七海の思い出
結局大した釣果も無く、七海たちは次に町の散策にでも出かけようかと提案したが、詩織と真夢の小学生チームはもう少し岩場であそびたいということで、ここからはそれぞれが別々の行動を取ることになった。
七海たちがいなくなった後、詩織と真夢は岩場で小さな魚を追いかけたり、カニやイソギンチャクなどの浜の小動物を捕まえたりしながらあそんでいたが、そのうち真夢が遠方の浜の傍に大きな屋敷があることに気付き、詩織に尋ねた。
これはもちろん、さっき七海たちが話をしていた大権様の屋敷である。
「ねえねえ、シオリちゃん。」
「どうしたのだ?マム。」
「あそこに大きなお家があるよね。」
「あ〜、あれは大権様のお屋敷なのだ。」
「大権様?」
「みんなそう呼んでいるのだ。どんな人が住んでいるかは知らないけど。」
「ふ〜ん・・。あんなに海の傍にあって、なんだか面白そうなお屋敷だね。」
「行ってみる?」
「うん!」
二人は手をつないで連れ立つと、大権様の屋敷に向かった。屋敷は遠方から見ると、まるで神社のように赤などの暖色から華やかな印象を受けるが、近くまで寄るとその古さが目立ち、整備が長期間施されていないのがよく判る。
またこの建物は海岸線の波打ち際に建てられているため、外周の塀が波により大きく侵食されていて、実際に人が住んでいるのかどうかさえ怪しい雰囲気があった。
「シオリちゃん・・、ここ、本当に人が住んでいるの?」
「さあ・・、よく判んない。」
二人は外塀をぐるっと回り、中の建物への入り口を探した。そしてしばらくすると正面門らしき箇所を見つけたのだが、鉄製の門が硬く閉じられていて、中に入ることができない。
しかし詩織と真夢のこの建物に対する興味はさらに増したようで、続いて二人はだらしなく外塀の周りに伸びた雑草群の中にちょうど良い高さの木を見つけ、その木を登り塀の中の様子を見ることに成功した。
建物は外塀同様に暖色を中心とした色使いで、一見すると神社かお寺のような雰囲気がある。民家と言うよりは宗教施設のような趣で、こんな田舎の町には不似合いな感じもするが、ここ最近整備がされた様子は無く、ほとんど廃墟のような印象だ。
まるでお化け屋敷のような建物を前に少し怯んだ詩織と真夢は、木の上で顔を見合わせると、小さく苦笑いをした。
「アハハ・・、マム。やっぱり帰ろうか?」
「うん・・それがいいよ、シオリちゃん。」
しかし、その時だった。
二人が木から下りようとした時、詩織たちは建物の入り口が不意に開いたことに気が付いた。
見ると建物の中から二人の人物が現れ、まるで口ゲンカのように激しく言い争いをしている。
一人は真っ白に染まった白髪を後ろに束ねた老齢の女性。老婆は巫女のような宗教的な衣服に身を包み、激しく相手の男性に詰め寄っている。
そしてもう一人は若い男性。年齢にして二十代半ば程度だろうか。男性はきちんとしたスーツを身に付け、老女をなだめるように必死に話しかけている。
この奇妙な組み合わせの二人が出てきたことで、詩織と真夢はびっくりしてバランスを崩し木から落ちそうになったが、とにかくこの二人に見つからないように枝にしがみ付き、なんとか事をやり過ごそうとした。
しかし、やがて老女が言いたいことをすっかり吐き出したことで区切りをつけたらしく建物の中に入ってしまい、後に残された男性があきらめて帰ろうとした頃に、とうとう枝にしがみついていた詩織と真夢の腕の力が限界に達し、男性の目の前に落下してしまった。
「アタタ・・・・。」
男性は突然落ちてきた二人の少女に驚いて唖然としていたが、すぐに詩織と真夢の傍に駆け寄り、二人の身を案じる言葉をかけた。しかし男性が詩織の顔を見た時、さっきにも増して驚いた表情を見せ、彼女に向けて意外な言葉を発していた。
「・・・君、まさか・・・ナナミちゃんかい?」
☆
「へえ〜、そうか。君、ナナミちゃんの妹だったのか。」
「うん、そうなのだ。でも意外〜。お兄さんがまさか、ナッちゃんの友だちだったなんて。」
「友だちって言っても、もうずいぶん昔の話だよ。ナナミちゃんはもしかしたら、ボクのことは憶えていないかも知れないしさ。」
大権様の屋敷の中、男性の目の前で木から落ちてしまった詩織と真夢は、男性に見つかったことで怒られてしまうのではと心配していたが、そこで状況は意外な方向に向いていた。なんとこの男性が、詩織の姉のことをよく憶えていると言うのである。
この男性の名前は【函南 晴樹】
元々は海猫ヶ浜の出身で、海外に留学した後に事業に成功し、今は二十代半ばの年齢にして、あのフォルネウスホテルの実質的な支配人であるのだと言う。
「ええ〜!?あの大きなホテルの一番偉い人なんですか!?」
目の前の意外な事実に、真夢が大きな驚きの声を上げた。
「別に偉くなんか無いよ。ホテル建てるのにずいぶんお金がかかちゃったからね。借金の多さから言えば、君たちよりずっと貧乏人さ。」
「ほえ〜、そんなすごい人が、ナッちゃんの知り合いなのか〜!」
特に晴樹の説明が耳に届いていない詩織と真夢は、彼があのホテルの支配人ということに素直に驚いて興味を持って晴樹を見つめていたが、やがて彼がどうして七海と知り合ったのかが気になり、その疑問を晴樹に投げかけた。
「いや、まだボクが留学するよりも前の話だけどね。ボクの家は民宿【はまなす】の近くにあって、彼女が民宿にあそびに来ている時に、よく一緒にあそんでいたんだよ。」
「あ〜、だからあたしの事を見た時に、あたしとナッちゃんと間違えたのか。」
「そうそう。あの頃はまだ君は赤ちゃんで、ナナミちゃんは今の君よりもう少し小さかったんだよね。でもやっぱりさすがに姉妹だな〜。本当に君は、あの頃のナナミちゃんにそっくりだよ。」
そして晴樹は二人を民宿まで送り届けると、手を振りながらフォルネウスホテルのある方へ去っていった。
詩織と真夢は宿の部屋に戻ると、そこには七海たちと叔母が彼女たちの帰りを待ち受けていて、詩織が事のあらましを話すと、七海も叔母も驚いたように話を聞いた。
「あら〜!あのホテルの支配人って、函南さんとこの息子さんだったのかい!」
一番最初に声を上げたのは、七海の叔母だった。
「憶えているかい?ナナミちゃん。アンタここにあそびに来た時には、晴樹ちゃんのことをいつも『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って呼んで、いっつも後ろから追いかけてあそんでいたんだよ。」
叔母の言葉に、七海にも小さかった頃の記憶が戻ってきた。彼女がまだ小さかった頃の思い出が、秒単位の時間を刻む度に濃くなっていく。
「うん、憶えてる。晴樹お兄ちゃんのことでしょ?」
七海は改めて晴樹の顔を思い出し、あの時の優しい時間を懐かしく感じていた。
まだ彼女が小学校の低学年だった頃、七海はこの海猫ヶ浜に来ることをいつも楽しみにしていた。その一番の大きな要因こそが、晴樹の存在にあったのである。
晴樹は七海よりも十歳以上も年上だが、彼女がここを訪れる度に彼女のあそび相手を引き受けてくれて、いつも七海に優しく接していてくれていた。
抱っこやおんぶをしてくれた思い出などは数え切れないほどにあり、あの頃の七海は大きくなったら、晴樹か瞬かどちらかのお嫁さんになるのだと本気で考えていたのだ。
しかし、ある時期を境に海猫ヶ浜から晴樹は姿を消した。詳しい事情は知らないが、七海はおそらく晴樹が大人になり、どこか別の町で働くことになったからなのだろうと小さいながらも思っていて、その頃から七海の海猫ヶ浜への足がすっかりと遠のいてしまっていたのである。
「そうか〜。晴樹お兄ちゃん、すっかり偉い人になっていたんだね。海外に留学していたなんて、全然知らなかったな〜。」
「ナッちゃん。どうして顔が赤くなっているのだ?」
思い出に浸っていた七海が詩織の言葉にフッと我に返ると、たくさんのいたずらな視線が彼女に注がれていることに気付いた。どうやら七海は晴樹の思い出と一緒に、彼への憧れの気持ちも甦ってしまっていたらしい。
「あれ〜ナミ。アンタその晴樹さんっていう人に、そういう感情持ってるわけ?」
絵里子がニヤニヤしながら、七海の顔をジロジロ見る。
「ナミさんて、意外に大胆な方だったんですね。」
輝蘭も少しニヤニヤしていて、絵里子の意見に同調した。
「マム、ちょっとナナミさんのイメージ変わっちゃったかも・・・。」
真夢は複雑な表情をしていて、何か含みのある反応をした。
そしてその含みの意味をはっきりと口に出したのは・・・・。
「ナッちゃん!ナッちゃんはシュン兄のことが好きじゃなかったのか?」
もちろん詩織だった。
「ちょ・・ちょっと待ってよ!みんな突然何を言い出すの!?」
突然図星を指された七海は大慌てで立ち上がったが、顔は真っ赤でどう見てもあたふたしている。
その様子があまりにもおかしくて滑稽だったので、その場にいたみんなは、思わず大笑いをしていた・・・。