海の彼方より
急にフォルネウスの目前に現れた少女に彼は少し驚いた様子を見せたが、それはどこにでもいるような人間の女性で、フォルネウスは大きな驚異には成り得ないと直感で判断した。おそらくどこかからホテルに紛れ込んだのだろう。多少奇妙な出で立ちだが、白っぽいネコを抱き静かに彼を見つめている。
「誰だか知らないが災難だったな。見られたからには生かしておくことは出来ない。我が圧倒的な力により、お前もここで死ね。」
フォルネウスの威嚇を受けても少女の態度は冷静で、怯む様子は見られない。しかしその瞳の奥には秘められた想いがあるようで、返す言葉にも強い意志が感じられる。
「圧倒的な力って嫌いじゃ無いよ。でもあたしの友だちにそれを使うなら、あたしもアンタに同じことするからね!」
少女はただの人間のはずだが、その言葉には無視出来ない大きな存在感がある。彼女は凛として男の前に立ち、本来人間より上位の存在であるファルネウスと対峙しても、畏敬の片鱗すら見せない。
それを不思議に思ったフォルネウスは手を止め、その掌を彼女に向けた。
「何者だ?お前は・・。」
すると少女は厳しい目でフォルネウスをにらみ、はっきりとした口調で彼に応えた。
「あたしの名前はミキ。高村神酒だよ。
この子たちはあたしの大事な友だち。もし手を出すなら、あたしが許さないんだから!」
「ほう。何をどう許さ・・・?」
その時、フォルネウスは得体の知れない巨大な邪気が信じられないスピードで迫る気配を感じた。見ると少女の抱く銀色のネコの額が紅く輝き、それに呼応するように邪気は更に禍々しさを増す。それはフォルネウスの持つレベルを桁違いに凌駕していて、彼は異質な狂気に大きく怯え始めていた。
見るといつの間にか神酒の背後に巨大な扉が現れ、それが大きく開き始めている。そしてその中から突然幾つもの巨大な触手が現れると、フォルネウスの体を大きく巻き込んだ。それは蛸や烏賊などの海洋生物特有の触手だが、サイズが尋常では無く力も強大で、しかも現実には有り得ないほどに神がかりな狂気を孕んでいる。
フォルネウスはその狂気の正体を知った時、自分の身の運命を知り、断末魔に似た叫び声を上げた。
「こ、これはクトゥルーの!?」
『そうだよ。こことルルイエの空間を結んだんだ。』
「ま、まさか・・・お前たちはクトゥルーの巫女なのか?」
『そうだね。ミキはそういう立場なのかも知れないよ。』
意外にも、フォルネウスに応えたのは少女の抱く銀色のネコだった。ネコの視線は倒れた詩織と真夢に向けられていたが、またすぐにフォルネウスに向けると、怒りの表情を浮かべた。
『やりすぎだったね。圧倒的な力っていうのは、こういうのを云うもんさ。』
クトゥルーの触手の襲撃に、助けを懇願するフォルネウス。その残酷な光景に神酒は少したじろぎ、胸に抱くネコに慈悲を求めた。
「ねえ・・ティム。ちょっと可哀想じゃ無い?悪いこと止めるんなら、もう助けてあげようよ・・・。」
『ゴメン、ミキ。悪いけど、今回はミキの言う事でも聞くわけにはいかないよ。』
「どうして?」
するとティムは神酒に振り向き、透明感のある瞳に彼女の姿を写した。
『悪魔とはそういうものだからね。ナミの命が狙われる可能性がある以上、悪いけど今回は非情に徹することにさせてもらうよ・・・。』
「・・・・・。」
そしてフォルネウスはクトゥルーの触手に囚われたまま、地獄より恐ろしい海底都市ルルイエへ引き込まれていった・・・。
☆
こうして、全ての狂気は完全に過ぎ去っていった。
神酒はティムを床の上に降ろすと、一人一人を抱き上げ、その左手に刻まれた【切り出された星の銘板】の能力により、わずかなキズをも全て治療した。ティムは真っ先に詩織と真夢のもとに駆け寄り、その顔を懐かしそうにのぞき込む。期せずして訪れた小さな優しい時間に、神酒とティムはしばらくの間、無二の親友たちとの見返りの無い再会に複雑な想いを寄せていた。
『逢いたかった人が目の前にいるのに、返事もしてもらえないなんて寂しいよね。』
「仕方ないよ。そういう運命に乗っちゃったんだからさ。」
そして、神酒が七海を抱き上げた時だった。不意に七海の額に小さな光が現れた。それはほんの微小で薄い輝きのものだったが、神酒はそれを見逃さず、急いでティムを呼んで確認をした。
「ティム!これって・・・?」
『うん、間違い無い。これは【切り出された星の銘板】の碑文だ。』
その碑文はすぐに七海の額に隠れるように消え去ったが、その真の能力は既に七海の体に深く刻み込まれている。そのことを理解した神酒は改めてティムを見ると、彼の真剣な眼差しに応えた。
「これって、もしかしてさっき現れたツァトゥグァの?」
「うん。土に由来する旧支配者ツァトゥグァの碑文だ。」
「へ〜。前に香楽のところにも、【炎のクゥトゥグァ】の碑文もあったよね。あたしの【海のクトゥルー】の碑文も合わせて、最近『切り出された星の銘板』の大安売りだね☆」
するとティムは呆れたような顔をして、ため息を付きながら神酒に応えた。
『あのね、ミキ。ずいぶん軽いな〜。『切り出された星の銘板』が一つ出ただけでも世界が滅ぶぐらいの大事件なのに、今はそれが三つもあるんだよ!シュンの碑文は亜種だからちょっと違っていて、クトゥルーの真の碑文は、君の左手にあるそれだからね。』
「水と土と炎か〜。それじゃ【風】もあるの?」
『あるよ。』
「もしかして、誰かに風の碑文が現れることもあったりして?」
『それは・・・無いよ。』
「どして?」
『だって・・・。』
ティムは再び彼の能力である扉の召喚のための準備に入ると、神酒の最後の質問に静かに答えた。
再び神酒たちの目の前に、木製の重厚な扉が浮かび上がっていく・・。
『風に由来する旧支配者の主。それはボクたちを苦しめた『黒い海』ハスターなんだ。あれは今アルデバランのカルコサの湖で眠りに就いている。ハスターが地球に降りる時は、地球が滅ぶ時だ。そんなことは、絶対に有り得ないんだよ。』
「そうか・・・そうだね・・。」
そして神酒とティムは七海たちを連れ、扉の向こうの暗い空間へと消えていった・・・。




