詩織の想い
「ナッちゃん!ナッちゃん!!」
その日の真夜中。ベッドの中で大きな呻き声を上げる七海に気付いた詩織は、自分のベッドから飛び降りると急いで彼女を揺り動かした。
「ナッちゃん!大丈夫!?」
「・・・・!!・・・シオリ?」
詩織の呼びかけに七海は驚いたように目を覚ましたが、その様子は尋常なものでは無い。瞬間的なパニックは抑えられているが、彼女は全身が汗で塗れ、息も相当荒いものになっている。
「ナッちゃん・・・また恐い夢見たのか?」
「・・・うん・・・そうみたい・・・。」
やがて七海は詩織の顔を見て安心した様子を見せたが、それでも彼女の乱れた呼吸は、安定するまではしばらくの時間を要していた。
実は七海は海猫ヶ浜から帰ってきてからというもの、このような状況が頻発していた。毎日とまではいかないのだが、真夜中に強い悪夢に襲われ、汗びっしょりでうなされている状態で詩織に起こされるということが何度も繰り返されていたのである。
七海が見る悪夢は、いつも同じ内容だった。それは、海猫ヶ浜の民宿での最後の夜に見た悪夢と同じもの。彼女が暗い洞窟の中の森で、黒いタールのような生物に追いかけられるというものだったのである。しかもその映像は異常とも言えるほどにリアルで、このような体験が繰り返されていてもなお、それが夢であることに気付くきっかけが得られない。七海は夢の中で「これは夢?」と何度も自分に問いかけたことがあるが、それは目に映るものも感触も、今まで彼女が見たことがある夢とは全く異質で現実味が濃く、結局彼女は夢の中では、ただ悲鳴を上げて逃げ回ることしか出来ないでいたのだ。
「ナッちゃん・・・かわいそうなのだ・・・。」
詩織は七海の傍に寄ると、彼女の顔を心配そうにのぞき込む。その表情にはいつもの人懐っこさは無く、ただただ姉の身を憂いる妹の姿がそこにある。
七海は詩織に心から『大丈夫だよ』と言ってあげたかったが、どうしてもその言葉に自信が持てないような気がして、ただ無理にニッコリと笑って彼女の頭を撫でていた。
「ゴメンね、シオリ。完全に起こしちゃったみたいだね。」
「ナッちゃん・・・。」
「シオリ、心配してくれてアリガト。さ、まだ夜遅いから、もう寝よ。またシオリを起こしちゃ悪いから、シオリはママの所で寝てきなよ。あたしが頼んできてあげるからね。」
七海の不意の言葉に、詩織は自分の呼吸が止まったような気がした。
急に涙がぽろぽろと溢れ出し、体が小刻みに震え始める。
詩織が強い衝撃を受けたのは、七海が無意識につぶやいた言葉への想いによるものだった。おそらく今一番辛い時を過ごしているはずの七海が、自分の身を省みること無く、ただ詩織のことだけを考えていてくれているのである。自他共に認めるほどに姉のことを慕っていると自負している詩織が、もうどうしようも無いぐらいにやるせない気持ちになってしまうのは当然のことなのかも知れない。
七海はいつも、昔からそうだった。本来彼女が持っている慈しみや優しさは、まるで母親のように惜しむこと無く詩織の心に注がれ続けていた。ケンカをしたこともある。いがみ合ったこともある。でも最後に折れるのは、たいがいは七海の方だった。だが彼女はそれを苦痛に思ったことは無い。むしろ詩織が喜ぶ姿を見ることは、七海の喜びそのものだった。
そして人の想いは伝染し、見返りを求めぬほどに大きく応えてくれる。
気が付けば七海の存在は、詩織には無くてはならないものとなっていた。それは「心の支え」や「大好き」程度のものでは無い。七海の存在そのものが詩織の一部であり、上辺では無い真の詩織の人格形成に、大きな影響を与えていたのである。
「・・・ナッちゃん。」
「どうしたの?シオリ。」
「ナッちゃん、久しぶりに一緒に寝てもいいか?」
「え?」
「今日はナッちゃんと一緒に寝たい気分なのだ。」
「アンタね、あたしと一緒に寝たら、また夜中に起こされちゃうよ。」
「・・・ダメか?」
「う〜ん、別にダメじゃ無いけど・・・。」
すると詩織は七海のベッドに潜り込むと、姉の腕に抱きついて頭をピタッと肩に寄せた。お互いの体の温かみが、それぞれの体と心に染み渡っていく。
「シオリ。またあたしから起こされても知らないからね。」
「平気なのだ〜☆グッスリ寝るもん。」
「もう。な〜んかお調子者なんだから。」
詩織は三年生の頃までは、よく七海のベッドに潜り込んでは一緒に寝ることが多かった。それはあくまでも幼さから来る臆病さによるもので、あの頃はそれが当たり前の光景だと七海は思っていた。
あれから時間が過ぎ、詩織もそれなりに成長を遂げ、今はそのような事はほとんど無くなったが、それでも稀に無いわけでも無い。だから七海は今回の詩織の行為はその延長線上のもので、特に不思議な事とは思ってはいなかったのだ。
しかし詩織には、幼い考えながらも大きな想いがあったのである。七海を救いたい。彼女の悪夢を断ち切りたいという想いが。




