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この謎が解けますか?  作者: 『この謎が解けますか?』企画室
青春の謎が解けますか?
18/24

首吊り桜

Author:稲葉孝太郎

 この男ある奥山に入り、茸を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟かしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子のために殺されてありき。


 ―― 柳田國夫『遠野物語』第拾話より




 黄砂も朧な四月の初め。二年生になったばかりの私は、いくつかの期待と、いくつかの不安と……それからこの空のように霞みがちな、いくつかの夢を抱きつつ、桜色の花弁が舞う校舎裏を歩いていた。新入生たちの弾んだ声が、過去の私の声と重なり合い、入学式の思い出と交互に去来する、おだやかな午後。どこかへ飛んで行ってしまいそうな私の思いを繋ぎ止めているのは、音楽室から聞こえてくる幼馴染みの光一(こういち)の声だけ。

 高く、低く、伸びやかで、歯切れがいい。音符が風に乗り、その風は音楽へと変わる。そして音楽は消えて……ただ感動だけが残る。光一は昔、そんなことを呟いた。ませていたわけではない。思ったことを、思ったままに口ずさんだだけだ。彼の歌声のように……。

 目を閉じ、光一のメロディに聴き入っていると、遠くから砂利を踏む音が聞こえた。その足音はおしとやかで……でもちょっとおっちょこちょい。

(まい)ちゃん」

 急いでいるのにのんびりとした声。私は瞼を開ける。

 ふわふわの天然カールを背負った垂れ目の妖精が、私の目の前に現れる。

「ほのかちゃん、どうしたの?」

 私が尋ねると、ほのかちゃんはバレリーナのようにくりると一回転する。

「園芸部が終わったから、一緒に帰ろ?」

「あれれ、辰之助(たつのすけ)くんは?」

 私は軽いイジワルをする。辰之助くんは、剣道部のエースで、ほのかちゃんの彼氏。

 だけどほのかちゃんは、あいかわらずくるくる回りながら言葉を紡ぐ。

「たっちゃんは大会があるから居残りだよ」

 それも知ってる。だからイジワルな質問。でもほのかちゃんは気にしない。肩まで伸びた柔らかな髪を靡かせて、そのまま急に立ち止まる。

「目が回るよ」

 私がくすくす笑っていると、ほのかちゃんはふらつきながら手を伸ばす。

「さあ、帰ろう」

 私は光一の歌を背に、花びらの散る裏門を抜けた。アスファルトの道を越えて三百六十五歩のマーチ。駄菓子屋の角を曲がったところに、その木は生えている。

 首吊り桜ーー

 それがこの木の名前。雑木林へと続く道の途中にある、お年寄りの桜。いつからこの街に住んでいるのか、それは誰も知らない。

「舞ちゃん、桜が奇麗だよ」

 のんきなほのかちゃんは、桜の名前なんか気にしない。私もそう。だって、こんなにも美しいから……。節榑(ふしくれ)立った幹は、まるでおじいちゃんの曲がった腰のよう。だけどそれは桜の木が、私たちより長生きしてる証拠でもある。

 ほのかちゃんは私の手を引いて、首吊り桜のそばに歩み寄る。ところでほのかちゃん、この桜の言い伝えを知ってるのかな。あの暗い(うろ)の中に、恋のライバルの名前を書き入れて、赤い糸を切ることができる伝説を……。

 私は古木の虚をちらりと盗み見る。今日も呪いのお手紙が一杯。いったい、いつ入れてるんだろうね。夜中にこっそり来てるのかしら。

 不思議に思う私の横で、ほのかちゃんはひらひらと舞う桜を眺めている。ちょっとおかしな雰囲気。呪いの木の桜が、こんなにも美しいなんて……。それとも、人間の嫉妬は、物を美しく変えてしまうのかな。

 ほのかちゃんはしばらく花吹雪を楽しんだ後、その細い顎を落とした。視線が降りて木の虚へと向かう。ほのかちゃんみたいな娘でも、こういう怪談に興味があるみたい。

「あ、私の名前がある……」

 ほのかちゃんはそう言うと、私の袖を静かに引っ張った。手が震えている。

「私の名前がある……」

 同じ台詞を繰り返すほのかちゃん。たくさん詰まった紙切れの一番上、出口から落っこちそうになっている真新しいメモ帳に、霧山(きりやま)ほのかの五文字が見える。

 ほのかちゃんは確かに可愛い。私も時々羨ましく思うくらい。そして、辰之助くんは凄くカッコいい。彼女がいるのに、まだ狙ってる女の子がいるくらい。もしかしてこのお札は、たくさんある呪詛のひとつに過ぎないのだろうか。その奥にも何枚か……。

「舞ちゃん……帰ろう……」

 ほのかちゃんの声は、彼女の人形みたいな指と同じくらい震えていた。

 そっと掴み返した私の手も、同じように震えていた。でも、怖いからじゃない。薄暗い穴から覗く文字に、見覚えがあったから……。ほのかちゃんは気付いているのかしら。それとも、目を背けているのかしら。

 私とほのかちゃんは、ゆっくりと首吊り桜を後にした。ほのかちゃんはそれから実家の花屋さんが見えるまで、一言も喋らなかった。


 次の日、私は教室でぼんやりと考えごとをしていた。二年生になったけど、なんだか教室の中はふわふわしている。私の心だけがひたすら重いように感じられた。もちろん、ほのかちゃんが一番辛いのかもしれないけど……。

 私は教室の中を見渡す。……笑ったり、怒ったり、喜怒哀楽の祭典みたい。ただ教室の隅に座っている女の子からは、そのいずれとも違う空気が流れていた。

 東雲(しののめ)あずさ……。彼女はクラスの中でも、あまり目立たない娘。別に嫌われてるわけじゃない。むしろとてもマジメで、去年は文化祭のクラス委員を務めてた。彼女は古典研究会に属していて、私もちょっとだけ会に誘われたことがある。そのとき、短冊に書かれた彼女の字を見てしまった。

 ……あの呪いのメモ帳にそっくりだった。妖しいって言うんだろうか……。東雲さんの見た目からはちょっと想像できない字体だった。川の字が人魂のようにうねり、くねくねととらえどころのないスタイル。普通の女の子が書く丸文字じゃなかった。だから、見間違えるはずがない。

 私がじっと東雲さんの横顔を見ていると、彼女はふとこちらを向いた。サッと目を逸らしたけど、コンマ一秒ほど視線がかち合う。……気付かれた? 私は陽の光に照らされた、白銀の校庭を眺めた。怖くて振り返ることができない。彼女の視線を感じるから……。

 結局その日、私は放課後まで無難に振る舞うことにした。ほのかちゃんと出会う機会もなく、そのままホームルームが終了する。

「今日はどうしたんだ? 何だか元気がないけど?」

 教科書を片付けていた私の机に影が差す。顔を上げると、そこには少し心配そうな顔をした光一が立っていた。幼馴染みの前で、私は正直に溜め息を吐き、席を立つ。

「ほのかは?」

「ほのかちゃんなら、今日は早めに帰るって」

 今朝、登校中にそう言われた。傷ついてるようには見えなかったけど、心の整理がついていないのかもしれない。

「さっさと日直の仕事を終わらせよう。昨日は音楽室に来なかったんだな」

「昨日はほのかちゃんと先に帰ったんだよ」

 私はそれだけ告げて、光一と一緒に黒板の清掃を始めた。

 日直の仕事が終わる。廊下を歩いているとき、私は光一の横顔を盗み見た。光一は、私の幼馴染み。恋仲ではないけれど……。どうなんだろう。でも今は、私の気持ちは後回し。ほのかちゃんを慰めてあげたい……。少しでも力になってあげたい……。

「ねえ、光一、首吊り桜って知ってる?」

 私の質問に、光一はその軽快な足取りを緩めた。窓から射し込む夕方の光が、校舎に宿るノスタルジックな時間を浮かび上がらせていた。

「ああ、知ってるぜ……横町にある古い桜だろう?」

 私は少し迷った。昨日の出来事を、光一に打ち明けてもいいんだろうか。柱時計の振り子みたいに決心が揺らいだけれど、私は光一を信頼した。そして、全てを話した。

 私の話を聞き終えた光一の反応は……。

「へえ……そうなんだ……」

 がっかり。機嫌でも悪いのかな。そう思ったけど、光一から不快なオーラは出ていない。そういうことは、長い付き合いで分かるもの。

 光一は深く考えているように見えた。私たちの足音だけが、無人の廊下に響き渡る。

 音楽室まで後数歩、そこで、光一は突然立ち止まった。

民研(みんけん)の部室、まだ開いてるかな?」

 光一はきょとんとする私を置いて、階段を一段飛ばしに駆け上がる。私も鞄のキーホルダを鳴らして、後を追った。

 民研は、北向きの落ち着いた角にある。先に到着した光一は、もう部室のドアノブに手を掛けていた。そして、ガラリと扉が開いた。

 光一は敷居の向こう側に消えた。私は首だけひょっこり伸ばして、室内を垣間みる。光一は電気も点けないで、木製の棚から一冊のノートを取り出していた。

 私は少しだけムスッとして、敷居を跨ぐ。

「どうしたの? ほのかちゃんのことはどうでもいいの?」

「その前に、呪いを解いてやらないとな」

 意味深げな台詞を呟く光一。ぺらぺらとノートをめくり始めた。

 私が隣から覗き込むと、それは民俗研究会の活動日誌だった。

「やっぱりな、ちゃんと調べてる」

 光一は、黄ばんだページに指を挟み、その整った指先で鉛筆の文字をなぞった。



 二〇〇七年八月一日

 首吊り桜に関する民間伝承の聞き取り調査


 上町(かみまち)の高校に伝わる怪談曰く、

 横町(よこまち)に首吊り桜という桜の木がある。四十年ほど前、許嫁に裏切られた少女がそこで首を吊った。その女の恨みは強く、桜の木の穴に呪いたい男あるいは女の名前を書き入れると、相手は失恋すると言われている。


 上町に住むT君の母親曰く、

 横町に首吊り桜という桜の木がある。四十余年前、許嫁に捨てられた乙女が、そこで首を吊って死んだ。それ以来、縁切りに繋がると恐れられ、恋仲の男女は誰もそこに近付かないと言う。


 中町(なかまち)に住む質屋の老人曰く、

 横町の首吊り桜は昔、姥桜(うばざくら)と呼ばれていた。木の下に赤子が捨てられ、桜の木がその子を育てたという言い伝えに由る。戦後、恋人に捨てられた少女が、木の枝で首を吊ったという噂あり。


 横町の煙草屋の老婆曰く、

 この家の近くに姥桜という桜があり、その木は子育てをすると言われている。老婆の母方の祖母は、その桜の木の根元に捨てられ、五つまでそこで育てられたと聞く。



 ……凄い。いろんなパターンがあるんだ。上町の高校は、多分私たちの高校のこと。中町は横町の反対側にある、旧市街地のような場所。

 光一はドキリとするくらい真剣な目で、それぞれの言い伝えを二回読み直した。ぱたんとノートを閉じ、小さな埃を散らす。

 私が右手で埃を払っていると、光一は瞑想するように瞼を閉じた。

「……そうか、そういうことか」

 彼の頭の中で何が起こっているのか、私には分からなかった。

 そんな私を放ったらかして、光一はこくりと頷き、再び瞼を上げる。

「首吊り桜は、呪いの桜なんかじゃないんだ」

「え?」

 私は鞄をうっかり落としそうになった。外は春なのに、ここだけ秋のような肌寒さ。日の光が当たらないって、こんなに寂しいことなんだ。私はあらためてそう感じた。

「そりゃ、呪いなんて非科学的だけど……」

 私はもごもごと唇を動かす。すると光一の顔から険が消え、いつもみたいににっこりと微笑んでくれた。私はこの笑顔が好き。

「そういう意味じゃないさ。……呪いの桜の伝説は、この学校で作られたんだよ」

「この学校で……作られた……?」

「そうだよ。この怪談を時系列順に並べれば、すぐに分かるさ」

 光一はそばのテーブルで、もう一度ノートを開き直す。そしてこう語り始めた。

「あの桜にまつわる言い伝えは、もともと子育てに関するものだったんだ。この『横町の煙草屋の老婆曰く』で始まる最後の記録。このお婆さんはおそらく、彼女の母親から、代々家に伝わる昔話を聞いたんだろう。だから、これが一番古い言い伝えなんだ」

 私は彼の思考を追い、そしてゆっくりとそれを反芻した。

 光一は下から二番目の文章に指先を移す。

「この中町の言い伝えが、二番目に古いお話さ。中町は、上町よりも先に存在してて、しかも子育てに関する部分がちゃんと残っているだろう。最後の『恋人に捨てられた少女が木の枝で首を吊ったという噂あり』という一文は、戦後付け加わった後日譚。あるいは都市伝説の類いだ。本当に誰かが縊死したのか……それとも、ただの噂話かもしれない」

 都市伝説。そうか、分かったわ。姥桜のお話に、いつの間にか自殺の話がくっついて、それがだんだんと広まって行ったんだ。そして……。

「そして、子育てに関する伝承は、口伝いに消えてしまったんだ。反対に、本来は無かったはずの、首吊り自殺に関する部分がクローズアップされていく。確かに、子育てよりも怪談としてそそるからね。新興住宅地の上町に噂が伝わった頃には、もう姥桜という名前すら忘れられて、首吊り伝説だけが残った」

「だから……首吊り桜……」

 光一はノートから顔を上げて、あの微笑みを私に贈ってきた。胸がドキドキする。謎を暴く興奮か、それとももっと別な……青春の……。

「さらに時代が下ると、首吊り桜には、男女の縁を切る呪いが掛かっていると噂されるようになった。それがT君の母親の世代だね。T君はこの学校の学生だろうから、おそらく昭和の後半だろう。そしてついに……」

「この学校の怪談に取り込まれて、恋のライバルを葬る桜に生まれ変わった……」

 光一は満足げに頷き返す。私はそっと佇み、伝承を順番に目で追った。お話がお話を、伝説が伝説を、怪談が怪談を呼び、育んでいく歴史。その時の流れが、この古びた一冊のノートに記録されている。そのことが、何だかとても不思議に思えてくる。

 でも、これじゃまだ足りない……だって……。

「ほのかちゃんはどうするの? 怪談のカラクリが分かっても、ほのかちゃんの傷ついた心は癒せないんだよ?」

 私の咎めるような言葉を他所に、光一はノートを閉じると、それを棚に戻した。

 部屋がしんと静まり返る。

「……そうかな?」

「そうかな、って……これはただの謎解きだよ……。今回の事件とは関係な……」

「いや、あるさ」

 光一はそう言い切り、部室の窓を開けた。春風。そう、やっぱり今は春。

 光一は窓枠に両手を添え、輝度の落ちた街並を遠望する。

「首吊り桜が人を傷付けるのは、人間がそういう風に信じてしまっているからだよ。例えば昔の武士は、目上の人を本名で呼ばなかったんだ。それは侮辱だからね。大河ドラマなんかでも、偉い人はみんな名前じゃなくて役職で呼ばれているだろう。だけどそれは、名指しが人を傷付けるんじゃない。目上の人を本名で呼んではいけないという、そういう考えが人を傷付けるんだ」

 それは詭弁だ。私は一瞬そう思った。

 それとも私が、光一の推理を追いかけられずにいるだけなんだろうか。

 分からない。私には分からなかった。

「おっと、もうこんな時間だ。……声楽部に顔を出さないとな」

 私たちは民研の部室を出て、音楽室へと向かう。

「じゃあ、どうする気なの……? これをほのかちゃんに話す……?」

 光一はその整った髪型を、少しだけくしゃくしゃに掻き分けた。

「いや、今回の話を、新聞部のヤツに頼んで紹介してもらおう。こういうのは、少人数が真相を知っていても意味がないんだ。みんなの信仰を変えないといけない。共同幻想は、真実と無関係に呪術的な力を持つからね」

 少々オカルト地味た説明を終え、光一は私の肩をぽんと叩く。

「心配するなよ。数ヶ月後には、ほんとうに笑い話になってるから」

 光一はそんな言葉を残し、音楽室へと姿を消した。ドアの隙間から漏れる歌声。私はそれに心を癒されて、冷たい壁に寄り添い、じっと瞼を閉じる。

 人を信じるということの大切さを胸に秘めて……。

 

 七月。定期試験も終わり、私たちは束の間の学業から解放される。受験勉強を既に始めている生徒。倶楽部活動に専念する生徒。あてもなく青春を楽しむ生徒。

 様々な同級生に囲まれながら、私は終業式前日を迎えていた。そしてその日、私は友達の女の子から、歌会の席へと声を掛けられたのだ。それは古典研究会の打ち上げで、部員たちがそれぞれお手製の和歌を詠むことになっている。私も去年顔を出していたから、深く考えずにその場でOKした。

 放課後、古典研究会の部室へ向かう間、私は真夏の日差しに過去を振り返っていた。光一は約束通り、校内新聞を通じてあの推理を公にしてくれた。すると魔法が解けたみたいに、誰も桜の話をしなくなっていた。ほのかちゃんも笑顔に戻り、妖精みたいにほんわかした笑顔を浮かべている。

 あの後、一度だけ私は、首吊り桜の……ううん、姥桜の虚を覗いてみた。雨でどろどろに溶けた紙切れが固まり、新しいものはひとつも入ってはいなかった。そう、この桜の木も、あの禍々しいお務めから解放されたのだった。

 私が満足して帰ろうとしたとき、和服を着た奇麗なお婆さんとすれ違った。私が軽く会釈して通り過ぎると、ふいに背後から声を掛けられた。

「すみません、この先に、姥桜という桜はまだありますか?」

 少ししわがれた、それでいて意志の強い声が、私を引き止めた。

「はい、首吊り桜はまだ残ってますよ」

 私はうっかり、間違った名前を口にしてしまった。慌てて言い直そうとしたけど、その前にお婆さんが唇を動かした。

「あらあら、私は死んだことにされてるんですね」

 お婆さんはそれだけ言うと、静哉(しずや)かに小道の奥へと消えて行った。一瞬だけ見えたお婆さんの顔は、何だか呆れたような、それでいて嬉しそうな微笑を湛えていた。

 あれは一体、何だったんだろう。そんな回想に浸っていると、誰かが私の肩を叩いた。この叩き方を、私の体はもう覚えてしまっている。

「光一、どうしたの?」

 私が思い出の泉から顔を上げると、光一は例の笑顔でこう答えた。

「俺も歌会に呼ばれたんだ。……そういう柄じゃないんだけどな」

 嘘……。私の方がよっぽど柄じゃない。光一は声楽を勉強してるから、和歌を詠むのもまるで拍子が付いているみたいに聞こえる。だから、歌会に呼ばれるのは当たり前。

 私は何だか恥ずかしくなって、話題を逸らそうとした。そして、なぜかあの和服を着たお婆さんの話を振ってしまっていた。

 全てを聞き終えた光一は、ふとわだかまりが解けたような顔をする。

「なんだ、あの噂は、そういうことだったんだ」

「あの噂……? 何か知ってるの?」

 光一はくすりと笑い、いたずらっ子のように私の瞳を見据える。

「いったい、首吊り桜で自殺したことにさせられたのは、誰かなと思ってたんだ。横町にそういう事件がなかったなら、おそらく何かの間違いでそういう噂が立ったんだよ。そのお婆さんはきっと、恋人に振られて町を出て行ったんだろうな。その失踪事件が、いつの間にか自殺と解釈されて、そして首吊り桜を生み出したのさ」

 ……私は何も言えなかった。望遠鏡で遠い遠い銀河を見ているような気分。それが現実なのかどうか、誰にも分からない。

 光一自身、足下が不確かなことを自覚しているのか、ハハッと自嘲気味に笑う。

「ま、全部俺の妄想だけどな。……それより、急がないと集合時間に間に合わないぞ」

 光一の無邪気な声に促され、私たちは古典研究会の部室へと駆けた。

 辿り着いたときには、既に和室は一杯。みんな座布団を敷き、一斉に私たちを眼差す。私と光一は軽く挨拶をした後、上履きを脱いで、最後に余ったふたつの座布団に正座した。

 着席と同時に、カチリと時計の針が三時を指す。

「それでは、一学期最後の例会を始めたいと思います」

 その声に、私はぎくりとした。……東雲さんだ。

 そっか……二年生だから、研究会の会長をしてるんだ……。

 私は彼女を見ないよう、方形に囲まれた和室の中央を見つめ続けていた。その間、会員たちは順番に和歌を披露する。拙い歌、巧い歌。そんなことは、今は関係ない。彼らは、それぞれ自分の思いを込め、すらすらと和歌を読み上げる。

「では、最後に会長の歌をお願い致します」

 それまで司会を務めていた会長の代わりに、別の男子が厳かにそう告げた。

 そうだ、彼女が最後なのだ。私はなぜか、そのときだけは目を逸らしてはいけない気がして、恐る恐る床の間の方を眼差した。

 ……凛とした、私の知っている東雲さんが、そこにはいた。

 彼女は桜色の短冊を手に、しばらく呼吸を整え、それから目を閉じた。それを訝った男の子が、もう一度声を掛けようと身じろいだ瞬間、彼女の唇が動く。


 花霞 浮かれ騒いで 目の覚めて ひとり遊びと 知れる恋かな


 部室は静まり返った。褒める人も、貶す人もいない。むしろ、その詩歌の裏に隠された意図を読み取ろうと、みな嶮しい顔立ちをしている。

 そんな重苦しい空気の中、私は唇を噛み締め、両手に拳を握っていた。……どうして気付かなかったんだろう。あのとき一番傷付いたのは、ほのかちゃんではなく、東雲さんだったことに……。彼女は、恋人のいる人に恋をした。それは決して叶わず……そして、あの桜に願掛けをしてしまった。桜の伝説が暴かれたとき、彼女はどんなことを思ったんだろう。くだらない遊びを見透かされた、子供のような恥ずかしさを覚えたのではないだろうか。真剣な恋心が、まるで児戯のように嘲笑われる空気を、私たちは作り出してしまった……。

 隣に座る光一も、酷く悲しげな顔をしていた。吹っ切れているのは、床の間に飾られた掛け軸を背に、神妙な顔をして短冊を持つ東雲さんただひとり……。

 歌合わせは終わった。そして私たちの過ちもまた、三十一(みそいち)文字の向こう側に消えた。

和風の都市伝説ものです。『遠野物語』を読んで、いつか書いてみたいと思っていた作品でした。謎解き要素よりも、「都市伝説の発生する過程」の記述に重点を置きました。民間伝承と、元ネタになった事件の有無については、どうしてもオカルト的要素が入り込んでしまうわけですが、そういうところの推理も面白いと思っています。吉本隆明『共同幻想論』などは、民間伝承には心理学的発生過程があるという前提を取っています(個人的には眉唾です)。



***The Next is:『静かに唄う日陰の透明』

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