ソロモンの鍵
絵里子の秀でたオカルトの知識の中にある【ソロモンの鍵】(或いはソロモンの指輪)。それは伝説のソロモン王が、彼に使役した七十二の上位悪魔を地中に封じるために使用した魔法の品として記憶されていて、彼女が男の正体をフォルネウスと気付いた時から対抗策の一つとして考えていたものだった。しかしあくまでも絵里子は一般の中学生であり、そのような物が簡単に手に入るはずが無い。
「なんで・・・アンタがこんな物を?」
「それ・・・ボクのじゃ無いよ。」
男の子はやがて姿が薄らみ始め、声も次第に朧になっていった。
「それじゃ、誰の?」
「本当の持ち主に返すよ。」
「本当の持ち主?もしかしてソロモン?」
「違うよ。ソロモン王も本当の持ち主から借りていただけ。この【ソロモンの鍵】を作った人も、元々はクンヤンの住人なんだ。そしてその人は、ナナミさんやシオリさんの遠いご先祖様なんだよ。」
「ナミとシオリが・・・?」
「うん。かつて【大天使ミカエル】と呼ばれた人のね。」
すると、その時だった。急に絵里子の持つ指輪が輝き出すと、暗かったホテルの内部を明るく照らし出した。光は激しく輝片を振りまき、闇の住人である無形の落し子ですらも白く染め上げる。
絵里子は最初、この指輪こそがこの大事を収集する能力を秘めた物だと思っていた。指輪から何かの不思議な能力が発動され、それによりおぞましい異形の集団が滅ぼされるのではと考えていたのである。
しかし実際にはそうでは無かった。指輪は急に輝きを失うと、絵里子の手の中で塵のように砕けてしまったのである。
「え!?どうゆうこと?」
彼女は驚いて辺りを見回すが、既に先程の少年は姿を消していて、ただ蠢く黒いタール状の生物と巨大な旧支配者の驚異が迫るのみである。何かの失敗をやらかしてしまったのではと絵里子は焦ったが、彼女はそこで、驚きの情景を目撃することになってしまった。
それは、動きを止めすっかり大人しくなってしまった無形の落し子の群れの姿だった。無形の落し子の群れは中央に一筋の空間を作り、それが道のように激しく暴れるツァトゥグァの腕まで真っ直ぐに続いている。そしてその道を、まるで無人の野を進むように静かに歩く一人の少女の姿があった。
それは七海だった。七海は先程までの狂気の表情はすっかりと消え去り、今は落ち着いた穏やかな表情を浮かべている。
彼女はツァトゥグァの前まで歩み寄ると両腕を広げ、優しく語りかけるようにツァトゥグァの腕に触れた。
「お願い、もう止めて・・。」
ツァトゥグァの腕が、不意に動きを止める。
「お願い、もう止めて。あたしはあなたが優しかったことを良く憶えているよ。あたしが洞窟の底で迷子になった時、あなたはあたしを優しく慰めてくれたよね・・。」
そして七海は一歩下がると片膝を付き、まるで神に祈るように両手を結んだ。
「せっかく静かに眠っていたのに、起こしてしまってごめんなさいね。でも、この町は私が大好きな町なの。町を壊さないで。もうあなたの眠りの邪魔はしないから、元の立派なベッドに戻って、またゆっくりと眠ってね・・・。」
それは、まるで女神がささやくような優しい声だった。小川のせせらぎのような流暢な音階は、例えどんなに荒んだ者の心をも清く洗い流すようで、絵里子は七海のその声に、「リコはいつもあの声に助けられてたんだ・・。」と心の底で思っていた。
そしてツァトゥグァもその七海の声に魅了されたのだろうか。やがてあの凶悪な前足もゆっくりと地中に戻り始め、それに率いられるように姿を消していく。
気が付くと異形の集団はすっかりと姿を消し、辺には元の静けさが戻っていた。
「そうか・・あの指輪がソロモンの鍵じゃ無い。ソロモンの鍵は【椎名七海】本人だったんだ・・。」
七海が絵里子の方を振り返り、ニッコリと微笑む。
これが正に、フォルネウスの野望に見事に打ち勝った瞬間だった。




