無形の落し子
しかし、その時だった。
四人は不意に、辺の空間が細かく振動するような奇妙な感覚を憶えた。見ると男が七海の上に屈み、何かをボソボソと口ずさんでいる。それはまるで呪文や呪歌のように一定のリズムと間隔があり、空間の振動は男の声に共鳴するように震えている。そして呪文が微かなものから大きな音階に移り変わった時、七海と詩織の体に大きな変化が現れた。
七海の体が赤く輝き、その光が続いて詩織を包み込む。輝きは七海と詩織に強い苦痛を与えているようで、意識を失いながらも彼女たちは苦しみに喘ぎ声を上げる。そして光はやがて粘りのある血液のように色彩をはっきりと映し出し、辺りの空気を染め上げるように大きく広がった時に、それは起きてしまった。
彼女たちを囲む六つの幾何学形の中から、まるで水泡のように、無数の黒いタール状の物体が浮かび上がってきたのである。
それは、あの七海の悪夢に現れた邪悪な生物【無形の落し子】が、大挙して地上に現れた姿だった。
フォルネウスが望んだものは地上世界の征服。彼はその尖兵として、クンヤンの暗黒世界ンカイに棲む【無形の落し子】を選んだ。無形の落し子の能力は強大にして邪悪だが、それを大挙して送り込む手立てがフォルネウスには無い。そこで彼は長い時をかけその能力を持つ七海を探し出し、遂に念願を成就させた。
今が正に悪魔フォルネウスの野望が達成され、七海の悪夢が現実化した瞬間だったのである。
「これで願いが叶う!希望が生まれる!我がクンヤンの新しい歴史が、今からここに始まるのだ!」
フォルネウスは勝ち誇ったように満足な笑みを満面に湛え、絶叫を上げた。その声は大きく空間に反響し、この舞台が彼の想いが達成されたことを象徴するかのような錯覚を起こさせる。そして無形の落し子たちはその舞台を演出するようにさらに増殖し、人間世界に侵攻するべくホテルの外殻を喰い破ろうと活動を始めていた。しかもその数匹は絵里子たちに狙いを定めた様子を見せていて、滑稽だが器用な動きで彼女たちに迫っていたのである。
「やめろ!」
「キララ!マムを守ってて!」
事の重大さを認識した瞬と絵里子は、円の中央に向けて走り出した。瞬はフォルネウス、絵里子は七海のもとへ。
しかしその進行方向には無数の無形の落し子たちが点在し、二人を取り込もうと黒く蠢く網を伸ばして待ち構えている。網の正体は触手で、その細部の一本一本にまで意思があり、正確に二人を捉えようと魔手を次々と伸ばしてきたのだ。
だが、瞬も絵里子も負けてはいなかった。
瞬は部活にこそ属していないが、実は隠れた俊足の持ち主で、徒競走では彼の前を走る者を今までに見たことが無いほどの実力がある。それは今は記憶の中からかき消された『切り出された星の銘板』の能力によるところもあるのだろうが、瞬が生まれながらに与えられた俊足の資質は無形の落し子の攻撃をくぐり抜け、彼のタックルは確実にフォルネウスの腹部に届いていた。
そして絵里子は県内に留まらず、七海と共に元々弱小チームだった籠目中学を全国大会まで導いたトッププレーヤーにして副キャプテンである。俊敏さや小回りの良さはキャプテンである七海に及ばないところがあるものの、その機動力には定評があり、直線的なスピードには男子にも負けない結果を幾つも出している。彼女もまた体中に細かなキズを付けながらもタールの触手を掻い潜り、七海と詩織の横たわるベッドに到達することが出来た。
「ナミ!ナミ!!」
絵里子は七海を揺り動かすが、彼女の意識が戻る前兆は見られない。七海の体からは相変わらず赤く重い光が垂れ込めていて、あたかも彼女の血が流れているかのように地面に染み込んでいく。絵里子は急に七海が遠い所に行ってしまうような気がして、彼女を揺り動かしていた手の力をいっそう強めていた。
瞬は絵里子からフォルネウスの気を逸らすため、とにかく無茶苦茶に手を振り回していたが、その内彼らの戦況に大きな変化が現れていた。最初は余裕で瞬の攻撃をかわしていたフォルネウスだったが、やがて彼の攻めに蹴りが加わり始めると、その鋭さに受け流すことが出来なくなってきたのである。瞬の蹴りは重いと云うより切れるような鋭利な感覚があり、まるで体を割かれるような錯覚を覚える。本来クンヤンの住人よりも能力的にも体力的にも劣るはずの地上人になぜこのような体さばきが出来るのか、フォルネウスは疑問に感じていた。
「小僧!なかなかの体術だな。どこかで格闘技でも学んだか?」
「知らないよ!体が勝手に動くんだよ!!」
もちろんこの動きに一番驚いていたのは瞬自身である。本来彼は過去の事件において高度な格闘術を習得していたのだが、今は【黒い海】ハスターの襲来以前の神酒やクトゥルーに関わる記憶が失われているため、格闘術のことも『切り出された星の銘板』のことも憶えてはいない。しかし体にはそのスキルが深く刻み込まれているので、考えずとも体が反応を繰り返していたのだ。
そして、しばらく経った頃だった。遂に絵里子の呼び掛けに、詩織が反応を示した。
詩織の体から流れ出ていた赤い光が急に威力を弱めると、彼女は薄目を開け、しっかりと絵里子の名前を呼んだのである。
「・・・リコ・・・ちゃん?」
「よし!シオリ!大丈夫か!?」
詩織の視線は最初宙をさまよっていたが、すぐに絵里子の姿を確認すると弱く笑いかけた。絵里子は詩織を抱き上げると彼女の傍らに座らせ、再び七海の襟をつかんで揺さぶった。
「ナミ!早く起きろ!シオリももう起きたんだから、アンタも起きるんだよ!」
しかし絵里子の必死の叫びも虚しく、事態は有らぬ方向へと進んでいった。急に七海が目を開くと、その場に起き上がったのだ。
絵里子は最初、詩織同様に七海も正気を取り戻したのかと思ったが、実は違っていた。彼女は突然恐怖におののくように顔を歪めると、まるで狂ったような金切り声を上げたのである。
「キャアアアアアア!!!!」
「やめろ!ナミ!!」
「ナッちゃん!」
絵里子の声が七海に届いた様子は無く、彼女はただ恐怖の叫び声を放ち続ける。そんな七海の姿に大きなショックを受けた絵里子は、次第にやるせない気持ちになり、目にはうっすらと涙が浮かんできた。
「・・・ナミ・・・もうやめろよ・・・。」
そして、その直後だった。
【無形の落し子】を超えた驚異が、地中より遂にその咆哮を高らかに上げたのである。




