しのぶれど
Author:大和麻也
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百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
百人一首の最後を飾る、百番目の歌。貴族が栄華を誇った時代の終わりが近づき、順徳院が荒れ果てた内裏を見て嘆き悲しんだ歌だ。こののち後鳥羽院による鎌倉幕府討伐の『承久の乱』に巻き込まれた順徳院は、京の都から追放され、現在の新潟県佐渡島で一生を終える。
おれはこの歌がなんとなく好き。理由を問われると困ってしまうが、さんざん豪華絢爛に威張り散らしてきた貴族や公家が痛い目を見て愁いでいる姿を想像すると、『ざまあみろ』とばかりに気分が良くなるのだ。
適当なところで満足できない欲深な人間が滅ぶのは、世の常というもの。おれは十二世紀の平安貴族や十六世紀の戦国武将たちに尊敬など抱かない。かわりに、十九世紀市民革命後に保守化していったヨーロッパの農民たちを讃えよう。
図書室の柔らかな椅子に背中を預け、上を見る。見えるのは電球なり煙探知機なりに違いはないが、ただ意味のないところを見ているだけで、何となく気持ちが良い。
「何してるの? 保一くん」
突然声をかけられ、椅子もろともひっくり返りそうになる。
「驚かさないでください、あい……もとい、和花先輩」
長い黒髪、ぱっちりとした目、コスモスの如く穏やかながら明るい雰囲気と笑顔――そこにいたのは生徒会長さまさま、三年生の相原だ。何やらノートやら問題集やらを抱えている。
「気を抜いていたのは保一くんでしょ? 図書室にいるなんて珍しいね」
「そちらこそ」
「わたしは奥で勉強していたんだよ。きょうは六限目がなかったからね」
相原の選択科目は知らないが、三年にもなればそういう日もあるのだろう。
生徒会長は問い直す。
「それで、保一くんは?」
「おれも課題をやっていました。古典のレポートでして、毎週百人一首について品詞分解なり時代背景なり、まとめねばならんのです」
「へえ、そんな課題もあるんだ……あれ? 一年ってざっくり言えば五十二週間だよね? 百首もレポート書けないんじゃ――」
「長期休業中にたくさん出されるんですよ」
「ああ、そっか」
成績こそ優秀であるというが、間抜けな三年生である。
「あ、保一くん。ここは連体形じゃなくて終止形だよ。それに、詠嘆の助動詞ね」
「へ?」
身を乗り出し、相原はおれのレポートを指差しながら懇切丁寧に説明しはじめる。
「この『や』は間投助詞だから係助詞じゃないの。だから、最後を連体形にする必要はないし、そもそも係助詞『や』の文末は已然形でしょ。……品詞分解、苦手なの?」
頭はいいのだ。認めたくないが。
「ええ、苦手ですね。分解なぞせずとも意味くらい、ちと読めば判るではありませんか」
「いや、それってすごいことだし、現代語なら共感するけどさ、テストで点は取れないよ。
……それにしても意外だね。図書室で勉強しているなんて。亡くなったお父さま、確か文学部卒なんでしょ? 百人一首の本くらいありそうなのに」
「当然ありますよ、読んだこともありますし。しかし、父の書斎に入ったが最後、面白い本がありすぎて勉強などそっちのけです」
相原は苦笑する。
「さて」おれは会話を切り上げる。「閉館時間ですし、おれは帰るので、失礼します」
「あ、待って」相原は荷物をまとめはじめる。「わたしも帰るから、一緒に帰ろう?」
ああはい、そうですか。
*
我が校の図書室は、盗難防止のため部屋の外のロッカーに鞄を入れておかねばならない。百円を生贄とするこの箱に対して生徒からは苦情が殺到しているが、防犯とあれば致し方なし。以前どこかの不届き者が本を盗んだのだろう。
鍵を回して担保を返してもらったとき、相原が声を漏らす。
「……あれ?」
「どうしました? 忘れ物か何か?」
忘れ物なら、取りに戻ったときに相原を振り切ってしまいたい。面倒だから。
しかし、おれのささやかな期待は裏切られる。
「ねえ、このロッカー。何も入っていないのに鍵が閉まっているよ」
余計な厄介事を持ち込まれた。こういう些細な疑問に対して、生徒会という仕事柄のせいか、相原は非情に目敏い。となると、その疑問をおれにぶつけてくるから面倒なのである。
だから、おれは全力でそれを回避しにかかる。
「図書室の中に誰かいるのでは? 荷物の多くは教室のロッカーに置いて、たとえば財布のような小さなものを投げ入れておいた、というだけのことかもしれません」
相原は上の方のロッカーを指差していた。背の低い相原だから、ロッカーのガラス窓から中をちゃんと見ることはできていない、そう思ったのだ。
だが、適当にあしらったことがかえって相原に火を点け、事態を悪化させた。
「いいや、図書室にわたしたち以外の人はいなかったよ」
今度は図書室を指差し、期待を爛々と輝かせた目でおれを見る。
図書室を見るまでもない、図書室は閉館時間。おれたちのあとに続いて出てきた生徒はいなかったから、相原の言っていることは事実と見てよかろう。さすれば、
「……いませんね。じゃあ、せいぜい悪戯でしょうや」
「そんな! ロッカーの中もちゃんと見ていないのに?」
「いやしかし、和花先輩の身長では中は見えんでしょうが。おれとて、中をじっくり見回せるような身長はありません」
事実、一番上の列は高すぎて、利用する生徒はほとんどいない。重い荷物など入れようものなら、取り出すときに落ちてきて顔にぶつけてしまう。それくらい高いのだ。
むう、と相原はむくれる。少々いい気味だ。
しかし、こういうときに相原は食い下がるから面倒極まりない。
「ねえ、保一くん。しっかりチェックしようよ。変なものが入っていたら困るじゃない」
「ああ、はいはい。どうやって?」
「ええと……」
相原は辺りに踏み台になるものがないか見回す。おあつらえ向きなそれがないと解ると、数秒間考えてから、こともなげに言う。
「肩車……?」
本校女子の制服はスカートである。多くは語るまい。
*
十七年の人生のうちで、これほどの屈辱と羞恥を味わったことはあったろうか。
そんな涙ぐましい骨折りの結果、相原がロッカーのガラス窓を覗き込んで目撃したものは、
『何か白くて細長い……厚みのある紙だね。封筒だと思う』
封筒、か。意味はありそうだな。
自転車にまたがったところで、ふと相原を振り切って逃げてしまおうかと考える。しかし、相原はしっかりと校門で待っていた。
「さ、駅までですよ」
「うん!」こういうときの相原の幸せそうな顔は、見ていていささか困惑する。「でも、いま逃げようかなんて考えたでしょう?」
「まさか」
「……保一くん、自分は噓が下手だってことを自覚した方がいいよ?」
悪うございやした。
さて、と相原は話を切り替える。
「ねえ、どうして封筒なんてロッカーに入れているのかな?」
「さあ……」
どうにか出し抜けられないだろうか。考えているふりをして駅まで行ってしまおう。
「保一くん、ケーキでも奢ろうか?」
よし、事情が変わった。
ちと頭を使うようだな。
「では、和花先輩なら何のために封筒をロッカーに入れます?」
「そうだね……文通なんてどう? 人に見られたら恥ずかしいでしょ?」
「なるほど、解りますよ。人に見られたり盗られたりしたらまずいものだから、ああして高い位置のロッカーにわざわざ入れて、百円を犠牲に施錠までしているのでしょう。それはまず間違いないと思われます。
しかし、文通だとすれば三点おかしなところがある。ひとつ、ロッカーに入れるのならわざわざ封筒を使うのか? ふたつ、ロッカーの高いところに入れるということは背が高いということ。要するに、高校生の男が文通などするのか? そしてみっつ、ロッカーのひとつのボックスに対し、鍵はひとつしかない。複数人で行う文通を隠すには、向かないでしょう」
ぽかんとしていた相原だったが、しばらくすると理解した。
「うん、よく解った。保一くんの言うとおりだよ。……じゃあ、犯人が隠したのは人に見られたくなくて、盗られたくないもの。そして、それは犯人ひとりが使うもので、その犯人は背の高い男の人。これであってる?」
「ええ、そのとおりです」
おそらくこの件は封筒の中身について考えれば、犯人が男であるという予想が立っているのだから、結論へは簡単に辿り着けるだろう。では、男が封筒に入れて隠したがるものとは何か?
まあ、そんなことは自明のことだ。
「和花先輩。あすこには確かにまずいものが入っている」
「え? まずいもの? それは、どういう意味?」
「もちろん、紛失したらまずいものであり、他人に見つけられても充分まずいものです」
「それって?」
「金ですよ、カネ。大金が入っているのでしょう」
再びぽかんとしていた相原だったが、理解したときには顔を青くした。
「ええ! お、お、お金?」
「はい、お金ですよ。封筒を使う理由にもなります」
白い封筒に入れる、という時点でだいたい想像がつく。大金がロッカーにあると知られれば学校中で騒ぎになるだろうから、隠しておきたいはずだ。もちろん、盗られるのもごめんである。
しかし、相原は納得していない。
「どうしてそんなものを? 普通、学校に置いておこうなんて思わないよ」
「まあ、金庫代わりにしているのでしょう。普通置いておこうと思わないからこそ、隠せるのではないですか?」
「ううん……わざわざ?」
「和花先輩程度に賢ければ、なかなかない発想かもしれませんね。家の貯金箱やタンスの奥に貯金しても、すぐに使ってしまうような、カネの使い方に計画性のない男だったのでしょう」
「計画性、ねえ……なら、どうして計画的に使う必要があったのかな?」
まったく、この先輩はまだ知りたいのか。
「じゃあ、その続きはケーキでも食べながら」
「……ああ、そうだったね。奢るんだったね」
相原は顔をしかめた。これぞ計画的なカネの使い方である。
*
ケーキが傾き、コーヒーが物足りない温度になるころ、相原が話を再開する。
「ねえ、犯人はどういう目的でお金を学校に置こうと考えたのかな?」
「それですか」おれは椅子にもたれかかる。「カネの使い方など人それぞれですからねえ……しかも、それなりに大きな額と思われますし」
相原はおれを睨みつける。ちと迫力には欠くが、相原の不機嫌はおれとて苦手だ。
仕方がない、ケーキの糖分も脳に届きはじめた。頭を使うとしよう。
「まあ、大きなカネがある、あるいは大きなカネを貯めているとき。だいたいの場合、目的はみっつに限られる」
「というと?」
指を一本一本立てていって説明する。
「ひとつ……誰かに渡す。ふたつ……ただ貯めておき、非常時のカネにする。みっつ……高額なものを購入する」
相原は首を傾げた。おれは指を順に立てながら端的な説明に肉づけをしていく。
「ひとつめ。誰かに渡すとはつまり、カネを貸すか、借金を返すか、ということ」
「ううん……」おれを斜めに見つめたまま、相原は喉の奥で唸る。「高校生でそんなことするかな? するにしても、大きな額になる? 第一、一回渡せばいいんだから、貯めておく必要はないでしょ?」
的確な反駁である。
「まあ、おっしゃるとおりですね。小遣い何か月分にも値する貸し借りは、高校生同士でできるとは到底思えませんな。それこそ、金の使い方に慣れている人間のすること――すなわちロッカーを金庫にするような輩には高額の貸し借りなどできやしない。
おれもそう思って、金銭授受の可能性は低いと考えますが、されどロッカーをひとつ不当占拠している。この時点でイレギュラーなのですよ、おれや和花先輩のように資金繰りの賢い人間にとっては」
「そうは言われても……」
納得いただけない、か。
ひとつの結論が欲しいのだから、動機を一般化できなければ仕方がないのは解っている。もっと誰にでも当てはまる、妥当で合理的なことが理由なのだ。いちいち例外など考えていたら埒が明かない。
ゆえに第一の説は、却下だ。
おれは会話を再開する。
「では、ふたつめ。金庫代わりにしている」
「うん、それが理にかなっている気がする」相原も頷く。「保一くんが考える犯人像は、お金があるとすぐに使いたくなってしまうような、お金の使い方が上手じゃない人なんでしょ? だから、お金が足りなくなったら、たくさん保管しているお金からちょこっと取り出して、ピンチを乗り切るんじゃないの?」
「……しかし、それには理にかなわないところが」
え? と相原が漏らす。おれとて、この説を否定すると選択肢が減るからもったいない。
「カネが足りなくなったときに取り出すとしたら、学校を保管場所に選びません。何せ、カネがなくなる緊急事態とは、まず学校では起こりえないはず。金欠で苦しむにしてもせいぜい自販機の缶コーヒー一本買えるか否かでしょうよ――ならば、そこらの友人にでも借りればよかろう」
「そっか……それもそうだね」
これには相原も、すとんと腑に落ちた。
当然、封筒に小銭が入っている可能性もあるが、それなら隠し場所は必要ない。鞄の滅多に開けないポケットにでも突っ込んでおけばいい。すなわち第二の説もお払い箱。
よって、残るひとつの可能性は、
「高額の買い物をする……か」
しかし、これはまた範囲が広くて気に入らない選択肢だ。ここから絞り込むしかないのは承知の上だが、嫌な手間だ。
少し、相原に投げてみる。
「和花先輩が思うに、高校生にとっての高い買い物とは何ですか?」
「え? 何だろう……CDとか?」
「その程度ならひと月ぶんの小遣いでも、どうにかやりくりできそうですが」
「旅行?」
「犯人はひとりでカネを貯めている。まさか一人旅をするとも思えませんな」
むう、とついに相原はむくれてしまった。抗議の視線がおれに向けられる。
「じゃあ、保一くんが考える、犯人の高い買い物って何さ?」
「そうですね……パソコン?」
「保険の契約とかがあるから、子供だけじゃ難しいよ。それにお小遣い何か月分なのさ」
「なら、本棚とか?」
「学校帰りに買わないよ。それに本棚ごと足りなくなる高校生っていまどき……」
「部活の道具。野球部のグラブとか、サッカー部のスパイクとか」
「部費もそれなりに出るし、親御さんに理解されない買い物ではないだろうから、高校生が自力で買うのかな?」
「ええと……ケーキ」
「それは保一くん!」
疲れた。
相原が支払いを済ませ、おれたちは店を出た。
空は夕日が姿を消したちょうどそのときで、幻想的に美しい光を放つ。そんな空の明かりに照らされ少々色っぽく見える相原は、人差し指を唇に添えて静かに独り言を漏らす。
「ケーキ……そうだ、ひょっとすると――」
*
「誕生日なんだよ」
相原は自転車を押すおれの前に回り、おれの顔を覗き込むように体を傾け上目で言ってきた。
「和花先輩の誕生日は三月でしょう?」
「いや、そうじゃなくて」
「おれの誕生日は四月です」
「だから違うんだってば!」
閑話休題。
相原はえへん、と咳払いの演技をしたのち、自信たっぷりに話す。
「その犯人の男の子、きっと彼女さんがいるんだよ」
「はあ?」
「『はあ?』じゃないよ。だから、大切な恋人のために、お小遣いを使うのを我慢して、せっせとお金を貯めているんだと思う」
理由としては妥当、か。
しかし、状況証拠にはそぐうのだろうか?
「何に使うのです? 封筒に保存するような額です」
「お誕生日パーティー、なんてのは? ホールケーキ買って、ジュース買って、プレゼントも買うの」
「いや、それなら個人で高いカネを用意しないでしょう。パーティーはふたりでやるものじゃない」
相原は憎たらしそうに歯を食いしばって見せる。せっかくの顔が台無しだ。
そして、すねた子供のように吐き捨てる。
「じゃあ、保一くんは何だと思うのさ!」
……あ。
おれは視界の端に、その店舗をはっきりと捉えた。これは、間違いない。
「和花先輩……間違ってはいませんよ。大切な人、誕生日、プレゼント――」
「間違ってない、って?」
「あれを見れば解ります」
おれはその『店舗』に相原の視線を向けさせてやる。
そう、そこは……
「質屋、さん……?」
そのとおり。
金遣いの荒い男子高校生は、小遣い数か月ぶんものカネを貯め、大切に見つからないよう保存――そして、愛しの恋人あるいは片思いする高嶺の花のために使おうとしている。購入するのはおそらく誕生日のプレゼント。質屋で買う、きらびやかなアクセサリーの類を贈ろうと考えているのだろう。
多くを語らずとも、相原はすんなりとおれの考えを飲み込んだ。
「そうか、そうかもしれない!」
自分たちのことでもないのに、相原は嬉しそうに笑顔の花を咲かせる。つくづく見ていて小恥ずかしくなる、美しい笑みだ。
小恥ずかしいから、おれは相原がはしゃぐのを遮った。
「まあ、せいぜい今回のことは――」
相原が小首を傾げ、続きを待つ。
おれはすっと息を吸ってから、いささか見栄を張って続ける。相原もおれの言いたいことを理解し、合いの手を入れてくれた。
百人一首の――確か四十番だ。
「しのぶれど」
「色に出でにけり、わが恋は」
「ものや思ふと、人の問ふまで――――」
『<甘いもの>シリーズ』より http://ncode.syosetu.com/s1130b/
***The Next is:『首吊り桜』




