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Up to you

作者: 嚢中之玉

 今日も通学路を全力で駆け抜ける。疲れて息も切れるし、弁当も走った勢いで、母の愛情の形を留めていることはなくなってしまう。それでも走らなければならない。僕にとってそれほど遅刻しないという事は大事なのだ。ましてや朝練をサボった上に遅刻までしてしまったら、校門前で待機している顧問に二重に怒られてしまう。しかし、これは決して怒られるのが怖いから遅刻をしないのではない。また、遅刻が内申点に影響してしまうから遅れたくないという訳でもない。チャイムというリミットを設けて、自分を追い込むという高度な練習なのである。だったらちゃんと朝練に参加すれば、母の愛情もそのままいただくことができるだろうに。と言う人もいるかもしれないが、寝坊してしまったという失敗を、朝走ることで埋めようとする僕の殊勝な努力を微笑ましく見守るに留めてもらいたい。

 中学も二年目になり周りもようやく適応してきたのか、授業中にあれこれと関係のないことをするようになった。漫画を読んだり、手紙を交換したり、携帯を触ったりと、最早真面目立って授業を聞いている人数の方が少ないとしか思えない程だ。それなのに、授業中に出て行ったりする人がいないのは、根っからの日本人の集まりなのだと思う。小学校から中学校に上がる時に恐れを抱いていた当時の僕に、この光景をみせてやりたい。少なくとも、第一ボタンまできっちり留めて数週間過ごすということはなかったと思う。

 放課後になって部活に行く為に靴を履き替えていると、聞き覚えのあるしゃがれ声が、怒気を込めて僕を呼びとめた。

「五十嵐! お前朝練わぁ!!」

 陸上部の顧問で、教科担当は体育の松浪先生が、両肩を震わせて闊歩しながら僕の目の前までやって来た。予期していた事ではあったのだが、今日も僕はこの男に怒られるのだ。ドラマでよく目にする熱血教師は、たくましい身体付きに整った容姿をしているが、現実の熱血教師というのは、年相応に腹を出し、鋭い眼はどこか刑事のようで、とても暴力的なのである。今ではもうイメージしていた理想の教師像は、どこへいったのかもわからない。僕はこの学校の熱血教師しか知らないので、全国平均をとってみたら実はアキラや反町に近いのかもしれないが、僕にとっての現実は、目の前にいる、人というよりは熊に近い松浪先生なのだ。

「今日も目覚まし時計の調子が悪くて起きれなかったんです」

きちんと不参加であった理由を告げて、その見た目では追いつけないであろうという計画の元、僕は部室へと走って逃げた。セットしたのに起きれなかったのだから、目覚まし時計の不調とも考えられなくもない。

 こうして朝練だけは参加が不定期となってしまう僕なのだが、怒ってくれるのは松浪先生くらいで、十六人いる三年生の先輩からは一度も怒られたことはない。野球部やサッカー部、バスケ部や柔道部などでは考えられない話みたいだけど、個人競技が大半を占める陸上部に所属する僕には、先輩からの叱責というのは縁のないものだった。個人種目に出ることを目的としているのだから、自己管理は各自でするべきということなのだろうけれど、愛の鞭はたまに恋しくなるのだ。そう考えると松浪先生は、飽きもせず毎回怒ってくれるのだから、もしかしたらいい教師なのかもしれない。という思案を巡らせながらいつもの練習着にさっと着替えて、何事もなかったようにみんなと一緒にアップを始めた。

 放課後の練習はまず全体で丁寧にアップをして、短距離のメニューを軽くこなす。それはどの競技においても短距離走という種目が、陸上競技の基本となるからだと思う。それが終わるとようやく各種目ごとに別れて行く。どちらかというと弱小に類する僕の中学では、顧問は先ほどの松浪先生しかいないので、長距離部門の僕は、三年生の飯塚先輩が予定したメニューをこなすことになる。飯塚先輩は、五人いる三年生の長距離部門の中では一番早いのだが、僕は入学してからほとんど負けたことがない。そのレベルの学校なのかもしれないが、飯塚先輩は千五百メートルで、県の決勝常連なのだ。僕が入部して初めてのタイムアタックで、先輩の自己ベストより二秒早いタイムを叩き出した時は、多少驚いてから、自分の事のように喜んでくれた。以来僕は飯塚先輩を慕っている。

「先輩、今日の練習はなにするんですか?」と問いかけた僕を手で制しながら「少し待ってな」というと飯塚先輩は長距離部門全員を集めて、一つの円を作った。

「次の記録会まであと十日を切ったので、今週はちょっと厳しめの練習をしようと思う」

と一言だけいって、一週間のスケジュールが書かれた用紙を個人個人に配ってくれた。恐る恐る内容を確認してみたのだが、ちょっとという意味を知っているのかどうか、失礼ながら聞いてみたくなるボリュームだった。よくよく見てみると、朝練のメニューまできっちり組まれている。飯塚先輩の決定なので、出来る限り可能な範囲で、前向きに善処しようと、よわよわしい決意を僕はかためる。

「朝練は今まで来てなかった人もいると思うけど、練習での効果が一番大きいのは朝練だから、今まで来てなかった人も来れるように頑張ろう」

飯塚先輩は僕にではなく全員に言ったのだが、全員にという事は当然僕も入っているわけで……。飯塚先輩に対しても目覚まし時計の不調を訴えるのは忍びないので、先輩用に新たな言い訳を考えることを今日のメニューの副題として、勝手に追記してからみんなと一緒に外周を走った。

 何故先輩はこのような改革を打ち出したのかというと、詰まる所は三年生になったからである。プロ野球でも監督が代われば戦略もかわるし、サッカーも日本代表監督が代われば、召集されるメンツも大きく変わる。さらに言えば首相が代わると政策が一変したりもする。というくらいなのだから、いちクラブのいちリーダーと言えど変わらず、人の上に立つ存在となるのであるから、改革を打ち出したくなるというのは凄く真っ当な意見なのだ。”現状維持では後退するばかりである”とウォルト・ディズニーさんも言うとおりなのだが、現状を維持することの大切さをたまには慮ってほしい。

 外周をいつもより一周多く走り、少しの休憩の後、坂道ダッシュを繰り返した。そうして今日の予定が終わると、全体と合流してきっちりとクールダウンを行い本日のメニューは終了した。勿論いつもよりしんどいメニューをこなしながらでは副題に掲げた言い訳は思いつかなかった。

「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」「お疲れー」

という挨拶が八方から聞こえる。帰る支度を終えても、副題が終わらなかった僕は、未だに部室の椅子で難しい顔をしていた。考える人と間違って、エスキースを始めてしまう人がいてもおかしくない程に考える人に近い様子で座っていた。

「五十嵐、真面目に何考えてん?」

そう言うと、僕の隣で百八十度回転していたパイプ椅子に福田が跨り話しかけてきた。

「目覚まし時計より優れた言い訳」

と真面目に答えると「なにそれ?」の一言だけ言って呆れた顔をしたまま、パイプ椅子を馬のように扱い、片側ずつ上げては落とし、ガタンガタンという騒音を奏で始めた。

「わかったわかった。疲れたしもう帰る」

「よー分かったな。俺の策略を」

この鬱陶しいのが僕の親友、福田結城。小学校からの幼馴染で、現在も同じ陸上部の長距離部門に所属している。福田とは小学校のマラソン大会で、いつも一位を争う五分のライバルだったのだが、ここ最近、こと中学に入ってからは、一度も本番で負けたことがなかった。

 例の策略によって一緒に帰ることになった福田と校門を出る頃には、ほとんど日も落ち街灯も点灯していた。一日の終わりという風情と、朝はほとんど見る事のない景色に、癒されながら黙って歩いた。もうすぐで福田のマンションが見え始めるなと思っていたら、福田が突然口を開いた。

「五十嵐、今日なNHKの人物列伝、結城秀康らしいから見なあかんで!」

「へぇー、その人結構有名な人?」

「あんまし有名ちゃうと思うんやけど、結城やし凄いことは凄いで」

「結城が凄いのかどうかは知らんけど、福田のおかげで戦国時代には興味出てきたし、見れたら見る」

「おう! それとなちょっと聞きたいことあるんやけど」

「ん?」

「飯塚先輩に言われたし、明日から朝練くるん?」

楽天的な福田の声が珍しく、くぐもっていた。

「あー、って感じ」

「俺に言われても何とも思わんと思うけど、お前速いんやしもっと練習しようとか思わんの?」

「うーん。そのうちしようとは思うかな」

「そっかぁ。まぁそのうちやる気出て、めっちゃ練習したなったら俺も誘って。部活終わってからとかでも付き合うし」

「わかった」

「取り敢えず今日は、人物列伝みるんやで!」

「わかったわかった」

 マンションに向かう福田とT字路で別れてから、そういえば福田が僕を練習に誘うのって珍しいかも、などと考えながら家に帰った。玄関扉を開けてただいまというと、奥の方でおかえりーという声が聞こえ、空腹を煽ってやまない匂いがした。今日はカレーだなという確信を得ながら靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。靴の感じからすると、今日も父さんはまだ帰ってきてないらしい。仕事というのは大変で、ネットなんかの書き込みでしか知らないが、理不尽で横暴な上司の無理難題を、安定して上手く処理出来るのかが大切らしい。僕のように安易な言い訳ばかりをしていると首切り、つまり解雇されてしまうのだ。なので、仕事には恐ろしい印象しかないのだが、いつかは自立しないといけない。そのいずれくる将来の為に、僕は日頃からこうして、上手く切り抜ける言い訳を考えているのだ。

 言い訳なんてしていたら、すぐに首切りにあって路頭を彷徨う事になるのではないか。そう思っている方に、僕が悟った真理を一つ紹介したい。昔話の中に、一休さんというお話がある。一休さんとは、上司である和尚さんや殿様が出す難題を、とんちを利かせて解決していくというお話で、昔のお殿様がどれだけ横暴だったのかは想像に難くない。つまり、素晴らしいとんちであれば、現代社会においても通用し、理不尽な上司への対抗手段になるはずなのだ。だから僕は、その光明を頼りに日々努力している訳である。一休さんのとんちが言い訳とは違うと言われてしまえばそれまでなのだけど。

 いつものように、食べてしまえば見た目なんて関係がない、という事を再確認できた弁当の空箱を洗い、風呂に入ってご飯を食べた。

「今日のカレーはいつもよりおしいでしょ?」

と微笑みながら母さんが問いかけてきた。

「いつものと違いが分からないけど、お腹空いてたからおいしい」

「そっかぁ。母さんの愛情が今日は二割増なんだけどなー」

これである。父さんが仕事で遅くなる時が多いせいなのか、母さんはとにかく構ってほしくて仕方ないのだ。

「そうそう。最近ね、お弁当のレパートリーを増やしたいって思うんだけど、何か要望ない?」

「うーん……」

弁当のレパートリーが増えても、食べる段になってしまえばあとかたがないので、なんでもいいのだが、何か言わないときっとこの話は終わらない。なので、今目の前に広がる食べかけのカレーを見て閃いたことを口にしてみる。

「今でも十分だけど、強いて言えばご飯とおかずを分けて持って行ける弁当なら嬉しいかな」

「それねぇ。考えたことはあるんだけど、容器が増えて持っていくのに面倒にならないの?」

「全然大丈夫。分けてくれた方が食べやすいと思うし、そっちの方がいいかも」

当たり前だ。全力疾走で幾重にも揺さぶれた結果、大抵が混ぜ込みご飯になってしまう現状からすれば格段にそっちの方がいい。

「そう? ならたまにはそうしてみるわ」

何気ない会話だったのだが、僕はそこから素晴らしいインスピレーションを得た。


 

 次の日も当然寝坊して、相変わらず自分を追い込む練習をしてから学校で授業を受けた。いつものように、ノートを取ったり、携帯画面を眺めてみたり、深遠なるスカートの奥が見えそうな女子を一瞥、いや十瞥くらいしたり、耐震補強で設けられた斜めに掛かる柱が今日も邪魔だな、とか考えたりして一日を過ごした。授業が終わって部室に駆け込むと、飯塚先輩がすでに着替え終わってストレッチをしていた。

「飯塚先輩来るの早いっすね」

僕は松浪先生から逃れる為に、来れるときは早く来るのだが先輩が早く来ているのは珍しかった。

「新しくランニングシューズ買ったから、ちょっと練習前にならしておこうと思って」

「マジっすか。めっちゃ羨ましい! ちょっと見せてくださいよ」

「それより五十嵐。お前朝練サボったな?」

言われると思っていた。だから昨日苦心しつつも素晴らしい言い訳を考えたのだ。

「すみません。行こうと思ったときに、弁当が出来てなくて」

責任転嫁である。責めることの出来ない存在に僕の睡眠を護ってもらおう、という我ながら上出来と思える戦略だった。

「そっか。だったら仕方ないけど、才能あるんやからあんまりサボるなよ。お前今より練習したら、もっと速くなれるんやから」

「はい。すみません」

それだけ言うと、先輩は立ち上がってグランドに向けて歩き出した。徐々に傾きを大きくし出した太陽によって、辺り一面が日蔭となった部室に残された僕は、昨日福田が座っていた反対向きのパイプ椅子に跨った。不思議な気持ちだった。弁当が出来ずに朝練に出れなかった事を、サボったと捉えられたことではなく、自分より速い後輩に対して、しっかりとエールを送ってくれる先輩という人が。同じ長距離部門で練習している人は、例外なく僕の停滞を望んでいると思っていた。福田にしてもそう。以前は五分の争いをしていたが、今では僕よりちゃんと練習をしているのに、中学に入ってからは勝てないでいる。そんなあいつも僕に練習を勧めてくる。他に勝ちたいから苦しい練習をするのではないのか。勝ちたい相手に発破をかけてどうしたいのか。今まで出会ったことのない感情を、僕は理解することが出来なかった。

 時間がきてみんなでアップを始める。短距離部門のメニューをこなす。その間ずっと考えていたのだけど、先輩も福田も、どうして練習を促してくるのかが分からない。人は生まれた時から、才能という越えられないハンデを背負っている。もし僕が練習を真面目にしてしまえば、今より二人との差が開いてしまうかもしれないのに。考えがまとまらず物憂げな僕をよそに、淡々とメニューは消化されていった。

 各セクションに別れての練習になった。長距離部門の練習は、今日もいつもよりしんどい。先輩も福田もラストスパートをかけて、一生懸命息を切らしながら競い合っている。真剣で、しんどそうに走る二人に、今日は勝たせてあげようと思って、残り数百メートルだが僕はジョグで流した。後続にも面白いように抜かれて行く。時折振りかえってくれる部員もいたが、僕が脇腹を押えてアピールするとそのまま去って行く。

 ゴールすると、みんなしゃがみ込んで休んでいた。

「五十嵐今日しんどいん?」

福田が心配して話しかけてきてくれた。僕は用意していた返事を何食わぬ顔で答える。

「悪い、ちょっと最後で脇腹痛くなって」

「体調悪かったら今日はもうあがるか?」

と飯塚先輩まで気を使って声をかけてきてくれる。二人とも心配そうな顔でこちらをみるのが申し訳なかったので、身体を捻ったり、飛び跳ねたりして問題のないことアピールする。

「いえ、もう大丈夫です」

「そっか。しんどかったら途中で見学とかでもいいから、無理すんなよ」

先輩はそう言って立ちあがり、次の練習メニューをこなす為に移動を始めた。新しいシューズのおかげなのか、足取りはまだまだ軽そうだ。ほかの部員も黙ってそれに続く。変に心配は掛けたくなかったので、その後のメニューはいつも通りこなした。

 クールダウンの時、みんなでジョグをして走っていると、横にいた飯塚先輩に声をかけられた。

「もう大丈夫か?」

「あっ、はい。心配掛けてすみませんでした」

「そっか、ならよかった。明日からも頼むな」

「こちらこそお願いします」

「なら明日は朝練からな」と言われて、あははと苦笑いする。並走する先輩をみると、今日も酷使したであろう足が、さっきまでの軽快さを失い、推進力のないジョグとなっていた。その力のない走りが、いつも通り練習することで忘れていた疑問を思い出させた。


**********

 小学生の頃、僕はスポーツ少年団で三年生から野球をしていた。運動神経も悪くなかったし、チームの中でもそれなりに上手な方だった。土曜日も日曜日も祝日でさえも、休みという休みを野球の練習に充てていた。さすがにお盆やお正月なんかは練習も休みになっていたけど、それ以外は朝から晩まで、飽きもせず毎週毎週練習していたのだ。プロ野球選手になれるとは思っていなかったけど、努力すれば上手くなると思っていたし、実際レギュラーだって取れていた。五年生の中頃だったと思う。チームメイト達の身長が徐々に大きくなり、僕の小柄な体格が一際目立つようになったのは。六年生にもなると、その差はより一層際立ったものとなり、僕のポジションもサードからセカンドへコンバートされた。打順も、八、九番が多くなった。それでも諦めず努力を続けたが、監督の采配は最後まで変わることはなかった。中学に入った時、元チームメイトに野球部への入部を誘われたのだけど、断った。結構速い球でも、振り遅れることはない自信はあったし、バットコントロールだって、嫌という程の練習で身体に染み付いたものがある。守備にしても、球際の強さだったり、ランナーを見ての状況判断が必要な時にも、叩き込まれたプレーが出来る自信があった。でも、それよりも大事なものがあった。あらゆるボールを綺麗に打ち返すことが出来ても、弾き返したボールに勢いがないといけないし、処理が難しい打球を捕球できる技術があって、あらゆる局面に対応できるプレーが出来るといっても、それを生かすだけの地肩がなければ、走者を殺すことは出来ないのだ。野球に限らないが、身長というのは才能という大きな武器だった。他の人と比べて、僕のパワーは明らかに見劣りするという程ではなかったけど、その武器を手にすることが出来なかった僕は、野球の為に鍛えた足腰のおかげで速くなった、陸上というスポーツに逃げることにした。当時、世界陸上で活躍していた男子マラソン選手が、僕と同じくらいの身長だったからというのもあったと思う。なにより、身長によって他人との努力の差を、大きく埋めてしまうことが出来るスポーツに辟易したのだ。

 その程度で入部したのに、長距離走において、僕は意外と速かった。才能という、理不尽な力には叶わないからといって逃げ出した僕が、その才能という力を振りまわして走っている現実に、不合理を感じられずにはいられなかった。でも僕は飯塚先輩よりも福田よりも速い。二人より努力は劣っているはずなのに、才能という絶対的な力で速いのだ。今まで味わった理不尽な現実を、他の人に与える事が出来る状況が、僕に優越感をもたらし、相手より努力しないで勝つこと、つまり才能を見せ付ける快感に陶酔していった。



 いつものT字路で福田と別れてから、喉が渇いていたので、カバンから水筒を取り出して、中身を全部飲みほした。喉を潤す為に飲んだお茶は、簡単に飲み込めて、食道を通り胃に向かって落ちて行く。なにもかもがお茶みたいに、難なく飲み込むことが出来ればいいのに。こうしていつまでも悩んでしまうのは、人の身体のどこかに心という部分があって、心が消化不良を起こしているからなのだとしたら、僕は胃薬ならぬ、心薬こころぐすりというのを発明して、ストレスフリーな世界実現に貢献したい。という荒唐無稽な戯言を、自分自身に紹介しながら家に帰る。福田との会話を続かせることで頭の中をいっぱいにして、余計なことを考えないようにしていたさっきまでの自分が、情けないのは分かっていた。

 今日の玄関情報では、父さんは相変わらずいないことは把握できたが、晩御飯のメニューまでは分からなかった。こういうときは決まって和食で、嫌いな煮物か、大好きな刺身というパターンなのだが、煮物だろうという予想通り、ダイニングの扉を開けたら、醤油と砂糖の甘辛い匂いと、帰りを待っていた母さんが嬉しそうに僕を迎えた。

「おかえりー、もうすぐでご飯出来るから先にお風呂済ませておいで」

いつもより弾んだ声が、僕を少しだけ不安にさせた。

「弁当箱だけ洗ってから入ってくる」

僕はカバンから弁当箱を取り出して、奥の流しまで持っていく。スポンジに洗剤を少しだけ垂らして、よく泡立ててから洗い出す。隣のコンロ前で煮物の面倒を見ている母は、やっぱりいつも以上に機嫌が良さそうに見えた。

「そう言えば翔君、松浪先生に朝練ちゃんと来なさいって言われてるんだってね?」

「た、たまに言われるかな。同じ部の人は結構参加してるみたいで、行ってないと目立つみたい」

唐突な質問に驚き、身体が強張った。僕は泡だらけの手を止めて顔だけを母さんに向ける。母さんは相変わらずぐつぐつと音を立てる煮物から、おたまで灰汁を取っていたのだが、僕の反応だけはちゃんと確認したらしく、悪戯っ子みたいな笑みを浮かべていた。

「誰にそんなこと聞いたの?」

「福田君のお母さんに聞いたのよ。スーパーでたまたまばったり会ってね、世間話程度で済まそうと思ってたら、福田君のお母さんから誘われて駅前の喫茶店でお茶したの」

言い終わる頃には、母さんはコンロの火を止めて僕の方に向き直っていた。まだまだ機嫌が良さそうなところをみると、なにか他にもネタを仕入れたらしい。疎ましい。これほど母さんを疎ましく感じるのは久しぶりだ。

 母さんは基本的に怒らない。というより、母さんの怒ったところを僕は見たことがない。菩薩のような人なのだろうと思われるかもしれないが、普通の主婦が菩薩になれるのならば修行僧の立場がなくなってしまう訳で、母さんは、相手が反応に困ると、すごく楽しそうなのだ。つまり、苛めたくて仕方ないのだと思う。

 僕は再び、弁当箱を洗い出した。蛇口から流れる水が、滝のような勢いになって、周りの音をすべてかき消してくれればいいのに、という思いは空しく、母さんとの会話は続いた。

「福田君ね、中学に入ってからずっと悩んでいたみたいなの。福田君のお母さんが話を聞くとね、五十嵐が俺に勝っても嬉しい顔をしてくれなくなったんだって言ったんだって」

「福田にはもう負けなくなったし、勝てた喜びが少なくなったからじゃないかな」

僕は洗い物の手を止めずに答えた。

「福田君はね、小学校のマラソン大会で、翔君に負けることより悔しい事はなかったんだって。なんでだと思う?」

「ただ単に、負けたから悔しかったんでしょ」

心にもない言葉を淡々と述べる。見透かされないように視線を逸らせていた僕は、蛇口の水を止めて、洗い終わった弁当箱を水切りかごへ移動する。僕の返答に何も言わない母さんを見ると、さっきまでの疎ましい笑みが消えていた。

「福田君はね、翔君は敗けた本人が目の前にいてもおかまいなしに、勝った事を喜ぶって言ったんだって。たまに、悔しすぎて夢でうなされた事もあるっていってたらしいわよ。でもね、逆に福田君が勝つと、翔君は泣きそうに悔しがって、絶対次は負けないって視線で睨みつけてきたんだって言ってたわよ。それなのに、中学に入ってからの翔君は、福田君に勝ってもちっとも嬉しくない感じで、それどころか、勝ったのに悪いことをしちゃったような顔してるらしいじゃない」

いつの間にか母さんから、再び視線を逸らして、さっき洗い終えた弁当箱から滴る水滴を見つめていた。辺りに立ち込める、甘辛い煮物の匂いも嫌だったし、母さんが言わんとしていることを理解するのも嫌だった。福田と飯塚先輩が朝練に来いと言ってきたことも、大好きだった野球を諦めたことも、改めて嫌になった。全部が嫌になって、本当に嫌になった。そして、自分がため込んだ感情も抑えるのが嫌になって、僕はそのまま母さんに言った。

「才能で僕の方が速いんだよ? だから勝っても嬉しいと思えないじゃん。才能があって勝てた、当然でしょ?」

僕の中で、今まで抑え込んでいた黒くて汚い感情を、真黒のまま吐き出した。野球を辞めてしまう時に味わった、挫折という感情を思いだして悲しくなる。

「お母さんね、翔君が野球を辞める時に悩んでたのは分かっていたつもりだったの」

心が大きく揺れている。心臓の鼓動が大きくなる。さっきまで見つめていた水滴が、いつの間にか僕の目に溜まったみたいで、視界がぼやけて仕方ない。ぼんやりと見える母さんの顔は、柔和で優しかった。先ほどの説明を僕は撤回したい。母さんは菩薩のような人と思ってくれて構わないと。急いで、掛っていたタオルを引っ張り、目に溜まった滴がこぼれ落ちてしまう前に拭った。

「もし翔君が、陸上も辞めたくなったのなら辞めても構わないのよ。でも、そうやって挫折ばかりしてたら下ばかり向いちゃう人になっちゃうの。せめて前を向いて生きてほしいから、今回は、辞めるならちゃんと辞めてほしいし、続けるならちゃんと続けてもらいたいの。それとこれからは、悩んでる事でもいいし、勉強の事でも、好きな人の事でだってもいいわ。いつでも母さんに話にきてくれたらいいのよ……きちんと向き合いなさい」

僕は再び目のあたりが熱くなるのを感じて、必死で堪えた。そして小さく……うん。と頷いた。

 すぐにでも母さんの前から逃げたかったのだけど、きちんと言うべきことを言わないといけないと思った。

「ありがとう」

そう告げて僕はリビングから抜け出すと、自分の部屋に逃げ込み隅の方で膝を抱えてしゃがみ込んだ。暗い部屋には、セットしたのに起こしてくれない時計の針が、先端にため込んだ光を少しずつ放って、見当違いな時刻を示していた。




 声に出さず一時間くらい泣いていたと思う。ようやく落ち着いて冷静になった気がした。すると僕の中で何かを求める音が鳴る。母さんと顔を合わせるのは、まだちょっと気まずかったので、お風呂に入ってからコンビニへ行って何か買ってこようと、音に対する答えを画策してから部屋を出ると、母さんが反対側の壁に、少しだけもたれて立っていた。

「翔君。ご飯出来てるわよ」

それだけ言ってリビングの方へ去って行く。

「ありがとう。お風呂出てから食べる」

柔らかそうな背中に、僕はとても感謝して言った。

 さっきから、考えていたことがある。いつもいつも、構ってほしそうな母さんだと僕は思っていたのだけど、本当は分かっていたからだったのかもしれない。母さんは、僕が野球を辞めて、陸上に転向したいと言った時から、挫折に負けてしまわないように、わざと話かけて、相談しやすいようにしてくれていたんだということを。実際は逆効果だったかもしれないけど。ずっと心配をしてくれていたんだと思うと、乾きだしているはずの弁当箱が、再び僕の目に水滴を溜めてきた。

 


 お風呂から出てリビングに向かう。ドアノブを回して扉を開けるだけなのに、ノブを握った手を見つめ立ち竦む。湯船に浸かっている間にも考えてみたんだけど、ただざっくりと、後悔しない生き方をしたいという答えしか出てこなくて、定まった信念に、僕はどう行動していけばいいのか分からなくて、母さんに相談してみようと思ったのだけど、恥ずかしくて躊躇っていた。

 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。母さんがドアホン越しに話しかけているタイミングを見計らって、僕はリビングへと滑り込んだ。問題の先送りにしかならないけど、リビングにいる間に、それとなく話を切り出せばいいと考えた。誰が来たのか気になったけど、用意されていたご飯を食べようと椅子に座った。

「翔君。お友達がきたわよ」

箸を持って、ご飯を食べようとしていた僕に、母さんはいつもの笑顔でそう言った。

「こんな時間に?」

誰が来たのかという質問も兼ねて、母さんに言ったつもりだったのだけど、出てみたら分かるわよと、にこやかに言ったきり、取り合ってくれそうになかったので、僕は食事を止めて玄関へと向かった。

 玄関扉に辿り着くまでに、誰が来てくれたのか予想してみたのだけど、福田しか思いつかなかった。僕の勝手な都合で、今福田に合うのは避けたかったけど、いつまでも外で待たせてしまう罪悪感から、少し躊躇うだけで扉を開けた。

「よう。久しぶり」

福田じゃなくて安堵した気持ちが、これなら福田の方が良かったという思いにかき消されていく。玄関ポーチを下りた先の門扉を隔てて、狩沢慎一郎が立っていた。静かな夜の街並みは、わずかな明かりがぽつぽつあるばかりで、僕と狩沢を照らすのは玄関の外灯だけだった。それでも、泥だらけの練習着と、背負っているバットケースが見える程度には明るくて、僕の気持ちだけが暗かった。



 狩沢慎一郎には才能があった。僕と同じくらいに野球を始めて、試合に出させてもらうのも同じくらいだった。良いライバルだと思っていた。僕が先にレギュラーになって、少しずつ差を広げ出した頃、彼は僕との身長差をひらいていった。しばらくして彼がレギュラーになると、僕では敵わない事が多くなった。それからは、なんでもいいから勝ってやろうと必死に練習したが、最後まで勝ったと言えるものは出来なかった。そして卒業を迎え、僕は陸上の道を、彼は硬式野球の道をそれぞれ歩むことになって、僕の個人的な戦いは終わった。それからは、学校で会う機会があっても話すことはほとんどなくなった。



「五十嵐。今週末の公式戦でな、俺やっと背番号もらったから報告にきた」

門扉を開けようと降りてきた僕に狩沢は言った。今更、なんでそんなことを言いに来たのか分からない。

「硬式のチーム入ったらな、今までやってた時より人数増えて、上手い奴も多なったけど、同い年で俺が一番速く背番号もらったわ」

狩沢が何を言いたいのか分からない。自慢したいだけなら思う存分すればいい。門扉を開ける為に掛けた手を止め、僕はじっと狩沢の話をきいている。

「その背番号をもらう競争の中で、俺さ、勝ったのにそこまで嬉しいと思わへんかったわ。周りのやつにな、いつの間にか負ける気が起きへんかった」

母さんに思いの丈をぶちまけていなかったら、彼が背負っているバットケースから、その中身を取り出して殴りかかったかもしれない。

「何を基準にそんな自信が湧いたんかはすぐわかった。五十嵐みたいな才能あるやつが、チームに誰もいないって気付いてたからや」

かろうじて冷静なのに上手く頭が回らない。狩沢が僕に才能があると言ったような気がしたけど、何も言えない僕は再び黙って聞くことにする。

「お前さ、また野球やろうぜ」

狩沢の言葉が、空気を振動させる。ちゃんとした言語として僕の耳から脳へと伝わって、言葉としての音は分かったけど、意味は理解出来なかった。頭の中で、狩沢が今言った言葉が反芻される。野球をしよう……。そうか、野球に誘ってくれたんだなと分かるまでに時間が掛った。ようやく理解を得た僕は答える。

「俺は陸上で精いっぱいだから……」

冷静だ。狩沢に対してだけ、僕の一人称は俺になる。しっかり使い分けれたし、僕はすごく冷静でクールだ。落ち着いているし、ましてや平静を失ってなんかいない。ただ、野球をもう一度したいという感情が、体のどこかで、冷や汗みたいに滲み出ただけだ。

「福田からきいたよ。小学校の時、チームで一番上手いのに誰より練習してたお前が、あんまし練習しないんだってな」

「一番上手かった? 下位打線だった俺が?」

狩沢を小馬鹿にして言った。その様子に狩沢はやっぱしなぁと言うと、真剣な顔をする。何がやっぱしなのか分からなかったけど、狩沢の顔がどこか嬉しそうにも見えて、何も分からない僕はただ黙った。

「小学校のチームで、俺より上手いはずの五十嵐の起用法がずっと疑問やった。五十嵐より認められたポジションでプレーできてたから、嬉しい気持ちはあったんやけど、ひいき目に見ても俺はお前に、野球の上手さでは勝ってないと思ってたからな。それで硬式のチームに入ってから、今まで敵チームやったやつらと話す機会があって、試しに聞いてみると、俺らのチームで一番警戒されてたのはやっぱし五十嵐で、その起用法は相手チームも不思議に思ってたらしい。そっから話してると、なんで五十嵐は野球をやってないのか何回も聞かれたわ……。なぁ五十嵐、野球やろうぜ」

言い終えた狩沢は、真剣な顔だけど、やっぱりどこか嬉しそうで、僕はこいつと再び野球で競いたいと思ってしまった。



エピローグ

 あれから、僕は狩沢の紹介という形で、硬式野球チームに入団した。

 ボールが違うしブランクもあったから、まだまだ思うようなプレーは出来ないが、すぐにでも狩沢から背番号を奪ってやるつもりだ。なんて言えれば良かったんだけど、入団したての僕は今、フリーバッティングで狩沢が飛ばすボールの玉拾いだ。僕の守っている方ばかりを狙ってくるので、すごい勢いで忙しい。お礼にと、狩沢に向けて外野から思い切り返球するが、まだまだ届かなくて、当ててやる事はできない。絶対に、玉拾い期間が終わるまでには当ててやるつもりだ。

 それから、僕は陸上部を辞めてしまったんだけど、特別に毎日朝練だけ参加させてもらっている。毎日毎日、福田に勝って喜びを声に出して表現する。足腰強化にもなるし、玉拾いのストレスも発散できて一石二鳥だ。飯塚先輩は呆れてるけど。

 最後に、僕は夢ができた。プロ野球選手になって活躍する。それで、オフになったら交流イベントなんかに呼んでもらって、子供たちにいろんな質問をされる。そしたら、周りの大人たちから、子供たちに何か一言お願いできませんかって言われて、僕は子供たちに向かって言ってあげる。

「下手でも、上手い人より練習して上手くなっちゃえばいいし、背が小さくても、大きい人には出来ない事を出来るようになっちゃえばいい。要するに、才能なんて関係ない、君次第だよ」ってね。












最後まで読んで戴きありがとうございました。

心の葛藤を上手く表現できたでしょうか?

まだまだ未熟ですので、ご意見ご感想等ございましたら、お手数ですがメッセージ戴けたら幸いです。

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