先輩と僕
Author:六車むつ
◆ ◇ ◆
僕がその人を「先輩」と呼ぶのは、同級生が彼をそう呼んでいたのを偶然耳にしたからだ。
僕が先輩について知っていることは多くない。それでもひとつ確かなのは、彼が少々風変わりな趣味を持っているということ。
僕と先輩が初めて顔を合わせたのは、夏が始まる少し前。使われなくなって久しい旧校舎の男子便所の中だった。
その日も僕は、昼休み開始の合図に背中を押されるようにしてそこへ向かった。新校舎の裏、雑木林を挟んだ所にある旧校舎の一階。昇降口から一番近い男子便所。
教室中から疎まれている僕は、代わり映えのしない昼食を胃袋へと流し込む作業をするためにここを利用している。
少し前までは、僕にも便所飯を囲む程度の仲間がいた。特に顔も名前も覚えていないけれど、きっと僕のような薄暗い、表情の冴えない生徒だったのだろうと思う。
僕にとって、仲間というのはそういう括り。それ以上でも以下でもない。だから、姿を見せなくなった仲間についても追いかけるような真似はしていない。
狩る側は狩られる側に選ばれたりしなくても、狩られる側は常に狩る側に選ばれる。僕は不運なことに選ばれた側だ。
狩られる、なんて大層な言い方をしたけれど、実態はそう派手じゃない。
ゴミを投げられる。散々無視された揚句、変な目を向けられて、笑われる。
現実はそれくらいだ。後者に至ってはもはや害でもなんでもない。
いじめというにも生温いこの待遇を、僕は特に悲観していなかった。もちろん、好ましく感じているわけでもない。ただ、そういうものとして受け止めざるをえなかった。それだけだ。
やり返すほどの度胸はないし、かといってこの世から消えてなくなるような勇気も持ち合わせていない。
似たような扱われ方をされる存在なんて、この世の中に掃いて捨てるほどいる。
そう自分自身に言い聞かせながら、僕は定位置になっている一番奥の個室に入った。
新校舎の建設を機に、便器を外され水道も混凝土で埋められた個室は、ちょうど落ち着く広さだ。
一番奥にだけある小さな窓から見える街の景色もなかなか気に入っている。
今日の空には雲が多い。青々とした稲がけだるそうに揺れている。その奥にある住宅街の屋根は最近数も色も増えてきた。
「はなこさん、あそびましょう」
窓から視線を外し、袋から昼食を取り出そうとした、まさにその時。
小学生が屋外から友人を遊びに誘うのとそう変わらない調子の声がした。
声の主は返事を急かしているつもりなのか、僕のいる個室の木戸を軽妙かつ断続的に叩いている。
「はなこさん、あそびましょう」
僕はおにぎりをひとまず諦めて、反応をすることにした。せっかく静かだったのに、という怨みも少しだけ乗せて。
内側に開く戸を少しだけ引き、外の様子を窺う。
同級生ではない男子生徒がいた。
男子生徒は僕の視線に気がついたらしく、にこりと笑って片手を胸の高さで緩やかに振る。
脱色でもしたのか真っ白な髪が印象的で、貧弱そうな体格ながら、そこはかとなく優しそうな雰囲気を醸す人。
僕が後に先輩と呼ぶその人だった。
◆ ◇ ◆
「おれ、七不思議とか都市伝説とか、すごく好きでさ」
先輩は、あまり一般的とはいえない嗜好を、目をきらきらさせながら語り出した。
病的な色彩からは想像できないような活き活きした語り口だった。
僕達は旧校舎の中央、一階と二階を繋ぐ階段の踊り場に移動している。
こうなったのは、先輩が人懐っこい笑みを浮かべ「昼飯、一緒に食べようよ」と誘ってきたのを断る理由が見つからなかったからだ。
「不思議なことが起こった現場を足の裏から感じるために、いろんな所に行くのが趣味なんだ」
つい先日までは雪男を探しに海外の雪山まで行っていたのだそうだ。
僕は適当に相槌を打ちながら、おにぎりを口に運ぶ。
合間に、あの時なぜあんな呼びかけ方をしたのかと尋ねたら、先輩は「学校のトイレに対する礼儀」という常人には理解し難い理由さらり返してきた。
ヒトよりモノの方が大事なんですね。頭が下がります、本当に。
「――ああ、そういえば。知ってる? この学校には【のっぺらぼう】が出るんだって」
僕の手元にあるペットボトルの蓋の隙間から二酸化炭素が逃げる音とほとんど同時にそう問い掛けられて、僕は間の抜けた声で固有名詞だけを復唱した。
先輩は口数のわりに食事が早い。誰かの手作りらしい特大の弁当を完食し、これまた大きな羊羹に食いつきながら首肯する。
学校で噂される話にしては、走る人体模型や動き回る二宮像よりも、よっぽど地味だと僕は思った。
のっぺらぼうとは、一般に目鼻口のないのっぺりした顔の妖怪のことだ。
夜道の片端にうずくまっては、声をかけてきた人間を驚かす。正体については化け狸の仕業だとか顔を焼かれた死体の怨念だとか言われている。勿論真実なんて分かりはしないので、眉唾な憶測は今日でも疎らに浮かんでは静かに消えている。
しかし、先輩のいう【のっぺらぼう】とそれは少し違うのだそうだ。
この学校に現れる【のっぺらぼう】は、一人歩きをしている人間を見つけると、「顔を返せ」と追ってくるらしい。
「今回は【のっぺらぼう】を探そうと思って、ここまで越してきたんだ」
先輩は、にこにこ笑っていた。
僕はといえば、開いた口が塞がらない。
先の話を聞く限り雪男とは会えなかったようだし、この趣味は結果ではなく過程を楽しむものなのだろうと解釈することにした。
◆ ◇ ◆
僕が先輩と昼食の時間を過ごすようになってから、十日が過ぎた。
先輩はいつも決まって僕より少し遅れて男子便所に現れて、昼食を共にしようとあの踊り場へ誘ってくる。
そういう感覚に久しく触れていなかったせいか、どうしようもなく先輩の調子に呑まれてしまったけれど、特に嫌な感情は湧かなかった。
僕たちはいつものように、当たり障りのない適当な会話をしていた。
お互い名乗りもしなかったし、先輩も無理に聞き出そうという意思はないようだった。
この日の話題は、旧校舎に触れた。
先輩は、興味深そうに周りを見回しながら言う。
「ここって、なんか不思議だよね。木造校舎にしてはちょっと洒落てるっていうか」
確かにこの旧校舎はいかにもな日本の木造校舎ではない。
西洋建築的な雰囲気のある建物だ。
旧校舎の更に前に建っていた校舎が火事かなにかで損壊したために、建て直したのだと聞いたことがある。
それでも漏れなく老朽化の道を辿った木造の校舎は、床を踏めば軋むし、扉という扉はいつ外れてもおかしくない。窓硝子は割られ放題で、室内にも関わらず雑草が強かに伸びてきている。
今までがどうであれ、廃墟というに相応しい忘れ去られた過去のものでしかない。
「おれは好きだけどなあ。木造の廊下とか、なんかワクワクするじゃん」
先輩はいつものように優しく笑った。
僕は、先輩のようにはこの場所に愛着が湧かない自分をひどく味気ないものに感じている。
◆ ◇ ◆
「いつもそれなんだね」
十二日目、先輩は僕の昼食を見つめてぽつりと言った。
侮蔑でも呆れでもなく、単に思ったことをそのまま口に出したらしいそれは、幼い子供が毛髪の薄い成人男性に対して「ハゲオヤジ」というような無邪気さがあった。
確かに先輩の弁当の中身は日によって違うが、僕が昼食に選ぶものは決まっておにぎりとコーラだ。
昼にそれ以外を食べようと思ったことはなかったし、それについてなにか言ってきたのは先輩が初めてだったので、どうしていいのか分からずに、僕はコーラの容器に視線を落とした。
おれはおにぎりには玄米茶派だな、と言いつつ生姜焼きを平らげた先輩は、自分の水筒から玄米茶を分けてくれた。
熱い茶の香ばしさに鼻孔をくすぐられながら【のっぺらぼう】は見つかりそうですかと尋ねると、先輩は眉毛を八の字にして笑った。
玄米茶は確かにおにぎりとの相性がいいと感じたけれど、何故だか僕は次の日もコーラを飲むのだろうと思ったし、実際翌日も翌々日も甘ったるい炭酸を飲んだ。
◆ ◇ ◆
【のっぺらぼう】は僕自身なのではないだろうか。
それは、先輩から【のっぺらぼう】の話を聞いた時から、心のどこかでずっと抱えていた。
先輩が不自然なくらい自然に僕に関わってきていたせいか、いつの間にか埋没してしまっていた考えを掘り返されたのは十四日目のこと。
いつもなら、始業の十分前には旧校舎を出る先輩が、どうしてだか始業の合図があるまで眠りこけていた。
この日の先輩は食事中も終始舟を漕いでいたから、起こすのが気の毒だと思ってそっとしておいた僕にも責任はある。
たまには先輩とサボるのも悪くないかもしれない、なんて考えが罰当たりなことも分かっていた。
それでも穏やかに胸を上下させ眠っている先輩を、何もせずにただぼんやり眺めていた。
「――時間」
「ぐおぅっふ!」
踊り場に大の字になったひどく無防備な寝姿は、突然現れた第三者によって無遠慮に腹を足蹴にされる。先輩から珍妙な音が出た。
ギシギシ音を立てる床を歩いて来るしかないこの場所に、気配皆無で近づいてきたのは、黒い髪で痩身の生徒。
初めて先輩がやってきた時だって、気配くらいは感じられたのに。
あまりの驚きに声が出ない。先輩とは違って無愛想な顔面が、僕の背中を更に冷やした。
「んん……。ああ、おはよ」
足蹴にされたにも関わらず、先輩は目を擦りながら暢気に黒髪に挨拶をした。
「担任、お前、探してこい、言った。お前、関わる、いろいろ、メンドウ」
「あれ、もうそんな時間だったんだ」
気心を知った仲なのだろう。唐突に始まった二人の会話も行動も、異常なくらい自然なものに見えた。
疎外感。
それ以外に適切なコトバが見つからない。
「――じゃあ、またね」
天井に向かって伸びをしてから、笑って手を振る。いつもと同じ別れ方。
それなのに、まるで何もない場所に向かって話し掛けている人間を見るような――そんな怪訝の視線が黒髪の生徒から先輩に向けられたのが、ただ痛くて、苦しい。
もしも、「ちょうだい」と言えばもらえるのなら、僕はあの黒髪の生徒に言うだろう。当然みたいに先輩の隣を歩ける顔が欲しいと。
四十分間以上を、この不思議な先輩と過ごしてみたい。
二人の背中を見送りながら「顔のない妖怪」という表現に少しだけ笑った。
◆ ◇ ◆
僕が好機を知ったのは、何かの拍子で床に落ちたのだろう帳面を、教室かどこかで拾ったのがきっかけだった。
普段なら他人の持ち物を勝手に覗く真似はしない僕だが、それには奇妙な魅力があった。
気づけば吸い寄せられ、まるで自分の持ち物であるとばかりの自然さと躊躇のなさで手に取っていた。
手の平よりも一回り大きな帳面には、風化ではない古さ――使い込まれた感がしっかりと残っている。
表紙の右下に小さく「T・S」と記名があったが、個人を特定するにはあまりにも貧弱な情報だ。
斜め読みをした内容は授業の板書ではなく、個人の覚書のようなものだった。
「!」
適当に通していた目が、ある一点で止まる。
××中学七不思議・七
【男子トイレの花子さん】
十二時ちょうどに××中学旧校舎の男子トイレの一番奥の個室の前で「はなこさん、あそびましょう」と声をかけると、花子さんに会える。
一人で会いに行くと、花子さんが願いごとをひとつ叶えてくれる。
鉛筆で走り書きされた内容を要約するとこんな具合。
普段食堂代わりにしている場所について、こんな話が出回っていたなんて、小指の甘皮ほども知らなかった。
先輩はこの話を知っていたのだろうか。むしろ、怪談や都市伝説に明るい先輩がこの話を知らない方が不思議だ。
初めて会った時のことが鮮明に脳裏を駆け抜けた。
先輩は【のっぺらぼう】に会うために【花子さん】の力を借りようとしていたのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。
先輩が十二時近くなってから現れる理由がやっと分かった。
先輩は変わり者なりに優しい人だから、僕にどいて欲しいとか一人にさせて欲しいと言えないまま昼食を共にしていたのかも……。
考えれば考えるだけ、辻妻が合っているように感じて、少し薄暗い気持ちになった。
けれど、僕が【花子さん】から顔をもらえたら、あそこを占領する必要も意味もなくなる。
そうしたら次は誰に気兼ねなく先輩が願いを叶えてもらえばいい。
僕は帳面を片手に帰路についた。
◆ ◇ ◆
翌日も、僕は昼休みの開始と同時にそこへ向かった。
いつもと違う点はひとつ。廃墟同然の便所の内装だけ。
途中で誰かに介入されないように、昨日の放課後を使って男子便所の入口という入口を板と釘で塞いだ。
唯一の出入口には内側につっかえ棒を置くことにした。これなら外側からの侵入はまず容易ではないだろう。
穴があく程、擦り切れる程、読み込んだ七不思議の七つ目に関する数頁。
この七不思議を実行するために最も大切な要素は「一人きりで行うこと」。
幽霊話の類なんか信じない質のくせに、出所の分からない走り書きを鵜呑みにして一生懸命にこんなことをして。頭はすこぶる冷静なのに、体は止まらない。
まるで自分の体ではないみたいで。馬鹿げた認識に、自分がどれほど追い込まれているのかを痛感する。
あとは一声、目の前の木戸に声をかけるだけ。
息を深く吸い込んで、僕は一晩かけて固めた決意を投げつけた。
【花子さん】、遊びましょう。
それからの途方もない静寂は、客観視すれば十秒もなかったかも知れない。
その間中、心臓の音だけがいやに大きく聞こえていた。
「……テ、……しテ……」
消え入りそうな声がした。
弄ぶようにゆっくりとボロボロの木戸が開く。
現れたのは煙のような霧のような白いモノ。それは徐々に密度を増して、時に膨らみ、縮んでと繰り返して人らしい形を成していく。
「……返シて」
その一言が聞き取れるようになった頃には、人型は生々しい存在感を持った。
学生服を着た、背丈が同じくらいの人型には目鼻口がなかった。
正確にいえばらしい部分はあるが、顔面に酷い火傷を負った状態に近い。皮膚が爛れて引き攣り、眼窩は空洞。口や鼻も辛うじて穴があるのだと把握できるくらいだ。誰であるか見た目で判別できるだけの個性は完全に失われている。
「顔ヲ……、かお。カオ、か、ヲ……を、かえ、シテ」
どうして……僕が呼び出したのは【花子さん】のはず……。
そのための手順は完璧だった。
それなのに目の前にいる顔のない物体は、どちらかといえば【のっぺらぼう】の特徴に合致している。
足先から、氷水に浸ってゆく。そんな寒気がした。
ずるずると緩慢な動きで近づいて来るそれに対して、頭の中では警鐘が響く。すぐにこの場を離れなくてはならない。
なのに呼吸は、足は、緊迫感にひとつも意思に伴わない。
緩やかな速度で迫り来る人型は、情けない僕を嘲笑うようだ。
「かエして、返しテ!」
知らない、君の顔なんか知らない!
首めがけて伸ばされた白い腕から逃れ、僕はようやく走り出すことに成功した。
閂を引き抜いて廊下へ飛び出す。
砂利でうがいをしているような酷い掠れ声が一際大きさと強さを増し、背中に刺さった。
◆ ◇ ◆
確かに昇降口に向けて足を動かしている。にも関わらず、走っても走ってもボロボロの廊下が続いている。
当然とばかりにそこにある異常に、僕は次の瞬間にも気が狂ってしまいそうだった。
肺が爆発するんじゃないかと感じた矢先、足元で不穏な音がした。
視界が高さを失って、右足に鋭い痛みを感じたのはほぼ同時。
腐った床を踏み抜いて転倒したのだと気づくまで、【のっぺらぼう】は待っていてはくれなかった。
「返しテ……顔を、返シテ」
背後にいる。
体の芯から冷える。奥歯がしっかりと噛み合わずガチガチと鳴った。
どうして。どうして。どうして。
冷たい五本指が頭を掴むのが分かる。
顔の皮を剥ぎ取られるのかも知れない。
僕はただ、堂々と生きられる顔が欲しかっただけなのに。
それさえ身に過ぎた願いだったとしたら、僕はどれほど狭小なのか。
目の前の景色が、全て水面越しのものになったような気がした。
「【のっぺらぼう】みっけ」
全て諦めた瞬間に、場違いなくらい明るい先輩の声が聞こえたのは、都合のいい幻聴に違いないと思った。
◆ ◇ ◆
意識が戻ってから、僕は気絶していたらしいと思い当たった。
清潔そうな天井と消毒液の匂いから察するに、新校舎の保健室なのだろう。
荒唐無稽な出来事を夢と切り捨てようとするのを、右足の生々しい痛みが邪魔してくる。
状態を確認しようと触れた傷口には、見事に手当てがされていた。
「あ、起きた?」
間延びした調子で、寝台を隔てる布を掻き分けてきた先輩が悪戯っ子よろしく笑う。
先輩がここまで運んで手当てをしてくれたのだと思い、感謝と謝罪を伝えると、先輩は首を横に振った。
「お礼なら、おれじゃなくてあっちに言ってあげて」
目隠し用の布を大雑把に開けて僕の右足を指してから、向きを変えた人差し指は、部屋の入口の近くにいた黒髪の生徒に向いた。
一度は僕を無視した人が僕の怪我を経緯はどうあれ気にかけた。その事実にも充分に驚いたが、それを凌ぐ驚きは黒髪が奴隷でも扱うようにして踏み付けていたモノ。
「彼にはおれらがよくよく言ってきかせたから、もう恐がらなくていいよ」
先輩は僕がソレを見た瞬間に息を飲み緊張したのを感じたようで、諭すように笑って寝台に腰掛けてきた。
黒髪は黒髪で、慣れた手つきで【のっぺらぼう】の首ねっこを掴み上体を引き上げて座らせていた。
ついさっきまで命の危険すら感じた存在が、四つん這いの背を踏まれた揚句に正座を強いられているというのが、唐突過ぎて理解できない。
「こういうのは本人同士、ちゃんと話した方がいいと思うんだ」
先輩がしゅんとした【のっぺらぼう】を見ながら僕の肩に手を置く。普段のふわふわした口ぶりとは打って変わって真面目な様子だ。
本人同士? 僕とアレが?
ナニガ ナンダカ ワカラナイ。
思い出してはいけない。
これはきっと、そういう類の記憶なんだと直感が告げた。
「君は思い出さなくちゃいけない」
君自身のために。
先輩の真摯な目が、まっすぐ僕に向けられて、僕は長い長い長い沈黙の後で渋々頷いた。
◆ ◇ ◆
それは、本当に偶然の出会いだった。
最後に誰かの役に立てたのはいつだったか、それすら分からなくなるくらい長い間、僕は一人で個室に篭っていた。
小さな窓から見える景色が少しずつ変わっていくの見ることだけが唯一の楽しみという平穏な日々。
ある日僕は際限ない暇を持て余して、少し個室の外へ出かけてみることにした。
久々に二宮像に会いに行こうかなどと考えながら木戸を開けると、そこに彼がいた。
男の子だ! と、僕は反射的に木戸を閉じた。男の子という種類にはあまり良い印象がない。
男の子が粗野で乱暴で理不尽だということを、理化室の模型からさんざん聞いたことがあるからだ。
けれど、はて、と思う。木戸の向こうの彼は、薄暗い、表情の冴えない幸の薄そうな生徒。
男の子たる印象と真逆の彼に、好奇心がくすぐられて、僕はもう一度戸の隙間から様子を窺う。
彼は僕と目が合うと、ひかえめにはにかんで頭を下げた。
彼が昼食を胃に収めきる間、僕たちは他愛ない話をした。主に語るべき内容がない僕が聞き役となって、日々の天気、好きな教科、好きな本、好きな音楽、好きな映画、その日の出来事。
それから、将来のこと。
楽しかった。願いごとでしか人と関われずにいた僕は、友達ができるというのは、きっとこういう感覚なんだろうと思った。
ただある日を境に、もともと明るくはない彼が一層陰鬱さを帯びた。
あまりその原因に触れて欲しくはないようで、彼は無理矢理な微笑を浮かべることが多くなった。
僕はなんとかしてあげたくなった。彼が望むならなんでも叶えてあげたくなった。
都合のいいバケモノだと知らないようにして過ごしてくれる彼になら。
◆ ◇ ◆
僕が彼について全て思い出した、間もなく眠りに落ちるのにそっくりな感覚に襲われ、次の一瞬には僕は僕だった体を見下ろしていた。
体の持ち主、【のっぺらぼう】こと鈴木太一は心底後悔しているのだと語り出す。
「『イジメられているぼく』と代わってください」
鈴木太一はその願いをもって、おまじないに臨んだ。
だから僕はあの時から今まで「交換に出された鈴木太一」として過ごしていた。
彼が知らない事は知らないし、知る必要のない事も知らずに。淡々と鈴木太一を演じていたのだ。
生活習慣も思考も記憶も、実体の許容範囲を越えないようになっている。交換のおまじないとはそういうもの。
魚が水の中にしか住めない理屈と大体同じだと先輩は言った。
しかしこの自由は、鈴木太一に改めてまざまざと鈴木太一を見せつけた。
鈴木太一は、自分を他人の目から見て初めて自らの言動を悔いていた。自分から動けば違う結果になったであろう、選択はいくらでもあるのに、と。
自己中心的に現状を悲観して、身勝手に顔の交換を持ち掛けた自分が、心底情けないと考えるようになった。
「ぼく、変わりたいんです。誰かと交換するんじゃなくて、自分から自分に」
空っぽの目から、はらはらと堪え切れない感情が零れる。
「それから、いまさらだけど……勝手な願いごとして、本当にごめんなさい」
僕は、初めて出会った彼と同じような顔で笑えただろうか。
先輩は、静かに穏やかに瞼をおろした。
◆ ◇ ◆
「初めからこういう算段だったの?」
終業式の日、賑やかな友人に囲まれて下校する鈴木太一の背中を見て、先輩が意味ありげな視線で問う。
まさか、と僕は首を竦めた。
僕はただ、友達と過ごすのが楽しかっただけ。
「――先輩」
友達を増やしたのは彼の決意だ。
だから僕も決めることにした。
焼け爛れた顔から逃げるでもなく、一向に願いごとも言い出してこない彼と
「僕は、先輩の友達になれますか」
蝉が、元気よく鳴いた。
旧校舎の屋上に注ぐ熱い日差しは、僕の顔を焼いた炎とは似ても似つかない心地よさだった。
***The Next is:『しのぶれど』




