『ダゴン教団』と『地底世界クンヤン』
無視出来ないファイルの存在を危惧した輝蘭と瞬は、急遽進学塾へ行くのを止めて、輝蘭の家へ向かった。それはもちろんファイルの中身を検証するためで、幸い今日は七海と絵里子はバスケの練習のために顔を合わせる恐れも無く、今がその絶好の機会と考えたからである。
ファイルによると、大権教の元々の名前は『ダゴン教団』。
元々はアメリカのマサチューセッツ州エセックス郡の港町『インスマス』がその総本山だったが、1927年の政府の一斉取締により壊滅。その信者の一人が日本に逃げ延び、大権教を設立したらしいということだった。
ダゴン教団に政府より大々的に介入が行われた理由は、表向きには密造酒製造の違反ということになっているが、実際には多くの建物が爆破された上に、戦艦までが使用されインスマスが壊滅状態にまで追い込まれたことから、本当の理由は別のところにあると噂されている。
ダゴンとは元々古代パレスチナにおいてペリシテ人により信仰されていた豊穣の神で、神話で怪力サムソンが囚われていた神殿の主としても有名だが、このダゴン教団が信仰していたダゴンは別物で、海に由来する禍々しい海神のことを言う。教団の信者にはダゴンとの混血により生まれた異種族も多くいると信じられていて、当時インスマスの周辺では、この忌まわしい港町には近づく者は少なかったらしい。
「それで、どうして大権教は海猫ヶ浜に現れたのでしょうか?」
「うん。それがね、大権教が向精神薬を使って信者を集めていたっていうのは知ってるよね?」
「ええ、そういうお話でした。使っていたのはアトロピンで、現地で秘密に栽培していたマンドレイクから抽出されていたということでしたけど。」
「でもね、その引退したジャーナリストの平田さんっていう人の話だと、それは信者獲得のために使っていたんじゃ無くて、理想郷にたどり着くための鍵として人体実験に使っていたって言うんだ。」
「理想郷?人体実験?」
「うん。その理想郷の名前は『クンヤン』。そこは通常の方法では行くことが出来なくて、薬を使って特殊な精神状態に陥らないと行けない場所なんだってさ。それでクンヤンの入口が海猫ヶ浜にあるって信じられていたみたいで、教団の信者たちはそこで活動していたんだって言ってた。」
クンヤンとは、主に北米大陸等に伝わる伝説の巨大な地下世界の事を言う。
地下世界に関してはシャンバラやアガルタが有名だが、クンヤンもあるいはこれらと同様のものとの説もあり、大都市ツァス、古代都市ヨス、そして忌まわしき暗黒世界ンカイの三階層で成り立っているとも言われている。
クンヤンの住人には不老不死などの特殊の能力が備わっていて、地上人以上に礼節を重んじる人間性があるが、無用の争いを避けるために地上との接触は一切行わず、その出入口は到底普通の人間には見つける事が出来ない。
なぜならそれは世界各地に存在するが、我々人間の住む世界とは隣り合う次元にあるため、そう簡単には発見出来ないからである。
クンヤンの出入口がある次元には、霊能力などの特殊な能力がある人間で無い限り、簡単にはたどり着く事が出来ない。そこで一般人が別次元へ向かうためには、特別な調合で作られた薬が必要になる。
それは遼丹と呼ばれる薬で、遼丹の調合には『黒蓮』という植物が必要だが、黒蓮は古代に絶滅した品種のため、その代用品としてマンドレイクが使われていたということだった。
「それじゃあ、結局アトロピンが必要だったのでは無く、マンドレイクに含まれるもっと別の成分が必要だったわけですね。」
「そういうこと。」
「残念。今回は私の推理は、ハズレてしまったみたいですね。」
「いや、そういう推理が出てくること自体がすごいと思うけど・・・。」
この時二人には、共通の思いがあった。
それは、もしかしたら七海が六歳の頃に失踪した原因は大権教からの誘拐によるもので、彼女も薬物による人体実験を受けたのではという疑いである。
それならば七海の叔母が大権教について話したがらなかったというのにも合点がいくし、七海の家庭が海猫ヶ浜から遠のいていたことへの説明もつく。
きっと七海がこの出来事を憶えていないのも、恐ろしい過去の体験について幼い子が記憶に蓋をしてしまう自己防衛力によるものだろうし、おそらく今回の旅行にOKが出たのは、さすがに十年も経てばもう大丈夫だろうという両親の考えがあったのではないかという想像も出来た。
だがファイルによると、当時の七海の血液からは薬物反応は出なかったと記載されてはいるが、どうしてもこの疑惑は拭いきれるものでは無い。
輝蘭と瞬は二人だけでは処理しきれない心の混乱に、この時は大きく困惑していたのだった。
しかし、この二人の困惑をいとも簡単に切り捨てた人物がいた。
それは絵里子である。
絵里子はこの後に二人にファイルの存在を知らされた際に、いともあっさりとこう言い放ったのだった。
『ふ〜ん。でもナミはナミさ。何も変わらないじゃん。』
輝蘭と瞬は絵里子の言葉を聞いて、とても恥ずかしい気持ちになっていた。なぜなら、それは正しく絵里子の言う通りだからである。
過去にどんなことがあろうとも七海は七海であり、それ以外の何者でも無い。しかし輝蘭と瞬は七海の過去に囚われ、あるいは危うく本当の彼女を見失うかも知れない事態に成りかねなかったのだ。
「・・・リコちゃんの言う通りだね。」
「ええ、今回は彼女に教えられましたね・・・。」
結局瞬はファイルを持ち主のジャーナリストに送り届け、出来ればファイルを破棄してもらえないかと申し入れた。さすがにそれは受け入れてはもらえなかったが、それでも個人名についての公表は必要が無い限りは絶対に避けることを約束してもらうことが出来た。
二人はこの後、絵里子に会った時に、なんとなく彼女に軽蔑されるかとも心配していた節があったが、彼女にはそのような気持ちは微塵も無かった。
なぜなら絵里子は、輝蘭と瞬の事も良く知っていたからである。
二人は決して面白がって七海の過去を知ったわけでは無い。
ただ純粋に七海の身を案じての行動だったのだから、ということを・・・。




