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窓辺に咲く紅葉

作者: 夜久野 鷯

 紅葉を見ると思い出す、あのときの日々。


      ◆


 窓から見える世界は変わらないのに、景色はいつだって美しく色づいている。鮮やかで生き生きとした、自然の姿が見える。

 天谷睦美(あまやむつみ)は十四度目の秋を病院で迎えた。ここで歳を重ねるのは、記憶にある中ではもう八度目になる。一向に変わらない現状にはとっくに見切りはつけていた。季節と違って睦美の病状が変化することなど、なかった。

 睦美が入院するのは、横浜第二病院という大学付属病院だ。病院の規模としては大きな方で、屋上からは海を眺めることもできる。病院の中庭には様々な木が植えられていて、その季節の流れが廊下の窓から一望でき、病室の窓からも、遠くの山々や並木道の衣装替えを楽しめる造りになっていた。

 同世代の人たちは、来年高校受験を控えている。昔は、早く病気を治して普通の生活を送ることができるようになりたい、と強く願っていたが、今ではそんな思いもずいぶんと薄れてしまった。無理だろうという諦めと、もうどうでもいいやという虚無感とが混ざりあった、白よりも空っぽで黒よりも闇の深い絶望的な灰色が、睦美の胸を染めていた。

 しかし、それでも睦美はまだ生きている。いつどうなってもおかしくない、という不安と闘いながら、睦美はまだ生きている。もしかしたら、ある日突然病気が治って、退院できる日が来るかもしれない、という微かな希望も、心には確かに存在するのだ。

 混沌とした心情の中で、睦美は窓越しの景色を大きな瞳でぼんやり眺める。

 季節は秋、十一月。燃えるような赤と、鮮やかに輝く黄色が眩しい、そんな季節。

 四年前のこのときは、真壁(まかべ)先生と同じ光景を見ていたなと、睦美の記憶が囁いた。



 久々に暇ができ、真壁聡一(そういち)は迷うことなく五階にある病室へ向かった。自分が担当する患者である、睦美が入院しているのだ。

 ボタンの止められていない白衣が、真壁が動くたびに小さくはためく。短くカットされた、少しだけ色素の薄い黒髪が揺れて、シャンプーの残り香が広まる。軽やかな足取りでその扉を叩いて開けば、同じ部屋に入院している四人が一斉に真壁を振り返った。その中で笑みを浮かべたのは、睦美一人だけだ。


「やあ、お誕生日おめでとう」


 真壁が左手を挙げて見せると、睦美も小さくお礼を言った。目線は合わせてくれない。彼女はいつもそうだ、と真壁は思う。六年間――自分がまだ研修医だった時代を含めるのならもう少しだけ長くなるが、睦美を診てきた中で目と目を合わせて会話ができたのは、両手の指で数えても余るくらいだ。照れ屋なのだろうか、今回も、挙げた手が落ちつかないように空中で彷徨って、そのまま腰の辺りまで伸びた真っ直ぐな黒髪に着地した。


「気分はどう?」

「えっと、悪くないです」


 真壁がやんわり問うと、睦美は俯いて答えた。睦美が小学生の頃から知っている真壁には、その変わらない態度が愛らしく映る。


「あの……」

「なにかな?」

「覚えていますか?」


 視線を窓の奥に向けて、睦美が尋ねる。硝子越しの風景は、息をのむような紅葉だ。


「前に一緒に、紅葉を見たことかな?」

「はい、そうです」


 睦美が嬉しそうに言う。中学生らしい、明るい口調だ。


「四年前の、睦美ちゃんの誕生日だったね」


 真壁は、薄く微笑みながら記憶を辿った。



〈四年前・秋〉

 その日十歳を迎えた睦美は、来年こそは自分の家でケーキを食べるんだ、と決意を固めていた。病院に入院して四年が経っていた。


「誕生日、おめでとう」


 朝の検診で真壁が来ると、そう言って睦美に小さな箱を手渡した。


「ありがとう」


 本当は目を見て言いたかったが、睦美には恥ずかしくてできなかった。それでも、精一杯の感謝を込めて言うと、受け取った箱のリボンを解いて、中身を取りだす。


「うわぁ、かわいい……」


 薄ピンク色をしたうさぎのぬいぐるみに、睦美が声をあげる。それを小さな手で大事そうに胸に抱いて、今度はしっかり目を合わせて「ありがとう」と笑った。


「どういたしまして。喜んでくれて、よかったよ」


 真壁も、睦美の大きな瞳に笑顔を返す。普段は視線を合わせてくれないが、彼女は慈愛に満ちた、優しく美しい瞳をしていると彼は思う。睦美の名に恥じない、そんな目を。


「そうだ。せっかくだからさ、一緒に暫く紅葉を見ていない?」


 真壁が誘うと、睦美は戸惑ったように顔を赤くしたが、やがてこくんと頷いた。

 窓を開け放し、二人でベッドに腰掛ける。紅葉した木々が、風に揺られ葉を落とした。


「僕は、秋が一番好きなんだ」


 ふいに、真壁が呟いた。風に舞う紅葉を見たまま、睦美が理由を尋ねた。


「秋は、落ちつくんだ。春みたいにお花がいっぱい咲いて、きらきらもしてないし、夏みたいに海が綺麗なわけでもないし、冬みたいに雪が降るわけでもないけど。秋は落ちついていて、でもこんなに葉っぱが綺麗で」


 窓の外を眺める睦美に、真壁が優しい眼差しを向ける。


「睦美ちゃんは、どの季節が好き?」

「私は……春が好きかな」

「じゃあ、来年は桜を一緒に見ようか」


 約束だよ、と真壁が微笑んだ。

 睦美も照れたように、胸の辺りまで伸びた真っ直ぐな黒髪を触って、頷いた。



「私、嬉しかったんですよ。あのとき、約束だって言ってくれて」

「結局、一緒に見れたのは二年後だったね」

「でも、いい思い出になりました」


 睦美が、窓の外を見たまま笑った。部屋の奥に広がるのは、あの日と同じの、燃えるようなイチョウやカエデの木だ。


「ねえ、真壁先生」


 睦美が振り返って真壁と視線を合わせた。いつになく真剣で――でも、どこか怯えているような彼女の表情に、真壁はついにこのときが来たか、と気を引き締めた。


「……私は、あとどのくらい生きられるんですか?」



〈三年前・冬〉

 桜を見る約束を果たせなかったことを後悔していた真壁は、師走の終わり頃にちらついた雪を見て、これを睦美と見ることを決意した。暫く忙しい日々が続き、なかなか彼女と話す時間もなく、寂しい思いをさせていたことも、真壁は知っていた。

 結局、時間が取れたのは家族との面会時間もとっくに終わり、月が空高く昇る時刻だった。もう寝ているかもしれないと思いながらも病室へ向かうと、睦美はカーテンを開き、窓の奥で降り続く真っ白な粉雪をじっと見つめていた。


「よかった。まだ、起きてたんだね」

「あっ、真壁先生!」


 嬉々とした表情で真壁の名前を呼んだが、視線は白衣の襟の辺りに注がれていた。


「先生が、カンジャが夜ふかししてるのを喜んじゃ、ダメなんじゃないですか?」

「あはは、それもそうだね」


 苦笑する真壁に、睦美が消えてしまいそうな声で「でも、来てくれてうれしいです」と呟いた。幸せそうな彼女の表情に、真壁も安心して椅子に座る。


「昼は、もう少し大きな雪だったけど、夜になって細かくなってきたね」

「粉雪って、言うんでしょ? さっき、七瀬先生が教えてくれた」

「そうか。……ねえ、ちょっと寒いけど、雪を見に行かない? 六階のプレイルームの窓からだと、月も見えて綺麗だよ」

「え、でも、こんな時間に出ても大丈夫?」

「誘ったのは僕だし、平気平気」


 睦美が立ちあがり、コートを手に取る。点滴台を真壁が押して、エレベーターに乗り込む。一階上なので、すぐに到着した。


「もしかして、桜を見る約束、守れなかったからさそってくれたの?」

「あはは、ばれてたかあ」


 就寝時刻なので、小声での会話になる。小さな子供用の遊具が置かれたプレイルームに辿り着くと、真壁は部屋の隅から丸椅子を二つ持ってきて窓の前に置いた。

 窓の外の景色に目をやると、澄み切った冬の夜空に浮かぶ満月が、音もなく舞い散る粉雪を、淡く幻想的に照らし出していた。葉を落とした木々に雪が乗り、一面が白銀の世界に変貌している。横浜でここまで雪が降るのは珍しいことだった。


「来年は……って、もうすぐで来年なんだけど。桜が咲いたら、今度こそ、一緒に桜を見よう」


 睦美は返事をせず、やや間をおいてから、


「……真壁先生は、他のカンジャさんともこうして景色を見ているんですか」


 思いつきで訊いた、というよりは、いつか訊こうと思っていたことを言ってみた、という口調だった。


「たまに誘われたら見ることもあるかな。でも、僕から誘うのは、睦美ちゃんだけだよ」


 十四歳年下の少女に、真壁が告げる。睦美が真壁に恋心を抱いていることを、彼は知っていた。それを知っていながら、こんな言葉を口にするのは罪なことだ。


「睦美ちゃんは、研修医のときから見ている子だし、医師になってから最初に受け持った患者さんでもあるんだ。だから、僕の中でも特別なんだよ」

「そうなんだ」


 睦美はそれきり黙って、真壁が戻ろうと言うまで闇に舞う白雪を見つめていた。



 睦美の質問に、真壁は努めてやわらかい口調で答えた。言葉の重みを、少しでも消し去るように。睦美の痛みを、少しでも和らげるように。


「あと……三カ月ってところかな」

「三カ月」


 冷たい声で睦美が呟いた。

 睦美の余命が僅かであることは、彼女の両親には昨年のうちに伝えてあったことだ。彼女の母親は、とてもじゃないがそんな残酷なことは告げられないと、涙ながらに訴えてきた。いつかときが来れば、真壁の方から教えて欲しいと、頼まれていた。

 命の時間を知った睦美が、小さく溜息をつく。思いのほか、ショックは受けていないように真壁には思えた。思えば、去年のあの夏のときから、すでに彼女の中で覚悟は決まっていたのかもしれない。


「薄々気づいてはいたの。お母さんが、早く退院してなんとかをしようね、とかを言わなくなったこと。仕事や学校で普段見舞いに来ないお父さんや、妹が最近やけに来てくれてたこと。必死に隠そうとはしてたけど、ばればれだよー。もう、十四歳なんだからね」


 死への恐怖をかき消そうとするかのように殊更冗談めかして話す睦美に、真壁の方が泣きそうになる。決して涙は見せない睦美の強さを、ありありと見せつけられる。きっと彼女は、独りになったときに声を殺して泣くのだ。人に迷惑をかけないように。周りは、もっと頼って欲しいと思っているのに。


「三カ月後だと……二月かあ。一番寒いときだね。真壁先生は、冬、嫌いだったよね」

「そうだね。……冬なんて、大嫌いだ」

「……桜、もう、見れないんだね」


 睦美の視界に広がる赤や黄色がぼやけて、それを誤魔化すように彼女が笑った。



〈二年前・春〉

 約束を二度破ることはしなかった。中庭に満開の桜が咲き、入院患者やその家族などが花見をしながら談笑している。

 昼食の時間を使い、真壁は誓いを果たすために睦美の病室へと赴いた。患者らはとっくにランチを終えている。医師の休憩時間は、日によってまちまちなのだ。


「桜、見に行こう。約束だったでしょ?」


 付けられたテレビをぼんやり観ていた睦美に、真壁が声をかける。驚いたように、瞬間真壁と目を合わせて、すぐに襟元へ彷徨わせる。黒目が泳いだまま、睦美が同意した。


「僕、ランチまだだからさ、食べながらになっちゃうんだけど、いいかな」

「……無理、しなくてよかったのに」


 聞こえるか、聞こえないかというくらいの声量で睦美が呟く。無理をしてない、と言えば多少なりとも嘘になってしまうので、真壁は結局なにも言えなかった。どう言えば彼女が納得するのかも、最後まで分からないままだった。

 中庭に到着すると、睦美は大きく息を吸い込んだ。優雅に散りゆく桜の花びらに誘われるように、ゆっくりと歩を進める。

 空いていたベンチに腰を下ろすと、手を震わせながらも、睦美は指で隣を叩いた。思わず微笑して、真壁もその場所に座る。

 圧倒的に目の前に存在する桜に、二人は暫く無言でいた。この光景の前では、どんな言葉も陳腐なものになってしまいそうだ。


「さて、食べるか。睦美ちゃんには、これ、あげるよ」

「あっ、イチゴだ!」

「ちょっと早いけどね。はい、爪楊枝」

「ありがとう。いただきます」


 真壁も病院内の売店で買った惣菜パンを頬張りながら、ゆっくりと美味しそうにイチゴを口に運ぶ睦美に尋ねた。


「そういえば、どうして春が好きなの?」

「桜、きれいだし。あとは……」

「あとは?」

「やっぱり、なんでもないです」


 赤面しながら、睦美が首を振る。いつか話してくれると信じて、真壁もそれ以上深くは突っ込まなかった。

 暖かな春の匂い。淡いピンク色をした桜が水色の空に舞う。

 春も悪くないね、と真壁が呟いた。



 鮮やかな紅葉もすっかり落ちて、あとには細い枝だけが寂しく残っていた。

 ベッド脇のスタンドには、新しいカレンダーと小型の鏡餅が置かれている。時計の時刻は、十六時を指していた。

 カレンダーの日付を見ながら、睦美は意図的に笑ってみる。しかし、覚悟を決めたはずの心とは違い、表情筋はまるで働こうとしない。硬く強張って、死を頑なに受け入れようとしない。

 まるで肉体と精神が乖離したかのような。

 あと三十日に迫っているその日を、睦美の身体が認めようとしていない。


「馬鹿だなぁ」


 他の患者に聞こえないように、睦美が自分自身に囁いた。もう、病院に八年間もこもりっきりだ。日常の生活を送るには、彼女の身体はあまりにも脆すぎた。いつどうなるか分からない。なにも分からずに、睦美はただ病院で月日を重ねてきた。

 六歳のとき……八年前に、病状が悪化し入院生活を余儀なくされた。今まで、普通とは言えないが自宅で家族と過ごす生活を送っていたのだ、またすぐに帰ることができると信じ切っていた。

 そこから一年が経ち、二年が経ち、三年目を迎えた辺りで睦美は悟った。小さな心と身体で、悟ってしまったのだ。もう、家に帰ることはないのだと。

 しかし、それでも睦美はそれを絶望だとは感じていなかった。それは、真壁がいたからだ。幼い睦美を、真壁はいつも気にかけてくれた。気づけば、親と過ごすよりも真壁と共にいる方が、時間が長くなっていた。睦美が真壁に懐き――そして恋をするまでに、時間はそうかからなかった。

 ふと、屋上に行ってみよう、という気になり睦美はベッドから起き上がった。

 そういえば、最後に屋上に行ったのは一昨年の夏だった、と思い返しながら。



〈二年前・夏〉

 海が見たいと言ったのは睦美の方だった。後にも先にも、睦美から真壁を誘ったのはこの一回きりだった。

 珍しそうに、しかし嬉しそうな表情で真壁が理由を問う。


「三年前に紅葉を見て、二年前に雪を見て、去年は桜を見て……まだ、夏だけなにも見てないなって。だから、見ておきたいの」


 自分がもうじき死ぬことを分かっているかのような口調に、真壁はどきりとした。先月に、彼女の家族にあと一年半程度の命であることを告げたばかりだったからだ。


「そういや、まだ夏に一緒にまとまった時間を過ごしたことはなかったね」


 内心の動揺を隠すように、過去を振り返るように視線を流して応じる。


「今日は天気もいいし、屋上で見ないか」

「真壁先生と一緒なら、どこでもいいです」


 真壁の提案に、頬を緩ませて答える。二人はそのままエレベーターで最上階へ向かい、そこから階段をのぼって屋上に出た。

 フェンスに手をかけ、太陽の光を反射し煌びやかに輝く海を、目に焼きつける。白く波ははねて、海は唸り、水平線の前をヨットが横切った。


「海って、すごい広いんだね」

「地球のほとんどは、海だからね」

「そういうの、学校で習ったの?」

「うん。中学か、高校か、それくらいだっただろうな」

「私とあんまり変わらないんだね」


 そう言って睦美は視線を下に向けた。二十メートルほどの高さから見下ろす町並みは酷く小さかったが、それでも睦美には、まるで無限に広がるかのように思われた。


「全部の季節を、真壁先生と見れて本当に嬉しかった」

「今度は、梅雨の紫陽花を見ようか」

「楽しみにしてるよ」


 結局、約束が叶うことはなかった。



 寒さに身を凍らせながら、ずっと、ずっと遠くにある海を睦美は見やった。冬だからだろうか、景色は以前見たときよりも霞んで見えた。

 太陽がいまにも沈もうとしていて、空は夕焼けに染まっていた。夕日を見ると、睦美はどうも寂しい気分になるのだ。まるで、それが睦美自身の短い命を表しているようで。

 オレンジ色の空に、紫色の雲が薄くかかっている。冷たい風が、睦美の黒髪をなびかせる。大きな瞳は、もう海を見ていなかった。


「ここにいたんだ」


 屋上の扉が開かれて、続けて真壁の声がした。けれど、睦美はもう振り返らない。

 睦美は首を振る。真壁が彼女に近寄る。


「どうして? 風邪ひくよ?」

「真壁先生」


 背後にいる彼に、睦美は淡々と語りだす。


「七年前に、先生と出会えて、本当によかったって思ってるの。そうじゃなかったら、私はとっくに自分の命を諦めきってた。もうすぐ死んじゃうんだって理解していながら、もしかしたら助かるのかもしれないって一パーセントでも思えたのは、真壁先生がいたからなんだよ。四季の景色を全部一緒に見ることができて、幸せだった。生きててよかったなって、心の底から思った。ありがとう」


 いつになく明るい口調に、真壁は却って心配になった。


「どうしたの、急に」

「余命宣告が絶対に正しいわけじゃないってことも、ちゃんと分かってる。でも、私は真壁先生を信じてるの。だから、先生が言ったことは正しいって、馬鹿みたいだけど、そう思ってるの。ねえ、私、あと一カ月しか生きられないんだよね? もう、その一カ月がじわじわ近づいてきて、あと一週間、明日、ってなるのが耐えられないの。きっと、私は壊れてしまう。もう、もう耐えられない! だから、もう、終わりにしたいの……!」


 泣き叫ぶような声に、真壁は肩の辺りがひやりとした。彼女がなにをしようとしているのかを理解した真壁が説得する。


「駄目だよ、睦美ちゃん」

「前に、どうして春が好きなのかって訊いたよね。あのとき、私、ちゃんと答えられなかったけど」

「それは部屋の中で聞くよ。だから、戻っておいで」

「もう一つの理由は、真壁先生が、私の担当になったのが春だったからなんだよ」


 睦美が振り返った。頬が濡れていた。


「ずっと前から、先生のことが好きでした」


 濡れた黒目が、しっかりと真壁の視線をとらえた。こんなときだけ目線を合わせる睦美はずるいと、真壁は感じた。


「先生は秋が好きなんでしょ? それも嬉しかったの。勝手だけど、もうすぐ枯れ落ちてしまう紅葉は、私に似てると思ってたから。もしかしたら、私のことも、好きになってくれるんじゃないかなって思って」

「睦美ちゃん、お願いだから戻ろう」

「先生は優しいね。戻そうと思えば、力技でいくらだってできるのに……」


 睦美が涙交じりの声で言って、そのまま真壁の方へと歩き出した。真壁は、細い少女の身体を抱きしめると、小さな声で「戻ろう」と囁いた。腕の中で、睦美が頷いた。

 真冬の夕焼け空は、闇に包まれようとしていた。


      ◆


 早かれ遅かれ死に向かう少女の、自己完結を止めたことが正しかったのか、僕にはいまだに分からない。医師として、誰かが死に急ぐのを防ぐのは当たり前のことだけど、少女は死にたがっていたのだ。いつか突然死んでしまうより、自分で終わらせる方が楽だと、そう自らの意思で考えたのだ。

 少女は自分が紅葉に似ていると言った。数ヵ月後には枯れて風に振り落される運命にあったとしても、その鮮やかさは、見る者を感動させる輝きは、まぎれもない真実なのだ。

 少女と別れて、もうすぐ二年が経とうとしている。

 窓の奥では、燃えるような紅葉が風に揺られて、世界を染めていた。

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