査員たちが次々と部屋を飛び出していく。三崎や平中たちも勝手に部屋を出て行った。
「警部、行きましょうか」
「……そうですね」
光沢の言葉に、それまで黙って座っていた一里塚がようやく腰を上げる。
「被害者の足取りは三崎さんたちがやってくれるそうですから、我々山口県警は薊漁港の捜査に集中するとしましょうか」
「何か出ると思いますか?」
「出てくれないと困りますね」
一里塚はそんな言葉を交わしながら、会議室を後にした。
下関署から国道を下っていくと、薊集落へと続く小さな脇道への分岐点に差し掛かる。道の脇には滅茶苦茶に潰れた三台の大型トラックが今も放置されていて、事故の凄まじさを物語っている。
「事件当夜、あれがこの道を完全に塞いでいたそうです」
「確かにあのトラックでは、道を通る事などできないようですね」
一里塚らの乗るパトカーはそのまま脇道に進入し、薊集落の方へと向かっていく。脇道は自動車が一台通れるかどうかという狭さで、軽自動車ならまだしも、少し大型の車が通った程度で道幅が一杯になってしまうほどである。そうなったら対向車がすれ違う事もできない。
やがて、パトカーの視界に小さな工場が見えてきた。『薊水産加工』というかすれた文字が読める。どうやら、捜査会議で出ていた水産加工工場らしい。
「薊水産加工は薊漁港から水揚げされた魚介類を加工している工場です。社長は和岩幸成という男で、従業員は彼を合わせて十五名前後。薊漁港の漁獲量がそれほど多くない事もあって、小規模な会社です」
この工場は別の班が調べているはずである。一里塚たちの担当は薊集落及び薊漁港周辺の捜査だ。一里塚の乗ったパトカーは水産工場の前を素通りし、さらに奥へと入っていった。
薊水産加工の工場から車で十分ほど進むと、やがて小さな集落が見えてくる。薊集落。薊漁港の傍、海沿いに面した小さな集落だ。その集落の先に問題の薊漁港がある。パトカーは薊漁港の入口に停車し、一里塚たちは港の中へと足を踏み入れた。
本当に小さな漁港である。周囲は木々で囲まれ、下関市内にもかかわらず陸の孤島といった雰囲気が強い。停泊している船も十隻前後と少なく、そのすべてが薄汚れている。その一角にボロ小屋同然の建物があり、その屋根に今にも崩れ落ちそうな『猿島ボート』の看板がかかっている。遺体が乗っていた小型ボートの持ち主である貸しボート屋の事務所だろう。が、ちょっと見た限りではとても営業しているように見えない事務所である。現に、こんな時間にもかかわらずその貸しボート屋を含めて漁港内に人らしき姿は一切見えない。過疎に悩む寂れた漁港、という感覚が強かった。
「こんな場所が下関市内にあったとは」
光沢が驚いた声を出す。一里塚は黙って周囲を見渡していたが、やがてどこか魚臭い港の中を歩き始めた。向かう先は『猿島ボート』の事務所である。光沢も一瞬嫌な表情をしたが、黙って後に続いた。
一里塚は事務所の前に立つと、一見すると誰もいないように見える事務所のドアをノックする。
「警察です。どなたかおられませんか?」
一里塚の言葉にもしばらく事務所は物音ひとつ立たなかったが、やがて中でガサゴソという音がしたかと思うと、事務所の中から一人の痩せこけた男が左足を引きずりながら姿を見せた。
「またですか。いい加減にしてくださいよ。ボートの確認ならもうやったでしょう」
男はそう言いながらいきなり文句を言う。一里塚は相手の名前を確認した。
「猿島元輔さん、ですか?」
「ええ、そうです」
男……猿島は大欠伸をしながら答えた。
「言っておきますけど、俺は事件のことについてまったく知りませんよ。こっちは貴重な稼ぎ道具をお釈迦にされて迷惑しているくらいなんだ。釣り客からのキャンセルの電話ばかりで、いい加減うんざりしているところなんですけどね」
「という事は、当分休業ですか?」
「せざるを得ないでしょう。今は休業するにあたっての事務処理だのキャンセルした客への対応だので事務所にいますけど、本来ならここにはいないはずなんですよ。犯人に唾の一つでも吐きかけてやりたいくらいです」
猿島はイライラしたように言った。一里塚はそんな猿島を冷静に眺めながら本題に入る。
「今日は、あなた自身にお話を伺いに参りました」
「容疑者って事ですか。ま、ボート使われているんだから無関係で通らないとは思っていましたけど」
猿島は卑屈めいた表情で自嘲気味に言う。そんな猿島に、一里塚は動じる事なく被害者の所沢篤の写真を見せた。
「早速ですが、この人物に心当たりはありませんか?」
「誰ですか、これ?」
「事件の関係者の一人です。どうでしょうか」
「……少なくとも、今思いつく限りではわかりませんね。何しろこんな商売なんで、一見の客なんかともよく会いますから、会う人間全員の顔を覚えておくわけにもいかないんです。ちゃんと思い出したらもしかしたら出てくるかもしれませんけど」
猿島は言葉を選んで言う。思ったより慎重な性格のようだ。
「昨晩の午後十時から十二時にかけてのアリバイはありますか? これは関係者全員にお聞きしている質問なんですが」
「家にいましたよ。ずっとテレビを見ていましたね。かみさんが証人ですが、確か身内の証言は当てにならないんでしたっけね」
「自宅は、薊集落に?」
「ええ。俺も元は漁師だったんですよ。少し前にしくじって足に怪我をしてしまいましてね。それで見切りをつけて貸しボート屋を始めたんですが、この有様じゃ、どっちがよかったのやら」
左足を引きずっているのはその怪我が原因らしい。
「念のために、怪我の証明はできますか?」
「怪我が嘘だとでも? 荏原先生の診療所に行けばわかりますよ」
「荏原?」
「薊集落にある診療所の先生です。今頃、自治会長たちと会っているんじゃないかな」
「どこにいます?」
「多分、薊神社の社務所にでも行っているはずですよ。あそこの神主さんと荏原先生が自治会のメンバーですから」
そう言って猿島は港の入口を指差す。見ると、入口のすぐ傍に林の中へと続く小さな山道らしき階段が見える。あの先が薊神社なのだろう。
「わかりました。とりあえずはこの程度で終わりますが、また何かあったらお伺いするかもしれません」
「好きにしてください。どの道、解決するまでこっちも商売上がったりなんですから。むしろ、さっさと犯人を捕まえてほしいくらいですよ」
ブツブツ言う猿島に対し、一里塚は、どうも、と言って質問を打ち切ると、そのまま薊神社の方へと向かった。光沢も黙って頭を下げて後に続く。猿島に示された漁港の入口近くにある薄暗い山道をしばらく進むと、やがて開けた場所に出る。そこが薊神社の境内だった。
薄暗い森の中にポツンと建っている小さな社の傍らに、申し訳程度にさらに小さな社務所があった。その前で何人かの男たちが話をしている。猿島がさっき言っていた自治会長、神主、医者のトリオらしい。
「どこかで似たような組み合わせを見た気がしますね。いや、読んだ気かな?」
光沢が呟くが、一里塚はそれに答える事なく黙って彼らに近づいていった。
「すみません、よろしいですか?」
一里塚の声に、男たちはビクッと体を震わせて振り返った。
「あなたは?」
「失礼、山口県警の一里塚です。こっちは部下の光沢。少々、お話を聞かせてもらえないでしょうか?」
その言葉に、男たちは一瞬顔を見合わせ、自己紹介した。
「この集落の自治会長をしています和岩幸成です。薊水産加工の社長もしております」
作業服を着た五十歳前半の男がまずそう自己紹介する。
「この神社の神主をしています、龍神乙彦と申します」
いかにも神主めいた格好をしている、この中では一番年配の男が続けて名乗った。最後に名乗ったのは白衣を着た禿頭の男である。
「荏原診療所の医師をしています、荏原譲一郎です」
自己紹介がそれぞれ終わり、一里塚は挨拶もそこそこに質問を始めた。
「さっき猿島さんからあなた方がここにいると聞いたのでやってきたのですが、こんなところで何を?」
「近々この神社で祭りがありますのでね。その打ち合わせですよ」
荏原が朗らかに言う。どうやら、事件については港のボートが勝手に使われたくらいの認識で、自分たちが容疑者圏内にいるとはまったく思っていないらしい。もっとも、たいていの人間はそう考えるものなのだろう。都会ならともかく、こんな寂れた漁村では自身の近くで犯罪が起こるなどまず考えもしないはずだ。
「それで、今日は何を?」
「いえ、先日港から盗まれたボートから遺体が見つかっていますよね。その件に関しての聞き込みです」
一里塚はあくまで低姿勢に尋ねた。
「はぁ、刑事さんも大変ですね」
「早速なんですが、事件当日の夜から朝にかけて何か普段と違うことはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いませんが」
和岩たちは顔を一瞬見合わせたが、やがて頭を振った。
「残念ですが、そういう類のことは見ていませんね。この辺、夜は人通りが少ないもので」
「……でしょうね。先程港を見てきましたが、昼間にもかかわらず人がほとんどいませんでした。いつも、あんな感じなんですか?」
「まぁ、小さな集落ですから。残念なことに、氏子もそんなに多くありません」
龍神が不満そうな表情で言う。
「この神社はどういう由来が?」
「歴史はあるんです。ざっとできてから千年ほどですか。豊漁祈願のために造られた神社なんですが、最近は年に一度の祭りの日以外は社務所にすんでいる私以外はほとんど誰も来ませんね。その祭りにしたところで、最近は参加者が減っている有様で、そろそろ開催もおぼつかなくなっているのですよ」
龍神はため息をつきながらそう言った。一里塚は一応頷くと、懐から被害者の写真を取り出し、猿島のときと同じように三人に見せた。
「この人に見覚えはありますか?」
「……さぁ、わかりかねますね。私は人付き合いがいい方ではありませんから」
和岩が首を捻りながら答える。龍神も黙って首を振る。
「私はほとんどをこの神社で過ごしていますので、集落の事はあまり……」
一方、荏原はその写真を見ながら何やらしきりに考え込んでいた。
「どうしました?」
「……見覚えがあるような」
その瞬間、一里塚の目が光った。
「確かですか?」
「何度か集落で姿を見たような気もします。正直、うろ覚えですけど……」
「いつの事ですか?」
「多分、一ヶ月以内だったとは思いますけど……すみません、詳しい日時までは」
「そうですか」
その時、光沢の無線が鳴った。光沢がしばらく応答していたが、やがて小さく頷いて一里塚に目配せする。一里塚はいったん質問を打ち切って光沢の元へ向かった。
「どうしました」
「薊水産加工の工場を調べていた班からの連絡です。工場の敷地内の一角からルミノール反応を検出。近くに立てかけてあったトタン板から少量の血痕も検出されたそうです」
「被害者のものですか?」
「正式な鑑定はまだですが、おそらくは間違いないかと。それと、問題のトタン板のすぐ傍から古いスパナを発見。そのスパナからもルミノール反応が出ています。ふき取られた形跡もありますので、おそらくこれが凶器ですね」
「本当の現場が割れましたか。予想通り、この集落の中でしたね」
「これで、犯人が殺害時刻にこの集落内部にいた人間というのは間違いなさそうです」
「……」
光沢の言葉に一里塚は黙って何事か考えていたが、そのまま再び三人の元へ戻った。
「和岩さん、あなたは薊水産加工の社長だそうですね」
「そうですが、何か?」
「先程、あなたの工場の敷地内から血痕が検出されました。正式な結果はまだですが、おそらくは『第三十六瀬戸内丸』から発見された遺体のものと思われます」
その言葉に、和岩の表情がサッと赤くなった。
「そんな、まさか……」
「大変失礼ですが、事件当日の夜から朝にかけてのアリバイの確認をさせていただけますか? 現場である工場の社長のであるあなたには、後ほど詳しくお話を伺うことになるとは思いますが」
その言葉に、和岩はしばらく拳を握り締めていたが、やがてこう言った。
「その日なら、そこの龍神神主さんと一緒に社務所で話し合いをしていましたよ」
一里塚の視線が龍神に向く。
「本当ですか?」
「え、ええ。今度の祭りについての打ち合わせです。確か午後九時から初めて、終わったのが次の日の午前零時半くらいだったと思います」
「二人だけですか?」
「いえ、他にも何人か祭りの役員に当たっている氏子と一緒でした」
光沢はメモを取る。死亡推定時刻は午後十時から零時の間。この話が本当なら、和岩に犯行は不可能である。
「その後はどうしましたか?」
「実は先日氏子の一人からいい日本酒をもらいましてね。私は酒が駄目なので遠慮しましたが、せっかくだから他の方々に出したんです。そんなわけで、打ち合わせが終わる頃には和岩さんたちはすっかり酔っ払っていて、仕方がないから私が車でそれぞれの自宅まで送りました」
「車、ですか?」
「ええ、ここにくる山道の入口のすぐ近くに停めてあります。私だって車くらいは運転しますよ」
考えてみれば当たり前の話なのだろうが、神社の神主が車を運転するというのはなんとも違和感のある話である。
「送った後は?」
「そのまま帰りました」
「車は山道の入口、すなわち港の入口付近に停めてあるそうですが、何か変わったことはありましたか?」
灯台の気象カメラによれば、ボートが沖に流れたのは午前二時。だとするなら、龍神が何かを見ている可能性もある。が、龍神の答えは何とも曖昧なものだった。
「さぁ、港は暗かったですし、私も急いでいましたから。でも、午前一時には社務所に戻って、そのまま就寝しました」
一里塚は少し残念そうな表情をしたが、すぐに気を取り直して残る荏原に向き直った。
「参考までにあなたのアリバイも確認させてください」
「私ですか。その日の夜のアリバイでしたら、証明できると思います」
「と言いますと?」
「実は、集落の人間が急に診療所に飛び込んできましてね。確か、午後十一時頃の話だったと思いますが、裏の家のおじいちゃんが急に倒れたとかで。いや、こっちも必死ですよ。おじいちゃんの意識はないし、ちょっと見ただけで完全に私の手には負えないとわかりました。慌てて救急車を呼んだんですけど、悪い事って重なるんですね、この集落に行くまでの道が事故でふさがっていたとかで救急車も来られない状況だったんです」
一里塚はこの集落が閉ざされるきっかけとなったトラック事故のことを思い出していた。
「それで、どうなったんですか?」
「もうパニック状態ですよ。この集落にはドクターヘリが着陸できるような場所もありませんし、事故の処理が終わるまでは私が処置をするしかなかったんです。こんな状況は初めての経験でしたけど、とにかくすぐに近くの大病院に連絡を取って、その病院の先生の指示を聞きながら必死におじいちゃんの介抱を続けました。小さな診療所でやれる事なんか限りがありますけど、それでも朝になって事故の処理が落ち着いて、結局救急隊がやってくるまで付きっ切りで看病していたんです。そのおかげもあってか、おじいちゃんは一命を取り留めたようで、私も安心したところです」
要するに、午前十一時以降に関しては荏原のアリバイは完璧と言うことだ。だが、死亡推定時刻は午後十時から十二時まで。一応、午後十時から午後十一時までの一時間に限って殺害の時間はある。とはいえ、たった一時間で殺害や遺体の工作を実行するのはかなり難しい上に、問題のボートが港から流れ出たのは翌日午前二時。その頃、荏原は患者と格闘していて、何かをする余裕などない。
一里塚はとりあえずここでこの三人に対する質問を打ち切る事にした。
その日の夕方、下関署の捜査本部で行われた捜査会議で、それぞれの捜査班が集めた情報が共有される事になった。
「検査の結果、薊水産加工の敷地内から検出された血痕と被害者の血液が正式に一致。スパナに付着していた血痕も同様です。したがって、ここが現場であると見てほぼ間違いないかと思います」
薊水産加工の工場を調べていた捜査員が緊張した様子で報告する。
「現場のセキュリティはどうなっているんだ?」
「さすがに金銭や重要書類が置かれる事務室に関しては施錠等しっかりなされているようですが、工場の敷地内に入ること自体は比較的簡単です。防犯設備も皆無ですし、密会などにはうってつけの場所かと思われます。なお、凶器のスパナは現場近くに放置されていた工具箱の中にあったものと思われます」
「これだな」
署長は提出されているビニールに入ったスパナを手に取った。一見すると錆び付いたただのスパナだが、ルミノール反応がしっかりと検出されており、さらに検査の結果被害者の毛髪らしきものも付着していた。
「指紋や血痕はふき取られていますが、これが凶器とみるのが妥当ではないでしょうか。現在、鑑識が傷口と一致するかどうかの鑑定を行っています」
「となると、怪しいのは集落の人間だな」
そこで署長の目が光る。
「問題は動機、それと被害者の動きだ。現場が薊集落である以上、被害者は何か目的があってあの集落にいた事になる。被害者の最近の動向に関してはどうだ?」
これに関しては長年被害者の動向を追っていた福岡県警が調べていた。すぐに三崎警部が立ち上がる。
「被害者ですが、最近はある武器商人との取引を頻繁に行っていたという疑いがもたれています。通称『ブローカー』という東洋系の武器商人で、東アジアを根城に活動しており、国際手配もなされています。最近は近隣諸国から日本への銃器密売の斡旋を行っている疑いが強く、県警や海上保安庁が警戒に当たっていたのですが、被害者はその『ブローカー』が手配して船で運んできた銃器を海上で受け取った後に日本国内に運び込んで陸揚げし、実際に売り捌く役割を担っていたようです。ただ、その方法がわかりません」
その言葉に、海上保安庁の平中が続く。
「やつらの取引場所、及び武器の陸揚げ場所がこの関門海峡周辺であることは間違いありません。ですが、この周辺の主な港はすべて海上保安庁や税関関係者が見張っています。したがってやつらが、もっと言えば被害者がどうやって『ブローカー』から買い取った武器を実際に陸揚げし、売れるまで保存しているのかまったくつかめていないんです。そんな被害者がいたのが薊集落。そう考えると、一つの考えが浮かんできます」
署長は頷いた。
「薊集落が密輸された銃器の陸揚げ場所になっているのではないかという考えか」
「薊漁港はお世辞にも警備体制がほとんど確立されていない寂れた漁港です。お恥ずかしながら海上保安庁の巡視網からも漏れており、ここからなら漁船にまぎれて銃器を陸揚げすることはたやすいでしょう。もちろん、一人でこんな大掛かりなことはできません。薊集落側に最低一人は協力者がいると考えるべきです」
「そして、その協力者と何らかのトラブルがあって殺害に至った、か。そう考えれば筋は通るな」
署長は何度も頷く。そんな署長の様子を、一里塚は黙って見つめている。
「状況を整理しよう。死亡推定時刻は午後十時から零時の間で、なおかつあの異様な遺体の処理には最低でも一時間がかかる。薊集落が午後十時以降事故で封鎖されていた事から、犯人は事件当夜に薊集落内にいた人間であることは間違いない。つまり、死亡推定時刻内で一時間以上アリバイのない薊集落内の人間、それが犯人足りうる最低限の条件だ」
署長が宣言する。
「これからは薊集落内の人間のアリバイ確認に全力を注ぐ。明日から聞き込みを開始だ!」
「はっ!」
その言葉を合図に、刑事たちは部屋を出て行く。引き続き調査に向かう者もいれば、仮眠室となっている道場へ仮眠に行く者もいるなど、その行き先は様々だ。そんな中、一里塚は捜査本部の席に座ったまま何かを考え続けていた。
「何をお考えですか?」
光沢が近づいて聞く。
「犯人は、どうして遺体に対してあんな面倒くさい事をしたのでしょうね」
「さぁ、何か事情はあるとは思いますが」
「犯罪者、特に殺人犯は自分の犯す犯罪に対してそれこそ真剣です。敗北は文字通り自身の人生の終焉を意味しますから。ですから、殺人犯の行動に無駄な事はない。だとするならば、あの全身に書かれた文字についても、何らかの深い意味があるはずなのです。それを解き明かすことで、犯人に迫れるかもしれません」
「含蓄のある言葉ですね」
「いえ、これは私の言葉ではなく、私に捜査のイロハを叩き込んでくれたある刑事の言葉ですけどね」
一里塚は微笑みながら言う。
「ある刑事、ですか」
「今でこそ刑事課一筋ではありますが、私も若い頃はそれなりに野心を持っていて、出世することしか頭にありませんでした。最初に配属されたのは警視庁管轄内のある所轄の刑事課でしてね。当時の私はそのポジションを出世の踏み台程度にしか思っていなかったのですが、ちょうどその時起こったある事件の応援に本庁捜査一課からある刑事がやってきましてね。まぁ、私とのその刑事でコンビを組んだわけですが、そこで私は刑事の何たるかをその人から教わったんですよ。それからです。私が出世よりも現場にこだわり、刑事課一筋に生きるようになったのは」
そう言うと、一里塚は立ち上がった。
「これからどうするつもりですか?」
「まずは、さっき会った四人のアリバイ確認ですね。それぞれの話が本当なのかどうかを確かめておく必要があります。他の住人に関しては他の捜査班がやってくれるでしょう」
「一里塚さんはあの中に犯人がいると?」
「今はまだわかりません。ただ、調べて可能性をつぶせるのなら、それはそれで一歩前進です」
「それが確認できたら?」
「そうですね。あの『耳無し芳一』の遺体の謎でも解明する事にしましょうか」
歩き出す一里塚に、光沢は黙って続いた。
***The Next is:『耳無し芳一殺人事件 第二部「新たな事件」』




